【特別寄稿】
相田潤・東北大学大学院歯学研究科国際歯科保健学分野准教授
協会が2012年から取り組んできた「学校歯科治療調査」は、子どもたちの未受診の実態を明らかにし、口腔内健康格差の問題を社会に提起した。調査は全国に広がり、健康格差是正を求める運動は大きく広がっている。では、格差是正には何が必要なのか――。 「口腔の健康格差の研究と政策の国際センター」(ICOHIRP)コアメンバー等を務める相田潤氏(東北大学大学院歯学研究科国際歯科保健学分野准教授)に解説してもらった。
(大阪歯科保険医新聞2019年8月15日付掲載)未受診が引き起こす社会的影響
歯科保険医協会、保険医協会が実施した学校歯科治療調査、学校健診後治療調査は衝撃的な数字を報告している。学校歯科健診で要受診と診断された子どもたちのうち、実際に歯科受診を行っている者はおよそ3人に1人しかいないのである。この調査結果を知ってから筆者自身、地元の行政に問い合わせたところ、やはり同様の割合であった。日本は国民皆保険制度が歯科医療を広くカバーし、しかも子どもに対しては自治体の補助がなされていることが多い。そうした恵まれた状況にも関わらず、未受診は極めて多い。
未受診が多い事実が何を引き起こしているかは明白である。図1は永久歯に治療が必要なう蝕を有する者の割合を示す。20代以降では高齢者に至るまで、およそ3人に1人が未処置う蝕を有している。治療が必要なう蝕を有したまま生活している人が数多く存在するのである。
このことは、QOLの低下や、突発的な痛み、咀嚼困難、人と話すときの恥ずかしさなどを引き起こしていると考えられる。実はこうした状況は世界的にも報告されている。WHOと世界の研究機関が約300の疾患を調べた世界疾病負担研究( Global burden of disease study・GBD study)において、最も多い疾患は歯科疾患であり、未処置う蝕を有している者の割合が第1位で、やはりおよそ3人に1人が有していた。歯科疾患は世界で最も多い疾患なのである。
有病率の高さは、社会全体に大きな負担を引き起こす。例えば一人ひとりの歯科疾患の治療費は他の疾患よりも安い場合が多いが、多くの人が罹患するため、合計の国民医療費は高額となる。多くの医科疾患は高齢者で急増するが、歯科疾患は幼少期・成人期から多いことが特徴であり、その結果、65歳未満の国民医療費は、糖尿病やがんを抜いて歯科疾患が最も高い。歯科疾患は、個人個人に影響を及ぼすだけでなく、社会にも大きな影響を与えている。
窓口負担が受診を阻む
日本においても歯科受診に健康格差や受診抑制が存在することは以前から報告されていた。図は東日本大震災の前後の医科・歯科のレセプト枚数を示す(図2)。 震災後には被災者に医療費の自己負担金を免除する施策がとられたが、この結果、医科以上に歯科受診は増加した。これは平時は自己負担金が理由で受診を我慢している人々が一定数存在しており、その割合は医科よりも歯科が多いことを示している。そしてこの研究の結果は、もしも日本において「医療は自費で」という方向に施策の舵が切られたならば、医科以上に歯科で患者数が大きく減少することを示唆している。
健康格差の是正に向けて
近年、子どもの貧困率は高く、経済的に困難な家庭に給食代などの補助をする就学援助率は、1995年には6.1%だったものが2016年には15%と高止まりをしている6)。こうした状況は、経済的な問題から、子どもの歯科受診を難しくしていると考えられる。また、貧困家庭はひとり親世帯で多いため、仕事を休みにくいシングルマザーが、歯科医院に子どもを連れていくことが難しいような時間的な問題もあると思われる。
そして、歯科受診の問題だけでなく、歯科疾患の発生自体にも、経済状況が悪い人ほど疾病が多いという健康格差が存在している。社会経済的に厳しい状況にある人ほど、歯科疾患の発生が多く、そして治療も難しいという、二重の困難を抱えているのである。このことは「 12歳児平均う蝕経験歯数(DMFT)が1を切った」という平均値では見えてこない、生活する人々の困難であり、見過ごすことはできない。
歯科疾患による子どもたちへの負担を少しでも軽くするためには、こうした社会環境的な状況のために生じる負担を軽減するとともに様々な機会で活動を展開していかなくてはならない。医療受診が困難な高齢者や外国人に対して「同行受診」をするような取り組みは、歯科の未受診を減らすうえでも参考になるであろう。また一次予防の観点からは、学校や幼稚園・保育園での集団フッ化物洗口の実施は、どのような家庭環境の子どもであっても学校に行くだけで恩恵が受けられるため、う蝕の健康格差を減らすことが報告されている。
