鎌倉A級観光ガイド:若宮大路の初夏

鎌倉警察署。

古都らしくというのだろうか、蔵作り、むしこ窓風を模しているのがちょっと奇妙である。

ここは正面から1階分の階段を登らないと入れないので、敷居が高い。いざというとき駆け込みしづらいかも、。 (追記2018603 消えてしまった。跡に何ができるのか)

では、街並みを見て歩きます。

若宮大路には、いかにも古くからの農業や漁業の街であった鎌倉らしい通称「農連市場」がある。

「古都と高級住宅地で知られる鎌倉に農業のイメージはあまり重なりませんが、、」と、遠慮がちに書いてあるが、いえいえ、農地はしっかりとあるし、海では魚は取れるし、農林水産に恵まれているのが鎌倉である。

仮設の木造上屋のなかで、地べたの上に路地ものの生鮮野菜が並ぶ。出店する各農家の自慢の作らしい四季の彩が、見ているだけでも楽しい。

入り口横に由緒書きがある。もう80年を越える歴史があるのだ。




ではこのあたりの昔の若宮大路の風景をどうぞ。
豪快な松並木である。さらに昔は、この辺りにも段葛があったのだ。軸線は強調されていた。

路上にある電車は、江ノ電である。昔は若宮大路のおんめ様の前あたり終点であった。

右にあるラーメン屋の赤い看板が気になる。

街路樹の松並木も、どこかお庭風であるが、昔々は松並木が天を覆っていた。

ガード下から覗くと、こんな景色。 ガード鉄橋の下に二の鳥居が顔を出しているが、半分目隠しされてるみたいである。

大路を横切る白っぽい鉄道橋のすぐ上に赤い二の鳥居、その上に八幡宮の随神門が見える。

それにしても、いろいろな目障りなものがある。そこでちょっといたずらをしてみました。●こちらをご覧下さい→景観戯造・鎌倉・若宮大路

では若宮大路を行きましょう。下馬四つ角からの眺めです。

若宮大路の中ほどに白い横線が見えるのが鉄道高架橋である。

手前の交差点で東西へ大路を横切る道があるが、大昔は東海道であった。古東海道という。もちろん大路のほうが後からできたものである。西から、つまり左から右へと下ることになる。どんどん下っていくと東京湾に出る。そこから舟に乗って房総半島に渡り、北に行くのが街道だったそうである。

だから今から見ると上総、下総の上下の順序が逆のようだが、都には房総半島のほうが近かったので、上総なのだ。

この交差点のバスが見えるあたりに、これも大昔のことだが八幡宮の鳥居が路をまたいで建っていた。地中からその跡が出てきたそうで、鳥居の足元を歩道に丸く印してある。

若宮大路の松並木は、なんだかお庭みたいに剪定してあるが、これも戦前くらいのちょっと昔までは、松並木で大路が覆われていたほどだった(あとで写真をお見せします)。

もうちょっと望遠にして、八幡宮が見えるかどうか、。

この画像の真ん中を縦に貫くのが若宮大路、左上から右下に斜めに横切るのがJR横須賀線、突き当りが鶴岡八幡宮。

手前下に大路にかかる歩道橋が見えるが、今日はここから北に(上に)向って歩く。

若宮大路はもっと南のほうに同じくらいの距離が続いている。全部で1800メートルくらいの長さである。

この間に大路をまたぐ物は、電線のほかに八幡宮の鳥居が2つ、歩道橋がひとつ、鉄道高架橋がひとつある。歩道橋と鉄道橋は、視覚的にはどうも邪魔である。

この画像ではよく分からないが、市街地の3方は丘陵で囲まれていて、街の中にいてもその範囲が明確に目で見えるところが、盆地育ちのわたしは好きである。

さて、では歩道橋の上から若宮大路を北に見通す。

本当は鎌倉B観光ガイドとしたいのだが、いかんせんこれは若宮大路という鎌倉では第1級の場所の風景であるから、A級とせざるを得ない。そのうちに路地の飲み屋や谷戸の廃屋など案内の「鎌倉B級観光ガイド」を書きたい。

京のミカドの都に倣ってつくった四神相応のサムライの都である鎌倉は、京の都の朱雀大路に相当する都市軸は若宮大路である。

京都の朱雀大路では、朱雀門も内裏も早いうちに廃れてしまったが、鎌倉の若宮大路は、鳥居も八幡宮もいまでも都市軸として健在である。狭い鎌倉の街の中で、その広幅員は異彩を放っている。

