第10回
教会に通い、政治にめざめた高校生活
教会に通い、政治にめざめた高校生活
教会に通い、平和問題にも
高校生になってから教会に通い始めました。ウチは、祖父の代からクリスチャンでしたので、親戚が牧師をしていた目黒の日本基督教団行人坂教会に通いました。そこには「高校生会」があり、東洋英和女学院や普連土学園の女学生が多く来ていたのも、私が教会に通った理由かもしれません。高校生会では、聖書研究とともに、社会問題も話し合いました。そのころ、教会では「戦争責任」が問題になっていました。戦争中、教会も天皇制に屈服し、侵略戦争に加担したことに深く反省しなければならないということです。また、建国記念日が復活し、靖国神社国家護持法が出されました。復活最初の建国記念日の反対集会に参加しました。東京でも、雪が降り積もった日でした。私が、平和問題、政治問題に触れるきっかけになりました。
選挙活動の最初
私の高2から高3の春に革新都政が誕生した都知事選がありました。教会の青年会にいて、のちに全学連委員長になった人から革新都政の意義を聞いて、革新都政をつくる会のシンボルの青空バッチをもらいました。少し大人になった気分になり、学生服の詰め襟に青空バッチを付け、翌日登校しました。さっそく教頭先生に見つかり「外しなさい」と言われました。「何がいけないのですか」と抵抗しましたが、しぶしぶバッチを外しました。「東京を良くしたいのに」とつぶやきながら。これが、私の選挙活動の最初です。
本当の「予備校」
障害者だから、職業高校だから、一番の理由は、勉強しなかったから、浪人しました。そして、予備校に入りました。当時の予備校も条件は悪く、400人以上入るマンモス教室で授業をして声が聞こえないし黒板の字が見えない、トイレが少なく並んで次の授業に間に合わない、講師が休んでも補講がない、自習室が狭くなかなか席が取れない、だいだい授業料が高いなどの不満の声が出ていました。私も当時足はだいぶ丈夫でしたが、それでもエレベーターもなく狭い階段を5階の教室までふうふう言いながら昇らなければならない時もあり「これが火事になったら大変だ」と思っていました。
当時、日本民主青年同盟代々木ゼミナール班があり、私も誘われて入りました。班で話し合って「みんなの不満を出し合う場を設けよう」ということになりました。ビラを作り、「昼休みに、マンモス教室に集まろう」と呼びかけました。「20名位、集まるカナ」と思っていたところ、当日100名以上が集まって、呼びかけた私たちを慌てさせました。口々に不満を言い、「予備校に要求書を出そう」ということになりました。私は、「成功した」と嬉しくなりました。ところが、私が帰宅する前に予備校から自宅に電話があり、「お宅の息子さんは、とんでもないことをしてくれた。退学だ」と。心配する母を説得して、翌日、民青同盟の大学生を「兄」として一緒に予備校に謝りに行き、退学は免れました。後味の悪い結末になってしまいましたが、私の中では「正当な要求を掲げれば、人々は集まってくれる」という教訓になりました。これが、のちに障害者運動を進めるためにも生きています。私にとっては、本当の「予備校」だったかもしれません。
代々木ゼミナール班に日本共産党国会議員の松本善明さんと画家のいわさきちひろさんの息子さんである、松本猛さんもいました。美大をめざしていました。10月なったころ、猛さんが「父が班会はいいから勉強しなさいと言われた。だから活動を休む」と言いました。私は「善明さんともあろう人が、それはナイヨ」と少し腹を立てました。しかし、後で考えると、善明さんが正しいに決まっています。松本猛さんとは、20年位前の長野での全障研全国大会でお会いして、懐かしい話に花が咲きました。