第1回

「清くもない、正しくも、美しくもない」

人生の歩み 

はじめに 

 障害をもつ人の参政権保障連絡会のホームページにようこそ! 市橋博(いちはしひろし)です。この会の代表世話人をしています。ほかにも、障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会(障全協)の副会長やその会の東京版(障都連)での会長もしています。みなさんにお届けしようとしているこのエッセイは、障全協のきょうだい分の組織である全国障害者問題研究会(全障研)東京支部の会報「地なり」に連載してきたものです。支部に快諾いただいたので、転載しようと思いました。せっかくなので、アップデートも試みました。

 タイトルを見て、自叙伝? と思った方も多いかと思いますが、自叙伝というよりも「清くもない、正しくも、美しくもない」人生の歩みを、与えられた体を引きずりながら歩んできたことを、その時々の社会状況と合わせ書けたら、と思い綴ってきました。みなさんの人生とも重ね合わせながら、お読みいただければうれしいです。

 

仮死状態での誕生と母の思い

 私は、1949年(昭和24年)8月30日に東京・目黒で生まれました。軍隊から帰って銀行に勤めはじめた父に、父の母は「そろそろ嫁さんを」とまわりを見渡したら、同じ町内に良い娘さんがいて、見合いで結婚したのが父と母です。だから、両親の実家は100メール程しか離れてなく、私は、よく行き来していました。そして結婚1年後、団塊の世代として生まれたのが私です。

 

 私は、近所の産科医院で生まれました。仮死状態で生まれて、医師は一生懸命に尻を叩いたり、頭を揺らしたりしたそうです。最後に胸に直接注射をして40分後に産声をあげたそうです。私の脳性マヒは、その時の後遺症だと思われます。

 

 しかし母には、生前、ある思いがありました。妊娠8ヵ月の1949年の5月、戦後のその頃はまだ配給があり、筍が配給されました。母がアク抜きしようと煮出しはじめたところ、姑さんが「今の時代、アクも栄養になる」と言われ、みんなでそのまま食べました。あくる日、母は、顔が紫色に腫れ上がったそうだす。母は死ぬまで「あの時の筍が」という思いがあったようです。子どものころから私の実家の食卓に、筍がのることはありませんでした。私も、今でも筍を好んで食べようと思いません。筍が影響したか否かを追究しようとも思いません。しかし、障害児のお母さんが「妊娠中のあの時」などと話されると、筍を思い出し、時代が変わっても、私の母と同じ思いをされていることを察します。

 また、戦争による「食糧難」は、このような間接的な影響まで起こします。ウクライナの人々のことを思い、戦争は、絶対に起こしてはならないと、改めて強く思いました。

 

 ただ、母が私の障害に気がついたのは、だいぶ後からのようです。仮死状態で生まれたものの、私はよく泣き、おっぱいもよく飲んだそうです。ただ、首のすわりが遅い、とは感じていたようです。今なら、3ヵ月健診で当然に発見されているはずですが、70年前は皆無でした。様々な今日的問題はあるものの、70年前とは雲泥の差です。

 

全国赤ちゃんコンクール

 私には5歳年下の女性のいとこがいます。彼女が1歳のころ、「全国赤ちゃんコンクール」に応募しました。戦後政治が始まりましたが、1948年には「優生保護法」ができ、翌49年には全国赤ちゃんコンクールが開始されました。全国赤ちゃんコンクールは、保健所が募集し、健康そうな赤ちゃんを選ぶコンクールでした。「地域から健康な赤ちゃんを多く」と各保健所が力を入れ、健康な赤ちゃんを見つけるために走り回ったそうです。母乳から粉ミルクへと、乳業メーカーも後押ししたそうです。敗戦復興時期に、人権を守ることより、健康な赤ちゃんを、優良な子どもを、強い国民を、と走ってしまいました。

 母の実家では、いことの裸の写真を撮り「健康そうに撮れたね、賞が取れそうだ」とみんなで喜んだそうです。しかし、祖母が「本当は、保健所は、ひろしのような子どものことを診てくれると良いのにね」とつぶやいたそうです。母も叔母もうなずいたそうです。

 

築き上げてきたもの 崩されたもの 

 1967年、都民のねがいの結集で誕生した革新都政は、全国に先駆けて障害者施策を大きく変革させました。保健所が大きく変わったのも、その1つと思います。障害をもつ子どもの早期発見、早期治療・訓練は、保健婦さんたちを中心に前進していきました。私は、障都連に勤めはじめたころで、日々学ぶことが多かった時代でした。

  とはいえ、私がほんとうに保健所の充実、早期発見の大切さを実感したのは、今から37年前、私の長男が生まれ、3ヵ月健診の時でした。調布に住んでいたのですが、保育園にはまだ入れず、妻は仕事をしていたので、目黒に住む実家の母に昼間の育児をしてもらっていました。すると、調布から連絡が入り実家に目黒の保健師さんが来てくれました。ここでも運動の成果を感じました。そこで、長男の目が保健師さんの指を追った時、何とも言えない感激・喜びを感じました。もちろん脳性マヒが遺伝するとは思っていませんでしたが、一人の親として安心しました。そして、また、運動の成果を感じました。

 しかし、石原都政が続く中で、東京の保健所が削減されました。三多摩では、半減されました。新型コロナ感染症の影響が広がり長引く中で、保健所を削減した都政の罪が、都民に大きく覆いかぶさっています。保健所行政・公衆衛生が社会保障の大切な一つとして運動を進めなければと思います。

  築き上げてきたものと、崩されたものを感じます。

 

  生まれたときの話から18歳、父となった36歳…と飛んでしまいました。

 次回以降は、また幼児期に戻り、時に脱線して、今の課題ともつなぎあわせて…と思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。