第19回
2011年3月11日の自分
2011年3月11日の自分
2023年9月に行われた「障都連 防災学習会」で「今からでも『3・11』の自分を書き留めておこう」ということになりました。重要な事と思います。「私が歩んできた道」として書かせください。
三田の障害者福祉会館にいました
2011年3月11日のあの時、私は三田の障害者福祉会館の相談室にいました。揺れで椅子から立ち上がれませんでした。傍の置物が床に落ちて割れました。「やばいぞ」と思い、「ここは地下鉄三田駅の上だ。中は空洞だ」とも思いました。
揺れが収まって、私は玄関前の駐車場に出ました。障害者福祉会館を利用していた人も全員出てきました。幸い、駐車場に亀裂などはありませんでした。ただ、第一京浜道路の向こう海側から黒煙が上がっていました。当日、障害者福祉会館では、前の週に開いた「耳の日フェスティバル」の反省会が行われていて聴覚障害者が多くいました。障害者福祉会館の職員がハンドマイクを持って、震源地は東北地方であること、東京の震度は5か4であること、見える黒煙は臨海部の工場の火事で鎮火に向かっていること、電車など交通機関は動いていないことなど、入った情報を的確にわかりやすく伝えました。手話通訳者も協力してくれました。私も、いくつかアドバイスさせてもらいました。
説明が終わり、全員、室内に戻りました。交通機関が動いていないことから移動できませんでした。障害者福祉会館からは、「明日の朝まで開館している予定です」と発表されました。私は、テレビで、東北地方の津波の報道を見ていました。恐ろしくて声も出ず、早く逃げて、と心で祈っていました。5時頃になり「さて、どうしよう。できれば、調布・国領の家に帰りたい。とにかく、田町駅まで行ってみよう」と思い、障害者福祉会館を出ました。当時は歩けたので、徒歩で田町駅に向かいました。田町駅前は人が多かったですが、騒然という雰囲気ではありませんでした。黙って、黙々と歩く人たちでした。「川崎までどの位かかるだろう」といった会話が聞こえてきました。
渋谷行きの都営バスに
私は、渋谷行きの都営バスが走っているのを見つけ「とにかく、渋谷まで行ってみよう」と思いました。しかし、長い列になっていました。相当時間がかかると思い、開店していたスターバックスに入り、水分補給とトイレを済ませ、再びバス停に戻りました。相変わらず長い列で、4、5台見送り、6台目位に乗れそうでしたが、座れないのではと思い、もう1台見送り、次のバスに先頭で乗車しました。午後7時頃でした。道路は相当混んでいて、田町駅前の次のバス停「慶應大学前」まで30分かかりました。渋谷までは途方もなく時間がかかると、覚悟しました。バスの中は、携帯電話は互いに許し合い、みなさん安否を知らせていました。私も妻に安否を知らせようとしましたが、当時は携帯電話の会社が違うとつながり難く、あの日はなおさらでした。同じソフトバンクの長男とやっとつながり、バスに乗っていること、何時に帰宅できるかわからないことを伝えてくれ、と依頼しました。
心配な肢障協の人たちにも電話しましたが、つながらなかった人が多かったです。
渋谷に着くも
結局、渋谷まで普段なら30分位ですが、4時間かかりました。1番困ったのは、オシッコ。待ち時間を含め5時間。もうパンパン。でも、バスを降りたらアウトと思い、我慢して座っていました。降車して、真っ直ぐにトイレに向かいました。一度放尿して手を洗ったら、もう一度もよおした珍しい体験もしました。さて、これから。渋谷から調布行きのバスが走っているのを確認できました。しかし、普段でも1時間以上かかるのに、今日は。とてつもない時間が頭に浮かんできて、迷っていました。そのうち「井の頭線が動き始めるらしい」という情報が入ってきました。行ってみると、井の頭線渋谷駅前の広場は、人でいっぱいでした。しばらくすると「あと30分位で動き始めます」というアナウンスが入ってきました。すると驚くほどに整然と、人たちが列を作り始めました。あの井の頭線渋谷駅前の広場で長い蛇のように何重にもなって。先を争う様子もなく並びました。「こうした時に秩序が保たれてる、日本人てすごいナ」という声が聞こえてきました。私も同感でした。
若者につかまって
ただ私が心配したのは、このように並んでいる中で動き出し、私がつまずいたり、転んだりしたら、ということでした。そしたら前にいた若者、髪は黄色で、両耳にピアスをし、小さな入れ墨も見えた若者が「おじさん、肩つかまってもいいよ」と言ってくれました。「助かった、大地震で大変になるのであっても、日本の将来どうにかなる」と思いました。列が動き出し、私は若者につかまりホームに入り電車に乗ることができました。電車に乗ると若者が、座っていた中年男性に「このおじさん座らせてあげてくれない」と声をかけてくれました。中年男性は、快く席を譲ってくれ、私は明大前まで無事に行けました。京王線もわりあいスムーズに乗れて、我が家のある国領に着いたのは、午前1時半頃でした。
オリジンが開いていたので、ノリ弁を買って帰りました。昼から何も食べていませんでした。息子たちが通っていた保育園の前を通ったら、明かりが点いていました。後で聞くと、親が迎えに来れず一晚預かった子が何人もいたそうです。家に帰り風呂に入り、ノリ弁を食べ始めたのは3時頃でした。こうした時でも、缶ビール1杯飲んだのは私らしいでしょうか。
東京の体験を
これが私の「3・11の手記」です。もっと大変な思いをした人がたくさんいます。しかし、一肢体障害者の帰宅困難者の手記と読んでくださればと思います。そして、私自身当時はどうにか歩けたのですが、シニアカーに乗っている今だったらどうしたことかと思います。防災対策は、多くの課題があります。「3・11」を過去のものとせず、東京の体験を記すことも大切だと思います。