第16回
「要請行動」に力を入れて
「要請行動」に力を入れて
夏季要請行動に200名超
1974年、障害児の全員就学や障害者医療費助成制度は実現しましたが、まだまだ障害者のいのちと生活を守るには、極めて不十分な状態でした。そのころから障都連の要請行動は、丸の内の都庁舎の都民ホールで盛んに行いました。夏季要請行動などは、毎回200名を超える参加者がありました。1975年に障都連事務局長になった私は、司会を務めました。若僧の26歳の私が。怖いもの知らずと言うか、生意気と言うか。いま考えると、怖くなり、不十分が多く、多くの方に迷惑をかけたのではと思います。
課長の顔が見る見るうちに青くなりました
ある障都連の夏季要請行動で、知的障害児のお母さんが「子どもが虫歯で痛がったが、障害児を治療してくれる歯医者がいない。泣き叫ぶ子どもの虫歯に糸を括りつけて抜いた。障害児を治療してくれる歯医者がどうしても必要だ」と発言しました。当時は今にも増して、障害者歯科診療は困難を極めていました。私は、お母さんの話を聞きながら地獄絵のような状況を思い浮かべていました。当時の東京都衛生局から出席した歯科衛生課長は、障害者を比較的良く診てくれる歯科大学や代々木病院などいくつかの病院を紹介しました。私が「都立病院がないではないか」と指摘しました。すると、課長の顔が見る見るうちに青くなりました。当時「都立病院は東京の医療制度をリードする」という自負がありました。課長の顔が青くなったのは責任感の現れ、と今でも私は思っています。今日の都の課長なら、何か言い訳をして終わりでしょう。歯科衛生課長は「対策をたてます」と回答し、その要請行動は終わりました。
そこからまず都立大塚病院と府中病院に障害者歯科診療室が設置されました。当時としては、全国でも先端を行くものでした。その後、多くの都立病院に障害者歯科診療室が設置されました。そして、飯田橋のセントラルプラザ内に障害者専門の歯科診療と研究機関として、「障害者口腔保健センター」が設置されました。
革新都政時代の衛生局など都政は、果たすべき役割をわかっていました。その役割は、障害者を治療してくれる歯科医を紹介することだけでなく、都立病院に障害者歯科診療室を設置して、自らが東京都の障害者歯科診療をリードすることです。
石原都政から小池都政まで、その自覚は皆無です。今日、都立小児3病院が廃院され、都立病院が独立行政法人化されたことは、東京都は都立病院の果たすべき役割、責任を完全に投げ棄てたことになります。障害者の歯科診療も困難な点が多くなった、と最近訴えを聞きました。
冷房も十分に効かない都民ホール満杯に障害者や家族、関係者が集まり、汗を拭き拭き
障害者の生活実態を訴え、東京都も何とか応えようとしたあの要請行動。74歳の誕生日を迎えるいっちゃんジジイは復活を夢見るのですが、生きてる間は無理でしょうか。
枠を広げていった緊急保護
革新都政は全国に先駆けて1973年に緊急一時保護制度をスタートさせました。介護する母親の病気など切羽詰まった状況が起きて、障害者児の保護が必要になるなど、切実な要求が要請行動などで訴えられ、スタートに踏み切りました。しかし、当初は不備なものも多く、病院の入院の形も多く、大人の病室に子どもを入れ、紐で縛りつけるような状況もあり、要請行動などで訴えられました。「私が癌の手術を受けなければならず、知的障害児のわが子を緊急一時保護にあずけました。退院後、引き取りに行ったら、大人部屋に居て、ベッドに手足を縛られていた。この間、どんな思いをしていたのだろう。辛い思いをしていたのだろう。すまなかった。私が手術をしなければよかった」と語りました。こうした発言を受け、そんな中から障都連では粘り強く要求を出し、障害者施設の定員枠に緊急保護の枠を設けさせるなど制度を拡大していきました。
さらに障都連では要求を出し、「冠婚葬祭のときにも使用できるように」「きょうだいのPTA活動のときにも使用できるように」などを要求して、枠を拡げさせました。今日では当然となっている「親の休養などのレスパイトケア」も、何度も何度も実態を訴えて、枠を拡げさせました。
北欧では、緊急保護施設は生活訓練の場としてあり、障害者は日常的に利用しています。例えば、作業所も通っている障害者は月曜から木曜まで施設から作業所に通い、金土日は家族と一緒に過ごすという施設が一般化している。そして何かことが起きれば、緊急保護的な施設になり、またグループホームに入る訓練的な役割も果たしていたり、家族も日常的にレクリエーションなどを一緒に楽しんでいるなど、障害者の施設も総合的な役割が果たされているなど--。今日では東京でも実現しているものですが、当時としては先進的なものとして学び、要求に生かしていきました。制度を創設させ、枠を広げ、実態に合わせて改善させていく。私たちの運動は、その繰り返しだったと思います。その時大切なのは、先進的なもを学ぶと同時に、障害者や家族の言葉に深く学ぶことだったような気がします。