旧横浜市三吉小学校

歴史の証言としての建築記録保存

ー横浜市震災復興小学校の建物を見てー

伊達美徳

1.震災復興小学校

横浜の関外に横浜私立大学の病院がある。関外に住むわたしは、8年前に足の難病になり、しばらく通院した。その病は実は難病ではなくて、自然に治癒した。誤診であった。 その病院の近くの交差点の角に面して、古い5階建ての廃墟ビルが見える。ちょっと古そうだなとは思っていたが、特に興味はなかった。

日本建築家協会の主催で、横浜関外にある旧三吉小学校の見学会のお知らせが来た。わたしの関外の住いの近くなので参加してみたら、なんとその廃墟ビルなのであった。

三吉(みよし)小学校とは、1913年の関東大震災で壊れた校舎を、1926年にコンクリートで復興した建物である。いわゆる復興小学校といわれて、その当時に沢山建てられたのであった。しかしその後にさらに建て替えが進んで、いまやこの三吉小学校の建物があるだけになったのだそうだ。 それも、今は空き家のままで、20010年8月には取り壊しが決定したので、最後の見学会というわけであった。

見学会で敷地に入ったのだが、案内してくださる建築家協会の方は、目の前の5階建て廃墟ビルは三吉小学校ではない、裏にあるのだという。なるほど裏に回ると、3階建ての校舎と体育館がある。建築デザインとしては、たいしたことはない。それは、その当時は沢山の学校建築を立てるために、標準設計で進めたからであろう。

使われないままに汚れきった中に入る。驚いたことに、生化学教室とか解剖室とか、教室の入り口に書いてある。まさか小学校でそんなことはあるまいと聞くと、戦後はここは横浜市立大学医学部の教室であったのだそうだ。それならわかる。解剖室にはタイルが張り詰めてあり、倉庫かと思うと死体置き場らしい部屋もあった。死体を載せるらしいラック棚もあった。大学医学部の用途としてみていくと、興味深いものがある。動物飼育室とあるところでは実験用動物を飼っていたのだろう。体育館は普通のままであったから、大学の体育館として使っていたのであろう。


2.並び立つ震災復興と戦災復興の記念建造物

それで聞いたり調べたりして分かったことは、三吉小学校は戦中の1944年に疎開して空き家となり、その建物に横浜市立大学医学部がはいってここで発足したのだそうである。

横浜市大医学部は1987年に金沢八景駅近くに移転した。その後、同校舎は2001年4月に用途廃止になって以来、利用されないままになっている。

三吉小学校は建築のデザインとしてはたいしたことはないが、横浜震災復興小学校として第1号の建築着手であったことにひとつの意義がある。

わたしは建物の意匠的デザインよりも、配置に興味を持った。コの字型に教室棟を建て、中庭を造るように体育館を建てている。中庭がかなり立派な庭園であったらしい。児童教育に庭づくりをとり入れていたようだ。
この元小学校建築の表側に建っている5階建ての廃墟ビルは、1950年に竣工した市立大学医学部の建物なのであった。

小学校の運動場にあたる部分にこれを建て、その3年後には元小学校の建物の南のウィング部分をこわして駐車場にしたのだそうである。だからいまの元小学校の教室の建物は、半分しか残ってないのである。

1950年といえば、横浜が戦災復興にようやく立ち上がりつつあった時代である。関外のこの浦舟町も含めて横浜都心の市街地は、太平洋戦争による空襲で広く焼失し、そのうえ更に戦後は1950年代まで占領軍が広く接収したので、横浜の戦後復興は他の戦災都市と比べてたち遅れたのであった。

いずれにせよ、この震災復興小学校は戦中末期に小学校としての役目を終えた後は、横浜の戦災復興における横浜市立大学となって、戦後の医療の復興に役立っていたのであった。

つまりここには、関東大地震被災と太平洋戦争空爆被災という、20世紀の悲劇からの復興の歴史を重層的に刻み込んだ建築が、二つ並んで建っているのである。
わたしはそこに歴史的な意義をみいだしたのであった。

