大橋正平戦場物語

はじめに

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 大橋正平さんは、今年(2009年)は卒寿九十歳で、中越の山里・法末の最長老です。元気で村と家を守り、田畑を作り、街に遊びに行き、息子や孫たちもやってきて、ひとり暮しを心から楽しんでいます。
 法末集落(新潟県長岡市小国町法末)は、人口80人ほどの限界集落の山村です。緑の濃い尾根筋に近いゆるやかな山地に、美味いコシヒカリの棚田が広がり、ぶなや杉の屋敷林をもつ伝統的な民家が点在し、日本の原風景を見ることができます。

 2004年10月に中越地震で大きく被災し、全員が避難生活を1年以上も強いられましたが、今は復興して住民も戻って平穏な生活です。
 その震災復興支援のために日本都市計画家協会(JSURP)と国際女性建築家会議日本支部(UIFA JAPON)のグループが協力して「中越震災復興プランニングエイド」活動を始めたのは、2005年の10月からでした。震災復興にめどがついた今は、次の段階の地域の持続へと、住民たちと一緒になって展開を模索しています。

 これが縁でこの地を訪ねるようになった筆者は、地域の風景、風土、住人たちの暮らしの知恵、地域の歴史、そして地域の人々そのものに魅せられています。
 この集落では、今や大橋正平さんが唯一の戦場体験者となっていて、しかもアジア・太平洋戦争の中でも特に悪名高いインパール作戦という、悲惨きわまる戦場から生還した数少ないひとりと聞いて、ぜひともその話を聴きたいとお願いしたのでした。

 実は筆者の亡父の遺品の中に、3回延べ7年半もの兵役の戦争手記を見つけて解読していたところで、やはり本人から直接に話を聞くオーラルヒストリーづくりの必要性を痛切に感じていたのでした。
 このインタビューは、正平さんのお宅に伺って、3回、延べ5時間余にわたり、実に興味深い話でした。

・話し手:大橋正平さん 1919年(大正8)生れ
・聴き手:宮田裕介 伊達美徳(記録)
・場 所:長岡市小国町法末 大橋正平氏宅
・日 時:2009年7月12日19時~21時
          8月2日18時~20時
          9月6日15時~16時

 この記録はその録音を筆者が整理して記述し、解説をつけたものを、正平さんとご家族の目を通していただいたものです。話し手の口調をも記録をすることを旨としつつも、正平さんの味のある口調をとても伝えきれませんが、文責は筆者にあります。

           2009.9.28 伊達美徳(筆者 文責)

 付記:大橋正平さんとご家族のご了解を得て、公開をいたします。(2011年12月17日)

1.中国戦線・宜昌作戦へ

●入隊から戦線へ

 はじめておらが兵隊に入ったのは、昭和十四年十二月一日に高田第三十聯隊だ。それで三ヶ月して、元気のいい甲種合格のぱりぱりの千人の初年兵ばかりが、支那に行った。
 
十五年中国に行ったけど、何月だったかなあ。 その前の十三年に、高田の聯隊は一番に支那に行ったんだ。おらは徐州の方には行かんかった。武漢三鎮作戦なんかのあとだ。
 
宜昌って街を落とすためにいったんだ。行ってから四、五ヶ月も戦争したこてえ、いやあ、とにかくすごい、おら行ってからどんどん移動していった。
  高田の聯隊では、おらは五班で軽機関銃班にはいっていたんだ。
歩兵の軽機関銃の射手だったんだ、軽機は四貫目あるんだ。 四貫目の銃を二人でかわるがわる背負って、ほかに背嚢もあるし、それで一日に二十里も歩くんだよ。 十一年式軽機関銃って言って、弾を三十発入れると、だ~っと三十発撃てるんだ。
 そのときに、あのね、もうひとつ新しい機関銃が出たんだ、さーて、なんて名前だっけ。そうだ、九六(キューロク)式軽機関銃、軽くて、十一年式の半分の重さだった。
 支那に行くとき、高田第三十聯隊は
高田第五十八聯隊になった。第五十八聯隊は三個大隊で、一大隊は四個中隊になるんだ。おらは第三大隊だったんだが、その大隊本部つきになったんだ。 俺たちの大隊長ってのは、昔の士官学校を出て、まあ、優秀な人だったの。

●馬に乗れたので伝令係に

 支那に行ったときは大隊本部つきだから、どの中隊にもはいらないで、伝令係なんだ。大隊本部つきでも戦うのは中隊と同じ。
 そのころね、おれは
馬に乗れたからな。うちで馬を飼ってた。兵隊に行く前にもう馬に乗れたんだ。裸馬に乗っかってタテガミにつかまって、これ(股)をぱっと締めると、だいたい落ちないんだ。愛宕さんまで飛んでいくんだ、そしてまた帰ってくる、そうしないと馬は元気がよくて、春は使わないといけないんだ。冬のうちは馬屋ってのが家の中のそこにあって、一緒に住んでたんだ。

 で、馬に乗れるもんで、支那に行ったときは伝令係で、大隊本部や聯隊本部の間を馬に乗って書類を持っていくんだ。無線もあるし電話のあるろも、そういうのもあるんだ。伝令係は大隊本部に十五人くらいいた。紙に書いた指令書を持っていく。内容は知らない。また反対に、各中隊から命令受領係が大隊本部にやってくる。聯隊本部からの命令をそれらに伝えるんだ。それはまた俺の仕事とは違う。

 伝令はいつもやっているのじゃないから、給与係を何年もやった。食糧なんかの配給の係だよ、牛を殺して肉を各隊に配るなんぞもやっていた。
 初年兵で入って、内地で三ヶ月の教育で支那に行ったんだ、普通は一年の教育なのに、もうその頃は戦争が忙しくなって、それでもう支那に行ったんだな。

 脚が強かったから、歩くのは人に負けなかった。山の中でそだったからな。小学校の一年生から六年生まではこの家のすぐ下に学校があったんだ。百人の生徒がいた。それがおわってから高等小学校になって、太郎丸にある結城高等小学校にいった。
 その頃は法末からみんなスキーで通うんだ、みんなスキーの選手だよ、俺も選手ばっかりやった。だから脚は強い。山岳部ばっかりの戦争だったからなあ。


