第9章 日本語がおかしい(単語編)
女は悪いが男性は悪くない?
結婚詐欺というと、昔は男のほうが女をだますのが普通だったような気がする。近頃は逆になったのか、数名の男から金を騙し取って起訴中だとか、騙した上に殺したらしいとか、ある女性が犯人の結婚詐欺報道で賑わっている。
いま、「女性が犯人」と書いたが、新聞記事は「女性」とは書かないで、どこの新聞でも「女」と書いてある。
YOMIURI ON LINEには「東京都豊島区の無職女(34)(詐欺罪で起訴)の知人男性らが相次いで不審死した事件・・」とか、「女を診察」とか、「女がヘルパーと称して・・」とか書いてあるし、asahi.comには「知人男性不審死の女」とか、「女が約20人の男性と接触・・・」とか、「同県警がこれらの男性から事情を聴いたところ、女とホテルの室内で・・」とか書いている。
ここで変なのは、女はすべて女であって女性ではなく、男はすべて男性となっていて男ではないことである。
どうも新聞用語では、女は悪いやつというか少なくとも怪しいやつであり、男性は良いやつというか少なくとも悪いやつではない、ということのようである。
男と女性となると、この逆になるのだろうなあ。
◆
男とか女の下に性がつくかつかないかで、悪いやつと悪くないやつを区別するなんて、いつから日本語はこうなったのだろうか?
容疑者というには早いけどどうも怪しいやつだ、でも、報道としては呼び捨てにもできず、何とか容疑者と書くこともできない、そこで苦し紛れにこういう言い方を考え出したのだろう。
でも、それでよいのか。普通名詞を固有名詞のように使うのは間違っているぞ。実際に長い記事で、女が女がと何回も悪事の話が出てくると、世の女は全部悪いやつのように読めてくるのである。
今に日常会話に困ることになるぞ。
「あなたは女らしい方ですね」
などと言ったら、
「ふん、どうせわたしは悪い女ですわよ」
ってひねくれられることになる。
「この仕事はやっぱり女でなくっちゃ」
なんて言ったら、
「え、何が悪いのよっ」
なんてすごまれることになる、なんてことがこれから起きたらどうしてくれる?
新聞屋は責任とってくれるのか、。新聞屋は概して、和語は低級であり、中級は漢語、上級は西洋外来語という言葉遣いランキングで書き分けているらしいと、わたしは感じている。要するに古い古い舶来信仰である。
女子、女性、女流と偉くなる?
女のテニス選手やゴルファーの誰やらが引退したとか優勝したとかのニュースがある。
それが誰でも一向に興味はないのだが、気になるのは、どうして女のスポーツプレイヤーは「女子」なんだろうか。なぜ、女流とか女性とか言わないのか。
女の小説家を女流作家というが、女子作家とは言わない。ついでに、作家というと小説家を意味するのも不思議である。美術作家も建築作家もいるのに。
女の歌人や俳人は女流かな、能役者も女流能楽師か、古典的な代物は女流というのかもなあ、いや、娘浄瑠璃とか女義太夫と言うなあ、わからん、漫画家やイラストレーターはどうなんだろうか。
女流建築家ということもあるような気がするが、女性建築家というほうが普通かもしれない。UIFAという国際組織があるが、この日本支部は、国際女性建築家会議という。
女子アナと、電車の吊り下げ週刊誌広告に書いてあるのは何のことかと思ったら、女のアナウンサーのことらしい。なんで女性アナ、女流アナでないのか。
囲碁将棋では、女子棋士ではなくて女流棋士とか言ったような。スポーツは女子でゲームは女流かしら。
女子社員なんていうが、女流社員とは言わないなあ。帰国子女って、あれはなんだろうね。
なんとなく女子→女性→女流の順で、格が上になっていくような感がある。
新聞では、女とあれば悪いやつで、悪くないのは女性と書くのも不思議である。
ところで、男子、男性とは言うが、男流とは言わないのはどうしてだろうか。男流作家とか男流棋士とか言ってもよさそうなのに。
芸人的世界では男は当たり前なので、わざわざ言う必要がないということかしら、でもそうかなあ、今や小説書きは女の方が多いかも、。
多いほうに短称優先権があるなら、そのうちに作家とは女のことで、男は男流作家というようになるかもしれない。
俳優のみが男優と女優と両方を区別するのは、映画や演劇では男女同じ数だけ俳優は必要だからか。それなら、なおさら分けて言う必要もなさそうだが。
そういえば、病院ではちょっとまえまでは看護婦がいた。それがいまは看護師に統一されたということは、そのまえは男子看護婦とか看護夫と言っていたのだろうか。
政党の名前?
