第9回

高校受験 そして高校生へ

高校受験 

 高校進学については、相当悩みました。光明から進学した先輩がいると聞いて世田谷区にある私立高校を受けることにしました。偏差値からも「挑戦」に相応しい学校でした。都立学校は、世田谷の園芸高校を受験しました。その頃、都立高校受験は9科目で、試験後の自己採点によると、私は美術95点、音楽90点で英語や数学の低い点をカバーしていました。高校受験についていろいろ論議されていて、受験生に負担が多いとされていますが、私のような人間には9科目も良いのかもしれません。そしてもう1校「滑り止め」を受けました。3校とも、担任の先生と進路指導の先生、そして母が菓子折を持って訪ね、「特別な配慮は、しないで良い。差別だけは、しないでください」と頼みに行きました。そうした時代でした。

 私は、3校とも合格しました。私立の普通高校に行くか、都立園芸高校に行くか、一晚中悩みました。祖母の「何か手に技術がついたら」のアドバイスで園芸高校に決めました。後で考えると安易な思いだったかもしれませんが、生まれた時から心配してくれ、うれしそうな顔でアドバイスしてくれた祖母でした。その祖母が、私の高校入学を見ずに急死したのは、残念でたまりません。

 

農業高校へ進学

 高校生活は、楽しいものでした。農業高校ですから実習があります。中でもキツイのが「天地返し」です。背丈より高い二メートル程の溝をみんなで掘るのです。真夏にやらされたこともあります。各々持ち分がありますが、もちろん私は、時間内に掘りきれませんでした。それでも、みんなで助けてくれました。卒業後の同窓会で冗談に「おい市橋、天地返しの時、お前の分も掘って汗を流したから、今日は1杯おごれや」と言われます。それだけ仲がよく、今でも毎年会っている仲間がいます。高校時代は、実習で汗をかき、放課後はサッカーなどで汗をかき、下校時は遊び歩く、勉強などほとんどしない毎日でした。おかげで大学受験では苦労しましたが、今日まで元気で、数年前までは歩けたのは、高校時代のおかげかな、と思います。

 園芸高校では、年1回、マラソン大会がありました。10キロ位走るのですが、私も2回参加しました。挑戦してやろう、という意地がありました。もちろんビリでしたが、みんなの拍手を受け、完走した時の充実感は忘れられません。新聞部の顧問だった先生が、「お前は、えらい。忘れられない生徒になるだろう」と書いて、私のゴール時の写真を貼り色紙にして、卒業時にプレゼントしてくださいました。

 

苦い思い出

 苦い思い出もあります。N君のことです。N君には、てんかんがありました。教室で倒れたり、保健室で休むことも多い生徒でした。動作が遅く、人と同調するのが苦手でした。市橋が、軽々しく同調するのとは逆に。彼は、いじめにあいました。私は、止められませんでした。「もっと要領よくやれば良いのに」とか「一生懸命やる姿だけでも見せれば良いのに」と思いながら。当時の私は、てんかんの知識は全くありませんでした。担任の先生も「オレもよくわからない」という返事でした。後悔しています。

 N 君は30代半ばで亡くなったという知らせが入りました。クラスで集まった時、みんなで黙祷しました。本当に、ごめんなさい。