●宜昌作戦へ

 おらたちが行くのをまって宜昌作戦を始めたんだ。全員が新しい兵隊だった。行ってから十五日くらいで始まった。戦争ってのは、ほんまに容易じゃないと思ったねえ、すごいんだよ。なるほど、戦争になると高田での練習なんて問題にならんと思ったね、でも命がけだからがんばるんだ。
 支那では捕まえた捕虜を殺したんだよ。(捕虜虐待禁止の国際条約は)イヤー、誰も知らん。捕虜みんな殺した。
  宜昌の街を焼き討ちしたが、焼いたのは一部分だ。このとき催涙ガスを使った。そのとき捕虜をおらの大隊が百五十人捕まえた。そのとき朝日新聞にそれが載った。それを内地から送ってきた。
 宜昌作戦では何回も突撃したもんだよ、中隊が突撃してもだめなんで、そしたら大隊本部が突撃してなあ、そりゃもうなかなか元気な大隊長だったな。 とにかく戦争じゃあ、高田第五十八聯隊は世界一といわれたくらい強かった。支那には絶対負けんかった。九州の部隊とうちの聯隊とが一番強かったって言われたよ。

●宜昌から揚子江西岸地区へ

 宜昌から揚子江を西の対岸にわたって占領した。揚子江は工兵の鉄舟に乗って十五人づつ、未だ暗いうちに攻めるんだ。向うも必死で戦う。黎明攻撃って、夜明けに攻撃するんだよ、突撃して山を占領したら、かならず穴を掘らなきゃ駄目なんだよ。
 そしたらすぐ穴を掘ってはいらなきゃならんのよ、砲弾がドカンドカンと打ってくるから、穴を掘って入っているとそばに落ちても、ベトはかぶるけど安全だ。
 山を占領して、穴を掘ってベトを一メートルも積んでそこにいるんだ。そこを下から敵が攻めてくるから、おらは山の上から軽機関銃でバリバリ撃つんだ。取ったところはもうとられんかった。
  占領してからは警備にあたった。一ヶ月に一度か二度討伐戦があるんだ。そういうのをしょっちゅうやってた。結構戦死者が出るんだ。 敵の兵隊は蒋介石の直系軍だったな、みんなわらじを履いているんだ。ものすごく強いんだ、日本に兵器がなかったら絶対に日本が負けるね、命を惜しがらないんだよ。いくら死んでもあがってくるんだ。 だから陣地の前は死骸がいっぱいあるから、夜になると狼や犬がやってきて食うんだ、ああ、臭い臭い。

●宜西地区の警備

 宜昌の西岸の宜西地区では、あちこちの集落の家を改造して、兵隊は民家にみんな暮らしていた。良い家は司令部や本部が使う。大隊本部には軽機関銃がなくて、襲われて大変だったことがあり、備え付けたことがある。

 ここで警備しているなか、一週間に一回づつ外出があった。そのときは慰安所に行くんだ、それが楽しみで。慰安婦は日本人もいるし、韓国人もいるし支那人の現地人もいる。師団司令部がある街に、何箇所も慰安所を作ってあった。民家を改造してな。

 地元の人の(結婚式の)祝言によばれたことがあったなあ。ご馳走とお酒でよかったなあ。地元の人とは手まね足まねで話すんだが、そのうち話がわかってくるんだ。タイやマレーに行ったからそちらの言葉も同じようになったが、いまじゃあ、さあどれが支那語でどれがマレー語かわからんようなった。話が通じると気持ちも通じるようになるんだな。

●戦うには広すぎた

 そのころ支那は飛行機はなかったんだ、日本軍は飛行機と砲撃とで、支那には絶対負けんかったんだ。国民政府軍の装備は貧弱だったな。手榴弾だって、木の柄に弾が着いているようなものだ。日本の手榴弾は鉄の玉に刻みがついて割れるようになっていた。突撃のときは手榴弾は使わない。ホンのそばまでいってから投げるんだ。支那は飛行機もないし、大砲も日本ほどはなかった。日本軍は上海とったり南京とったり、飛行機があったからだ。

 支那で勝ったのは日本の装備がよかったからだよ。飛行機や大砲がこちらにはあったね。今の中国はすごいけど、あの頃の支那は大変だったんだよ。支那は広すぎて治めるのが大変だったね。
 日本は勝ち戦だから、食糧などは十分あった。支那の戦争では、食えないことはなかった。でも前線では、現地の部落の豚や鶏、ドブロクを取って飲み食いしたね。みんな逃げていくんだ、どんどん逃げていくんだな。支那じゃあ勝ち戦だったから、まあよかった。

 支那はあんまり広すぎて、三年半とんであるいたけど、それを地図で見るとほんのちょっぴり。広いから支那の衆は南京や上海を取られても平気なんだよ、そんげに攻め立てられないんだよ、あまりにも広くて。
 ああいう大国に向っちゃあ駄目なんだよ、勝った勝ったといってても、ほんの一部分だけなんだよ、東京都か大阪を押さえただけでな、だからさ、すごいんだよ。

一緒に行って戦死したひともいるよ、三分の一くらいは死んだかな。内地からは慰問袋をよくもらった。酒もよく飲んだ。支那からは家に手紙もよく書いた。南方に行くってことは書いたけど、行ってからは全然書きようがなく、五年間は音信不通。親はおれのことを死んでいると思っていたよ。