「みんなの党」だってさ、新政党の名前である。
おかげで選挙になっても、「みんな投票に行こう」なんて投票宣伝文句は書けなくなった。
思い出せば、むかしは選挙のたびに「公明選挙をしよう」といっていたものだ。公明党のことじゃないよ、公明党ができるまでのことだ。それがあの党ができてふっつりと消えた。投票キャッチコピーを乗っ取られたのだ。
いまじゃあ「民主的な選挙を」てのも無理ですな。
政党はどんな名前をつけてもかまわないのだろうか。選挙広報や新聞に書かれるので、宣伝になるとて、変な名前の政党が時々出現するようだ。
どうだい、「選挙党」とか「投票党」ってのは、、。選挙に行きましょうとか投票しましょうとか、言えなくなっちまうぞ。
そういえば、民主、自由、社会を、その一語や適当に複合語にすれば政党名になった時代は終わったのかしら。
なんて言ってたら、今度は「たちあがれ日本党」だそうだ。タチアガラナイ老政治家たちが集まって日本を憂えてかく命名したのだろう。
名付け親といわれるあの太陽族の障子破りシンタローサンでも、もうタチアガラナイのだろうか、。
レルラ問題
不景気で物が安くなるかと思ったら、逆のインフレーションの気もあるとかで、そこにメキシコから強力な新型インフルエンザがやってきて、経済体制も医療体制もインフラストラクチャーが弱い日本は、もろにインフレ・インフル・インフラ問題に悩んでいる時代である。
これって、レルラ問題ってなことかしら。
で、残りのインフリとかインフロって、ないの?
そもそも外国語をカタカナ表記して、こんどはそれを頭のほうの4文字だけで略語にするってのは、日本独特の文化なのだろうか。
アングラ、アメフト、エンタメ、キャバクラ、ゲーセン、コンビに、セクハラ、デジカメ、ナンクロ、パソコン、パリコレ、パンスト、ハンスト、マスプロ、メルマガ、リモコン、ワープロなどなど、よく考えるとわけの分からない略語である。
どうもIT系の用語が多いのは、若者言葉としての隠語的ニュアンスといい加減さが基本にあるらしい。
ブログってのはWEB LOGの略BLOGだそうだが、「蜘蛛の巣の記録」ってどういうこと?
命より大切な環境?
いつだったか、NHK教育テレビが1日に9時間だけ放送で、あとは休止したことがある。
その休止のわけは、機械の故障ではなく、環境に配慮してのことだというのであった。この放送休止で炭酸ガス排出量が、いつもの日より19.5トン少ないのだそうである。
それが人間の生存環境にどれほどのことを及ぼす量なのか見当つかないが、エライような、でもよく分からないのが正直なところ。
でもなあ、わたしはテレビ嫌いでほとんど見ないが、教育テレビはたまに見るので(といってもコマーシャルが入らない理由で映画だけだが)、ここが休むのではなくて、外のテレビ局の、同じようなつまらぬ内容の同じようなやつが出てくる、しょうもない番組(ばかりらしい)が休んでほしい。
それにしても、そういう理由の休み方があるのか、これは使えそうだ。
こんどから新聞社もまけずに、休刊日も環境保全のためだ、というだろうなあ。
会社の廃業も、経営難だから倒産とはカッコウ悪いが、わが社が廃業すると地球環境のためこれでCO2が100トン排出減少しますって、これならいけるぞ、。
そうだ、小学生は、ぼくは今日はCO2排出を1トン減少のために学校を休むよ、って言えば、もう立派な環境配慮型ズル休み理由だぞ。
いま問題のトヨタやGMの自動車産業の減産も、これでCO2がどれだけ減るかと誰か計算しているだろうか、これは実にもう大変な量であり、地球環境保持に大大貢献しているにちがいない。
いや貢献はおかしい、自動車が環境破壊の元凶だから、罪滅ぼししているというべきだ。もしかしてバチがあたっているのかも、、。なんにしてもこの大不況でどれほどのCO2発生抑制になるのか、発想を変えるとこれは人間生存環境回復のチャンスである。
そうか、これは年寄りにも使えるな。
