第10章 医療がおかしい

足の故障で入院

わたしはめったに医者にかかることはない。保険料ばかり払っていて、ほとんど戻ってこないから、わたしにとっては保険財政は赤字つづきである。

入院といえば、少年時に腕を折った時が初めてであった。校庭で走っていて、丸太で作った平行棒のような遊具に足をすくわれた。

ちょうどその頃、母親もなんだか忘れたが接骨医院に入院していて、わたしもついでに入院した。いま考えると父親は大変だったろう。

2回目は、40歳の頃、ある日駅の階段を登っていたら、突然に右の臀部が痛くなり、歩きにくくなった。

大腿骨の頭と骨盤とのフリージョイント部には、潤滑油のようなものが入っていて円滑に動くようになっているのが、重い荷物をもって階段を駆け上がったので、その潤滑油が切れて骨と骨とが接触したのであった。

実はこうわかるまで1ヶ月くらい、あちこちの医者で見てもらった。

はじめは神経系統だろうと、なんだか電気ビリビリみたいなことをやったが治らない。だれかに紹介してもらった接骨医院では、ほんとに涙が出た痛い暴力的な仕業で、あれは治療といってよいのだろうか。それでも治癒しない。

結局、鎌倉のS病院で右股関節の骨の接触とわかって、10日間くらい入院した。そんな簡単なことがなぜ分からなかったのか不思議であった。

やった治療は、ベッドで寝ていて右足に紐をくくりつけ、その先に錘をつけてこれをベッドからぶら下げておくのである。

要するに、接触した骨と骨の間を引っぱって隙間を空けておいて、そこに潤沢油を戻すのだという。分かりやすい治療である。

そんなことは通院でもできそうなものだが、それでは行きかえりでまた元に戻ってしまうから、ベッドにくくりつけておくのだそうだ。

入院配しているが気分も内臓も全く問題ないのだから、ワードプロセッサーを持ち込んで仕事をしていた。

大部屋だったので周りの入院患者たちの様子を観察してもいたが、これは面白かった。

骨折して入ってきた80歳の老人は、完全介護の付き添いが何もかにも世話していた。そのうちにしだいに老人はボケが進んでいく様子で、これはちょっとこわかった。

もう何回目かの入院ベテラン中年男がいて、看護婦をこき使っていたのも奇妙だった。次の入院も人生模様のある大部屋がよい。

夕方になると近くの銭湯に行く。胃腸は健康そのものだから、病院の給食を食ってから後がこまる。幸にして銭湯のまん前が酒屋である。カーテンの中で本を読みつつ、ばれないように一人静かにカップ酒を飲むのは、なんとなく禁酒法時代もかくやと、悪くなかった。

退院してからもしばらくは、わが家で足引張りをしていたら、そのうちにどちらの足か忘れるようになった。

入院はこの2回だけである。

また足が故障した

わが身に65歳から67歳にかけて、また足の故障が起きて、杖をつく暮らしを始めた。65歳だからそれなりの感もある。

このときは、重大なる不治の病診断と、その誤診事件(医者はそうは言わないが)が起きた。

左の臀部あたりが痛くなってきた。さらに左股関節あたりがだんだんと痛みが進んできて、歩きにくくなってきた。これは40歳代のときにやった右股関節故障と同じような感じである。またやったかと思った。

そこで、以前入院した同じ鎌倉のS病院に行って診察してもらい、以前と同じことを言った。でも、そのときの医者ではないから、どうもはっきりしない。病名も分からない。治療方法もなんだかわからない。