〔解説〕宜昌作戦と高田歩兵第五十八聯隊の概要

 中国と日本との戦争状態のかかわりは、日清戦争、日露戦争を経て、1931年(昭6)の満州事変そして1937年(昭12)の支那事変で日本軍は首都南京を落とし、これで日本は戦勝に終わると考えていたが、国民政府は首都を重慶に移して抗日戦線は拡大するばかりであった。
 高田第五十八聯隊(以下「聯隊」という)は、既に1937年(昭12)9月から支那事変の中国に動員されて、上海派遣軍として揚子江を西へ西へと戦闘参戦していた。聯隊は、1938年(昭和13)前半は北に進めて徐州作戦、後半から1940年(昭15)初めまでは武漢三鎮作戦と、どんどん内陸部へ戦線を進め、その4月から宜昌作戦にはいった。宜昌は重慶への爆撃中継地として戦略上の意味があった。
 その前年暮に徴兵検査甲種合格で初年兵入隊したばかりの大橋正平さんは、中国に送られて約7年にわたる海外戦地人生が始まる。
 聯隊は4月25日に出動を開始、正平さんの所属する第三大隊は安陸東方の部落に集結、糧秣や弾薬を補充した。5月1日から攻撃開始、第三大隊は本隊と離れて、洋梓鎮、豊楽河、流水溝と戦闘をへて、5月10日に黄渠舗にいたった。さらに漢水東岸の山谷で敵と戦い、5月末に第1次宜昌作戦を終えて旧口鎮周辺地区に集結した。
 6月から第2次宜昌作戦に入り、5日夜半に工兵隊の渡河舟にのって幅400mの漢水を西岸に渡り敵を掃討、沙洋鎮を占領した。戦闘を続けつつ西に進み、13日に宜昌に入城した。宜昌の街を焼き討ちにして16日から軍命により宜昌を離れて戻り始めたが、17日にまたもや宜昌を確保せよと軍命が変わり、灰燼に帰した宜昌に引き返して再占領した。この作戦では、毒ガスを使ったとされる。
 宜昌を確保するためには、宜昌の西の揚子江対岸部丘陵の敵を討伐する必要があり、6月24日から揚子江を渡って侵攻し、7月上旬には占領してこの後1年8ヶ月にわたって警備に当った。
 1941年(昭16)3月からは揚子江西岸地区からさらに西や北の地区へと戦いを進めていたが、敵の戦力も侮れない状況であった。9月末から、国民政府軍は、宜昌奪回の大攻勢をかけてきたが、結局10月末には全軍引き上げて行って戦闘は終わった。この間、聯隊は宜昌の西岸守備を担った。
 1941年(昭16)末に太平洋戦争が始まり、支那派遣軍を削減して南方戦線にまわす方針が出た。聯隊はその対象となり、1942年(昭17)3月に宜昌をはなれて太山廟周辺に移駐した。
 1943年(昭18)の1月には漢口の揚子へ、そこから更に船で揚子江を下り、上海の呉松港に到着、夏服の軍服支給で南方行きとわかった。
 1月27日に船団は南に向け出発、正平さんの3年弱の中国戦線は終って次の戦場となる。

主な参考資料
・『高田歩兵第五十八聯隊史』(1982 非売品 大橋正平氏所蔵)
・『戦史叢書18 北支の治安戦』(1968 防衛庁防衛研修所戦史室)

2.南方戦線・インパール作戦へ

●船団を組んでシンガポールへ

 昭和十八年の十二月の半ばに、ビルマに行くことになって、揚子江の川口からちょっと入った辺りから船団組んで、上海まで行ってそこから輸送船に乗った。輸送船は五隻、一艘の船に八千人以上も乗るんだ。船倉で畳一枚に二人づつ、窮屈で寝られない、膝を抱えてね。

 飛行機と駆逐艦とが護衛して、台湾の高雄港に行ったんだ。二、三日かかったな。まだ年内だった。そこでバナナ、水、食糧補給して、それから次の朝に出発してジャワ、シンガポールに上がった。

 この台湾の高雄からのシンガポール、ジャワに行く船はねえ、みんな船の底の船倉から縄梯子なんだよ、だからグラグラして登るのが容易じゃないんだよ。
 それが一日に三度くらい非常呼集がかかるんだよ、潜水艦がきて魚雷を放つからね、沈没したときのために甲板に登って海に飛び込む用意をするんだよ、これには参ったね。練習じゃないよ、本当に飛び込む用意なんだよ。敵の潜水艦が魚雷を放つと、駆逐艦が物凄いカーブして追いかけて、潜水艦の上に行って爆雷を放つんだ。そうするとバ~ンってやられちゃう。

 そういうので何万という兵隊を送ったんだ。おかげでおれたちの五隻全部大丈夫だった。一艘の船に一万人もの兵隊が乗っていて、陸に上げるとものすごい強いけど、海の上ではどうしようもないんだよ。だから敵は船で殺すのが一番なんだよ。十八、九年、二十年の頃はそういうことだったなあ。
 でもまあ撃沈されなくて良かったよ。俺たちはおかげで助かったけどなあ。

●タンジュンマレムの楽しい半年

 マレー半島のタンジュンマレムという小さな町があって、おれたち第三大隊はそこに入った。そこに半年間、このあとのインパール作戦でコヒマに行くのだけど、それに備えて日本の兵隊を南方の暑いところで戦争する演習ばっかりをやったんだ。戦争ごっこだよ。一日に二時間しか演習しないんだよ、。

 一日にたった二時間しか演習はしないし、あのあったかいところでバナナ、パインやマンゴーでもタダで食いきれないんだよ、海もあるから魚もとれて刺身も食べてね、まるまる太って、元気になった。

 椰子酒が美味かったなあ。椰子の木には葉というか芽というか、幹の途中から何本も出てるだろ、現地人がすするするとそこまで登って、芽を途中で切ると切り口から樹液が出てくるんで、そこに壷をぶら下げるんだよ。いくつも壷がぶら下がってるから、椰子の実はそげなもんかと思ったら壷なんだよ。

 次の日にまた現地人が腰にひょうたんをぶら下げて登っていって、その壷から樹液をひょうたんの中にあけて、また少しその芽を切るとまた樹液が出てくるんだな。毎日そうやるんだけんど、それが椰子酒なんだ。

 これが、強くはないけどアルコール分があって、サイダーみたいな味で美味いんだ。ほんのりと顔が赤くなるな。現地の人は女でもみんな飲んでたよ。
 タンジュンマレムでの半年はよかった。この半年間だけは夢のようだったな。

●象に乗ってタイからビルマへ

 ビルマに移動することになり、タイから国境を越えるのに、重要梱包といって箱に入った荷物を運ぶんだよ。はじめは馬を借りてその後は牛を使ったが、馬も牛も爆撃にやられてしまって、こんどは象で運ぶことにした。
 各部落の村長にたのんで、象二十四頭を借りたんだ。それに重要梱包を載せ、兵隊と象使いが乗るんだ。十~二十梱くらい載せられるんだ。象は荷物を乗せるのはあまり強くないんだな、でも鼻で木を倒したり運んだりするのはものすごく強い。

 象ってのはね、急な坂を上り下りするのに、人間みたいに脚を曲げるんだな。だから荷物がずり落ちない。水の中では泳ぐしね。
 歩き出すと一日中ず~っと歩くんだ。象使いは上に乗っていて、象がいうこと聞かないと短刀で頭の皮を刺すんだよ、でも蚊が食ったくらいにしか感じないんだな。