このごろ過激な運動はできないし、暴飲暴食はできないし、遠くに出かけるのも億劫だし、家で静かに本でも読んでいるとなると、これは立派なCO2発生削減への貢献でなくてなんであろうか。
赤瀬川原平流に言えば老人力ならぬ「環境力」、縮めて環力、つまり貫禄ならぬカンリョクがついて来た。
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ところで、環境とはなんだろうか。
言語的意味としては、ある何かがあって、それに影響する周辺状況のすべてを総称した表現だろう。だから、ある何かは環境ではなく、また、これだけでは環境が良いも悪いも評価を意味しないはずである。
だが、今から40年前くらいだったろうか、環境衛生という言葉は、糞尿の汲み取りのことを意味した。「環境衛生センター」とは、糞尿処理場のことであった。
環境整備とは、下水道工事のことだった。環境という言葉は、糞尿と結びついたイメージだった。
時代は変わり、下水処理システムも一通り普及した今、環境なる言葉の意味も変わってきた。
水や大気の汚染あるいは交通事故等が高度成長以後の問題となり、それが環境の意味の背景となってきたようだ。
そして地球全体が汚染しつつあるという状況認識が始まった1980年代から、環境は人間生命を保持する生態システムを意味するようになり、地球環境というようになった。
言語的には地球環境といえば、地球を取り巻く宇宙の諸状況であって、つまり地球そのものを含まないような気がするのだ。
ところがいまは、地球そのものを言うようで、言葉としては違うと思うのだが、そこは大目に見ましょう。
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西欧的な自然と人間の対峙する関係を、人間と地球あるいは環境に置き換えて、「地球に優しい」とか、「環境にやさしい」とか、人間優位の思い上がりの言い方も流行ってきた。
地球から見れば人間は居ても居なくてもよい代物だろう。
人間が地球に繁殖しすぎた今、地球がその生物量の調整行為を行っているのだろう、
そもそも人間が地球上で生きているから、人間の生きる環境が汚れるのである。汚れた環境が人間を死に追いやる。つまり、生という行為は、死という行為の創造過程なのである。人間が地球に繁殖しすぎた今、地球がその生物量の調整行為を行っているのだろう。
われにもなく、話が深刻になった。
最近は健康ブームらしい。 曰く「命より大切な健康」
ならば、「命より大切な環境」
堕ち行く言葉
人を「おまえ」と呼ぶとなると、ごくごく親しいか、それとも見下すかした場合になってしまった。かつては「お前様」は目上の人に言う言葉だったが、同僚に言うようになり、いまや目下とて、言葉はどんどん堕落する。
「女中」もそうだ。「お女中」なんて、時代劇では敬称である。
「お手伝いさん」もそろそろダメで、「ヘルパーさん」かしら、女中よりも軽薄なように聞こえるが、、。
かつては文字通り高等だった「高等学校」が普通一般になり、大学も学士様が普通になって、いまやお前か女中なみである。修士か博士でないと一人前でなくなっているらしい。
だからだろうか、最近の学識の人としてマスコミ登場する大学人は、たいてい「○○大学大学院教授」である。ただの大学教授では価値が下がったらしい。
大学の上に大学院をつくるのが普通になるところまできたから、次は「特学院」、そのつぎは「超学院」そして「極学院」「激学院」になるに違いない。
それにしても人間は一人前になるまでに、ずいぶん時間と手間とお金のかかる動物である。
牛馬でさえ1年もしないうちに育ってしまうのに、人間は「○○大学大学院特学院超学院極学院」をようやく出る頃は、もう後期高齢者になっているだろう、いやはや、、 。
あ、そのころは後期高齢者は女中なみに消え去っていて、末期とか終期とか、いや、これはまずいな、そうだ、特期、超期あるいは極期極齢者とかって言ってるかもね、すさまじいよなあ、、。
障がいは害が無いの?