2週間ほど後にわたしが横浜に引っ越したので、近くの掖済会横浜病院の整形外科医にかかった。 ここでも、X線映像では特に異常がみえないので、神経系統だろうといわれて電気ビリビリ治療を続けさせあれたが、一向によくならない。痛みとビッコは進行するばかりだ。 そこで精密検査となった。MRIと骨シンチグラフィーなる検査だそうである。 MRIという検査器械は奇妙なものであった。音波で骨の検査をするとかだが、検査中にまるで鉄骨をたたくような音がガンガンと響き渡るのである。このハイテク器械は、わたしの足の骨を叩いて成形して治しているのか。 出てきたフィルムを見ても、どこが悪いのかぜんぜん分からない。身体を輪切りにした映像など見ていると、包丁でさばかれた魚になった気分になる。あれは出刃包丁で叩ききる音だったのか。 骨シンチグラフィー検査も奇妙なものであった。朝になにかの注射をして、それが全身に回った午後から検査器械にかかる。でてきた映像フィルムは、わが全身骸骨写真であった。 これには驚くと同時にちょっと感激した。病のおかげでこんなものが生きたうちに見られるなんて、。

医者はフィルムを見ながら、左股関節に黒い影があり、ここが悪いのだと医者はいう。

そんなの分かりきっているよ、そこが痛いから来てるんだもの。

男の大切な局部あたりも黒い影がある。おお、なんだよ。これは注射した液が排泄のために膀胱にたまっているのであった。

左股関節のほかは悪くないことだけは分かった。

病院であれこれと検査を続けていると、これは興味津々の世界である。なんだかよく分からない世界が広がっている。

ときには病院に来る必要があると思ったものだ。

重大難病の診断

検査の結果、ついにわが病名「大腿骨頭壊死症」が宣告された。

あ、聞いたことがあるぞ、これは美空ひばりが罹ったはずだ。彼女はわたしと同い年のはずだった。

うん、有名人が罹る病なんだ、と、喜んでいる場合じゃない。

医者が言うには、次第に股関節の骨の壊死が進行していき、いずれ崩壊するから、大腿骨関節部を人工関節に取り替えなければならない。

毎月1回、X線写真を撮って、そのときが来たら手術する、というのだ。

この大腿骨頭壊死症は、国の難病指定になっているくらいすごいヤツで、原因がいまだに分からない。

治す薬も治療方法もないという。若いときなら医療年金支給にもなるくらいの難病である。

でも、かかったものは仕方ない。

しばらく毎月1回通ってX線写真を毎回撮影しては、まだ大丈夫なようですと医者は言う。

毎回それを見せてそういうのだが、実はわたしが見たところでは、最初からどこが悪いのかさっぱり写真では分からないままなのであった。

ほらこのあたりが崩れるんですよと、犬が喜びそうな形の骨の写真の先を示されるのだが、ちっとも崩れてもいないし、崩れそうな様子も見えない。

でも医者が言うのだからそうなんでしょうと、自分を納得させていた。

歩くのはビッコひきながらながらできるので、仕事は続けているし、出張もしていた。ただ、行列とか電車とかで立ちんぼになるのはつらかった。

それを見た息子が、杖を買ってきてくれた。

え、どこで買ったのと聞けば、なんと百円ショップで売っていたという。

へえ~、そういえば杖をつく発想がなかったので、杖なるものをどこで売っているかさえ思いもつかなかった。

いまはけっこう杖を売っている店はあちこちに多いし、妙に派手派手なるものもある。おばあさん用である。

杖突きの効用

足の難病で杖をつきながら普通に出歩き、仕事も遊びもしていた.

昨今のバリアフリーとかユニバーサルデザインとか流行みたいな世界を、ちょっと違う側面から見ることになって、面白い体験であった。

息子が買ってきてくれた杖をついて歩くと、それなりに痛みが少ないことが分かった。

はじめのうちは杖の使い方がよく分からなかった。しばらくあれこれやっているうちに、左足が痛いのには右手に杖を持つことがよいのだとわかった。

仕事をしているから、平均して毎日1回以上は電車に乗るだろう。席を譲られた回数は数えてはいないが、2日に1回くらいだったろう。

意外に若い女性が譲ってくることが多いのは、譲りたくなる相手としてのわたしのイメージの良さがあるだろうなあ、いや、譲られた喜びの記憶が鮮明だからか、、。

その杖には眠り電波を発する威力があることも分かった。これを見たとたんに座っている人が居眠りを始めるのだった。

がら空き電車に乗り込んだとき、ハンディキャッパー優先席に座るのがあたりまえの気もするが、まてよ、この後で混むかもしれない、そこに座りたい人が来たときのために、今はそこじゃないほうが良いと、一般席に座るのである。