 そうやって運んで宿営地に行って、荷物を降ろし鞍をはずすと、象を放してやる。タイやビルマは竹林がどこにも多くて、象は竹の葉と筍を食うんだな。これが象のえさだ。
 象は一メートルくらいの鎖をだらだらと引きずっているんだよ。首の下に箱をつけていてこれがカタカタとなるんで鈴の代わりだね。まわりの竹をばりばり食って歩いて、朝になるとまた戻ってきているんだな、これには感心したね。

 あるとき、山の上で夕方になって、象が嫌がって動かなくなったことがあったな。象使いがここで泊まるしかないという。でも山の上では水が無いから飯盒すいさんができないと困った。

 ところがね、象使いは、まわり生えている竹を三、四節くらい伐ってきて、持っている餅米を中にいれるんだ。そのへんでは竹の中に水がたまっているんだよ。それに笹の葉で栓をして、焚き火の上で真っ黒に焦げるほどに熱すると、竹筒から棒のようになったおこわ飯が出てくる。
 それに砂糖や塩をかけて食うと、竹の風味が合ってこれが美味いんだ。そうやって象使いに食べさせてもらったことがある。うまかったね。

 野生の象狩りをしたことがあったなあ。現地人の案内で、俺たちは機関銃を持っていった。五、六頭が群れになってるんだけど、その中の大きいのを狙ってまず一発撃つとどたーんと倒れて、ほかは逃げる。

 倒れた象はすぐ起き上がって攻撃してくるから、今度は機関銃の連射すると倒れて起ききあがれないから、近づいて大きな青竜刀みたいな刀で、まず鼻を切り落とすんだよ。滝のように血を流して象は死ぬんだ。
 俺たちは象牙をもらい、現地人は肉なんだ。なにしろ沢山の肉があるから、まわりの部落中の人たちで分けていたな。肉は野うさぎみたいで癖がなくて美味かったよ。


●インパール作戦へ

 チンドウィン川に行くまでが大変だったよ。そこまで行くのが、泰緬国境でな。日本軍はあのあたりを占領してイギリス軍の捕虜をいっぱい捕まえた。イギリス軍の捕虜を使って泰緬鉄道を作っていたんだよ。 その捕虜の衆が、日本は負けるって言うんだよ、なにをこきやがるかって…。 

 馬はみんな爆撃でだめになったから、牛に荷物をつけてな。牛は現地で強制的に徴発したんだ。苦力(人夫)もね、屈強の男をみんな捕まえてね、。
  でも、敵に近いインド国境辺りではそうしたけど、タイやビルマではそんなことはしなかったな。きちんと軍票でお金を払ったんだ。 それは支那で懲りたからだよ、支那で日本の衆はみんな悪いことをするて世界中にひろがったでな。支那でのような戦争しちゃならんとね。
  だから、ビルマやタイでは野菜でも鶏、牛でもきちんと支払ったから、日本の兵隊は評判はよかった。あとでインパール作戦に行って負けて帰ってくるなかで、ビルマ人やタイ人に助けられた人がいっぱいいた。
 チンドウィン川を敵前上陸したんだよ、工兵隊の鉄舟にのって、夜明けの暗いうちに行くんだよ。ひとり戦死した。頭の鉄兜を弾が打ち抜いてね。

●サンジャックの戦い

 第三大隊はコヒマを取れという命令だったが、コヒマに行く前に、サンジャックに行った。サンジャックはものすごい戦闘で、あれはねえ、おれらのとこの中隊が全滅みたいにやられた。
 あの頃ね、自動小銃ってのを敵は持っていてね、日本兵は支那では突撃をやってたからね、敵はそれを恐れて自動小銃を備えていたんだ。ほんの六十センチばかりの軽い銃で、弾曹をつけていっぺんに二十発でるんだよ。
 敵の兵隊一人一人全部が自動小銃を持っていて、日本兵は突撃して接近、手榴弾を投げて突っ込むんだけど、自動小銃はその前に四十~五十メートルばかりのところでダーッって撃つんだよ、みんなやられちゃう。

 それでもって第三大隊の第十二中隊がまるで全滅になる程やられた。大隊長の副官がやられたな。迫撃砲でね。まったく支那のようにはいかんかった。
 俺は大隊本部だったから、おかげで突撃にいかんかったから助かった。
 そうやってひどいめにあったけど、結局は敵は撤退していって、日本軍がサンジャックを取った。

 夜ね、サンジャックの山に上がって見てると、向うを敵が何百台ものジープでずーっと撤退していくのが見えるんだよ。サンジャックはちょっと高いところでね、ここを取るとコヒマを取るのがわけないってことなんだな。
 まあ、取るには取ったけど大変だったよ。俺たちは片付けに行ったけど、まるで敵味方の死体だらけ。激戦だったんだ。

●コヒマの戦い

 四月にコヒマを占領した。ここがインパールに行く道なんだよ、広い道路があってね。でもな、敵が優勢で制空権を敵にとられてしまって、日本の飛行機は一機も来ないんだ。占領したけどどうにもならない、爆撃は来るは砲撃は来るは、どうにもすごい。
 日本軍はコヒマの山を占領したんだが、その山に敵の飛行機がドカンドカンと爆弾を落として、そこにブルドーザーで爆撃穴を埋めながら山の上までが上がってくるんだよ。 その頃ブルドーザーなんて日本にはなくて、見たこともなかったな。
 おれたちは壕の穴の中にいるんだけど、生き埋めだよ、三分の一くらいは生き埋めになった。ブルドーザーでやられて手も足も出ないんだよ、。日本の兵隊が掘った穴をみんな埋められてしまう、たまったもんじゃない。

 そうやって山の上に上がってくるだろ、そうかとおもうと、あのころドンドン砲と名前付けたけど、十一インチもあるでっかい砲弾をダダダンと五発、機関銃みたいに撃ってくるんだよ、それが向うの敵陣に四十門も五十門もそなえてあるんだよ、それが一気にぶっぱなすんだから、煙草一服するほどのあいだに、その辺の森の木は全部吹っ飛んじゃう、もう穴の中に入っていなけりゃ生きていられない。

 だから穴の中の生活だよ。山の中に十メートルも二十メートルも横穴をほって、その中に居るんだよ。モグラだ。砲撃が始まると穴の中に居るだけ。 逃げように逃げられない、何十万という兵隊が袋の鼠となっていて、一か月もいたかな。 戦うにも補給がないから弾がないんだ、戦いようがない。

