藝術文化雑誌「紫明」表紙 展
このウェブサイトは、メディアアートの先駆者・山口勝弘(1928-2018)の最晩年の表現活動に関する調査研究の一つの成果として公開するものです。
山口 勝弘 Yamaguchi Katsuhiro
1928年、東京生まれ。1950年代初頭から前衛芸術家集団「実験工房」のメンバーとして活動。同時期に制作した半立体的な絵画作品『ヴィトリーヌ』シリーズや、60年代に発表した立体造形作品で世界的に高い評価を受ける。70年代以降はビデオメディアによる作品制作に取り組み、メディアアートの先駆者として精力的な活動を展開。晩年は病気の後遺症と戦いながら柔軟に作風を変化させ、自らの新境地を切り拓いた。2018年5月、敗血症のため死去。
ごあいさつ
◇これまでの経緯
山口は戦後間もない頃から前衛芸術の実践者として精力的に活動し、長年にわたり当該分野において多大な功績を残しました。2001年に突然の病に倒れて半身不随の身となり不自由な生活を余儀なくされますが、困難な状況の中でも常に旺盛な創作意欲を持ち続け、アグレッシブに自らの新境地を切り拓いてゆきます。かつて神戸芸術工科大学大学院で山口に師事した本研究チームのメンバー(八尾里絵子:甲南女子大、北市記子:大阪経済大、門屋博:相模女子大)は、2010年頃から身体の不自由な山口に代わって作品制作のサポートを行うようになり、またその過程で見聞きした様々な事柄を調査・分析しながら独自の研究を進めてきました。そして2018年5月に山口が亡くなった後は、ご遺族の意向を受けるかたちで、山口が最期に過ごしていた自室の遺品整理とその調査を行うこととなりました。
◇「紫明」のアートワーク
遺品の調査を進める中で、私たちが特に注目したのが、藝術文化雑誌「紫明」のアートワークです。1997年に創刊された「紫明」の表紙のメインビジュアルには、手描きのドローイングを中心とした山口作品が毎號掲載されています。9號までは病前の作品で、11號以降は病後の作品となりますが、そこに否応無くもたらされる表現面の変化もまた、山口の最晩年の進化の足跡だと捉えられるでしょう。
◇展覧会について
残念ながら、私たちは生前の山口から直接「紫明」の仕事について聞く機会はありませんでした。また私たちだけなく、社会的にも未だ広く認知されているとは言い難いでしょう。そこで芸術家としての強固な意志に裏打ちされ、また独特の夢想的な表現に満ちあふれた山口の最晩年の作品をより多くの人々に知ってもらいたいと考え、ウェブ上での開催となる展覧会『藝術文化雑誌「紫明」表紙展』を企画しました。かつて山口はイマジナリウムという独自の概念を発表し、情報化された作品がメディアによって増幅・改変され拡張してゆくことを理想に掲げていました。ウェブというメディアの持つ軽やかさと柔軟性、そして拡張性は、山口作品を紹介する手段として最も相応しいと考えます。
◇表記について
「紫明」に掲載されている山口自筆のコメント原文の多くには、「複合媒体芸術家 山口勝弘」という署名が添えられています。山口はこれまでも美術家、造形作家、環境芸術家、ビデオ作家、メディアアーティストなど、自身をさまざまにカテゴライズしてきましたが、「紫明」の仕事では、あえて「複合媒体芸術家」という聞き慣れない言葉を選んで使用しています。そこには、古典と現代が融合した「紫明」のコンセプトを強く意識した彼なりのこだわりが感じられます。ただし本展では、表記を統一するため当該部分の記述は割愛しています。
「紫明」とは
藝術文化雜誌「紫明」は、1997年に兵庫県多紀郡篠山町(現・篠山市)の篠山能楽資料館から発行されました。篠山は平安時代から現代に渡って陶芸の地であり、江戸時代以降、能楽に親しんできた地であり、今も城下町の趣の残る美しい都市です。その豊かな文化土壌のなかで、「古典と現代の芸術文化を結ぶ線上において日本人の心のあり方を問いたい」(*1) という想いから、「紫明」は始まります。
最初の特集テーマは「能」。その後、「陶」「書」「染・織」と、毎度「紫明」の真髄ともいえるテーマを設定し、それに応じて各専門家へ寄稿を依頼、15〜20編の原稿を編集してゆきます。対象分野は伝統芸能だけでなく、現代美術、音楽、詩、人物像、地元の文化から世界の文化へ、多岐に渡っています。
「紫明」の創刊時の事を過去の編集後記からご紹介します。
「そこにあるだけで輝いている雑誌を」という情熱的な一言を中西通が発し、その言葉に触発された関係者が、地元をはじめ近隣から篠山に結集し、「地方からの文化発信」を力強く進めてゆくことになったのです。「紫明」第1回編集会議の様子について、後に編集長を勤めた小山泰三は、当時の様子を次のように振り返っています。集合場所は、能楽資料館の2階事務室、「編集室は暗かったけれど、集まった発行人・編集一同の顔は明るかった」(*2) これは、そこに集まった人々の熱意と高揚感がとてもよく伝わる一文です。また当時の写真からは、表紙題字の西山松之助、表紙デザインの山口勝弘、執筆者の山崎正和、ドナルド・キーン、田邊三郎助、馬場あき子、田中日佐夫、田辺徹、河合雅雄ほか各氏の姿がみられるとも述べています。
その小山が時折述べていたのが、山口勝弘と「実験工房」についてでした。実験工房とは、詩人の瀧口修造の下に集まった若手芸術家による総合芸術グループで、関西の具体美術協会より少し早く結成し、主に関東で戦後日本の前衛芸術を牽引しました。その実験工房のメンバーであった山口を滝口の精神を受け継ぐ種子ととらえ、小山は『「篠山」に一粒が落ちました』と記しています。同い年という山口との温かな関係性が、伝わってきます。
(*1)「紫明」創刊號、小山泰三氏の記述を転載。述べたのは、当時丹波古陶館・能楽資料館 館長の中西通氏。
(*2) 第30號の編集後記より。
作品鑑賞のご案内
展覧会場には各號の表紙のヴィジュアルが並んでいます。ぜひ気になった作品をクリックして、山口の表現世界を覗いてみてください。各ページには、山口自身のコメントに加えて私たち独自の分析(解説)を掲載していますが、必ずしもそれらに捉われる必要はありません。自由な解釈で、みなさん自身のイメージを膨らませていって頂ければ幸いです。