杖は水戸黄門の印籠で、優先席に座っていても見せれば気が咎められないのがとりえである。

しかし、優先席に座っていて、あとから明らかにハンディある人が乗ってきたときが問題である。目が会うと一瞬、ハンディの度合いを探りあう火花が散る。勝った、俺のほうが重症だ、と、喜ぶのもおかしい。

混んだ電車に乗ると、さて自分はどこに位置するか、まず悩む。

ハンディキャップ優先席の前に立つのも、そこを譲れ、といってるようで気になる。一般のシートでも、同じである。

そんなわけで気の弱い杖突マンは、遠慮して入り口あたりに立つのである。健常だったときよりも席に座れる確率は低いのであった。

混雑状況でやむをえず席の前に立つとなると、できるだけあさってを向いて、座っている人と目を合わせないようにする。その人に気の毒だからである。

もっとも、その目のあった人が気にしているかどうか分からないが、こちらがそう思っているだろうなあ、と思ってしまうのである。

あるいは、もしかしたら譲りたいのに、こっち向かないから言い出しにくいと悩んでいるかもしれない、とも思う。

杖突きマンは、肢よりも気が疲れるのであった。

時には、出先で杖を置き忘れてくることがある。それは肢の具合が良い証拠だと喜んでいたら、口の悪い奴が、それはちがう、アタマのボケの証拠だという。うーむ、ダブルハンディか、。

バリアフリーとは?

杖突マンになって、世のバリアーフリー仕掛けに疑問も出てきた。

最近は鉄道駅にエレベーターやエスカレーターをつけるようになっているが、その位置に問題がある。どの駅でもホームの同じ位置にあれば、ハンディキャッパーははいつもその位置の車両に乗れば安心なのだが、現実は建造物の構造上でそうもいかないのだろうか、ホームで右往左往せざるを得ない。

このごろは駅に限らず、道路でもどこでも工事中が多い。工事中だからバリアーフリーじゃなくてもよいだろうと、思っているふしがある。障害物競走コースのようなところを歩かされるのは、ハンディがなくてもやりきれない。

工事中でも何でも、こちらは歩き出したら目的の場所に到達しなければならないのだから、何とか工夫してほしいものである。

「バリアーフリー」とか「ユニバーサルデザイン」とか流行だが、段差解消とか、盲人誘導装置とか技術論に陥ってほしくない。

「だれもが動ける街」とか言うときにの「だれも」とは身体障害者のことと、思っている人が多いのではないかしら。違うのである。

この「だれも」とは、人間全部のことであり、もしかしたら動物にも植物にも、ということなのだ。

それが環境観としてノーマライゼイションといわれることになるだろう。

えっ、病名が違うの?

