第7回

反骨精神と中学受験

安念山(あんねんやま)とスワローズ

 私の反骨精神は、子どもの時からあったようです。それが今でも生きている気がします。私の小学校の頃、多くの子どもは、大相撲は若乃花・栃錦、プロ野球はジャイアンツの長嶋・王のファンでした。しかし、私は違いました。大相撲は安念山、プロ野球は国鉄スワローズのファンでした。どうして、安念山(のちの立浪親方)を応援するようになったかは覚えていません。おそらく、ある場所、若乃花・栃錦を連続して倒したからだったような気がします。みんなと同じように若乃花・栃錦を応援するのが嫌だったからです。親からは「へそ曲がり」と言われました。だから、安念山が1度だけ優勝した時はうれしくて、学校でもスクールバスの中でも1日中喜んでいたような気がします。今でも、立浪部屋の明生(めいせい)などを応援しています。

  プロ野球も同じです。当時、国鉄スワローズは弱かったけれど、金田正一投手が長嶋・王に立ち向かっていく姿が格好良った。金田正一投手を神様のように思っていました。

 プロ野球は、父がよく観戦に連れて行ってくれました。少年市橋博は、国鉄スワローズを声をからして応援しました。国鉄スワローズの森滝投手が、1961年の中日ドラゴンズ戦で完全試合をするのを観戦できたのも貴重な体験でした(*ちなみにこの日、森滝投手は登板するとは思っておらず、前日12時過ぎまで六本木で飲んでいて、軽い二日酔い状態で球場に行っての記録達成だったとのこと。なんかすごいですよね)。

 私は、今でもヤクルトスワローズのファンです。テレビを見ながらひとりで東京音頭を踊っています。ジャイアンツを尻目に2年連続セリーグ優勝したのは、気分の良いことです。私の少年時代の反骨精神が、その後の障害者運動、政治的活動に生きているのかもしれません。ただ、金田正一投手がスワローズからジャイアンツに行った時、中学生になりちょっと大人になった少年市橋博は、人間やはり反骨精神より「金だ」と妙に納得したのを覚えています。

 

挑戦はしてみたが

  私は、小学生5年の頃から「中学校は、普通学校に行ってみよう」と思うようになりました。家では近所の子どもたちと遊んでいました。相撲も、野球も、缶蹴りも、何でも一緒にやりました。「おみそ」と言っても排除するのでなく、合理的配慮による特別なルールを設けてくれました。私も、提案し、楽しく遊びました。だから、普通児と一緒にすることに自信は付きました。

 普通学校に挑戦することにしました。「何か、気配りがあるのでは」と親も考えて、近くにあるカソリック系の中学校を受験することにしました。中学校も障害のことは了解しました。そして、中学受験の塾に通いました。近所の子どもたち以外と交わる良い経験でした。友だちも出来ました。学力は、少し遅れていたけれども、何とか付いていきました。驚いたのは、テストの時でした。開始して、名前の市橋博の市を書く間に回りの子はもう問題を解きはじめている、私が半分解答を書き終わった頃、回りの子どもたちはもう終わっている。書くのが遅いのは分かっていたけれどもこれ程か。ショックでした。だから少年市橋博は、一生懸命勉強しました。書くのが遅いハンディキャップを埋めるために。部屋に「必勝」のスローガンを貼りカッコウつけて。

 そして、カソリック系の中学校を受験しました。特別な配慮はありませんでした。結果は、障害を理由に不合格でした。障害のことは了解したはずなのに。私は、泣きました。「必勝」の紙を破きながら。障害への差別を身を持って感じました。