高梁:異国で発見した故郷

●高梁も大学街の活力

わたしは観光の1日滞在だから目に見える景観だけに注目したが、ハイデルベルク大学に留学したこの著名な英文学者は、教育という地域のソフトウェアに言及しておられる。

その"思いつき"は、故郷の人々の努力で二つの大学のある街として見事に実現したのだから、さすが先見の明である。

ハイデルベルクは人口約14万人、5つの大学があり3万人を越える学生がいる大学都市として名高い。最も古い大学は14世紀末の創立で、多くの人士を輩出し、池田さんのように世界中から留学者がいるという。

高梁市の年齢別人口構成をみると、地方都市の例にもれず老齢人口が多くて、3人に1人が65歳以上だという。それにもかかわらず、19歳~23歳人口が例外的に突出して多いのである。

これはまさに大学町である。留学生も多いそうだから小京都ならぬ小ハイデルベルクである。

高梁では街はずれに大学があるが、ハイデルベルクでは大学が街の中心部に溶け込むように位置していて、大学が街の活力の源泉となっている。

高梁も近世以後の歴史的な美しい街並みがある。その中で大学生・教授・市民たちが交流する活力ある故郷の姿を、わたしは心に描いている。

ところで、インターネットにgoogle streetというサイトがあり、高梁の街も登場する。遠くにいながら懐かしくも美しい故郷の街並みを、わが家の机上で散歩できる。そこにはわたしの生家の御前神社の鐘楼も見えるのである。便利なような味気ないような。(100520)

●google streetに登場するわたしの生家の御前神社の鳥居、参道、鐘楼(高梁市御前町)

●半世紀前の発見者

この「アルテ・ハイデルベルク≒高梁盆地説」をわたしの新発見と思ったのだが、後で調べていてその30年も前、今からだと半世紀も前に先駆者がいたと知る。

1961年、慶応義塾大学文学部教授の池田潔さんが、岡山県主催の夏季大学の講師に招かれて高梁にやって来た。そのときのことを新聞にこう書いている。

「8月末のむし暑い朝早く、ぼくは高梁駅へついた。街道沿いの細長いひなびた町、驚いたことに、こんな朝早く、すべて店は戸をあけ水を打って客を待っている。……今度の旅行には社会教育課のIさんと高梁出身で慶応を今年卒業したS君が付き切りで世話してくださった。……この街の形や城下町の落ち着いたふんい気から、ぼくはドイツのハイデルベルクを思い出していた。そしてこのような町に大学があったらと考え、いろいろと想像をたくましくしてその一端をしゃべった。……案外これは実のある思いつきかもしれない。高梁の方々だけでなく、岡山のみなさんに遠い将来、あるいは高梁に大学をという考えを採り上げていただけたらと思う」(1961.9.12山陽新聞)

この文中のS君とは、高梁高校でわたしと同期の繁森良二さんで、彼がこの先駆者のあることをわたしに教えてくれた。

池田さんは若いときにハイデルベルク大学に留学して、後に高梁盆地にアルテ・ハイデルベルクを発見したのであった。わたしとは順序が逆だが、"2度目の発見"の正しさの証明にはなった。

<残念ながら似ていない中心商店街> photo DATEY

<街並みから見る城主館跡>

(左)アルテ・ハイデルベルクの街並みから城主の館を望む。(右)高梁盆地の武家屋敷街並みから城主館の尾根小屋跡に立つ高校校舎と背後の城山を望む photo:DATEY

<塔がある小路>

(左)アルテ・ハイデルベルクのある小路から塔が見える。(右)高梁盆地の小路でも塔が見える(家本写真館だが今はない) photo:DATEY

<山が見える小路>

(左)アルテ・ハイデルベルクでも、(右)高梁盆地(菊屋小路)でも、小路の向うにはいつも緑の丘陵が見える。photo:DATEY

<空中写真>

同じ縮尺で見る空中写真を、アルテ・ハイデルベルクの城下町(上)と、高梁盆地の城下町(下)とを比べると、ほとんど同じ形と大きさである。 photo:goole earth(上)、国土地理院(下)

異国で発見した“高梁盆地”