 敵はインパール作戦の前から飛行機で補給しておいて、俺たちはその袋のなかに鼠として入ったんだよ。わかっていながら袋の鼠になって戦争したんだな。敵は日本軍の後方に兵隊を飛行機から下ろして挟み撃ちにするんだよ、そこにわかっていながら入っていたんだな、日本軍は。 本当にむちゃくちゃな戦争だったよ。

 その頃ね、よくまあこげなバカな戦争と思っていたよ、オレは偉い人には言わんかったけど、こりゃ負けると思ったね。 敵は飛行機がある、ブルドーザーがある、戦車があるで、たまったもんじゃないよ、その頃日本兵はなあ、山砲の弾が一発しかないんだよ、向うは大砲を機関銃のようにバリバリ撃ってくるんだ。 日本軍は山砲がいちばん活躍したな。飛行機も機関銃もなし、戦車は運べるような地形ではなし。

  迫撃砲ってのは怖かった、まっすぐに上に飛んできて、ひゅルひゅる~って音がして山のこっち側に落ちてくるんだよ。 いやまあ、おれはこの戦争から生きて帰れんとおもったね。
 ガダルカナルってのは玉砕だって言うが、そうじゃない、潜水艦で逃げた生き残りがインパール作戦に応援に来たんだよ。 おれたち大隊本部はちょっと後方にいたから助かったんだ。
 支那では突撃に加わったこともあるけど、南方では中隊がそれをやるので、大隊本部のおらはやらんでよかった、それで助かったんだな。おかげで生きたんだな。

●飢餓と怪我と病と

 イヌの高地がいちばん激戦だったよ、大隊本部は少し離れた山の中にあった。大隊本部の給与係(注:食糧補給係のこと)をおれはやったからね。おらはそこにいて伝令に飛んだり、食うものを探して運んでやったりしたんだよ。

 戦ってる兵隊に握り飯を持っていくんだよ。昼間はおっかなくて、夕暮れとか夜明け方に持っていくんだよ。(昼間に行けと命令されて)おれは大隊長にいったもんだよ、夕方に行かせてくれと食ってかかって、大橋のいうことはもっともだと聞いてくれたことがあったよ。

 とにかくおにぎりだけもっていったんだよ、一日に二個だよ、おかずなんてないんだ、配給されたマッチ箱の中のこれっぽっち塩をなめてな、一ヶ月もたせるんだよ。
 蛇も食うし鼠も食うし、何でも食えるものは食った。とにかく蛇やトカゲは美味かったなあ、大好物だよ、トカゲは五~六貫目はあったな、美味かった。

 そうやってると野菜がないから脚気になって、脚を指で押すともとに戻らないんだよ。ジャングル菜っ葉といって、生えている草は何でも食った。毒なんて無いもんだな、何でも食ったよ、食わなけりゃ生きていられん、ひどかったな、よく生きたよ。
 でもなあ、南方は何とかジャングルに食べる植物があったけど、これが支那だったら何もなかったな。南方だからなんとかなったともいえるな。

 (後方からの)食糧補給はないんだから、夜になるとコヒマの町の民家へ、貯蔵している籾を徴発に行くんだ。鉄兜の下にかぶるヘルメットのなかに籾を入れて、それをついて籾殻を吹き飛ばして鉄兜に入れ、下のほうにある水場まで下がって夜の夜中に飯盒すいさんだよ。昼だと煙で見つかるからな。

 戦争にはシラミがつきものだったね。服を広げてつぶすけど、穴の中でも居るんだよ。
 怪我したら全部駄目になったな、俺はおかげで手榴弾の破片ぐらいなもんで、怪我しなかったんだ。みんな病気になったな、脚気だよ。野戦病院はあった、ジャングルの中にテントを張ってな。医者は軍医がいたが、医療具が無いんだな、怪我して包帯巻いても薬がないんだ、だからすぐに傷口にウジが湧くんだ、ハエが来て卵産むんだな、暖かいからね。だからね、兵隊は病気で半分、弾で半分死んだね、生きてるのは三分の一しかない。

●師団長独断命令で白骨街道を退却

 雨季になる前にインパールを落とすはずができなくて、そのうちに雨季になると敵も味方もどうしようもなくなる、戦争にならん、それまで終えるはずができんかった。
 佐藤師団長は、東条と同期生だったが、(牟田口軍司令官からの撤退命令が出されるよりも)一か月はやく撤退命令を下したんだ、これで多くの兵隊の命が助かった。
 軍の命令は天皇陛下の言葉として、どんなことでも火の中水の中でも守らんけりゃならんかったときに、佐藤師団長はえらいことをしたもんだ。

 上から行け行けって命令が出ても、飯も無いし武器もぜんぜん来ないんだから、現地で見て無理とわかってたんだな。その師団長の撤退命令が出て、おらたちは一番最後で後ろ向きに鉄砲打ちながら逃げたんだ。周りは谷から山から全部敵だから、どこか手薄なところをめがけて全火力を撃って道を空けて逃げるんだ。

 敵につかまったら自爆しろって自爆用の手榴弾をもっているからね、夕方になるとね、ガーンガーンと自爆していく。山から谷から死人で、死んで一週間もすると白骨になるんだ。もう河から山から白骨街道といわれた。人間がひとり死んで臭いのに、死人だらけの白骨街道でまあ臭いこと。裸の兵隊だな、死ぬときは真っ裸になるんだな。

 (動けなくなった兵隊が)カカや子供の写真を前において助けてくれというんだよ、でも助けるどころかこっちがまいっちゃう。死んだ人の実感になると、悲しさがあまりにも……。
 とにかくひどかったね。あんまりひどくて、親兄弟にはとても話せないことだよ。そやってまたチンドウィン川のほとりまで、やっとたどり着いた。どれくらいかかったか覚えていないね。

●終戦そして捕虜収容所へ

 支那で三年半は勝ち戦ばっかりだったが、そこでは連合軍に負け戦だよ。そうやってイラワジ川のふちまで下がって、そこでまたイラワジ作戦をやろうとして陣地構築で穴掘ったりしてたら、そこへ天皇陛下の(終戦の)命令が下ったんだ。

 そこで五十八聯隊の軍旗をみな燃やしたんだ。おらたちは泣いたね、どうなるかと思ってね。内心では、助かったかなあとおもったね。
 連合軍から、いついつどこに集結して武器を納めよとか、弾薬をいつもって行くとか、いろいろと命令が来て、武装解除された。毎日、今日はなにするか日本軍上官から命令がくるんだ。

