第13回
大学と障都連 二足のわらじを履いて
大学と障都連 二足のわらじを履いて
やっと大学に
4年浪人して明治学院大学第2社会学部に入学できました。夜間部でしたが、教育委員会、登記所、学童保育、障害者施設など色々な職場を終わって大学に学びに来る人が大勢いて、当時の私には、様々な話が聞けて楽しかったです。また、30代、40代、50代、60代の人もいて、色々な人生経験を聞けました。
私の入学と同時に、2人の車いす障害者が、明治学院大学で学びはじめました。彼らは、都内の肢体不自由養護学校高等部を卒業し、明学を受験しようとしましたが許されず「聴講生ならいい」という条件での学びでした。私は「不当だ」と思い、学友とともにサークルをつくりました。「彼らを正式の学生に」「スロープを作れ」「彼らの受ける授業は一階の教室で」などを掲げ、大学と交渉しました。生協の建物にスロープを設置させました。また、障害者問題を学び、当時、全障研の『発達保障への道』(田中昌人著)はバイブルでした。
全国大会初参加
私の大学1年の時が、全障研第7回石川大会でした。私の初参加でした。東京からは、大型バスを借り上げ夜行で行き、夜行で帰る強行参加でした。高速道路はありませんでした。それでも、満員になる参加でした。車いす障害者も何人か参加していました。私は、車いす障害者の女性を座席に横に寝かせたくて、床に新聞紙を敷き横になり往復しました。それでも楽しい全国大会参加でした。調べて見ると、記念講演は、河野勝行さんでした。ところが、私は、ぜんぜん覚えていません。バスが遅れたのか、夜行により居眠りしていたのか、河野さん、ごめんなさい。そして私は、東京に夜行で戻り、その日から教会学校の夏期キャンプに2泊3日で参加し、小学生とともに活動をしました。若かったですね。体力ありましたね。50年前のことです。
障都連事務局に
明学に入学してからも、大学から近いこともあり勤めていたクリーニング工場でしばらく働いていました。しかし、働きがいがない、大学に行くのに疲れてしまう、と思いはじめました。そのことを当時障都連事務局長をしていた宮内俊清さんに話すと「障都連事務局で働いてみないか。働きがいがあるぞ」と言われました。そして、決めました。確かに「働きがい」はありました。しかし、給与は、クリーニング工場の月三万円から月二万円に減りました。
初出勤、入社式
後日、宮内さんが指定した日時と場所に行きました。民家の3階の屋根裏部屋でした。ランニングでステテコ姿のおじさんが居て「何だお前は」と言われました。胸には、大きな傷跡がありました。板橋区生活と健康を守る会事務局長の林さんでした。後で聞くと結核で大きな手術をされたそうです。そこは、板橋生健会の事務所でした。障都連は、机1つ置かせてもらっていました。「今度、障都連で働くことになった、市橋です」と挨拶すると、「そうか、よろしく。でも宮内は来ないかもしれないぞ。あいつは不規則だからナ」「えっ」と私。続けて林さんが「でも、お前のような者が働くとはめでたい。おい、ビール買ってこい」と言い、小銭を渡され酒屋まで走らされました。そして、「おい、飲め、めでたい、めでたい」と林さん。私が「これから夜、大学で授業を受けなければ」と言うと、「今2時だぞ、さめる、さめる」と林さん。宮内さんは、とうとう、その日は来られませんでした。これが、以後40年勤めることになった障都連への初出勤、入社式でした。林さんには、それから患者運動、守る会の運動などいろいろ教えてもらいました。
障都連文化祭
私が障都連に勤めはじめたころから毎年「障都連文化祭」を開催していました。障害の違いを超えて運動を進めていくとともに、文化的交流を深めようというものです。私が印象的だったのは、ハンセン病回復者の方々が東村山の全生園からバス1台で来てハーモニカなどバンド演奏をしてくださったことです。視覚障害や手や唇の不自由の方々の演奏は、参加者の感動を呼びました。私もハンセン病回復者の方々に初めて出会って、以後一緒に運動を進めるきっかけとなりました。今日では手話落語がありますが、当時は落語に手話を付けるのを試みとして行いました。東視協アンサンブルというのがあり一流の演奏が聞けました。彼らは他にライブハウスで演奏も行い、私も聞きに行きました。
私がもう1つ印象に残っているのは、はじめさんのことです。ろう重複障害児で小学4年位だったと思います。お母さんと参加して、舞台に上がったり下がったり司会や手話通訳の横に行ったり、自由に会場を飛び回っていました。それでもプログラムを止めることなく進行しました。障害の違いを超えて運動を進めることを学んだ気がしました。その後、ろう重複学級設立の運動を学び、ろう重複障害児親の会とともに運動を進めていくきっかけにもなりました。
厳しい意見も
「障都連文化祭」は成功に終わったと評価されましたが、反省会では、「本当にひとりひとり楽しめたのか」「落語は、手話を付けてもおもしろさはわからなかった」「手話ダンスがあったが、視覚障害者は居眠りする他にはなかった」など厳しい意見が出され、議論百出しました。車いすトイレなど皆無に近い時代でバリアフリーの課題も出されました。
「障害の違いを超えて運動」は、題目だけでは済まないことを学びました。でも、「どのようにしたら団結が深められるか」の議論になりました。特に、反省会後の飲み会では。
「障都連文化祭」は、10年くらい続きました。1981年からは「国際障害者年をすすめるスポーツと文化の祭典」として幅を広げて行いました。第1回は、夢の島で行いました。これも20年くらい続きました。この間、多くの人に出会いました。特に施行にあたっては、多くのボランティアの協力を得ました。今も50年近い交流がある人たちがいます。