第14回
「1973年」という年
「1973年」という年
女性は怖い!?
私が障都連に勤めはじめた1973年は、東京で障害児の全員就学に向けて運動が最高に盛り上がった時でした。正直に言って、その意義や歴史的価値を認識したのは、のちに学びながら、でした。その時は、ただ事務局員として会議の準備などを都障教組(そのころは特殊教組)の方々のあとに付いて行うだけでしたが、何かが変わる気配は感じていました。特に、障害をもつ子どものグループ連絡会のお母さん方の迫力はすごいものでした。藤本治美さん、福井典子さん、伊藤綾子さん、深沢智子さんなど。福井さんは、ふたごのお子さんを机の上に座らせての参加でした。私はよく「机の並べ方が悪い」「資料が足りない」と怒られました。未だ青焼きの時代だったので、泣きそうになりながら資料を印刷しました。「お母さん方の願いは切実だ、怖いぐらい」と思いながら。後年、グループ連絡会の会合で「私の結婚が30歳過ぎたのは、あの時に『女性は怖い』と思ったからかもしれない」と冗談交じりに挨拶したことがあります。「でも、みなさんの行動が確実に歴史を変る原動力になった」と付け加えて。
私の1973年
繰り返すことになりますが、1973年は、私が障都連に勤めた年であり、大学に入った年であり、東京の障害児の全員就学前年であり、障害者福祉制度も次年度から始まった福祉手当や医療費助成制度の準備を進めた年でもありました。私は、何をしていたのだろう。日々のことは思い出せません。24歳の若き市橋は、夢中で先輩たちについて行ったのだろうと思います。怖いもの知らずだったかもしれません。
大学では、私にとり初めての大学祭を迎え、先に書いた車いす障害者の入学問題でシンポジウムを仲間と企画しました。当時は学生運動が盛んであり、私たちのシンポジウムを壊そうする人たちに苦労したのを思い出しました。
歴史の歯車が動く
そして、東京の障害児の全員就学に向けては、11月20日に「全ての障害児にゆきとどいた教育を保障する11・20集会」を開き、33団体1000人が集まりました。会場は、旧都庁丸の内庁舎都議会階段前でした。私は、階段の一番上に居たような気がします。旗かハンドマイクを持って。そして当時の副知事が「憲法や教育基本法の精神をふまえ、どんなに障害が重くても一人ひとりに見合った適切な教育の場を用意することは行政の責務であり、このことは教育の原点である人間尊重の教育の実現そのものである」と挨拶しました。歴史の歯車が動きました。私の人生の中でも迫力のある、感動的な集会であります。
2024年は、東京の障害児の全員就学50年です。今の東京の障害児教育を考えると「50年おめでとう」と手放しに言う訳にはいきません。全員就学の時の理念と運動を学び、今日の現状を直視し、要求実現の運動を進めていかなければなりません。障都連では、全障研東京支部などに呼びかけて、全員就学50年の運動に取り組もうと、2023年の総会で決めました。50年前に負けない熱意と迫力のある運動をしたいと思います。