第4回

市橋少年、学校時代を満喫する!

代走でランニングホームラン

 光明養護学校の生活は、楽しいものでした。当時は、1クラス15人くらいだったと思います。脳性マヒの子、ポリオ後遺症の子、カリエス症の子などがいて、松葉つえ使用を含めて10人くらいは歩けたと思います。校庭には低かったけれどジャングルジムがあり、私はよく昇ったものでした。男の子は、1年生からゴロベースで野球をやりました。「代走制度」というものがあり、松葉つえ使用の子などが座り込んで打ち、代わりの子が本塁から1塁へ走るというものです。障害を考慮して工夫してゲームを楽しむことは、当時からありました。「強打者」の子がいて、代走の私はランニングホ-ムランの気持ち良さを何度も味わいました。

 

学校のトイレ

 当時と今を比べると、トイレは隔世の感があります。私の小学校の頃は、光明養護学校でも男の小便は前に溝があり水が流れ、そこに向かって用を足すものでした。敷居があり掴まる横棒はあるものの、滑りやすく、私も、友だちも足を溝に突っ込んだ経験が何度もあります。先生が足を溝に突っ込んだのも見ました。大便器は汲み取り式で下に溜まっていて跳ね返りを気にしながら用を足しました。もちろん、和式トイレです。女の子はどのようにしたのか、と思います。

 60年以上前のことであるとはいえ、肢体不自由児養護学校での話です。今では、一般社会でも、なかなか見られない光景です。まちづくりの運動ではトイレに力を入れてきました。障害児学校の設備整備にも力を入れてきました。私たちの運動の足跡と見ていいでしょうか。

 

まじめに井戸端会議

  私が小学生1年の時には、青鳥養護学校が光明養護学校と同じ敷地内にありました。小学生1年の私には交流の記憶はありませんが、母から聞いた話では、母親どうし「ばかとびっこではどちらが良いか」、まじめに井戸端会議をしたそうです。

 青鳥養護学校は、翌年、世田谷区三宿に引っ越しましたが、青鳥養護学校と光明養護学校は力を合わせて、教育環境の整備、福祉の向上のため要請行動を行ってきました。世を変えてきました。

 肢体不自由の私を、東京都手をつなぐ育成会は毎年大会に来賓としてとして招いてくださいます。ここにも、隔世の感があります。

 

かわいそうな子どもたちへ

  当時、光明養護学校は、慰問の対象でした。皇室では、高松宮夫妻が5年ごとに来校しました。当時のインド首相ネール氏の娘であるインディラさん(のちにインド首相)も来校しました。インドの女性と手をつないで歩いたことは、当時の私の自慢でした。どういうわけか、当時人気絶頂のアメリカ歌手ポール・アンカも来校しました。私は、わけのわからない英語の早い歌、何がいいのだろう、と思いながら聞いていましたが、一番前に座ったので、何回も握手ができました。聞きつけたのか、近くの中学校の女学生がキャーキャー言いながら、ポール・アンカに握手を求めて、喜んでいました。

 今考えると、かわいそうな子どもたちへの慰問、が多かったのでは、と思います。

 

通学

  私が小1の時は、スクールバスがありませんでした。目黒区洗足に住んでいた私は、バスで渋谷に出て、乗り換えて又バスで学校に行きました。母が毎日、付き添ってくれました。毎日乗車するので、仲良くなった運転手さんもできました。声をかけてくれるのが嬉しかったものです。疲れて寝てしまった私を抱いて降ろしてくれた親切な運転手さんもいました。一方、当時は乗務していた女性の車掌が、歩けない同じクラスの子のお母さんに「こんな大きな子を負ぶって」と罵倒のような声をあびせたこともありました。「光明養護学校前」という停留場から乗ったのに。様々な人がいるのは、今も昔も同じかな。

 小2の時は、近くの1学年下の子のお母さんが運転する自家用車に同乗させていただき、通学しました。タウナウスという外車の左ハンドルの助手席に乗って喜んでいた市橋少年でした。

 

スクールバスが走る

  私が小3の時、スクールバスが走り始めました。品川コース、浅草コース、赤羽コースの3コースでした。はとバスのコースではありません。当時、23区内に肢体不自由児養護学校は1校しかなく、世田谷区松原の光明養護学校から、スクールバスが都内を走り回り、通学していました。交通渋滞が今ほどではないにしろ、よく毎日走れたものだと思います。学校近くの梅ヶ丘の踏切が立体交差でなく、学校を目前にして30分待たされた、という話も聞きました。

  全員就学後、障害児学校の増設、スクールバスの増車を要求してきた運動は、年を重ねて成果をあげました。まだまだスクールバスの増車を要求していかなければなりませんが、光明特別支援学校を訪れ、スクールバスコース名を見ると、ここでも、隔世の感があります。

 光明のスクールバスは、当初民間観光バス会社に委託されていました。2~3年後に自前のバスが導入され、その自前のバスには、乗降のリフトが付いていたように思います。もし私のその記憶が正しければ、「早期に付けられたリフト」だったことになります。