第2回

童話作家か作詞家か

4歳の記憶 

 私に障害があるとわかったのは、3歳ころだったそうです。しかし、当時は脳性マヒによる障害を軽減するための適切な手立てなどはなく、マッサージに通うのがせいぜいだったようです。母は、私を背負い、目黒の洗足から信濃町の慶応義塾大学病院に週2~3回マッサージに通ったそうです。3歳を超えた私をおぶって、電車を2回は乗り換えた病院通いはどんなに大変だったでしょう。でもマッサージ師の先生に「この子は、絶対に歩けるようになるから頑張って」と言われたのが唯一の励みだった、とよく母は語っていました。

 4歳ころの私ですが、一つの記憶があります。当時、中央線などにも2等車(今のグリーン車のようなもの)がありました。母が「乗りたいナ~」とつぶやき、背中の私も(乗って、座らせてあげたい)と思いました。しかし、2等車の中は、進駐軍のアメリカ兵が股を広げ座りタバコを吹かしている状態でした。もちろん、顔パスで。料金の問題だけではなく、女性と子どもでは、とても乗れない状態でした。普通車に乗った母は、たまに席を譲ってくれる人もいたけれど、だいたいは立ちっ放しだったようです。「こんな大きな子をわざわざ負ぶって、何だ、不具児か」と言われたこともあった、と母は言っていました。

  今日では優先席もあり、大多数の人が譲ってくれます。駅にエレベーターが設置され、ベビーカーが使用できます。まちづくりの運動を進めたことは、歴史も進めました。

 

幼稚園へ              

  私は、4歳ぐらいで、外を歩く時は誰かに手をつないでもらわないと危ない状態でしたが、何とか一人で歩けるようになりました。そこで、普通児よりも1年遅れたけれど「幼稚園に通ったら」という話が出されました。叔母が知っていたので、田園調布のカソリック系の幼稚園に入ることができました。そこは有名幼稚園で、後輩に長嶋一茂や二谷友里恵などがいます。今考えると、あの時代(1954年)に、そんな有名幼稚園がよく障害児を受け入れてくれたと思い、感謝しています。先生の多くはシスターで、黒い服を着ていました。転んだり、転ばされたりは多くしましたが、みんなに何とかついていきました。

 最初の1年は、1日中母が幼稚園にいたような気がします。スキップができなくて、何とか飛び跳ねて前に進んで誤魔化していたことを覚えています。

 運動会の時でした。かけっこで、私はスタート良く、後ろに一人いるのがわかりました。「ビリにならなくてすむ」子ども心によぎりました。でも、足が思うように動かない。慌てました。そして転びました。悔しくて、悔しくて、泣きました。そして母に「なんで、こんな体に産んだんだよ」と言ってしまいました。母は泣き崩れました。運動会終了後、シスターは母と私を大御堂に連れて行き、マリア像の前で「マリア様に謝ろうネ」と言われました。私は「ごめんなさい」と言いました。この時が、子ども心に障害を感じ、受容した初めての時かもしれません。

 

作詞の才能もあったんだ

  卒園間近のある日、先生が、いつも歌っている童謡も詩と曲でできていると言い、実例を示し、「さあ、みんなも作ってみましょう」と言いました。

 私は、即座に

 バスがぶうぶう発車です/お乗りのお方はないですか/お降りのお方は ないですか

 にちよう にちよう/たのしいナ/すずめもチュンチュン鳴いている

(父が一日中、家にいて、どこかに連れていってくれる日曜日が嬉しかった)。

の2詩を作って、手を挙げて発表しました。

  先生は褒めてくださって、翌日、模造紙に書き出し、曲も付けてくれました。

 この才能を伸ばしてくれたら、今頃、童謡作家か、あるいは、歌謡曲の作詞をしていたかもしれない。阿久悠みたいに(笑)。

 

 ところが、これを面白くない人が一人いました。同じクラスのK君のお母さんです。K君は、すでに国立教育大学系の付属小学校(エリート校)に入学が決まり、バイオリンも習っていました。私の歌が貼り出された翌日、K君の作と称する詩を何枚も書いてきて、貼り出しました。後で聞いた話ですが、K君のお母さんが「あの子(私のこと)にだけは、負けてはいけない」と言っていたそうです。

 

妹の死

  私には7歳年下の妹がいました。美保子といいます。父と母は「ひろしがひとりっ子でいるより、助けになればいい」と思ったそうです。私にとっては初めての赤ちゃんなので可愛くて仕方がありませんでした。隣りに寝て、頭を撫ぜるのが好きでした。ところが2ヵ月目に風邪から肺炎をおこしました。医師も治療の範囲を広げ、父と母も看病に力を尽くしました。私は、母の実家にあずけられました。美保子は、3日後に天に召されました。母の実家に連絡があり「美保子が死んだよ」と言われ、意味はわかりましたが、実感は湧きませんでした。しかし、家に帰り、美保子の頭にさわり、その冷たさの感触は、今でも覚えています。私は、わんわん泣きました。7歳にして、身内の死、それも小さな、希望の命の死を体験しました。