高梁と倉敷
ふたつの美観地区

高梁と倉敷 ふたつの美観地区

(紺屋川:ふるさとの川シリーズ3)

伊達美徳

●城下町のクリスマスムード

暮れが近づくと故郷のニュースもそれらしくなる。

 高梁盆地の街なかにある紺屋川(こうやがわ、紺屋町川あるいは伊賀谷川とも言う)のほとりの桜並木に、クリスマスイルミネーションの冬の花が咲くそうである。 ここは美観地区と名づける街中の観光名所で、城下町にはクリスマスイルミネーションとはこわいかにと思うのだが、実はキリスト教会が川沿いにあるからそれなりに由緒正しいといえる。 もっとも1月中まで点灯するから、クリスマスに限らないイベントである。 以下は山陽新聞WEBNEWS(2011/12/3 9:51)から引用。

「紺屋川彩るLED電飾 1月末まで点灯

 高梁市中心部の紺屋川で、冬恒例のイルミネーションがお目見え。色とりどりの光がクリスマスムードを演出している。
 高梁キリスト教会(柿木町)近くの住之江橋から東へ約20メートルの区間。川の中央に鉄パイプを据え付け、川の上に電飾を施した。青や緑、黄色など色とりどりのLED(発光ダイオード)が川面を照らし、若者や家族連れらが楽しんでいる。

イルミネーションは、クリスマスを意識してツリー形。近くに立てた旗にもLEDを取り付け、暗闇に「愛らぶ高梁」「がんばろう!日本」といった文字を浮かび上がらせている。

同教会入り口には、城南高(原田北町)電気科3年生が作った雪だるまのオブジェなどを展示。

イルミネーションは、地域の魅力アップを図ろうと市青年経済協議会(川上龍太郎会長)が2000年から実施。11月28日には点灯式を行い、会員らがカウントダウン。光の帯がともると、歓声が湧き上がった。

点灯はいずれも来年1月末までの午後5時半~10時」

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2011120309510678/

紺屋川南、住吉橋そばにある高梁キリスト教会

●ふたつの美観地区

 紺屋川沿いは美観地区と名づけているが、美観地区といえば元祖は倉敷である。倉敷まで電車で30分ほどの高梁だが、どうも倉敷のほうが有名であるのは仕方がない。

 ちょっと二つの美観地区を比べて見てみよう。
 どちらもそれなりに個性的であるが、大きな違いは倉敷の美観地区は徹頭徹尾観光地区になっていることで、高梁は観光もあるが基本的には生活の町である。
 この違いはどちらが良いとか悪いとか言うのではない。立地がそうさせたのだろうが、観光写真にしやすいのは倉敷である。

 わたしの好みから言うと倉敷美観地区は、あまりにも川柳といい土蔵の町並みといい、どうも絵になりすぎる風景で、その統一感がいささか気持ちが悪い。

高梁の紺屋川美観地区

倉敷の倉敷川美観地区

それでもナマコ壁土蔵ばかりのなかに、昔の町役場の擬洋風建築と大原美術館の洋式建築が顔を出していて、ちょっとは救われる。街は程よい程度のざわめきのある風景がよい。

ここへは少年の頃から大原美術館を訪ねて何回も行ったことがあるので、昔の姿も覚えている。もちろん今ほどになまこ壁の町並みはそろっていなかったし、土産物屋もなかった。

倉敷美観地区の旧役場の擬洋風建築

倉敷美観地区の大原美術館は町並みの異端

高梁美観地区にもなまこ壁の蔵が、紺屋川下流の老松橋南の高梁川との出会うあたりにある。かつて高梁川が水運の道であった時代に活躍した建物だから、倉敷の蔵と機能的には同じだろう。歴史を思わせるとはこのような風景だ。

ついでに言うが、その蔵の前の道の向かいにある紺屋川の堤防立ち上がりに、ペンキでなまこ壁を描いている。それが今はハゲてきて美しくないのだが、はげてなくてももともとペンキ塗りが奇妙であった。本物にしてはどうか。でなければ真っ白ペンキ、あるいはコンクリート打ちはなしにダイアゴナル目地としてはどうか。

紺屋川美観地区の本物と偽物のナマコ壁

倉敷が今に至るような歴史的町並み風景を作り上げていったのには、バックには倉敷の財閥の大原家がいただろうが、それなりの先進的な努力があった。

なかでも美観地区の周辺に高い建物を建てさせないようにする背景条例の制定は、1970年代という実に先進的な施策であった。ただ、これほど観光商業的な風景を予想していたのだろうか。

高梁も1970年代から倉敷に追随するように、紺屋川美観地区や石火矢町ふるさと村などの歴史的環境整備に力を入れだしたのであった。

倉敷の美観地区の風景の特徴は、倉敷川の水面に写る柳や家並みの情緒がある。

しかし、高梁の紺屋川はいつもはほとんど水が流れていない。だから、川底に散歩道を作っていて、いくつもの小さな橋をくぐっていくことができるのが面白い。

倉敷美観地区の水面に映る風景

紺屋川美観地区の川底の散歩道 (1994年撮影)

●暮らしの中の紺屋川

 わたしが少年の頃の紺屋町(こうやまち)は、桜並木での花見の名所であったが観光名所ではなかったものだ。住民たちの生活の町である。
 映画「男はつらいよ」にも紺屋川は出てくるが、夕ご飯の材料を入れた買い物かごを持つ志村喬と渥美清の寅さんが、高砂橋を渡りながら知り合いに挨拶する場面であり、まさに生活の風景である。