「子どものう蝕は減った」というイメージから、ここまで述べたような問題はあまり認識されていないかもしれない。しかし、数字の上で減ったとはいっても、う蝕にり患した子どもやその保護者の苦しみは消えるわけではないし、多少減ったところで、う蝕が他の疾患に比べて圧倒的に多いという事実は変わるわけではない。子どもの貧困率が高い今日、う蝕の予防や治療を一層進めていくことが求められている。
相田潤 あいだ・じゅん
歯科医師。東北大学大学院歯学研究科国際 歯科保健学分野准教授、臨床疫学統計支援室 室長。宮城県保健福祉部参与(歯科医療保健 政策担当、非常勤、2018年度まで)、厚労 省「歯科口腔保健の推進に係るう蝕対策ワー キンググループ」委員(2018年度)、「口腔 の健康格差の研究と政策の国際センター」 (ICOHIRP)コアメンバー等を務める。〈文献〉 1 )大阪府歯科保険医協会: 2016年学校歯科治療調査報告書. In.; 2017. 2 )大阪府保険医協会,大阪府歯科保険医協会:学校健診後治療 調査報告.In.; 2018. 3 )GBD 2017 Disease and Injury Incidence and Prevalence Collaborators: Global, regional, and national incidence, prevalence, and years lived with disability for 354 diseases and injuries for 195 countries and territories, 1990-2017: a systematic analysis for the Global Burden of Disease Study 2017. Lancet 392:1789-1858,2018. 4 )Marcenes W, Kassebaum NJ, Bernabe E, Flaxman A, Naghavi M, Lopez A, Murray CJ: Global burden of oral conditions in 1990-2010: a systematic analysis. J Dent Res 92: 592- 597,2013. 5 )Matsuyama Y, Tsuboya T, Bessho SI, Aida J, Osaka K: Copayment Exemption Policy and Healthcare Utilization after the Great East Japan Earthquake. The Tohoku Journal of Experimental Medicine 244:163-173,2018. 6 )内閣府:令和元年版 子供・若者白書.In.東京:内閣府: 153; 2019. 7 )相田潤,松山祐輔,小山史穂子,佐藤遊洋,上野路子,坪谷 透,小坂健,口腔の健康格差と社会的決定要因.健康長寿社会 に寄与する歯科医療・口腔保健のエビデンス2015. Edited by 深井穫博.東京:公益社団法人日本歯科医師会;2015. 8 )相田潤,安藤雄一,柳澤智仁:ライフステージによる日本人 の口腔の健康格差の実態:歯科疾患実態調査と国民生活基礎調 査から.口腔衛生学会雑誌 66:458‒464,2016. 9 )近藤尚己,高木大資,西岡大輔,森田直美:「付き添い」の ちから 生活困窮者の医療サービス利用の実態および受診同行 支援の効果に関する調査研究.平成30年度厚生労働省社会福祉 推進事業「社会的弱者への付き添い支援等社会的処方の効果の 検証および生活困窮家庭の子どもへの支援に関する調査研究事 業」報告書. In. Edited by 近藤克則; 2019. 10 )Matsuyama Y, Aida J, Taura K, Kimoto K, Ando Y, Aoyama H, Morita M, Ito K, Koyama S, Hase A, Tsuboya T, Osaka K: School-Based Fluoride Mouth-Rinse Program Dissemination Associated With Decreasing Dental Caries Inequalities Between Japanese Prefectures: An Ecological Study. J Epidemiol 26:563-571,2016.