第11回
障害者運動 私の原点
障害者運動 私の原点
「蜂の会」の出発
高校3年の時だったと思いますが、教会から「キリスト教 障害者研修会」に誘われました。参加してみると、ポリオの障害者で40年以上も牧師を務められている方、たくさんの著書を出版されている方、キリスト信者で障害をもちながら市議会議員を務められている方などが参加していました。ご存知の方も多いと思いますが、小柴資子さんも参加されていました。みなさん大先輩で、敬服するお話をたくさん聞きました。
後日、研修会に参加された方から「研修会に参加した人に加えて何人かで集まりたいので来てくれないか」と電話があり、出かけて行きました。恵比寿の区民会館だったと思います。そこには車いすの障害者が10人ほどいて工藤武さんもいました。私が、車いすが多く集まる会合に参加するのは、初めてでした。そこで「障害者の悩みなどを話し合うサークルをつくろう」ということになりました。これが「蜂の会」の出発です。在宅障害者を中心に据えた「蜂の会」は会員が増えていきました。原滋さんや松田春廣さんも会員でした。
蜂は ゆうゆうととんでいる
「蜂の会」の活動は、機関誌の発行から始まりました。当初は、ボールペン原紙をガリ版で刷って、ホッチキスで留めるものでした。在宅障害者の現状、悩み、夢などが多く書かれました。機関誌「蜂」の表紙には「あの蜂は どんなに力学的に計算しても 空をとぶことができない しかし あの蜂は ゆうゆうととんでいる それはなぜだろうか あの蜂が 自分でとべないということを 知らないからである」(尾崎一雄著「虫のいろいろ」より)とあります。在宅障害者の会の機関誌の表紙の言葉に相応しいかと議論はありましたが、私は一つの考えとして良いと思いました。蜂の会は、自立についてや生活の工夫などをテーマに例会を開き活動を行いました。
旅行がしたい
蜂の会のもう一つの活動は、旅行でした。1970年代当時、在宅障害者は、旅行に行けない状況でした。例会で「旅行がしたい」という願いが出されました。「よし、一泊旅行をやろう」と当時タクシー運転手で労働組合運動にも先頭に立たれていた野中晴がリーダーとなり実行しました。しかし、たいへんでした。バリアフリーに関しては、今と隔世の感があります。マイクロバスは、代々木のオリンピックセンター内に青年奉仕協会という団体があって安価で貸してくれました。もちろん、リフトなどありません。10人位の車いす障害者が参加すると、一人ひとり抱きかかえてマイクロバスに乗せて、車いすは別にトラックを借りて運びました。行程も、たいへんでした。高速道路のサービスエリアに車いすトイレがない時代には、ポータブルトイレをトラックに乗せて旅立ちました。やっと車いすトイレが出来はじめたころは、どのサービスエリアに車いすトイレが設置されているか確認することが「下見」の重要な課題でした。「あのサービスエリアから、このサービスエリアまで、みんな我慢できるだろうか」「渋滞したらアウトだねぇ」との会話をしながら。
宿屋も、たいへんでした。バリアフリーの宿屋があるはずありません。エレベーターのない宿屋で、全員が2階の部屋ということも何回かありました。それでも、野中さんをはじめボランティアの方が担ぎ上げてくれました。感謝に堪えません。夕食を食べ、酒を飲み、みんなでワイワイガヤガヤすると、おそらくいつもは「一人ぼっちの障害者」の仲間の顔が笑顔に変わってきます。1年に1回、素敵な夜を過ごしました。
翌日、あらかじ下見した観光地を回り、時にはたいへんな思いをしてボートに乗ったりして楽しみ、帰路に着きました。しかし「新宿で解散」という訳にはいきません。当時、駅のバリアフリーは、皆無に近かった状況でした。各自の家まで送りました。東京に入ってから、また東京を一周しました。最後の人を送り終わると深夜になりました。マイクロバスを返す青年奉仕協会の事務所は閉まっています。私と野中さんは、マイクロバスに車中泊し、翌日返しました。2泊3日の「1泊旅行」でした。何年か経つとリフト付きマイクロバスができ、高速道路のサービスエリアには、必ず車いすトイレが設置されているようになりました。嬉しい思いでした。
蜂の会は、30年以上活動を続けましたが、長年事務局長を努められた笠井富士子さんが亡くなってから、会員も高齢化して、解散宣言はしていませんが、活動を続けることが困難な状態です。会長である私が、障都連などで忙しく、充分に責務を果たせないことに責任を感じています。でも、蜂の会が進めてきたことは、障都連や肢障協の運動に生かされています。
障害者が生きた生涯を讃えられる世の中を
悲しい思い出があります。蜂の会が活動を始めて7年目のころ、女性の会員が亡くなったと聞き、お通夜に駆けつけました。ご遺体の前に座り、お線香をあげ、顔を上げ、ご遺体の上のお写真を見ると、立って千歳飴を持った3つの女の子の写真がありました。彼女は、27歳で亡くなり、脊髄性カリエスの障害で座ることはできても立つことはできませんでした。おそらく、障害を受ける前の写真でしょう。親御さんの一番の思い出だったかもしれません。親御さんを責める気はありませんでした。しかし、悲しくて、悲しくて、仕方がありませんでした。ひとりひとりの障害者が生きた生涯を讃えられる世の中をつくろう。若き私の原点となりました。