「男はつらいよ・寅次郎恋歌」(1971)の紺屋川

 生活の町としての紺屋川と紺屋町は、わたしには妙に記憶に残る川である。住江橋の北にはわたしが通った幼稚園があった。それは今もある。 そして小学校に行くにも中学校に行くにも、毎日この川を往復して渡らなければならなかった。ときには川におりて石を起こしてカニなどを取る道草をしたが、その頃は散歩道などなくて石がごろごろしていたものだ。

 幼稚園の北隣に公会堂があって、いろいろな催し物に行った記憶がある。映画会がよくあった。「小島の春」というライ患者を収容する島の物語を見た覚えがあるが、戦後間もない頃だろう。
 もちろん花見に行った。高梁の歌人・藤本孝子さん(わたしと同級生)の歌集「春楡のうた」(2007年)に、この紺屋川(伊賀谷川ともいう)が9首もでてくる。桜の歌をあげよう。

 昏れさうで昏れない伊賀谷川の桜見上げて切なき心

 年ふりし伊賀谷川畔の桜よと見つつ思へりこの町に死ぬ

 伊賀谷川沿ひの桜は咲きみちて写真を撮る人呆と見る人

 相生橋の北の新町との角に魚屋があった。その向かいの角に自転車屋があった。紺屋町には郵便局があった(今もある)。遠州堂という高梁銘菓「もちゆべし」を売っている店が南側にあった(今もある)。ここには同級生の男がいた。

 その名のごとく、わたしも知らない昔には染物屋が並んで、この川で水洗いしていたのだろう。どんな色の水が流れていたのだろうか。紺屋町はコウヤマチと読むが、城下町時代には商人町はマチ、武家町は丁の字を使ってチョウと読んでいたと言う。ここは商人町であったのだ。

 橋の上の祠のすぐ前にあった家にも中村君という同級生が住んでいた。中学校をでると船乗りになったと聞いた。こんな山の中から船乗りとはと驚いた。
 川をはさんで北と南にふたつの病院がある。そのひとつに大杉病院の子の同級生大杉君がいた。秀才だったが高校生のときに病で亡くなった。医者の息子でもそういうことがあるのかと思った。今は街中でも屈指の高層建築になっている。

 あるとき、小学生の弟が紺屋川のほとりから川の中に落ちた。幸い擦り傷程度だったが、わたしの家のちょっとした事件だった。今は擬木で作った柵があるが、その頃は川沿いにはなにもなかった。ほかの川でも池でも同じだった。
 キリスト教会には、高校生のときに一度だけ入ったことがある。親しい同級生の福田君が、この教会に日曜日には礼拝に通う一年下の女高生を好きになった。そいつがひとりで行くのは気後れするので、一緒に行ってくれと言う。
 神社の息子のわたしがそんなところに行ってよいのかと思ったが、好奇心に負けた。ほかの友人にも日曜日ごとに頼んでいたらしい。癪なことだが、その恋は稔った。

●実は怖い暴れ川

 川の上に人が渡る橋ではなくて、小さな祠が乗る橋が2本架かっているのが、興味深い風景となっている。20世紀はじめの紺屋町の写真を見ると、祠が道のほとりにあるから、たぶんいつかの洪水の後の河川改修のときに橋の上に移したのであろう。

20世紀初め頃の紺屋川

上と同じところの1994年の写真 左の建物がまだ健在

上と同じところの2011年の写真

 実は紺屋川の上流は山から急に流れ下っている。大雨が降ると一気にこの川を流れ下るから、たびたび氾濫をしてきている。
 紺屋川の川底にはいつもは水がほとんど流れていないのは、洪水をすばやく高梁川まで流すための排水流路であるからだ。そこが倉敷美観地区の倉敷川の水運の運河風景とは異なるところである。

 大昔は高梁川が盆地の東側を流れていたのだそうだ。わたしの生家の御前神社にある文書に、14世紀中ごろの祭礼の次第を書いたものがあり、そこに鳥居の前に高梁川であったことが書かれている(「御前神社縁起1442」高梁市史1979)。

 御前神社はその名のごとく古来からある岬信仰の社であるから、小高下谷と紺屋川との間にある秋庭山から高梁川に突き出した半島の先にあったことになる。
 今は高梁川は盆地の西よりになっているのは、盆地の東の山から流れ下るこの伊賀谷川や小高下谷(ここうげだに)あるいは下谷(しもだに)などの支流からの土石流がつみあがった結果であるという。

 この川は何千年もつづけて暴れて、山を崩し盆地を埋めてきたのである。1934年9月の室戸台風のときは、高梁川の氾濫で街のほとんどが浸水してしまい、紺屋川と小高下谷川からは土石流が押し寄せて、本町の北角では2階までの土砂に埋まり、鍛治町では道路が30センチも高くなった(「高梁市史」1979)。

 この台風の惨禍は、わたしも父母から聞かされた。高台中腹にある御前神社は避難所となり、この年の正月に嫁してきたばかりの母は炊き出しに精を出したという。

1943年9月室戸台風による紺屋川氾濫

 少年の頃は紺屋川の橋の名前には気がつかなかったが、今こうやって書いていくと高砂、住之江、相生、老松とあって、いずれも寿ぎの能「高砂」に由来するおめでたい言葉である。暴れ川に寿ぐ橋名とは不思議だが、これは多分、寿ぐことで魂鎮めをするのだろう。

ふるさと高梁の風景