第18回
卒業後対策
卒業後対策
共同作業所への助成の始まり
1974年「障害者児全員就学」が実現してからすぐに「卒業後対策」が言われはじめました。私たちの運動で教育は保障されたが、学校卒業後行く所がない、教育の成果も生かせない」という声が上がりはじめました。足立で、江東などで「卒業後対策を考える会」のような集いがもたれ、私も出かけました。「作業所みたいなものを自分の区でも作りたい、でも夢かな」「実現にもって行こうヨ」などの話し合いのあと、当時、唯一下請けがあるとされていた「割り箸の袋入れ」(1個17銭といわれてました)を実践してみました。養護学校高等部の人たちがスイスイと袋入れをしてるのに対し、要領が悪い私はなかなか入れられず、「17銭を稼ぐのも難しい私だ」と思いました。
そのころ小平市に「あさやけ作業所」が誕生しました。藤井克徳さんたちの努力によるものです。厳しい条件の中で誕生し、運営されていました。「なんとか、東京都から助成することができないか」と障都連の会議で出されました。そのころ東京都に「障害乳幼児グループ補助」という独自制度がありました。これも運動により「障害乳幼児の早期発見・訓練のため」と革新都政がつくった制度です。「乳幼児に適用される制度なら、卒業生・大人に範囲を拡大できないか」と障都連の会議で出されました。後日、あさやけ作業所の人たちと障都連の役員で都庁に行き、福祉局に要請しました。私も参加しました。担当課長は「良いアイデアだ。難しい面も多々あるが検討してみる。卒業後対策はなんとかしないと、と思っていた。来年度予算に間に合えば良いが」と言ってくれました。私は、ここが今の都政と違うところだと思います。今の福祉局に同じような話をしても、おそらく「無理です」で終わりでしょう。当時の担当課長は、いろいろ考えてチャレンジしてみました。財務局対策、議会対策と。私も、学ばせてもらいました。課長の努力もあって予算編成に間に合い、次年度から制度拡大されました。これが東京の共同作業所への助成の始まりです。
柳の下に2匹目のドジョウ
続きがあります。数年後、小平市や江東区などで放課後デイサービスが始まったころ、やはり厳しい条件の中での運営でした。「乳幼児、卒業生・大人にされる制度があるなら、今度は学童や生徒に範囲を拡大して適用できないか」と考えました。さっそく、小平市のゆうやけ子どもクラブの村岡真治さんたちと都庁に行き、福祉局に要請しました。当時の担当課長は「難しい問題ですネ」と言いました。私が、前には適用範囲を拡大したことを言うと、笑いながら「市橋さん、柳の下にドジョウは2匹いませんヨ」と言われました。私は「必要ならば柳の下にドジョウが2匹、3匹泳いでも良いのでは」と言いました。その担当課長も努力してくれて、東京で放課後デイサービス助成制度が始まりました。
3匹目のドジョウを
私たちの切実な要求に「青年・成人期の余暇活動支援事業の充実を」があります。「作業所などの帰りに活動する場の保障を」という要求です。作業所などが早く終わり、家に帰っても家に誰もいない障害者もいます。危険が伴う場合もあります。私は「余暇活動と言っても余った暇な時間ではない。人間性の形成に大切な時間だ」と主張しています。誰しも職場帰りに、カルチャーセンターやトレーニングルームに寄ったり、喫茶店で談話(時には赤ちょうちんで)したりします。障害者にも保障されて当然です。北欧諸国では一般的にこの時間が大切にされて、障害者にも援助が進んでいます。
青年・成人期の余暇活動支援事業は、現在、東京都では地域包括支援事業に入っています。これは、各区市町村が施行するなら助成するというものです。運動を行ったことにより、いくつかの区市町村で施行されてはいますが、全都的なものにはなっていません。私は、ぜひとも全都的な事業にしたいと思います。障害乳幼児グループから共同作業所へ、そして放課後デイサービスへ、助成制度を広げてきました。青年・成人期の余暇活動支援事業も。障害者制度をドジョウに例えるのは不謹慎かもしれませんが、必要ならば、ドジョウでもウナギでも柳の下で何匹でも泳がせたい。それとも今日の東京都に柳の下のドジョウを捜す努力を期待するのは無理カナ。
ゆたか共同作業所を見学
東京で共同作業所づくりが始まったころ、名古屋ではすでに「ゆたか共同作業所」が開所していました。先進的な取り組みを学ぼうと、私も何回か名古屋に行きました。所長の鈴木峯保さんから、父母たちの願いから運動で設立されたこと、働くことによりなかまが変わっていくこと、工賃やボーナスを話し合いで決めることなど、当時の私には初めて聞く話が多く、様々な観点が学べました。自治会もあり、会長選挙があり、「このアメあげるから僕に投票して」と言う人が出て、「なかまを見ていると楽しいですヨ」と笑いながら鈴木さんが話してくれました。利用者の障害者が主人公の作業所づくりを学ぶことができました。
鈴木峯保さんがのちに私たちの結婚式で仲人を務めてくださるとは、この時、夢にも思いませんでした。