第17回
夏まつりが始まりました
夏まつりが始まりました
障害児が主人公のおまつり
1974年、障害児全員就学が始まった年に障都連の提案で、「障害者夏期地域交流集会・夏まつり」が始まりました。障害児学校の理解促進が主な目的でした。東京都と障都連の共催で行われました。初めの年は、3校くらいだったと思います。障害児学校のない目黒でも開催しようということになりました。目黒にお住まいだった脳性マヒの小柴資子さんが「子どものころ、山車も引けないで、寂しい思いをした。障害児が主人公のおまつりをつくろう」と提案しました。そういえば私も子どものころ、八幡さまのお祭りで、地域の男子たちが子ども神輿を担いでいるのを見て、虚しく寂しい思いをしたのを思い出しました。その時は、母親が「ウチはキリスト教だから担がなくても良いのヨ」と妙な慰めをしてくれましたが、「僕も力いっぱい神輿を担ぎ、ご褒美の飴が欲しい」という思いは消えませんでした。だから「障害児が主人公のおまつり」は大賛成でした。
まつりを「はしご」して
「障害者夏期地域交流集会・夏まつり」は、1980・90年代の最盛期には、40を超える障害児学校で開催されました。私も可能な限り会場を訪れ、7月の土・日には、1日で5~6校回りました。どの学校も年々盛んになり、「障害児が主人公のおまつり」にふさわしい工夫したプログラムが組まれ、地域の人たちの参加も増え、地域に根づいた夏まつりになっていくことに嬉しさを覚えました。
多くの学校では、校長先生も参加されていて、私を歓迎してくださいました。時には夏まつり終了後、校長室でビールを飲みながら(30年前だから時効でしょう)談笑させていただき、学校の現状、要望などをうかがいました。並行して行われていた夏期要請行動に生かしました。
都障教組の方をはじめとする先生方には、学期末・夏休み最初の忙しい時期に創意・工夫を凝らした準備に、いつも頭が下がりました。その上、夏季要請行動も並行して行われていました。学校で、都庁で、2・3日続いてお会いした先生もいました。そしてこの時期は、障都連夏期募金をお願いしている時でもありました。夏まつりの会場で夏期募金を渡してくださった都障教組分会もありました。お札もありましたが、コインが袋いっぱいの募金もありました。みなさんの支えの重みを感じながら帰路に着いた私でした。
2000年代半ばごろから、東京都教育委員会の方から「障都連と共催では、障害者夏期地域交流集会の予算がつけられない」という話がありました。私たちが「何故」と聞いても納得いく説明はありませんでした。私たちは、意義と歴史的経過を説明しましたが、東京都教育委員会は、聞く耳をもたず、の態度でした。キーワードは「障都連」のようでした。障都連では検討し「夏まつりをなくしてはならない。非常に残念だが、共催から下りよう」ということになりました。
新型コロナ感染症拡大の影響もあり、近年、夏まつりの開催が減ったようです。しかし、「障害児が主人公のおまつり」が続いてほしいと思います。