横浜都心の戦後復興期残影と高度成長期残滓

横浜都心を今日も徘徊老人は行く

横浜都心の戦後復興期残影と

高度成長期残滓

伊達美徳

「中村川の上を通るのは景観的には問題だが他の案よりはましだ」 (田村明『田村明の闘い』84ページ)
 わたしの住まいのバルコニーからの風景に中村川の上を通る高速道路が大きく位置を占める。(下図

横浜市の都心部(関外)にある空中陋屋借家(地震を怖いから共同住宅持ち家は嫌い)に引っ越してきてから、もう11年になった。

ここに来る前は鎌倉の谷戸の奥に住んでいた。買い物や街遊びには不便だが、一年中ウグイスやホトトギスが鳴き、深い緑の中は静かだった。それが、このガチャガチャした街の中に移ってきたはじめの2年ほどは、車の騒音に悩まされた。

今はどうにか慣れたその騒音は、バルコニーの向う250mほど離れた中村川の上に架かる高架道路からやってくる。上下2層の高架構造物の上段は左から右へ、下段は右から左へとブンブン走る絶え間ないトッラク群の騒音が聞こえ、その排気ガスも臭うような気がする。

山手の緑の風景を横にぶった切って美くしくないから、田村明が言うように「景観的には問題」だが、そこからの公害発生はとても「ましな」選択ではない。わたし個人としては、「他の案のほうがまし」であった。

 冒頭の一文は、この高速道路の都心部貫通計画で、いろいろな案があった中で中村川の上に通すことにしたのが、他と比べて「ましな案」と言っているのである。

 その本の著者・田村明は、その当時の横浜市の役人として、建設省の役人と争って都市計画決定路線を変更させた人である。田村明時代と言ってもよいほどに、高度成長期になる1970年代からの都市・横浜を造り育てた。田村時代の前は、戦後復興期と言ってよいだろう。

 いま中村川に行ってみると、暗い水面の両岸に鉄の箱柱が立ち並び、上空を鉄の箱梁で覆われて空がない。都市の貴重な水の空間をこうやってつぶすよりも、もう300mほどに南に追いやって、山手の丘陵にもぐりこむトンネルにしてくれれば、川も生きるし、山手景観も保つし、わたしも騒音に悩まされないのにと、後世の住民としてグチが出る。

 狭い都心部では、どこかがマシになれば、どこかがマシでなくなるのはやむを得ないとは知りつつも、そう思う。

まあ、田村に言わせれば、わかっているがここまでが限界だったよ、そういうことかもしれない。

田村の著述を読むと、その一番の仕事自慢話というか苦労話は、この高速道路の都心心臓部のところだけを、高架ではなくて地下に潜らせるように計画変更した事件であるようだ。

潜らせるためには、その先を中村川の上空に持って来るように変更となったというわけである。変更前の案では、今の大通公園の上をとおることになっていたのを、建設省と丁々発止とやって変更させたのであった。

その苦労は、田村が言うように実にたいへんなものであったろう。60年代に革新首長が各地に生まれた中でも、特に先鋭的な飛鳥田市政の横浜市だったが、あの中央集権都市計画時代に、建設省とこれほど真正面からやりあった自治体は、ほかにあるだろうか。

 その飛鳥田・田村コンビによる6大事業のひとつ、「横浜都心部強化事業」の成果を日常の生活圏として、わたしは暮らしているのである。つまり、都心部と言われる関内、関外、みなとみらい21、横浜駅周辺のうち、横浜駅周辺を除くあたりが、わたしのショバである。

横浜都心部強化事業のひとつ関外の「大通り公園」は、わたしの日常の散歩コースである。いかにも景観デザイナー好みのいろいろなしつらえがあって、もちろん楽しいのだが、あまり見え見えデザインがあるところは、かえってうっとうしい。

一昨年に、JR根岸線関内駅近くの公園入口にあって特徴的なデザインだった石の舞台が取り壊されて、芝生広場になってしまった。
この舞台ではホームレスの一団が昼過ぎになるとやってきて、宗教団体の炊き出しを待ちつつ宗教講話をおとなしく聴いていたのを思い出す。石の舞台の下にあった公衆便所が、上下水道と個室完備のホームレスのホームになっていた。あの人たちはどこに移ったのだろうか。