伊達 美徳

●故郷の訛りは染み付いている

もうかなり前のことだが、墨田区のファッション産業を振興する大きな会議があった。

江戸東京博物館のホールで、服飾研究家の深井晃子さんが講演をして、そのあとがパネルディスカッションであった。

わたしもパネラーのひとりとして出演し、終わって舞台上の出演者の前で幕が降りた。

わたしの隣に座る深井さんが、突然わたしに聞いた。

「ご出身はどちらですか」

伊達姓は関東では珍しくて、よく聞かれる。わたしはいつもの冗談口で答える。

「世が世なら、仙台で家来どもを従えて、ハハハ、、」

「もしかして岡山ですか」

初対面なのにこの一言には驚いた。聞けば、なんと偶然にも深井さんは高梁高等学校、高梁中学校、高梁小学校と、いずれもわたしの後輩と分かったのであった。

わたしは高梁を出てからの人生のほうがもう3倍近くも長いのだが、生まれてから成人近くまで居た郷里の言葉は、身に沁み付いているものらしい。

もうながいこと共通語で話しをしているつもりであったが、どこか間延びする岡山訛りがあるのを聞き分けられたのだ。

この著名な服飾研究家は論も鋭いが耳も敏い。

ところが言葉だけではなくて、郷里の風景も脳裏にこびりついていることを、故郷を離れて40余年の後、しかもヨーロッパで発見したのであった。

1991年のこと、南ドイツを遊び仲間5人でレンタカーに乗って、10日間の気ままな旅をした。

行きあたりばったりに小都市を巡り、ガストホーフという宿屋に飛び込みで泊まる。どの街も中世の面影を色濃く保っていて、美しい街並みを楽しんだのである。

牛の鳴声が響きわたる農村の宿に泊まった時は、言葉は全く通じないし、食事も手書きメニューが読めない。ドイツ語会話本の「あなたのおすすめはなんですか」を見せて、店主がこれと指差したものを何か分からないままに注文、仲間みんなが同じソーセージ料理を食わされた。

●ドイツで高梁を発見

そうやって旅も終わりの頃、大学都市の古都ハイデルベルクの城下町にやってきた。ネッカー河沿いのまわりを丘陵に囲まれた盆地の街で、歴史的街並みや大学そして城址がある。

街中をうろうろ歩く。道筋の歴史的街並みの向うに見える城跡、路地の向うに小さな塔があり背景に緑の山並み、大きな河のほとりの小さな街、周りを取り囲む緑の丘陵など、はてな、どこを見てもいつか見たことがあるぞ、どうもよく知っている景色のような気がするのである。

初めてなのになぜだろうか、わたしの前世はハイデルベルク人だったのか、まさか、でもこの街は来たことがある、見たことがある、変だ、頭の中がモワモワしてきた。

不思議な感覚を引きずりつつ、街の中から外れてネッカー川の橋を渡り、丘陵の中腹にある「哲学者の道」に登って行き、そこから先ほどまで歩いていた対岸の街を見下ろした。

「わかったっ、ここは高梁盆地だ!」と叫んで、頭が晴れた。まさにデジャビュ(既視感)であった。

わたしは、街の構造や街並み等に関する都市や建築の計画を専門としている。その視点で帰国後に調べてみて、高梁盆地とアルテ・ハイデルベルクの両城下町は、その地形・規模・構成がソックリであることが分かった。街の風景が似ているのは当然なのだ。

古都ハイデルベルクにも行き当たりばったり、有名な都市だから行って見るか程度の気持ちだったから、ドイツでまさか高梁に出会うとは思いもしないことだった。

わたしのこの体験を、アルテ・ハイデルベルクに行ったことがある高校同期生や弟たちに話しても、頭にモヤがかかったという人は、今のところ誰もいないのである。わたしの専門がそうさせたのだろうか。

<俯瞰>

アルテハイデルベルクの城下町(上)を哲学者の道から見下ろすと、高梁盆地の城下町(下)を蓮華寺あたりから見下ろす風景と、実によく似ている。photo:DATEY



*注:小論は「高梁高校同窓会東京支部だより」(2010年7月)に掲載した。

●関連ページ

高梁・美しい故郷に(2012.03)

高梁:死に甲斐のある故郷へ(2012.02)

高梁とハイデルベルク:ふたつのアルテシュタット(その1)コンパクトタウン(2012.0120)

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ブログ「伊達の眼鏡」版・ふるさと高梁の風景(連載中)

まちもり散人の生まれ故郷の高梁盆地へのオマージュを綴り続ける

◆高梁:故郷の寅さん

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