 兵器は弾薬から鉄砲から引き上げられて空っぽになって、終戦後一ヶ月もたったろうか、ビルマのカトンというところの金網の中の捕虜収容所に行った。アメリカの兵隊が立ってるんだ。真っ黒な兵隊がいてね、夜中にぶつかっても分からん。
 それから、いくつかあったらしいが、おらはペグーの収容所に入った。どれくらい捕虜がいたか覚えてないなあ。収容所で俺たちは街や道路の復興作業の仕事をさせられた。

 でも着るものがなくてね、始めの頃は収容所に衣服も食糧も来なかったんだ。一日に米一合だった。それが一年続いたよ。そのあと二年目になったら少しはよくなったがね、腹すいたよ。
 だから俺たち仕事で外に出ているときに、留守番の兵隊が近所の農家に田植えの手伝いに行って、そこで食い物をもらって帰ってきて、それをみんなで分けて食ったんだ。そんなことしていたんだよ。

 着るものも無いから、米の入っている南京袋があるだろ、それを針金で縫って自分で半ズボンを作ったんだ。ところが、ふんどしも無いんだな、だから兵隊はみんなチョンボの頭がこすれて痛いんだよ、まあ、これにゃマイッタの、ハハハ。上は裸だよ。せつなかったな。
 でも、ビルマの人たちはいい人だったよ。そのまえに日本軍は、きちんとお金出して物を買っていたから、信用があったんだよ。

[解説]インパール作戦と高田歩兵第五十八聯隊の概要

1942年(昭17)の夏から秋にかけて聯隊は重慶攻略作戦のための猛訓練に明け暮れていたが、年末に南方戦線へ行く命令が出た。
その年の6月にはミッドウェー海戦で敗北、8月にはガダルカナル戦がはじまり、南方戦線が手詰まりになりつつあって、重慶作戦どころではなくなり、南方戦線への転進命令が下った。
そこで聯隊約5000人が揚子江を下って、上海から南方に出航したのが、1943年(昭18)1月27日であった。
当初はガダルカナルに行くはずが、ビルマ(現・ミャンマー)戦線に行くことに変った。すでに日本軍が占領していたシンガポールに2月16日に上陸し、マレー(現・マレーシア)で待機することになった。
鉄道でマレーに移動して大隊ごとに駐留地が別れたが、正平さんの所属する第三大隊はタンジョンマリム(マレー半島中部西海岸)に駐留した。
ビルマでは、日本軍が中国の沿岸部を押さえしまって、米英からの支援が受けられなくなった蒋介石の国民政府が、南方のラングーンからの支援ルートを開いていた。日本軍はこれを絶って、膠着状態になっている中国戦線の終結を図りたかった。
前年の1937年の5月までに日本軍がほぼ全ビルマを制圧していたが、1938年(昭13)になるとイギリス連邦軍と中国軍との連合軍の反攻で事態が悪化してきた。
タンジョンマリムで熱地戦闘訓練をして待機していた正平さんたちの第三大隊は、1943年(昭18)6月末に駐留地から北に向って移動を始めた。8月末にビルマ南部のペグーにつき、ここから北上していった。
正平さんたちは、インドの「インパール作戦」に参加するのである。
この作戦には3つの師団が参加したが、正平さんの高田五十八聯隊は、インパールの北にあるコヒマに向う第三十一師団(烈師団、佐藤幸徳師団長)に属していた。
ビルマ国境に近いインドのコヒマは、インパールへの主要なアクセスルートにあるので、その喉元を絞めるためである。
この行軍中にタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道が工事中であった。第三十一師団軍はその一部開通区間を使ったが、そのあとは工事中の所を歩いた。この鉄道工事で、日本軍がイギリス軍捕虜を重労働使役したことが後に捕虜虐待として戦争裁判になり、「戦場にかける橋」という映画にもなった。
「インパール作戦」は、第十五軍司令官牟田口廉也陸軍中将が立案・推進・指揮をした。目的は、連合軍が蒋介石を支援する物資輸送ルートを絶つほかに、インド独立運動とも絡む複雑な様相の作戦であった。
当初から軍内部でも、特に兵站(食糧や武器の輸送)が無理であることから反対意見が多かったが、牟田口司令官のごり押しで、1944年1月7日に大本営がGOサインを出してはじまった。
しかし、現実に戦場では武器食糧が欠乏して、物量の豊富な連合軍に徹底的に攻められて大量の戦死者を出す。司令官と現地軍で指揮の乱れが出て、撤退時期の判断を誤り、戦史上でもまれな大敗北となって敗走したのだった。
近代戦争の中の無謀な前近代的作戦の代名詞としてしばしば引用される、悪名の高い戦いである。
正平さんは実際に、戦うに武器が無く、生きるに食糧がないという戦争を体験したことを話している。正平さんの第三大隊は聯隊の中でいちばん遅く出発したので、本隊を追いかける形で国境を越えた。
雨季の最中で泥水の中を、泰緬鉄道工事中の作業現場を縫いながら、コレラの流行のなかをトラやサソリにびくつきながらの行軍であった。
ジャングルの中の戦闘を続けながら進み、1944年(昭19)3月に大河のチンドウィン川を渡ることになったが、これがじつに困難なことであった。また後の敗退時も逆方向への渡河が大変であった。
正平さんの第三大隊がコヒマに到着したのは、3月30日の昼過ぎだった。4月5日に目的のコヒマを占領した。
しかし実は、イギリス、中国、インドの連合軍は、このインパール作戦を予想して、日本軍が来る前に空輸で十分に戦闘の用意をしていたところに、日本軍は袋の鼠としてはいっていったのだった。英連合軍は制空権を押さえ、日本軍には飛行機がなかった。
英軍の猛烈な物量作戦による反攻で、日本軍はこれから4ヶ月間にわたる悲惨な戦いと敗走が始まる。
日本軍の陸上輸送は、途中の急峻な高山、ジャングル、大河で兵站線が延び切って補給が絶えたために、武器も食糧も補給のない状態で、連日連夜の英連合軍の攻撃で、塹壕にこもりきり、また逃げるばかりの悲惨なる戦場となった。
コヒマの戦闘でいちばん苦しかったのは、結局は失敗したイヌの高地防御戦線であり、中でも第三大隊の弁務官宿舎付近が最大の激戦だった。これで高田五十八聯隊は戦力を大きく失った。6月半ば、高田五十八聯隊が所属していた第三十一師団の佐藤幸徳師団長は、現地の状況から判断して6月3日からコヒマから兵站基地までいったん下がることを命令して、撤退を開始した。
これは軍司令部からの命令ではなく、現地状況から判断した佐藤の独断決定という異例のことであった。その1ヶ月後の7月15日には、牟田口司令官も正式な撤退命令を出さざるをえなかった。牟田口はコヒマ死守さらに進攻の方針であったために、それに反した佐藤は、1か月後に更迭左遷される。
5120高地で中地区隊長の指揮下にいた正平さんの第三大隊も、指揮を離れて高田聯隊に復帰し、豪雨と泥濘の中を兵站基地ウクルルに向って後退したが、そこにも食糧武器はなく更に後退を続ける。
食糧も武器も無い状態で、険しい山坂のジャングルを豪雨に打たれて歩く道なき道に死者の白骨がつらなる「白骨街道」を逃げる。
聯隊の兵員は元は5000人だったのに、後退して再びチンドウィン川を渡る頃は、動けるものは400人以下になっていた。聯隊が師団軍の最後に渡河したのは1944年(昭19)8月31日で、その後は川沿いに南下していった。
聯隊が9月末にイエウ付近に来たときは、3~400名で戦力は実質ゼロだったが、ここで補充兵を入れて部隊は1500名に増強された。
12月からイラワジ川付近でまた戦闘が始まったが、これも敗れて1945年(昭20)4月初めから退却行となる。6月にパアンにつき、ここで陣地の構築をした。
聯隊は8月16日に終戦を知り、22日に軍旗を焼いた。28日からイギリス連邦軍のもとで武装解除され、帰還まで抑留所での生活となった。
聯隊兵の最後の帰還船は、1947年(昭22)4月18日ラングーンを出港、5月12日に佐世保港に入った。正平さんは約7年半ぶりに日本の土を踏んだ。第三十一師団の参加人員約2万3千名は、その約半数にものぼる戦死戦没者をだしたのであった。
インパール作戦の大失敗について、軍法会議で作戦の誤りを暴く覚悟であった佐藤師団長は、口封じのために不起訴とされて軍法会議もなく、左遷・閑職の憂き目にあった。司令官も参謀も責任を取ることはなく、牟田口は戦後も死ぬまで作戦の誤りを認めなかった。

