第6回

父・市橋清のこと

父の戦争体験

 今回は、父について書いてみます。父・市橋清は、1921年(大正10年)生まれで、開業医の息子として不自由なく育ちました。大学時代が戦争中で、あの神宮外苑の学徒動員の雨の行進に参加しました。その後、戦地には行かず、近衛兵として東京に残り、敗戦を迎えました。だから戦争の怖さ、悲惨さよりも、軍隊生活を懐かしむ話を私によくしました。「上官に不条理に殴られた」とか「白馬に乗って家に帰ったら、近所の人に見上げられた」とかです。別に、右翼でも、好戦家でもありません。青春時代を懐かしむように。あの時代、そうした人も中にはいました。敗戦後、大学に行ったら卒業したことになっていて、「もう勉強しないで済む」と思い、喜んで卒業証書をもらい、銀行に就職したと話していました。

 社会事業大学元教授の小川政亮先生が「僕も、あの神宮外苑の学徒動員の雨の行進に参加しました。その反省から戦後大学に行き直し勉強し、新しい憲法の素晴らしさに感動し、社会保障の重要性を学んだ」と生前に私に話してくださいました。後日、父の顔を改めて見直しました。

 

戦争になったらやばい! 市橋少年の反戦へのめばえ

 私が小学生3年の頃、スプーンで食べてもこぼしてしまう私に父は「しょうがないな、戦争中の軍隊だったら『天皇陛下から頂いたお米を粗末にしやがって』と言われ往復ビンタだぞ」と言いました。素直な子だったら「気をつけよう」とか「訓練に励もう」と思うかもしれません。しかし、私は「やばい、戦争になったら、僕は毎日ビンタをくらう、戦争に反対しなければ」と思いました。私の反戦の想いのきっかけは、平和主義とか民主主義とかいう高級な考えからではありません。この父の一言がきっかけです。けれどもきっかけはどうであろうとも、今年97歳になる松田春廣さんをはじめ戦争を生き抜いた障害者の先輩たちの体験話を聞くと、障害者の人権を完全に否定されることでもある戦争に反対の想いを強くします。

 

父との思い出

  父は、吃音がありました。銀行の仕事上でもかなり苦労があったようです。だから言語障害がある私に「人前であまり喋るな」と言ったこともあります。私が障都連の仕事をして講演などをするようになり、ある講演会のビラを見て父は「お前は言語障害があるのに、よく人前で恥ずかしさもなく、ずうずうしく講演をするナ」と言ったこともありました。嬉しそうに。                                                         

  1964年のオリンピックの時、父は銀行から派遣されて「オリンピック資金財団」という所に勤めました。64年当時、オリンピックはアマチュアリズムで、父も募金集めや記念切手の発行などの仕事をし、成功に務めました。おかげで私は、64年のオリンピック開会式は、国立競技場で見ることが出来、貴重な体験をすることが出来ました。

 2020オリンピック招致が決まったとき、だいぶ身体が弱っていた父でしたが、「また、オリンピックが東京に来ることが決まったヨ」と言ったら「あ、そうか」と嬉しそうな顔をしていました。今回のオリンピック・パラリンピックに際しては、私も競技場のバリアフリー化などに関与し、弟もある競技場の運営に勤めました。父の意志を継いだような気になりました。だから、あのような形で強行開催され、今日、贈収賄まみれの大会であったことが発覚したことに、強い怒りを持っています。

 

窓に映った父

 父には、だいぶ反抗しました。すまない、と思うことがたくさんあります。でも、その反抗が、私を育ててくれた面もあります。そんな親子関係でしたが、父は銀行退職後、障都連の年末カンパ集め回りの自動車の運転などをして私を助けてくれました。感謝しています。

 私が40代半ばのころでした。障都連の仕事も忙しく、帰宅のために終電近くの電車に乗り、座れたので居眠りをしてしまいました。ふと起きて、前の窓ガラスを見ると、映っているのは、疲れた顔の父の姿でした。「オヤジも銀行の仕事で疲れ果てて電車に乗り、こんな顔になり、僕らを育ててくれたのだろう」と思いました。そして、障害があっても、オヤジ同様、疲れ果てるまで仕事をし、こんな顔になれる私に育ててくれた父に感謝しました。

 

参加と平等を支えてくれた家族

  今年は、母が亡くなってから10年、父が亡くなってから8年になります。葬儀は、父と母が通っていた目黒原町教会で行いました。障害者運動関係の方もたくさん来ていただきました。牧師先生の司式のあと、家族代表として母や父への想いを語らせていただきました。親戚や友人から「いい葬儀だった」と言われました。後日、障害者運動関係の方から「今でも、障害者の葬儀参列を止めさせる家もあるのに、喪主を務めさせる市橋家は暖かさえ感じた」と言われました。実は、葬儀の前、弟に「喪主は、どうする?」と聞きました。弟は「長男であるアニキがやるのが当然だろ」となんなく答えてくれました。緊張しましたが弟に感謝しました。いろいろとはありましたけど、父も、母も、弟も、私の参加と平等を支えてくれました。