3.建築を見る建築家のマニアックすぎる視点

この敷地に横浜市南区役所庁舎の建設予定があり、現在の建物群は2010年8月中に取り壊されるのだそうである。

6月に日本建築家協会(JIA)から、横浜市の林市長宛てに、旧三吉小学校校舎の保存の要望を出したのに対して、7月に林市長から回答があった。 そこには、「当該校舎は、建設後80年余りが経過しているため老朽化が著しく、地元町内会から早期解体の要望もあり、今年度書いた工事を実施する予定です。なお、震災復興などの経緯を踏まえ、写真撮影や図面作成の記録保存を行なうとともに、一部部材の保存を検討してまいります」とある。

地元町内会からの要望とは、廃墟のままでは防犯上に問題があるということらしい。これを見ると、記録保存等に対象は旧三吉小学校校舎のみであり、1950年竣工の市大医学部校舎は何もなされないようである。

それは要望を出したJIAのほうが、旧三吉小学校のみについて保存要望しているからであろう。その保存要望書には、横浜市復興小学校としての建築的意義のみを記述してある。いかにも建築家の団体らしい内容である。

見学会の後のシンポジウムで、配布資料もパネラーたち発言も、大正末期の復興小学校として設計と工事、そのデザインのことばかりであった。
JIAの主催だからそれでよいのか。それにしても建築家はその建築の設計と竣工までしか興味がないのであろうか。

建築学会での論文発表ならばとこかくとしても、これでは普通の一般市民が聞いてもあまりにマニアックなディテールなことがらばかりで、ほとんど関心を呼ばないトリビアルにしか思えない。
JIAの建築保存運動には敬意を表するのだが、一般市民を巻き込むにはこれでは無理だろうと思った。市民運動として保存を目指すならばとてもついて行けない。

4.オーラルヒストリーとしての建築記録保存

なぜJIAの建築家たちは、三吉小学校の教育の場としての歴史的意義、たとえばここでどのよう教育が行なわれ、どのような人材は輩出したかには関心を持たないのであろうか。

そしてまた、ここが戦後は市大医学部として使われた医学上の歴史的意義には関心がないのだろうか。どのような医学研究が行なわれ、そのような医学的新開発があったのか、あるいはどのような人材が出たのだろうか、わたしは興味がある。

わたしが今回の見学でいちばんの感慨を持ったのは、復興小学校が児童教育の役割を終わってからも、医学研究教育の場としてその使命を果たしてきたということであった。

その歴史的意義を認めるならば、単に旧三吉小学校の建築形態のハードウェアとしての記録のみではなく、市大医学部となったときどのように改変して使ってきたのか記録しておいてほしい。

それは当然のことに1950年新築の大学医学部校舎についても同じであり、この小学校敷地全体の歴史を、時代に応じて重層的に記録するものであるべきと考える。

そこには上に述べたように、震災復興とと戦災復興の記念碑的な歴史の証言者としての二つの建築ということもある。

歴史を記録するとは、時間軸の特定点における空間の断面記録ではなく、各エポックメーキングな時点における空間のハードウェア(土地と建物)とソフトウエア(その使い方)を記憶する作業であるべきと考えるのである。

入れ物としての建築物は、人間の生活のための道具である。それをどのように使ってきたかという人間の歴史の側から見ることが重要であるはずだ。鑑賞美術品ではないのだから。

最近は古老に話を聞いて記録するオーラルヒストリーづくりが流行している。その人の生きてきた生々しい歴史が語られる、

人間でない建物は語らないが、そこには重層するが詰まっているのだから、それを重層して記録することが建築のオーラルヒストリーとしての記録保存となるのである。もちろん、この建物を使った人のオーラルヒストリーもほしい。

さて、横浜市はどのように記録保存をしてくれるのであろうか。記録をJIAに外注するのではあろうか、ちょっと心配である。(100806初掲、100806誤字訂正)