インパール作戦については数多くの資料がある。この解説に参考にした資料は次の通り。

・『戦史叢書 インパール作戦 ビルマの防衛』防衛庁防衛研修所戦史室1968
・『高田歩兵第五十八聯隊史』
・『君子の器にあらず』棟田宏
・『抗命』高木敏朗
・『責任なき戦場』NHK取材班 1993

3.七年半ぶりの帰郷

●戦争後遺症のマラリア

 そこで昭和二十二年五月七日に、佐世保に帰ってきた。俺たちが日本に帰ってきたのはいちばん最後の便だったったよ。十九日間もかかった。五月は寒くてなあ、南方に五年も居たから南方の体になってたんだな。
 家に帰ってきたら、それまで何の連絡もしなかったから、死んだもんだと思っていたね。
 支那では勝ち戦でよかっただったけど、インパールじゃあひどい負け戦だった。あの頃を思うと、よく生きて帰ってきたよ、文字どおり九死に一生そのものだよ。

 日本に帰ってからも、マラリアが五年間も治らんかった。中国でも南方でもマラリアにかかった。中国のマラリアは、南方よか楽なんだ。薬はね、キニーネといって黄色い薬で、帰還する人は小さなビンにみんなもらった。熱がでるとのむんだ。

 南方のマラリアは薬がきかんだった。兵隊はみんな罹った、ならんもんはひとりもおらんかった。蚊が刺すとマラリアになる。うちに帰って五年間はマラリアが出てね、出るとね、そうだな、二十日間くらいね。

 かあちゃんもらって嬉しかったが、マラリアが出ると二十日くらいはさっぱりだ。ほいたら、ばあさん、こんなとこ嫁に来て損したって、ははは。五年間くらいはそげんだった。重いマラリアだったのお、でも、五年でマラリアが治ったら、ほかの病気の菌も殺したらしく、すっかり元気になった。

 第五十八聯隊の戦友会は、昭和二十三年からやったな、それにおらは五十回でたよ、芸者あげてドンちゃん騒ぎだよ。
 聯隊でやると四~五百名だったな、五十八回までやったよ、五十八聯隊だからな。みんなだんだんと減って行ってな、それでもうやめになった。

●出稼ぎ

 あんな苦しみをやったから、日本をなんとか復興しようとがんばったから今になったんだな。だからいまは、ありがたいありがたいだよ、毎日遊んで、いやまあ、ちっとは仕事もするろも、。

 戦後は出稼ぎで、前橋で焼き芋屋をやった。三十歳で結婚してしばらくたってからで、八年やった。いい稼ぎだった。上州のあっこにはチンピラがたくさんいるんだ。リヤカー曳いてると、誰の許可でやってるんだって、リヤカーひっくり返すんだ。焼いた芋をタダで食うんだ。売り上げを食われるんだ。

 そげんことさんざんやられたなあ。そういうことやるチンピラは四、五人固まってくるんだ。こっちは生きるか死ぬかの戦争やってきたんだからな、啖呵きるんだ。
 「おれはな、この北関東の商売のバッジをもってるんだ、極東組のバッジだ、これ見ろっ、タダで食うとはもってのほかだ、前橋のどこそこの商店街にある事務所に、飯窪って親方がいるからそこに来いっ」
 そうしたらむこうはたまげちゃって、俺の屋台には来なくなったよ。そのバッジは芋屋になるとき金だして、そういう商売の親方にもらうんだな。

 いやまあ、こげん話はあんまししたことなかったこてなあ、こげん話をまとめてくれて、ありがとうよ、
 (次にだれかの話を聞くなら)歳から言うと法末で俺の次は「じんぱち」(注:大橋新司さん)だな、三つ下だ。その次は「だいこんばたけ」(内山恒郎さん)と、「ちょうえん」(大橋茂夫さん)だよ。(完)

