第15回
都庁と大学 2日続けて徹夜で交渉
都庁と大学 2日続けて徹夜で交渉
東京都の障害者福祉制度も前進
先号に続いて1973年のことです。この年は、障害児全員就学に大きく前進したのと同時に、東京の障害者福祉も大きく前進しました。障都連事務局に勤めはじめの私は、宮内事務局長の後に付いて、当時の丸の内都庁舎に毎日のように通いました。当時は今日のように入り口でチェックもなく、気軽に福祉局障害者福祉部に行くことが出来ました。課長も係長も、若僧の私にも気軽に話してくれました。蜂の会会員などの在宅障害者の話は特によく聞いてくれました。ある日、係長から「市橋君、来年度から始める重度障害者福祉手当と医療費助成制度に本人所得制限を無しにしようと思うけどどう思う」と聞かれました。当時も福祉制度に所得制限が有るのが当たり前で、宮内さんと私の方から「えっ、いいの?大歓迎だけど」という程でした。係長は「所得制限に引っかかるのは、資産がある一部の障害者くらいだろう。市橋君などの話を聞くと、在宅障害者に何かしないと、と思う」と言ってくれました。革新都政時代の昔話のようですが、都政が、都民生活の実態を知り、生かそうとした時代の話です。
当時、都庁にも和文タイプを打つ人がいました。パソコンなど考えつかない時代でしたから、正式な文章は、タイプライターを通じて出されていました。障害者福祉部のタイプライターは素敵な女性で、目が合うと嬉しくなりました。お茶などを出してくれると、幸せ気分で、丸の内から白金の夜学に向いました。医療費助成制度に本人所得制限を無しにしようという原案を、私と課長がコーヒーを飲んでいる間に打ち上げてくれた速さには驚きでした。ちなみに、当時の障都連の要請書は、何人もの方に協力していただいて、手書きでした。
聴覚障害者と交流するなかで
私が手話を習いはじめたのは、1972年からです。50年も経っているのに、ぜんぜん上達していませんが。当時、新宿区戸山町にあった東京都障害者福祉センターで週1回、確か水曜日だったと思いますが、手話講習会が開かれていました。障都連で花田克彦さんなど聴覚障害者、手話通訳者に出会ったこともあり通いはじめました。手話に関心をもつ人が増えはじめたころで、講習会は満員でした。私は手話は一向に上達しませんでしたが、講習会が終わったあとに、高田馬場駅近くの喫茶店ルノワールで交流をすることが楽しみで参加していました。交流には講習会に参加した若い人が大勢来ました。交流だけに来る聴覚障害者も多くいました。「何組かカップルができた」とも聞いています。交流に参加する中で、聴覚障害者が生活を送るために様々な困難があることを知りました。正直それまでは、蜂の会の活動に加わっていたこともあり、脳性マヒの障害者の生活が一番たいへんだ、と思っていました。各々の障害者が様々な困難がある、と知りました。特に、手話通訳者の確保は人権の問題だ、と学びました。
手話通訳者派遣センターの誕生
翌1974年1月、次年度の東京都予算案の発表があり、障害児全員就学、重度障害者福祉手当と医療費助成制度などが新規予算化されました。しかし「手話通訳者の派遣の制度化を」という要求は、予算化されませんでした。そのころは「復活予算」に幅がありました。1月、次年度の東京都予算第一次案の発表があり、福祉局など予算要求原局は、予算化されなかった項目を、積極的に復活予算しました。都民要求を実現させようという意図が感じられました。都民団体や労働組合も予算案発表の日は、特別な体制を取りました。
1974年の復活予算行動は、私にとり初めての経験でした。宮内さんから「今夜は徹夜だぞ」と言われ構えました。花田克彦さんは、寝袋を持ってきてくれました。5人ほどのチームで、政党や都側の関係者に要請はできましたが、肝心の福祉局長に会えません。12時過ぎ、さすがに都庁の廊下の暖房は切られました。私たちは、寒さを堪えるため寝袋に入りました。私は、寝込んでしまったのでしょう。5時過ぎ、起こされました。宮内さんが「局長が会ってくださるそうだ」と。当時の女性の縫田福祉局長。局長も徹夜だったと思います。少し疲れた顔をなさっていましたが、私たちに「お待たせしてしまいました。疲れてない? 大丈夫?」との声かけから始まりました。そして30分ほど花田さんたちが切実に要請して、私も「他の障害者も応援しています」と発言しました。縫田局長が「とにかくスタートさせてみましょう」とおっしゃいました。これが今日の手話通訳者派遣センターの誕生です。
「今日こそは大学の夜の授業に出よう」
局長への要請が終わり外に出ると、丸の内の都庁舎も白々と夜が開けていました。喫茶店でモーニングサービスを食べ、事務所に戻って要望書を作り直し、もう一度、関係部署に要請し、終わったのは、午後3時ごろでした。「今日こそは大学の夜の授業に出よう」と思い、そして「あっ、いけない!今日はドイツ語のテストだ」と思い出しました。「何もやっていない。範囲さえわからない」でも「とにかく行ってみよう。あの先生は、名前を書けば何とかしてくれる、と言うウワサもあるし」と思い、大学に向かいました。
明治学院大学に着くと、異様な雰囲気でした。「学費値上げ反対」で、それまでバラバラだった学生セクトがまとまり、学長交渉集会が開かれていました。授業がなくなり「助かった」が私の第一声でした。そして、集会に参加者しました。集会は長引きました。終電近くなり、翌日職場を休めない学友の帰宅を確認して集会を続けました。明け方5時ごろ、学長が「値上げを考え直す」と言い集会は終わりました。外に出ると、白金の学舎も白々と夜が開けていました。2日続けての徹夜でした。タフだったな。
その後、学長の言葉は反故にされました。明治学院大学はロックアウトされました。私たちは「明治学院大学のバカ野郎、キリストも怒っているゾ」と叫びました。しかし、ロックアウトされたおかげで、いくつかのレポートだけで大学1年を終えることができました。障都連などの夜の会議が増えた私には、「助かった」が本心でした。
一生懸命やったつもりです。でも、行き当たりばったりの私の青春でした。