若宮大路はいまでは市民や観光客の交流の場となっているが、これは頼朝の都市計画の延長上としてかなえてもよさそうである。

しかしその一方では、頼朝が予想しなかった近代技術による交通施設(自動車、鉄道、交通標識、歩道橋)やエネルギーや情報施設(電力線、電話線、電柱)が入り込んできて、なんとも騒々しいことになっている。

鎌倉の若宮大路は、歴史的都市軸としてあまりにも明快に中心市街地を貫く。

北の端に八幡宮の核を据え、南に相模湾の水面を望む。

八幡宮の裏には大臣山、市街地の東に滑川、西には街の南北を結ぶ道があるから、つまりこれらは四神相応となるのだ。

今日は初夏の鎌倉にでかけ、久しぶりに若宮大路を観察する。

『吾妻鏡に寿永元年(1182年)5月15日の記事がある。この日は鎌倉の都市計画にとつて記念すべき日であつた。

源頼朝はこの日、自ら指揮して若宮大路の築造をはじめたのであつた。北条時政らの諸将が土石を運ぶという大仕掛の儀式に加えて、妻政子が懐妊したのでその安産を祈願して段葛を八幡宮に寄進する、という名目をもつけたのであつた。

すなわちこれが単に土木事業としての道づくりではなく、政権への道づくりなのであつた。諸将の直接参加は東国武士団の団結を、わが後継(2代将軍頼家)の安産は権力の永続性をそれぞれ表現していた。

狭い鎌倉の地に、この広さ、この長きの超空間を築くことで、頼朝は中世に君臨しようとする意志を空間化してみせたのであつた。八幡宮社頭から段葛が浜辺の先までパースペクテイィブをもつて駆けて相模の海に消えたむこうに、頼朝の眼にうつっていたのは京のの朱雀大路であつたにちがいない。

であればこそ、ハレの空間として日常を超えたスケールでなければならないのだつた。

さて、そのような抽象論はさておいても、頼朝後の繁栄・過密の鎌倉で、この広大な空間は、都市のオープンスペースとしての役割をはたすことになる。

そこが都市防災の機能をもつたことは、たびたびの火災がこの大路を境にして焼け止まつている記事を、「吾妻鏡」や「北条九代記」にみることができる。

あるいは湿地であつたことからみて、洪水時にはま大路が遊水池の役割をはたしただろう。

更には軍事拠点としての都市防衛線であったことも、たぴたび戦場となったことからうかがえる。

そして当然のことながら、過密を緩和して憩の場にもなつたろうし、儀式や集り、芸能の場に使われたであろう。

中世鎌倉の過密を救つたのは、頼朝の意志の空間として築かれた若宮大路であつた』

まちづくりは守りから攻めへ 1984 伊達美徳

まずは、若宮大路を南から眺めてみよう。こういうときgoogle earthは便利である。

二の鳥居。ここから段葛(だんかずら)が始まる。頼朝がその長子の安産を祈願して造ったといわれる。段葛は道路ではなくて、実はもうそこから八幡宮の土地、つまり神社境内だから、ここに鳥居という結界を結ぶ。

やはり大路の西側にある三河屋。

これは実に立派な典型的なる町屋建築である。堂々たる梁が店の入り口の上をど~んと長い梁間を飛んで掛かっている。若宮大路でもっとも歴史的な建築であると思う。

若宮大路に近世の歴史的街並みは今は全くないが、20世紀はじめ頃の写真を見ると、このあたりは茅葺屋根の旅館や店が立ち並んでいたようである。

これは現代風のデザインで、設計者は竹中工務店。

鎌倉大路のあたりには、ほかにも2つキリスト教会が建っている。人によっては若宮大路とキリスト教会の取り合わせに妙な感じがするというが、そこが日本の門前町の猥雑なところでもある。

大路の西側にある山中材木店。土産物屋ばかりの中では異彩を放っている。でも、どこか昔からの町らしさを感じる。大路沿いには下馬四つ角のそばにも材木屋がある。

この建物はいつごろ建ったのだろうか。戦前だろうが、典型的なモダンデザインである。誰の設計であるか聞いたことがあるが、蔵田周忠だったか、忘れた。鎌倉のモダンデザイン建築のひとつである。

(追記2018/06/03 1934年竣功、設計は山脇厳、不動産屋にわたって近いうちに共同住宅ビルに建て替えらしい)

その北あたりにある「カトリック雪ノ下教会」は、もう30年くらい前だろうかに建て替えられたものである。

このデザインを景観としてどう見るかは人によっていろいろだろうが、建築家はお嫌いらしい。わたしは神社の参道なんてものはどこでも猥雑なものだから、こういうのもありだと思っている。それにしても、どこからこういう発想が出るのだろうか、あれこれつぎはぎ取り合わせに感心するばかりである。

