ネパール風土逍遥
ネパールって?

フォトエッセイ・異文化への旅2011

ネパール風土逍遥:ネパールって?

写真と文 伊達美徳

●日本にいないほうが役に立つ

ネパールの旅に大学同期の畏友から誘われた。カトマンヅにある日本語学校を支援する大阪のNGOの企画だそう だ。

飛行機の切符を買った次の日が3.11東日本大震災 、さて、こんなとき海外で遊んでいてよいのかと友人と話す。 「オレたち老人は、復興の力仕事には役に立たないよね」 「そうそう、いまどき日本にいないと、その分の食料など被災地にまわるね」 「うん、オレたちは日本にいないことで、すこしは役に立つね」

旅程には、日本語学校支援の文具運搬と文化交流もはいっているという。これも地震直後のいまどき日本を逃れる言い分けになりそうだ。
同期畏友老人2人をくわえて、関東から男老人組4名、関西からは女性3名を含む6名、あわせて10名の旅になった。行って分ったが、わたしが 生まれ月の差で最年長であった。最近は、会議でも飲み屋でもこうなることが多いのが、しゃくだ。

予期しなかったのに 今回の旅でもっとも印象的だったのは、カトマンヅからポカラを経てルンビニに至るまでの、およそ400キロメートルにおよぶ長距離のバス旅(マップ)であった。中高地から低地へ、山地から平原へ、温帯から亜熱帯へ、多様な植生、農山村集落、街道筋の地方都市、大都市の市街、そしてそこに暮す多様な民族の暮らしや宗教などなど、つぎつぎと展開するネパールの人間と自然の景観に興奮した。
ほんの通りすがりの異文化体験だが、たくさんのことを考えた。

●ネパールも日本に負けぬ地震大国だった

東日本大震災の日本を逃れて行ったネパールも、実は地震大国である。この100年間にマグニチュード8・4を超える巨大地震が4回も発生、 1934年の大地震で首都のカトマンズでは4,296人、1998年にはウダイプール地震で721が死んだそうだ。

現在のネパールの全人口は2300万人、カトマンズ首都大都市圏はその13パーセントの300万人が住む一極集中、この20年でも増の勢い 、カトマンヅ盆地には100万人近くも住む。

みたところ、街には地震で壊れそうな建物がいっぱい。海がないから津波の心配はまったくないのだが、 ヒマラヤの氷河湖が決壊したら山から津波がやってくる。 原子力発電所はないから、その点での危険性はない。

5000万年前、ユーラシア大陸の南の海岸にあったネパールの地に、ずっと海の向うに離れていたインド亜大陸が押し寄せてぶつかってきた。そのインド亜大陸プレートが、ユーラシア大陸のネパールの下にもぐりこむ。

押し上げられてできたのが今のヒマラヤ山脈である。その南には高い山のシワがいくつもできて南の端に平らなところが残っ た。こうやって北のヒマラヤ山脈から南のタライ平野まで、 しわくちゃタオルのようなネパール地形ができて、その北には盛り上がったチベット高地がひろがる。

これらの間には国土を 東西に縦断する大断層を3本も抱え込んでいる。 現在も南からインド亜大陸に押されつづけているから、日本とおなじように地震が頻発する地帯なのだ。

国土を南北に切って断面を眺めると、ここは崖地ばかりに見えるほどだ。日本の本州と大差ない幅の国土なのに、その高低差は8000mもある。

●ネパールは毎日停電の国だった

停電と地震の日本を逃れて、安全なネパールに疎開してきたつもりが、まったくもってあてはずれと知ったのは、現地についてからだった。

ネパールの旅の時の東日本は大震災直後で毎日計画停電中であった。ところがネパール では毎日計画停電があたりまえの国だった。こちらは水力発電だけで火力も原子力も発電に使っていない。乾季の今は発電が需要に追いつかなくて日によっては14時間も停電 。毎日18時から21時までかならず停電で、夕食となると突然に真っ暗。レストランでもホテルでも、あっと声を上げるのは外国人だけ。

慌てることはない、そのあたりにローソクを用意してある。こんなゴールデンタイムが停電、というところが日本とは違う。やがてどの店もホテルも自家発電機 が動いて騒音と排気ガスのにおいだ。 停電でも暗闇の街にはならなず、店は明るく営業している。

日本語学校のネパール人教師から、日本でもそうかと聞かれてとまどった。そうか、日本でわたしたちは停電がないことを前提に生活してい たのだ。日本でも、太平洋戦争で敗戦して数年間は、日常的に停電していた。自家発電機はなかったが、ローソクもマッチも用意していたものだ。

旅が終わり日本に戻ってくると停電しないのが当たり前の生活になっていた。そして揺れないのが当たり前の生活にもなって安心と思ったら、死者が出る余震はあるし、原発の放射線の毒が降って恐怖はあいかわらず 。原発のないネパールで日本の震災のお見舞いの言葉をいただいて、なんだかはずかしい思いをした ことを思い出した。停電は平気でも地震と原発は怖い。

●ネパールも首相がころころ変わる国だった

ネパールは南にインド、北に中国のアジアの両大国にサンドイッチ、これがために政治的に微妙なことのある国らしい。

20世紀半ばまで鎖国していて、日本と同じに植民地にならなかったが、 隣国インド宗主国のイギリスと関係深くならざるを得なかったらしい。

カトマンヅ盆地には13世紀からネワール族のマッラ王朝が栄えていた。今見ることができる世界遺産の旧王宮や寺院などの歴史的建築はその時代の遺産が多いそうだ。まだネパールという国はなくて、各地に部族社会があった。

17世紀半ばに中央山地にいたゴルカ族がマッラ王朝を滅ぼし、とってかわったシャハ王朝がネパール全土統一を果す。18世紀半ばに王家で王族どうしの大虐殺事件があって、そのどさくさなのなかでラナ家が台頭した。その後の100年を王に代わって専制的にネパールを牛耳った。ラナ家は日本 でいえば朝廷に対する幕府のようなものだったらしい。

1951年、国王のクーデターでラナ家を追放して王政復古、これはイギリスの裏支援だったらしい。その後は不安定ながらも開国して近代化の道を歩んできた。

1996年からマオイスト(共産党毛沢東派)が台頭して急進派が政治を左右、2001年にはまた王家で大量虐殺事件、王の弟が即位する。

国王クーデターや大規模な内戦など不安定な政情を経て、2008年にはついに王政を廃止して共和制となった が、 小政党が分立していていがみ合い、官僚や政治家の腐敗もあって、決まることも決らない政治的不安定がつづ き、いまだに憲法が決まらない。

ちょうど日本が東日本大震災で、てんやわんやの時だったので、あるネパール人がわたしに皮肉っぽく 語った。「日本は自然災害の国だけど、ネパールは政治災害の国なんですよ」
な~に、日本だって負けてませんよ、首相を毎年とりかえるんだから。ところが、ネパールでは首相が3ヶ月程度しかもたないんだとか。

2011年10月伊達美徳 Copyright(C) 2011 DATE,Y. All Rights Reserved