横浜B級観光ガイドブック(2)真金町かいわい

つづいて真金町界隈

遊郭から下町住宅街へ

長者町二丁目ー山田町ー永楽町ー真金町ー横浜橋商店街

●長者町再開発

寿町を出て扇町、道路を渡ると翁町、そこから先は長者町、なんだかおめでたい名ばかりですね。

このへんは江戸時代まで海がずっと入り込んでいた湾でして、そこを19世紀半ばから埋め立ててつくった土地ですからね、どうせならオメデタイ地名をつけようってことだったのでしょうかね。

不老町、千歳町、永楽町、真金町、黄金町、福富町などなど、これから通りますよ。何か良いことがあるかもしれませんね。

ここは長者町1丁目の交差点です。向うは長者町2丁目で、大きな共同住宅ビルが並んでいますが、実はここには、上は共同住宅、1階には店舗の4階建てのビルが立ち並んでいました。2012年になって、全部こんなに建て替えられたのです。

その4階建ての下駄ばきビルは、1958年に建った地主と県住宅公社との共同ビルでした。順次に建て替えられたのですね。戦後の横浜都心の復興事業として建てたものでした。

このようなビルがいくつもありましたし、これから歩いて行くところのあちこちにまだたくさん建っています。そしてじわじわと建替えられて、高層共同住宅に変ってきています。

●占領と復興

太平洋戦争が終わっても、この横浜都心部の大部分は、進駐してきた米軍に占領され接収されたままでした。

都心部のほぼ全域が接収解除になったのは1955年ですから、横浜の戦後はそこから始まりました。

戦災で丸焼けとなり、しかもその後は占領されてすっかり整地されてしまい、そこに米軍のカマボコ兵舎や倉庫群が立ち並びました。なにもない広い空き地には草がぼうぼうと生えていて、関内牧場と自嘲的に揶揄していたとか。

ほかの戦災都市と比べると復興が10年は遅れましたね。だから接収解除となって、まちづくりに急いでとりかかったのです。それもきちんと計画的に街並みをつくろうとしました。

交差点の斜め向かいのビルも見てください。この白いビルも同じ頃に建てられた戦後復興のビルですね。下が店舗、上に集合住宅で3~4階の建物ですね。

このような一見なんでもない建物を、これからたくさん見ることになりますので、ご注目ください。そして次に来た時は、高層ビルに変っていることでしょう。そのひとつがここにあったビルでした。 当時はモダンな都心居住団地だったでしょうね。これも戦後復興の残照ですね。

これらは当時の制度では「防火建築帯」といって、連続的に3階以上の鉄筋コンクリートの建物を建てていって、防火性があり、しかも整った景観の街並みを作っていきました。

この交差点のななめ前の、あの4階建ての建物もそうらしいですね。老朽化してきてだんだんと建替えられつつありますが、中には権利が複雑になっていて、建て直すのが難しい建物もあるようです。

・横浜都心戦後復興に関しては「関内地区戦後まちづくり史」参照

●山田町再開発

では長者町通りを渡って、このあたりは山田町です。特におめでたい地名じゃないですね。なんでも山田さんて方が住んでいたそうです。人名が長命になっているのは、吉田町がありますが、これは吉田さんて方が海を埋め立てて作った土地だからだです。

このあたりの高い共同住宅ビルは、どれも神奈川県住宅供給公社の山田町住宅です。

じつはこの山田町には、先ほど見たような4階建て県公社住宅が5棟も建っていました。1階が店舗、2,3,4階が住宅です。

それを県住宅供給公社が2000年ごろから建て直して、高層3棟の新たな1階に店舗付きの賃貸住宅にしたのがこれです。

上の写真が建て替え前、下が建て替え後の今の姿です。戦後復興の街から約半世紀を経て、次の世代の街に交替した見本ですね。

このような都心の公共賃貸住宅をもっと建てるべきとおもうのですが、今の日本の住宅政策は持家ばかり優遇です。

分譲マンションは、神戸の大震災で復興が実に大変だったから、共同住宅の分譲方式は禁止して賃貸借方式にするべきとわたしは思っているのです。

こんど関東大震災が来たら、ものすごい数のマンション難民が出るでしょうね。日本人はあの大震災の教訓を忘れたのですかね。

●永真遊郭の跡

ではもう少し行って、そこを曲りましょう。なんでもないところに突然にこんな中央分離帯に植樹のある広い道路が出現しました。桜が植えてあって、春はお花見通りになります。奇妙なことにこの広い道はこの街の中だけで、外に伸びていません。

このあたりは永楽町といって、となりの真金町とあわせて400メートル角ほどのところが、19世紀末から20世紀中ごろまでは、「永真遊郭」という紅灯の巷でした。

この広い道は、両側に妓楼が立ち並ぶ、遊郭のメインストリートだったのです。遊郭ってのは、まあ、性的享楽公認ゾーンで、法で禁止になる1958年までのことですが、警察から妓楼を設置してよいと免許を受けた地域です。

妓楼とは、名目上は娼婦に部屋を貸す飲食店ですが、早い話が娼婦を抱えておいて、客をとらせて儲ける商売の家です。

1933年の資料では横浜には遊郭が3箇所、93軒が営業していたそうです(『日本都市年鑑2』 東京市政調査会= 『花街』加藤政洋2005朝日選書から孫引き)。

戦後はこの永真遊郭には、約190軒が営業、娼婦が700人以上いたのだそうです(『赤線跡を歩く』木村聡2002ちくま文庫)。

日本各地のちょっとした町にはどこでも遊郭があったようです。有名なのは東京なら吉原、大阪なら飛田、名古屋なら中村とかね。

遊郭は、芸者さんがやってきて粋な歌や踊りで遊ぶ「花街」とは違うのだそうです。純粋に性の享楽地なんですね。と知ったかぶりいっても、わたしは本当のところはよく知りませんがね。

