第12回
浪人時代 なんと4年も
浪人時代 なんと4年も
4年間浪人してしまいました
障害がある、職業高校を卒業した、理由を挙げればいろいろあるけれども、4年間浪人してしまいました。でも本当の理由は「勉強しなかった」です。昼ごろまで寝て、午後から予備校に行き、終わったら、蜂の会や青年運動の活動をし、夜遅く帰宅し、ラジオの深夜放送を聞きながら勉強のまねごとはしましたが。その上、受ける大学は「高望み」。そんな生活をして、4浪してしまいました。
ただ、一つだけ書きたいことがあります。私が受験生のころは、障害者に対する配慮はありませんでした。母が「何も配慮しなくても良い。受験だけさせてください」と、菓子折を持って行った大学もあります。何年か前に聞いた話ですが、大学受験センター試験では、終了後に、障害受験生に対して、マークシートが思ったところにチェックされているか、確認してくれるそうです。この面でも、変わったな、前進したな、運動の成果かも、と思います。
「自衛隊に入らないか」
4浪して、さすがに父も怒り出し「どこかで働け」と言われました。職安(当時はハローワークなんて言わない)に通いましたが、当時は今以上に障害者の働く場がなく、虚しさを感じて職安の玄関を出ると「自衛隊に入らないか」と声をかけられました。当日は、よほどしっかり歩いていたのでしょう。自衛隊応募が少なく、手当たり次第声かけしていたようです。「えっ、僕がですか」と言うと、相手も気がついたのか「何だ、ビッコか。ジャマだ。ジャマだ。早くあっちに行け。しっしっ」と言われました。「声をかけたのは、そっちだろ」と言って立ち去りましたが、虚しさが増しました。自衛隊には疑問をもっていましたが、反感も増しました。最近、自衛隊が青年の名簿を不正使用しニュースを見て思い出しました。
働きがいがある職場を
3ヶ月ほどぶらぶらしながら就職活動をし、当時、新宿区戸山町にあった東京都障害者福祉センターの紹介で、港区高輪にあるクリーニング工場に勤めました。職場適用訓練制度を使って雇用されました。30人ほどが働くクリーニング工場にしては大きい方で、障害者雇用率は良く、社長は表彰されたほどでした。私の仕事は、洗濯物を運ぶことと背広や学生服のポケットにハンカチやちり紙などの忘れ物がないか調べ、ゴミ取り掃除することでした。財布などの忘れ物があると客のタッグと合わせて返還の手続きもしました。やっと就けた職場なので一生懸命働きました。聴覚障害者も何人か働いていて、アイロンがけがうまいと評判の人もいました。仲良くしてくれました。しかし、私が一番辛かったのは「仕事がない時」でした。ポケット掃除など終わってしまうことが往々にしてありました。ワイシャツのアイロンがけは山ほどあるのに。まさか変わる訳には行かず、仕方なく床のごみ拾いなどをして時間が早く経つのを祈っていました。
最近、共同作業所から企業に就職できた人から「コロナで解雇にはならないけれど、仕事がなくなり職場に行ってなにもしないのが辛い」という話を聞きました。私も50年前を思い出して「辛いだろうナ」と思いました。障害者の企業就労を進め雇用率を上げるとともに、「障害者が働きがいがある職場をつくる」のも運動の課題です。
全障研との出会い
私と全障研との出会いは、3浪の時、1971年だったと思います。私の前任の当時の障都連事務局長の宮内俊清さんが蜂の会の例会に来ました。いろいろと話した後「市橋、今度、君には合いそうな、有意義な会があるから来ないか」と誘われました。それが、全障研です。当時は、全国大会の前に東京集会のような会合を開いていたのではないでしょうか。品川ろう学校(今の品川特別支援学校)で行われたと思います。そこで、清水寛埼玉大学教授と出会いました。紹介されて、私は「埼玉大学で学びたい。そして日本体育大学にも行ってみたい。障害者こそ体育が必要だと思います」と言いました。清水寛さんは「良い観点だ」と言ってくださり、講演の中でも「これからは、こうした広い観点が必要だ」と取り上げてくれました。私は嬉しくなり「障害者問題研究に入り込もう」と思いました。日本体育大学は、今日では障害者問題に対して大きな役割を果たしてくださっていますが、当時は「体育に強く上手な学生の大学」というイメージがありました。これも、時代の変化でしょうか。集会のあと新宿で宮内さんとお好み焼きを食べながら飲みました。宮内さんと良く話し、いろいろと誘われました。この業界にズブズブに入り込むきっかけけになった一日でした。