第3回

“春” この詩を読むたびに

光明養護に合格

 私は、1956年、東京・世田谷の光明養護学校小学部に入学しました。母は迷ったそうですが、幼稚園に1年遅れて入り、2年間通い、1年間就学猶予をしての入学となりました。当時、肢体不自由児養護学校は、都内で1校でした。そして、入学試験がありました。私は、どういうわけか、入学試験当日の教頭先生のお話しを覚えています(若干推測を含みますが、こんな話だった思います)。

「この学校は、体の不自由な子どもたちが学ぶ学校です。障害の軽い子は普通学校に行ってください。障害の重い子には、就学免除・就学猶予という制度があります。あとで書類の書き方を教えます」

 私の記憶では、○と△を当てはめる簡単なパズルをし、確か『かちかち山』だったと思いますが、絵本を読みました。私は、合格しました。母も、私も、非常に嬉しかったのを覚えています。

 しかし、今考えると、障害が重いことを理由に、就学免除・就学猶予になった多くの子がいたと思います。「泣きながら書類を書いていたお母さんの姿があった」と言われています。「この子は教育を受けないでいいです」という教育権を奪う書類をお母さんが書き、印を押していたのです。そうした意味からも、東京で1974年、全国で1979年に運動の力で実現させた障害児全員就学は、障害児・者の権利保障を大きく進めたものです。

 

母にすまない思い

 私には、もう一つ、その頃の思いがあります。当時私たち一家は、父の兄一家と同じ敷地内に住んでいました。そして、一つ下のいとこがいました。男の子同士で仲が良かったです。私が1年間就学猶予した関係から、同じ年の小学校入学となりました。いとこは、有名私立大学附属小学校に合格しました。すると、いとこの母親が「同じいとこどうし、よくも恥ずかしくないわね。私だったら、とても一緒に住めないわ」と私の母に言ったそうです。母は呆然とし、こみ上げてくるものがありました。近くだった自分の実家に私を連れて帰り、泣き崩れたそうです。アルコールに弱い母が、飲めないワインを飲んで眠ったそうです。母の妹である叔母が「お姉さんが、あんなにも乱れたことはなかった」と大人になった私に話してくれました。プチブル的嘆きと言わないでください。母がどんなに悔しかったか。悲しかったか。自分を責めたかもしれません。私には、どうすることもできなかったことですが、今でも「すまなかった」と思っています。


 1973年、障害児全員就学への運動が東京で盛り上がっている時、私は障都連に勤め始めました。

 そして、次の詩に出会いました。

 

      

                  伊東敦子

みんながうきうきする春が もうすぐやってくる

入学式 1年生

  みんな晴れがましい顔

でも

  ひろ子ちゃんのママは

  また 頭から ふとんをかぶって泣くのかな

  ことしで 3回目 入学式の日はいつもそうなの

 

信君は もう大きいけど 歩けないから ママがおんぶ

  ママがつぶれそう

 

学校に行きたくても

口がきけないし 歩けないから 入れてくれない

身障児の学校は あるけれど

  とても遠くて 通えないんだ

  すぐ熱がでるもん

  そして手足が すごーく 痛いんだ

 

かおるちゃんは 真っ赤なランドセルを 買ってもらった

学校へ行くと ハリキッていたけど

やっぱり3年猶予して そのままいけなかった

 

今は もういないけど ママは

真っ赤なかおるちゃんの ランドセルを机において

かわいい笑顔を思いだしている

 

また 入学式が 近づいた

  今年は 頭からふとんをかぶって

  泣くママが 何人いるのかな

                  1971・12・13

(「障害をもつ子どものグループ連絡会ニュース」1971年12月30日発行から)

 

 この詩を読むたびに涙が出ます。そして、母を思い出します。障害児全員就学を実現させたことで、4月に泣く、お母さんは減ったかもしれません。その後も、障害児・者権利を守るために運動を進めてきました。しかし今日でも、さまざまな、悲しいこと、悔しいこと、心配ごとが絶えないお母さんが多いのではないでしょうか…。