視覚障害者とは、眼が見えない盲人のことである。
視覚障害に関連する研究をしている友人によると、この盲人という言葉は、今は差別用語として糾弾する人がいるので、避けるべきだそうである。
当事者からそういわれれば仕方ないが、釈然としない感がわたしにはある。
盲人のことは、「眼の見えない視覚障害者」と、いちいち言わなければならないのか。
わたしは乱視で近視で遠視だから、言葉としては当然に視覚に障害ある者として、「眼が見えにくい視覚障害者」と言うのかしら。
しかしながら、盲人よりもむしろ障害という言葉に、どうもわたしは引っかかるのだ。
障害者と障害物では同じ障害といっても、前者は障害を受けている者、後者は障害を与えている物で、反対になる。
言葉として、視覚も障害も者も物も、ひとつひとつの意味は知っていても、組み合わせると妙なことになる。
日本語として発明したこの二つの漢語は、受動も能動も同一にしてしまっている。だから、その意味をあらかじめ知っているものだけに障害の意味を区別して理解できる。
多分、日本語の勉強をしている外国人が、この言葉に初めて出会うと変に思うだろう。
しかし、事前に意味を知っている者だけに分かる言葉というのは、一種のトートロジーであって、そのこと自体が言語として矛盾している。
◆
最近、気がついたのだが、新聞には「障がい者」と書いている例が出てきた。これは害の字がどうも感じが悪いとて、書き換えしているのだろうか。
そこでWEBサイトを探したら、おお、全国で「障がい」記述が流行しているのだった。特に自治体で多い。
では、なぜ「障」の字はそのままで感じ悪くないのか、そこが分からない。
「漢字源」なる辞書には次のようにある。
【障】《意味》{動}さわる(サハル)。さえぎる(サヘギル)。正面からあたってさえぎる。まともに進行を止めてじゃまをする。さしつかえる。
{動・名}ふせぐ。まともにせき止める。また、進行を止めるつつみやとりで。
{名}さわり(サハリ)。進行を止める壁や、ついたて。外から見えないようにするおおいやついたて。
{名}さわり(サハリ)。じゃまするもの。
〔国〕さわり(サハリ)。(イ)行動をさまたげる事情。じゃま物。(ロ)月経。
視覚障害者のためのコンピューター読み上げソフトは、当然のことながら「害」も「がい」もまったく同じである。
眼に見えるものだけを相手にして書き換えても、肝心の当時者には意味がないのである。それでよいのかしら。
英語はどうなのかと英語の辞書を引いてみた(Eijiro81)。
handicapped 【名】《the ~》精神障害児、身体障害者◆「handicapped は差別語だ」という人もあるので注意
【形-1】(身体に)障害のある、ハンディのある◆handicapped を差別語とみなす人もいるので使わない方が無難。
こうやって言葉狩りをどんどんやって、それに替わる言葉を発明し、それがまた狩られる言葉になって、と、つぎつぎに変わていくのが言葉の宿命なのか。
古典芸能や古典文学の保存はどうすればよいのかしら。
言葉がのっとられた
近頃は、ズボンのことをパンツというようになりつつあり、パンツは今はブリーフとかトランクスとか言うらしい(昔は猿股だった)。
ブリーフというと布キレみたいな感じでどーも落ち着かない。ズボンをパンツというと下着のままで歩くようでこれまた不安である。
ついでに、越中ふんどしを今はクラシックパンツと名づけて売っているとか。あれ、どうしてパンツなんだろう、あれで歩いていても良いのかしら?
◆
楽天的な人だねえ君は、っていわれたら、どうおもいます?
お気楽な人ねっていわれたのか、商売で敵対的なヤツっていわれたのか、なんだか考え込んでしまう時代が来ているようだ。
あ、あの楽天の社長さんてもしかしたら、株なんて何とかなるさー、野球業も放送業もなんとかなるさーって、実は本当にしんそこ楽天的なお人なのかも、。
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認知症ってなんだか落ち着きが悪い言葉である。
ボケを差別用語とどなたかが認知したらしく、人が周りを認知できなくなるほどにボケたと認知したら、そのひとは認知症になったと認知しようと、どこかその筋で認知したらしいのですが、認知症なる言葉を世間が認知するには、まだ時間がかかりそうで、まだ、のっとられていないように認知しています、ヤヤコシイ。
婚外子を認知したら、認知症なのか。