鉄道高架下あたりのあちこちに、青いテントや袋荷物などが置いてあるのを昼間に見ることができるから、それぞれに居場所を見つけているのだろう。 今の大通公園の位置には、昔は水路で水が流れていたが、今は地下鉄電車が流れている。田村が地下に埋めた高速道路も、それに直角T字型にあたる水路(こちら参照)であったが、いまは車が流れている。 今、この昔からの都心部で生きている川は、大岡川だけであるといってよい。この川だけは春には岸に桜が咲き誇り、船が行き交い、水鳥がいる。 でもなあ、中村川ではなくて大岡川の上の高速道路をつくっておいてくれたら、わたしは悩まされなかったのに……いや、大通公園の上でもいいか、勝手な後世住人のグチ。 ◆ このあたりは、江戸時代から次々と内湾の浅瀬を埋め立て運河で水を流しつつ、陸地と街をつくりあげて横浜都心になったが、かつては水の街だったろう。その水路は水運の交通路でもあったろうが、今それが自動車の交通路としてとってかわっている。そのとってかわる時代の水と車の軋轢が、田村が直面した高速道路問題に凝縮されている。

車よ大歓迎時代だったその頃から、今は車よ遠慮せよ時代になり、汚水とゴミの捨て場だった都市河川の水質もよくなった現代では、東京の日本橋では高架道路を取り払う話が公然と出てきているのに、横浜の中村川ではまだそのような噂も聞かない。まあ、わたしが生きている間には無理だな。

「伊勢佐木モール」も、わたしの日常の散歩道である。

昔々、ボロボロになったアーケードがかかっていた時代を知っている。今はアーケードもなくなり、常緑樹の並木が気持ちよいのだが、ここも都市デザインなるもので飾っているのが、毎日の散歩で見ていると、ちょっとうるさい。

まあ、日常買い物のケの場としてよりも、時々来るハレの場としての商業の場だから良しとするか。

それにしても近頃の店の変りようは激しくて、ハレの場らしさが消えつつある。野沢屋が馬券売り場になり、松坂屋が安売りチェーン店にな

り、小売店舗も飲食店もどんどんチェーン店の安売り屋になってくる。パチンコ屋ゲーム屋が乱立してきて、真っ赤や奇抜なデザインの建物が増えてきた。

伊勢佐木モールの良い?ところは、すぐ裏に怪しげなゾーンも控えていることだ。福富町は風俗街となり、かつて親不孝通りとよばれた曙町あたりは青線街の名残が今も続く。

伊勢佐木モール内外にはわたしが好きな古書店も何軒かあるのだが、怪しげゾーンにある古書店には、下半身系の本とDVDが多くならんでいて、これが面白いんだなあ。

昔の一流老舗の並ぶ格式高い商店街を知る人たちには嘆きだろうが、わたしのような新参者には、なかなか面白い街になってきたと、無責任なものである。まあ、先も長くないことだし……。

「横浜の都心、関内地区は、ようやく接収は解除されたが、

昭和30年代半ばになっても、一面に草が生い茂るだけで、

草ひばりが鳴く牧場のような風景であった。」

(田村明『都市ヨコハマをつくる』72ページ)

この「関内牧場」と揶揄された広い空地が60年代まで残っていて、そのころ市民が草刈りを市長に陳情したということもあったようだ。

だが実は60年頃までには、主な表通り沿いには復興事業が進んで、3~5階建ての建物群「防火建築帯」が立ちならんでいたし、更に立ち並びつつあったはずである。飛鳥田市政前の平沼亮三と半井清市長の時代である。いわばプレ田村期の横浜である。

わたしは田村著作をたいして読んではいないが、彼は横浜市に入る以前からかかわっていたにしても、戦後の横浜の今の姿はオレがつくったとばかりの論調には、わたしは若干引っかかる。1968年に横浜市に田村が入ってから、空き地ばかりであった横浜都心がようやく復興したかに、知らない人は読むだろう。

特に1950年代に、この横浜都心の大掛かりな復興まちづくりであった、耐火建築促進法による「防火建築帯造成事業」について、田村はどのように考えていたのだろうかと思うのである。それについて田村明アーカイブスになにかあれば知りたい。 ◆

