第5回

母校・光明養護学校

楽しい言語治療

  私が小5の時、松本昌介先生が、光明養護学校に大学新卒採用として赴任されました。そして、週1回の言語治療を受けることになりました。それまでの言語治療は、オシロスコープで、波長を出し、それに合わせて「ア・エ・イ・ウ・ア・オ」と正しく発声させるものでした。「そんなこと出来るわけないでしょ。アナウンサーになるのではないのだから」と子ども心に思っていました。だから、つまらない、苦痛な授業でした。松本昌介先生の言語治療は違いました。

 初めての授業で、まず私たち生徒は「♪まつもとしょうすけさん、何で身上つぶした。朝寝、朝酒、朝湯が大好きで⋯⋯」と歓迎の歌を歌いました。先生は笑顔で手拍子を打ってくださいました。そして先生が「僕は、毎日4時間しか寝ない、そして、いろいろ作って来るから挑戦してください」とおっしゃいました。「凄い、ナポレオンみたいな人だ」と子ども心に思いました。

 翌週、先生は、直径15センチ位ある大きなロウソクを作って来て「思いきり吹いて火を消してごらん」とおっしゃいました。息を溜めて、思いきり吹きましたが、なかなか消えません。でも、楽しくなりました。息をいっぱい溜める要領を覚えて火を消せた時は嬉しくなりました。次の週、先生は20本ロウソクを並べたものを作って来て「火を移してごらん」とおっしゃいました。息の量を調整することは難しかったですが、これも要領を覚えました。次の週からは20本のロウソクの火を移す時間を縮めることに挑戦しました。言語治療の時間が楽しくなりました。標準的な発音を気にするのではなく、自分なりの息づかいで、大きな声で、相手が解るように喋ることを覚えました。

 今日、言語障害がある私が、臆面も無く、平気で人前でお喋り出来るのも、この言語治療、松本先生によるものが大きいと思います。言語障害がある人が「カラオケでマイクを握ると、言語治療のオシロスコープを思い出し、カラオケは嫌だ」と言います。カラオケに行くとマイクを離さない私がいるのも、松本先生によるものかもしれません。

 

「トイレ」より「オシッコ」

  確か、これも松本先生に教えていただいたことだと思います。「なるべく発音し易い言葉を選んで話しなさい」と。これは、私がずーっと心掛けて来たことであり、講演の時なども気を遣っているつもりです。最近もこんなことがありました。シルバーカーを利用して電車に乗る時、駅員さんに「スロープ板を出してください」と言います。そして、「行っておいた方が良いかな」と思った時、「トイレに行ってから」と言いますが、私は「タ・チ・ツ・テ・ト」が「カ・キ・ク・ケ・コ」になってしまい、「コイレ」になってしまいます。駅員さんは毎回違う人が多いので、通じないと焦ってしまいます。「オシッコに」と言うとすぐに通じます。小学生の時に言われたことが、70歳を過ぎた今も生きています。

 ちなみに、東京都障害者福祉会館がある「ミタ」も私には通じ難い言葉です。「三田線の三田」と言うと通じます。

 

83までは、元気に生きるゾ

  現在、私は、光明養護学校同窓生「仰光会(ぎょうこうかい)」の会長を務めさせていただいてます。「仰光会」は、1泊旅行などを行ない活発な時期もありましたが、10年程休会状態でした。2012年、光明80周年を機に復活させようと、松本昌介先生と三室元校長に口説かれて会長となりました。(小学部しか出ていない私だけどいいのかナ)と思いながらも「お役に立てれば」と思い引き受けました。以後、1年に1回「大同窓会」を開き、同窓生や光明の元教員50名位が集まって近況報告などを行なっています。また、学園祭「光明祭」にも参加して卒業生の部屋を設けさせていただき、展示や集いを持っていました。近年はコロナ感染症の影響で「大同窓会」を開くことが出来ませんでしたが、2022年は、状況を考慮しながら11月に開くことにしました。今から楽しみです。光明は今校舎の大改築中です。懐かしい校舎はほとんどなくなり、新しい校舎は、木の香りがします。11月の「大同窓会」の時には校内を案内していただく予定ですが、生徒たちのためにどのような工夫されたか、伺いたいと思います。

 光明は、2022年に創立90周年を迎えます。校舎完成に合わせて2024年に周年事業を行なう予定との校長先生の意向です。私も賛成です。新校舎には、「歴史資料室」が設置されるということです。資料収集などに私どもも協力し、肢体不自由児教育史のためにも活用したいと思います。同窓生が、気軽に寄れる場にもしたいと思います。

 2032年には、創立100周年を迎えます。私は、83歳になります。元気に生きているかは分からないけど、生きる1つの目標にしたいと思います。

 

戦争と障害者の貴重な碑

  光明には、もう1つ、歴史的に伝えなければならないことがあります。1945年5月、光明学校は、長野県上山田ホテルに学童疎開をしました。光明学校は学校疎開の対象から外されていたこと、当時の校長先生が苦労して疎開先を探したこと、上山田ホテルの御厚意、疎開生活の困難、東京に戻るのが4年遅れたこと、などが伝えられ、光明学校の学童疎開を記録する会編「信濃路はるか」などに書かれています。是非、読んでいただきたいと思います。

 2017年5月、上山田ホテルからの呼び掛けもあり、ホテルの前庭に記念碑が建立されました。私も建立への呼び掛け人となり、除幕式にも参加しました。戦後生まれの私ですが、戦争と障害者の貴重な碑を残すことに加わらせていただきました。上山田方面に行かれたら、是非、見ていただきたいと思います。