さて、そうやって最初から11ヶ月、何も変りはないが治りもしない。

だが、ちょっと痛みが減ってきている感じがあるが、病気の奴が中休みしているのだろう

医療に関するセカンドオピニオンなるものがあると知った。

どうも気になってやってみるかと、掖済会横浜病院から検査映像写真を借りて、近くにある横浜市立大学市民総合医療センターに行ってみた。

ここには難病を扱う部門があった。こちらの若い整形外科医に、これこれこういうわけでと、以前の精密検査のフィルムも見てもらった。

新たにX線写真を撮ったが、残念というか当たり前というか、やっぱり同じ診断だった。

治療法は無い、いずれにしても悪くなっていくし、ある日突然にガクッと骨が崩れて歩行不能になる場合もある。

今すぐにでも股関節置換の手術をしてもよいけど、医療技術は日進月歩だから、まだ歩けるのなら、もうちょっと様子を見てからにしよう。

半年後に、また診察しましょう、ということになった。

それが2004年の3月のことである。

実はこの頃から、次第に痛みがなくなってきた。中休み状態が続いている。

杖がなくとも普通に歩けるようになっていたが、ある日ガクッがくるかもしれないから、杖は放さない。

そしてやってきた半年後の9月9日に通院検査である。

これまでの担当医が転勤とて、中年の医師に変わった。最初からだと4人目、つまりフォースオピニオンである。

先生はフィルムを見て曰く。

「これは大腿骨頭壊死症ではない、大腿骨頭萎縮症である、この骨の萎縮症は、妊産婦と中高年男性がかかるが、しばらくすると自然に治る。最近分かった病で、珍しい症例である。しばらく普通に暮らしてみて、半年後にまたいらっしゃい」

えっ、違うの? おお、壊死は治らないけど、萎縮は治る、こりゃ大違い。

突然の逆転宣告で、なんだかよく分からないけど、この1年の暗雲が晴れたみたい、良い方向なのだから信じよう、。

うふふ、さあ、医者の気が変わらない内にさっさと帰ろうッと。

そそくさと腰を上げて、どうにも緩む頬を押さえながら、杖を肩に担いで意気揚々と引き揚げたのであった。

そういうこともあるんだなあ。

これは大誤診事件か?

どうもこの2ヶ月ほどは、杖をつかなくても、ちょっと違和感あるけど、まあ結構平気だなあ、と思っていたけど、これはつまり、治ってきているのだ。

まだ半信半疑だけど、まあここはとりあえずは楽天的にこの医者を信用して、治る方向に努しよう。

でもどうすればよいか分からないけど、とにかくそうしよう。

ところで、これまでは誤診だったというべきか、それまでの担当医師には未知のことなので誤診ではないのか。

では、専門家が知らぬことに罪はないのか。

セカンドオピニオンをやっても変わらずだったが、偶然にも4人の医師を遍歴したので、このようなことが分かったのであった。

それにしても、考えてみれば怖い話である。

だって、遅かれ早かれ人工関節置換手術が必要になる、今すぐにでも手術はできる、まあ当分待つかと、いわれていたのだ。

わたしは楽観主義者だから、難病でも罹ったものはしょうがない、どうせやるなら今の体力あるうちにやってもらおうとも考えていたのだ。

そんな早とちりして手術してしまっていたら、治るはずの骨がなくなっていたってことになっていた。早すぎる手遅れだが、それが手術後では分からぬままに、この「誤診事件」は闇に葬られるところであった。

人工関節の技術は発達しているらしいが、それでも走ったり座り込んだりすると故障が出るらしいし、なにもしなくても痛いこともあるらしい。

あぶないところだった。

でも、また痛みが出てきて、つぎは再逆転診断が出るかもしれないと、しばらくは心が落ち着かなかい。

そして半年後の2004年3月9日、こわごわと診察を受けに行った。

医者曰く「もう、来なくてよろしい」

おお、無罪放免となった。

これをあちこちに吹聴して歩いたことはもちろんである。

わが杖突姿を知る悪友どもは、「おまえ、あれは仮病だったんだろう」という。

なんて友達甲斐のない奴、、え~い、そうなんだよ、実は仮病だったんだよ、お見舞金をくれるだろうと期待してたのに、口ばっかりの見舞いで誰もくれないので、もうばかばかしくなって杖をやめたのだ、、、。

その年の秋のこと、奥能登で100キロメートル歩く旅に、ウォーキング仲間と出かけた。自分が治っているのかどうか、わが身で確かめる旅であった。

全行程120キロはちょっとずつサボリながらも、見事に100キロメートル歩いた。

大学山岳部以来、歩くことだけは自信があったが、またそれが戻ってきた。

●「第11章 マンションがあぶない」へ

●「腹立ち猜時記」目次へ