こんなモダンデザインもある。「犬猫の峰病院」である。

段葛は昔はもっと海のほうまで、少なくとも下馬四つ角まではあったらしい。そのような昔の絵がある。だからわたしは若宮大路に段葛を復原することを提案したい。ずいぶん前だが、そんなことを論文に書いて、地元まちづくり団体の懸賞論文募集に出して、優秀賞をもらったことがある。

段葛が始まる一の鳥居の横にある鰻屋。30年くらい前だったか、こんなビルに建替えた。

今は初夏だが、春の花の季節は段葛はこんな風景である。

さてその北あたりには、こんな西洋風建築。

三井住友銀行の看板が掛かっているが、数年前まではラルフローレンなる洋服屋であった。その洋服屋が20年くらい前だったろうか建てたのだが、撤退してそのあとに銀行が入った。

なんとなくアチラ風のデザインで、もしかしたらラルフローレンのブランドを表すデザインなのだろうか。

まあ、門前町には何でもありだ。

いわゆる看板建築である。木造のくせにお面だけなんとなく洋風につくるのだ。

こんな看板建築が大路沿いにはたくさんあったが、だんだんと消えていく。

どこか別荘風。こんな和風建築もたくさんあったが消えていく。

八幡宮の三の鳥居。空間の結界性を見事に表現する。

石の太鼓橋。20年位前には渡ることができたが、今は禁止。これも身体動作で結界を意識する装置である。

鎮守の森は昼なお暗く常緑樹が生茂っているものだと思い込んでいると、実は違うのである。

これは19世紀末の鶴岡八幡宮の風景。

裏山はスカスカの松林で、地面の稜線が見えている。鎌倉の周りの山もみんな同じような松林だった。それはその頃は山林から煮炊きや暖をとるために山から薪をとり、田畑の肥料になる落ち葉をかきとっていたから、山はどこも痩せていたのだ。ほんの40年ほど前までそうだったが、エネルギー革命と化学肥料の普及は、山を豊かにしたのである。

右の結界の中が大銀杏が建っていたところで、残った根っこから芽吹きが見える。左は、幹の根元部分を伐って掘っ立てしたもので、これも芽吹きが出ている。銀杏は移植しやすく、育ちやすい樹種である。

八幡宮の裏山を見ると、常緑広葉樹(シイ、クス、タブなど)が生い繁って、日本の典型的な鎮守の森。

どうです、随神門は半分しか見えません。

よく見ると手前の拝殿(舞殿か)も違いますね。今年(2010年)に大修理されて、手前にもうひとつ唐破風の向拜が付加されている。

また100年もすれば2代目(3代目かも)の大銀杏が聳えるだろう。

ということで、もしも大銀杏が倒れていなかったら、、

景観偽造・鎌倉・鶴岡八幡宮

いまの銀杏の有様はこんな風に。

だから、昨年までは随神門がこんなに丸見え風景ではなかったのだ。

では、大銀杏があった風景をお見せしましょう。2004年の同じ5月の風景。

八幡宮の拝殿と随身門。今年の春のこと、大風が吹いて随神門の前にある大石段脇に立っていた大銀杏が根元からボッキリ。

源実朝暗殺の現場で暗殺者がこれに身を隠して待っていたという、重要な役割を果たした伝説の銀杏だから、だれもがびっくり仰天。

樹齢は800年ないし100年だという話があるが、800年なら伝説は嘘、1000年なら本当かも。

さて、ようやくにして八幡宮の本宮。

この極彩色は伝統的な日本の神社仏閣建築である。白木が茶色に枯れた建築が日本建築だと思っていると大間違い。信仰の建築は極彩色で宗教的ありがたみがますものであったらしい。キンキラキンの仏壇がその良い例である。鶴岡八幡宮は八幡宮寺なる神仏混交だったから、なおさらに極彩色であったのかもしれない。

ついでだから、ご本家の京都の仏閣を見よう。清水寺の山門である。鶴岡八幡宮の随神門にあたる。

清水は山門ばかりか、ほとんどが極彩色である。

では八幡宮随神門の前から振り返って、若宮大路を見通す。

随神門を通して下界を見る神の視線。

参照→鎌倉都市論 (20100526 伊達美徳制作)

これが源頼朝都市計画である。その中世の四神相応の秩序を大きく破ったのは、近代の鉄道であったことがよく分かる。

なお、中世の海はもっと海岸線が北に(こちらがわに)寄っていた。