今、伊勢佐木モールを歩けば、その防火建築帯の建築群が今も軒を並べて、にぎわう商店街を形成していることがわかる。

あまりに普通の街並みになりすぎて、その時代の人々が復興に頑張ったことを忘れさせているが、日本に物も金もなかったあの時代の、この街の人々が身銭を切って、空襲と接収で何も無くなったところから、共同事業で都心を再興したのであった。 それは全国各地の都市がいち早く戦後復興に歩み出したなかで、太平洋戦争の空襲による丸焼けと、占領軍による土地建物接収という2重苦で、復興が遅れざるを得なかった横浜都心でありながら、地域企業と市民ががんばった先進的なまちづくりであった。 その防火建築帯は伊勢佐木モールのある関外地区も、海側の馬車道や弁天通りのある関内地区にも数多く立ち並んでいるが、今、それらが次第に建て替えられて消えつつある。 それは時代の流れとして、横浜都心の地域振興としてわたしは肯定するのだが、横浜の都市プランナーであった田村でさえも評価しないまま、ましてや今はその意義を忘れられたまま戦後モニュメントが消えることには、寂しさを感じるのである。 わたしは横浜ではないが、その時代の最後のあたりで大阪市内の防火建築帯にかかわったことがあるので、それなりにセンチメンタルになってしまうのは、やむを得ないなあ。 ◆ 伊勢佐木モールから北に入った福富町には、日本で初めて建築協定を行って、いわば模範的な復興共同事業の防火建築帯をつくり、いまも健在である。

もっとも、建物は健在だが、中身は健全かどうか疑問がないでもない風俗系の店舗だらけであることも、なかなか面白い。

田村の事績のひとつに、歴史的な建造物をまちづくりに生かしたことがあるが、対象が戦前のそれに偏していたようだ。 いまや戦後70年近くなり、戦後復興期も歴史の時代になれば、やがて防火建築帯の建築群もそれに組み込まれるようになり、評価が上がってあらたな保存策がでるだろうか。吉田町あたりの防火建築帯の一部にはその動きもあるようだ。 田村の後継のはずだった北沢猛が、そのことにとりかかろうとしていたようだが、残念なことにあの世に行ってしまった。 ◆

「みなとみらい21地区」も、散歩の遠征コースである。ふらふらと巡れば健康によろしいような気がするが、関内や関外のような淫猥な面白さにまったく欠けているので、飽きてくるのが、なんともはや……。

新港地区では、田村ががんばって赤レンガ倉庫を今のように保存したのだそうだ。よくぞやってくれたと高く評価する。 昔々、あの倉庫は日本製のギャング映画によくできてきて、荒涼たる風景の中で殴り合いやピストルの撃ち合いがあったものだ。妻木頼黄設計とされるが、あのデザインをまさか妻木が直接設計したのではあるまい。部下にやらせたのだろう。 赤レンガ倉庫が建っている島は、なんとなく、昔は赤レンガ倉庫がいっぱい立ち並んでいただろうとおもうが、実は赤レンガ建物はあれの他には港湾管理事務所(これは妻木デザインだったかもしれない)と発電所の2つだけで、そのほかのたくさんの大きな倉庫は鉄骨や木造だった。 それでも新港地区につくる新しい建物は、赤レンガイメージを継承するような都市デザインの方針であるらしい。 ◆

ところが去年ここの運河際の立地に、なんだか西洋様式建築つまみ食いパッチワーク的デザインの結婚式場計画が出てきて、横浜市の都市景観をコントロールする役目の「都市美審議会」で、これはなんとも違うんじゃないのよって、真正面から否決される騒ぎがあった。

わたしに言わせると、その隣に仮使用でもう30年ほども営業する遊園地の観覧車や絶叫マシンと一緒にみれば、ディズニーランドみたいで庶民好みの結婚式場風景である。 式場事業者は赤レンガイメージとは関係のない既存遊園地をいわば人質にとって、一体となる景観デザインを提示したのであろう。前例があるじゃないのよって、ね。なかなかの戦術家であるよなあ。

その決着は、横浜市の都市デザイン室が指導したらしいが、実はどこが変わったのかよくわからないほぼ原案どおりの遊園地デザインで収まり、いま工事中である。田村ならどう言っただろうか。

この結婚式場と水面を隔てた関内側の対岸に、北仲地区再開発という大規模開発が行われようとしている。

このあたりは、港関係の施設があったところで、半分くらいは新しいビル(横浜アイランドタワー、国の合同庁舎、都市機構の賃貸住宅)が建っているが、横浜都心の関内地区で珍しい巨大な空き地である。

アイランドタワーから続くはずだった再開発事業が、バブル景気がパンクして不況が続き、立ち上がろうと思ったところにリーマンショックが来た故の大空地であろう。

今、空き地となっているところは、ひとつは横浜市の所有地で、ここに市役所を移転する案もあるらしいがきまっていない。市民の一人として気になる。

ここに移転したら、今の庁舎ははどうするのだろうか。村野藤吾設計にしてはとても名作とは言えずむしろ凡作だが、専門家筋からあれこれとありそうなのが、歴史的建造物保全に取り組む横浜市としては、悩ましいところだろう。

都市再生機構が持っている空き地は、ここにあった賃貸住宅を建て替えるらしい。すでに半分は建替えているから、同じ調子で進めるのだろう。家もなし不可もなしの姿である。都心に公的賃貸住宅が増えるのは好もしいことである。