この道の両側には紅い灯のつく妓楼が立ち並んでいて、桜や柳の下をぶらりぶらりと遊興客が娼婦を選びつつあるいたそうです。

戦前は立派な建物もあったようですが、戦災で丸焼けになったので、戦後は歌舞伎に出てくる吉原みたいな街並みじゃないことは確かです。

「戦後50年 横浜再現」(奥村泰弘 ・常盤とよ子 1996平凡社)という写真集があります。ここには1950年代の横浜都心の風景とともに、黄金町の娼婦たちの生態を描いていて興味深いものです。


●遊郭の名残

あ、ここにもラブホテル街です。これも機能的には遊郭の名残といえなくもない。

お風呂屋さんが去年までは2軒ありましたが、1軒は共同住宅ビルになりましたね。婦人科診療所があるのも名残かもしれません。

横浜遊郭は最初はどこにあったご存知ですか、そう、横浜スタジアムのある横浜公園のところだったのです。

幕末に開国して外人の居留地を作るときに、遊郭も作ったのだそうです。なんどかあちこち移転して、1882年にここにきたのだそうです。当時は町外れですね。

遊郭は1958年に法律で禁止、廃業になり、今はご覧のように普通の住宅街ですね。その残照はほとんどありませんね。

当時の僅かな名残は、区画割と道路だけですが、特にこの真ん中に木が植わった道は、遊興のメインストリートの遊歩道だったのです。

こんな道が3本この地区にあります。昔の地図を見ると、そこの先辺りに大門があったようです。

このあたりは今は集合住宅街ですが、おかしいのは永楽とか真金とか名をつけているものはひとつもありません。「マンション大通り公園南」なんてのはまだよいほうで、ずっと向うの伊勢佐木とか、ここは関外なのに関内とかつけています。

●大鷲(おおとり)神社

ここを曲っていくと、突き当りが大鷲(おおとり)神社あるいは金毘羅神社ともいいます。毎年11月の酉の市のときは、このあたりはものすごい賑わいになります。

一帯は自動車交通止めになり、道にはずらりと屋台が建ち並び、縁起物の笹飾りを売る手拍子が響き、昔懐かしい祭の夜店の風景が立ち現れるのです。ぜひおいでになってください。これは遊郭の残照といえるかもしれません。

この神社も多分、遊郭の繁盛を祈るために建てたのでしょう。ここの石の玉垣の柱に、桂歌丸って大きく彫り込んでありますね。

この噺家さんは、昔あった富士楼って妓楼の息子さんで、空襲で焼けた跡の戦後も家を建て直して、お祖母さんが娼妓を一人抱えて営業をしていたとて、だから廓噺は得意だそうです。


●青線と赤線

青線とか赤線地帯とか言いますね、ここは赤線です。

どこが違うかというと、戦前はお上が売春を許可する公娼制度があって、その公娼の営業地域が遊郭ですね。例えば江戸の吉原なんてのが有名ですが、ここの永真遊郭もそうですね。

無許可営業は私娼といって、その営業エリアを私娼窟といました。永井荷風が好きだった玉の井がありますね。

1946年にGHGの命令で公娼制度が廃止となりました。しかし、しばらく特例措置として、遊郭や私娼窟だった地域に限って特殊飲食店街という名で、警察がそれなりの許可 したのです。

その範囲を警察の地図に赤い線で囲っていたので「赤線区域」、これが赤線のもとです。青線は無許可の営業地域ですね。

なんにしても1958年には売春防止法で廃業です。そのあとは非合法営業だけですから、場所によっては検挙と再開のいたちごっこが続いたところもあり、それが、この後で行く黄金町です。

●横浜橋商店街

そこの路地を入って抜けて、ここが横浜橋商店街です。

地方都市の中心商店街がシャッター通りになっていますが、ここでご覧のとおりに昼真っから賑やかなものです。夕方になるとものすごい人通りになります。

下町らしい市場の雰囲気を持っていて懐かしいですね。 魚屋、 八百屋、肉屋と生鮮系店舗の勢いが良いですねえ。

ナムル、チジミ、キムチなどの店がけっこうありますね。あ、買い食いしますか、食い歩きも楽しいですよね。

どうしてこんなところに突然にこんなににぎやかな商店街があるのでしょうか。不思議ですが、多分、戦前から遊郭があることで共に繁栄してきたのでしょうね。

●大通り公園

じゃあ商店街を北にぬけて行きましょう。ここが大通り公園の西のほうですね。この辺に来ると公園もなんだもうひとつぱっとしないB級感覚になりますね。 でも東のほうのタイル敷き詰めたかんかん照りの公園よりも、こっちの楠や樫などの常緑樹の緑に覆われた公園のほうが、わたしは好きです。


この公園は昔は川でした。川と言っても埋立地ですから運河ですね。だから昔は遊郭を伊勢佐木町のほうから見て川向こうと言ったそうです。廓(くるわ)とは、周りを堀や塀で囲われているものなんですね。

今は、川は埋め立てられて公園となり、地下に電車が流れています。この辺に横浜橋がかかっていたんですね。

では道路になった横浜橋を渡っていくと、この大通りが国道16号、鎌倉街道です。昔は市電が走っていました。

◆永真遊郭や横浜橋商店街については次を参照

・常盤とよ子さんの話http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/409_1.html

・桂歌丸さんの話http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/415_1.html

・横浜橋商店街http://www.yokohamabashi.com/

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