付録 法末集落紹介

法(ほっ)末(すぇ) 山の暮しの文化と人々

●元気な高齢者たち

 2004年10月23日夕刻、中越大地震。

 長岡市小国町の法末(ほっすぇ)集落は、信濃川の西にあり、震源地の対岸側だが、こちらも大揺れ。 全54戸のうち全壊16、大規模半壊9、半壊22、一部損壊6で、道路は切断、棚田は崩れた。
 一時は全戸避難したが、二年余かかって道路や棚田の復旧はほぼできて、住家も直して8割余が戻った。 現在の居住者約90人(最盛期1960年577人)、43世帯(同101戸)。住民の約3分の2が65歳以上の典型的な長寿の山村だ。
 その高齢者たちは実に元気であり、重機の操縦、力仕事も木登りだって平気でこなす。丘の上の神社への長い石段が地震で崩落したが、平均70才の仲間で重機を操り完全修復してしまった。 山の暮らしには、技術力、体力、団結力そして経済力が備わっている。



●雪国文化を伝える

 山村の冬は人の背丈の倍以上の豪雪だが、住民はその気候と地形をうまく活用する。豪雪が解けこむ湧水が棚田を潤して美味いコシヒカリ米を作り、小千谷縮、小国和紙、唐辛子(かんずり)などは雪上の寒晒(かんざらし)でつくる。
 東隣の小千谷の縮織(ちぢみおり)は、昔は法末の女性の冬の仕事で、麻糸を撚より創意工夫した織物は結構な稼ぎだった。

 その仕事ぶりは今はそれぞれ工夫して、ご自慢の煮物や漬物など郷土料理に表れる。法末自然の家「やまびこ」では、その料理が美味い。
 法末の人たちは芸能好きだ。 伝統芸能の獅子舞「法末神楽」を折々の行事で舞う。民謡の「天神囃子」は祝い事などで、「野三階節」は盆踊りで唄うが、ユーモアと独特の哀調が心地よい。 年中行事は小正月の「賽の神」から始まり、神社の祭礼や盆踊がある。今年の賽の神では、わたしたちが作った棚田の稲藁も燃やしてもらって、無病息災を一緒に祈った。


●これからの山の暮らしは

 集落の住民は、その子どもはみな既に街に住み、自分たちも超高齢となればやむをえず街に移る。空き家や耕作放棄田畑が増えていくのは、限界集落のいやおうなしの現実である。いまや家も農地も山も、活用してくれるだれか良い人がいればぜひ任せたい、の声も聞こえてくる。それは経済的理由ではなく、村が消えてゆくことへのおそれの故なのだ。

 この豪雪の山の生活を、これからどう保ち復興するか。その一方では人口減少時代を迎えて、山の暮らしをハッピーに仕舞うことができる撤収政策も、ともに必要な現実に直面している。法末に限らず、山村民が無理なく希望を抱くことができる将来の生活計画づくりと、その現実を見据えた地道な活動が、今こそ必要だと思う。

●法末に小学校があった頃

 かつてはこの法末に100人もの学童がいた法末小学校があった。1988年に閉校、94年の長い歴史を終えた。

 そのとき村人たちは協働して「法末小学校閉校記念誌」を編修。法末の歴史、子どもの姿、村の家など愛惜をこめて記してある。
 その中に、「
皇国地誌越後国刈羽郡法末村」という古文書が引用してあり、1878年(明治11年)に、当時の新潟県令にあてて村から提出したものだ。明治のはじめ頃の村の様子がよくわかるので、要点のみを抜粋して引用し、現代文に直してみた。
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越後国刈羽郡法(ホッ)末(セ)村

沿革:大昔は不詳。文久二年(一八六二)牧野氏の長岡藩領地となり、明治元年(一八六八)大政奉還で同二年柏崎県小千谷市民政局に属し、同六年新潟県に属す。

地勢と地味:耕地は総て谷間にある。陸運は不便。地質は一様でなく、赤土が多く小石混じりで黒土は少ない。土質の四割は普通だが六割は悪く、稲、漆、蔬菜類を植えるのみ。水利は不便で旱魃に苦しむこともある。

税地:田は四〇町二反一五歩、畑は二七町四反一畝一〇歩、宅地は三町六反六畝一二歩、山は九〇町四反一七歩。

貢粗:明治八年地租米は五八石三合。土地評価額は一万二千一六三円四一銭一厘、貢租はその二%で金三〇四円八銭五厘。

戸数:明治九年一月一日調査、住宅八九戸、神社二戸、寺院一宇、計九二戸

人口:明治九年一月一日調査、平民三六五人、うち男一五四人、女二二〇人

:明治九年一月一日調査、牡馬七頭、牝馬三二頭、計三九頭。

:観音堂は東向き東西四間一尺、南北五間、敷地は東西八間二合、南北十二間。安永二年四月に同郡太郎丸の曹洞宗真福寺の十一世愚海和尚が開基、堂守は尼僧。

学校:公立第四中学区第拾七番小学校附属法末校を郷内中央の観音堂に仮校舎。生徒は男三十人、女〇、教員一人。

産業:男は農作業の間に製紙業あるいは工業に従事するものあり。女は農作業を補助し、縮織を仕事とする。明治八年の出荷量は白紙が二一一束で代価八八円六二銭、縮布は一二〇反で代価二四〇円。
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 土地の生産力を低く書いているのは、地元から出すこの文書が租税評価の元になるので、わざとそうしたのかもしれない。
 明治のはじめの法末は89戸、365人も住んでいた。130年後の今は戸数は半分、人口は4分の1に減っている。
 今はやっていないが、小千谷縮や小国和紙づくりも、重要な地場産業だったようだ。馬が39頭も飼われている。今は馬もいないし、その後にいた牛もいない。

 法末小学校は、明治のはじめに既に観音堂を仮校舎にして開校、当時は男子だけの四年制で30人の学童がいた。つまり学齢児童は六年制に直すと男女90人くらいいたことになる。学童数が最も多かったのは戦争直後の1946年(昭和21)の105人、このときは戦争疎開の子もいただろう。

 毎年100人前後いた学童が1960年代から急減するのは、戦後高度成長で都会への人口流出と深い関係があるにちがいない。閉校した1988年(昭和63)はわずか4人だった。
 その法末小学校の建物は、今は法末自然の家「やまびこ」となって、集落民のセンターとしてまた来訪者の宿泊施設として、生きつづけている。

     (伊達美徳 JSURP「PLANNNERS」2007春号)

●参照→PDF版「大橋正平戦場物語

●参照→「法末集落復興日録