うだ。 便利になる一方で、以前は終点が横浜と渋谷にきまっていたので、安心して寝ていられたが、今はうっかりしていると、見知らぬ秩父の山奥あたりまで連れて行かれるらしいから、わたしは怖い。 観光客は山下町とか中華街とかMM21とか山手の公園とかに行くから、関外(JR根岸線から山側をいう)に住むわたしには関係がなくて、ありがたい。 ハレの空間ばかり訪れるのが観光客ならば、ハレ空間には飽きてケの空間を好んでウロウロするのが、わたしのような現地人の徘徊老人である。 ◆

問題は森ビル所有地である。2004年ごろだったか発表したときは、今頃はできていなくても姿を見せていたはずが、リーマンショックで事業延期して、今年からようやく着手するとの新聞報道があった。森ビルが大好きな超高層ビルがドカンドカンと建つらしい。

森ビルが取得した時点で、ここにあった元帝蚕倉庫㈱の本社ビル、倉庫事務所棟、倉庫棟あわせて6棟についてどうするのかと、わたしは興味を持っていた。

結局は倉庫と事務所の2棟だけ残すことにしたらしい。では、どう残すのか、それに興味があったのだが、最近の新聞情報では、壊して撤去のうえ元と同じものをコピー再現することになったらしい。

これには保存原理主義者の建築家の方々は大いに文句のあるところだろうが、わたしはそれでもよいと思う。現物保存するほど学術的、文化的、デザイン的意義があるとは思えない。

でもねえ、どうせコピー再現するなら、もとあった6棟全部と鉄道引込線もやってはいかがですか、森ビルさん。

わたしの興味は、超高層ビルとその超低層倉庫とを、どのようにうまくデザインして組み合わせるのだろうか、というところにある。

ガラスの超高層ビルにレンガ色倉庫をボロ靴みたいに履かせるだろうか、それとも邪魔にならない端っこに建てて客寄せにするだろうか。

元の姿がどこか一部にでもありさえすれば保全のいいわけになる、そんな調子で保存デザインするのは、建築家の怠慢である。新旧しっかりと対峙して、新たな緊張感のある空間を創造してほしいものである。

近頃は横浜都心に観光客が、困るほどに増えている。2004年、みなとみらい21線なる地下鉄道が開通して東横線と直通したときに観光客が増えたが、今年2013年3月には渋谷から東京地下鉄線に直通するようになって、更に観光客が増えているよ

ケの空間とは、例えば昔は赤線地帯だった永楽町・真金町とか、青線地帯だった黄金町(6年ほど前までは真昼間でもモノスゴかった)・日ノ出町・曙町とか、風俗街の福富町とか、いかにも下町らしい横浜橋通りや三吉通りの商店街とか、高架下で薄暗いが橋はどれも格好良い中村川とか、意外にあちこちにある狭い裏路地とか、山手や野毛山の急傾斜住宅地の立体迷路とか、超貧困ドヤ街の寿町(わたしはドヤに泊まったことがあるが、5㎡で3000円)とか、超クロート向け戦後復興期建築群とか、日常歩けばこそ発見が楽しいところである。

観光客が行くところが万人向けA級観光地であるならば、こちらはマニア向けB級観光地であるから、シロートが歩いてみただけでは本当の面白さがさっぱりわからない。

そこでわたしは「B級横浜観光ガイドブック」*という、DTP私家版ブックレットをつくったのである。

ときどき面白がり仲間を誘って、昔ならば悪所だったところや今の悪所を案内して歩けば、けっこう喜ばれる。それは美しい景観ではないが、日常の生活感にあふれていて、これこそ都市で生きる姿だと感じるのだ。

「美しい都市景観は、人間らしく生き生きと、

誇りをもって生きていくためのものである。」

(田村明『まちづくりと景観』227ページ)

(2013/06/08、07/03 DATEY)

*横浜都心について詳しくは、わたくしの下記ウェブページをご覧ください。

◆横浜B級観光ガイドブック

https://sites.google.com/site/matimorig2x/yokohama-bkyuu-kankou-gaidobukku

◆横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか

http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/yokohama-sensai-fukko

◆歴史の証言としての建築記録保存

https://sites.google.com/site/dateyg/matimori-hukei/miyosi-syogakko

◆関内地区戦後まちづくり史

http://homepage2.nifty.com/datey/kannai200609.pdf

(この記事は、現代まちづくり塾の塾報第25号(2013年6月15日)に掲載したものを改題、補綴した。

現代まちづくり塾は、田村明さんが主宰していた塾の後身であり、彼の「現代都市・まちづくり講座」を受け継いで活動している。)