朝鮮窒素肥料株式會社 發電事業 ~赴戦江第一發電所~

~事業紹介~

―赴戦江水力開発について―

発電事業は当社の根幹をなす事業である。その出力は現在赴戦江系統第四發電所と長津江第一發電所とで33万kW、将来長津江第二發電所以下が完成し、更に計画中の虚川江の水力を合わせれば朝鮮のみでも総出力は実に80万kWに達し、本邦の所謂第五電力會社を凌ぐ大電力王国の出現を見るであろう。しかもその建設費は他に見ざる低兼なものであり、且つ出力は年中不変に持続されるものである。当社事業の堅実性は先ずこの電氣事業の優越堅固なることに基礎を置く。

朝鮮における当社の発電事業は北朝の特殊の地形を極めて大胆なる計画を以てよく征服利用したものである。その規模にして性能の優秀なることは以下登載する円面写真によってもこれをうかがうことが出来るが、次に少し説明を加えてみよう。

朝鮮半島の地勢は既に述べた如くその脊椎山脈は東海岸よりに走り、東側は直ちに海に臨み峻嶺となっているが、西側は極めて緩徐たる傾斜を以て大高原を形成している。従って朝鮮に於ける大河川は豆満江を除けば多く西流して黄海に入り、北朝に於いては諸川は何れも国境を西流する鴨緑江の支流をなしている。

かかる地形に於いては非常なる大發電所を可能ならしめる方式は北米ロッキー山脈中に於いて数々見るが如く、先ず堰堤式により海抜高き地点に大貯水池を作り、kの水を更に水路式によって分水嶺の山腹を貫通してその反対側に流れる他の河川に吐きだし、以て大水量と高落差を同時に利用する方法が最も理想的である。当社の朝鮮に於ける発電事業は赴戦江水力も長津江水力も次に計画されている虚川江水力も皆恵まれた自然の地形によりこれの特殊な方式を採用して得られるものである。唯一何れも極めて大胆大規模な土木工事の断行を必要とするのは勿論である。

元来、水力利用の方法には堰堤式と水路式の二方式がある。堰堤式は水量多き河川に用いられる手法であり、普通落差の高き望まれずとこの式に於いては水力の調節保有が可能である。水路式は急勾配を成す河川のある区間に水路を造り、その取水口と放水口との二地点の落差を利用するもので普通急落差はあるが水量多きを望み得ない。当社の朝鮮に於ける発電の根本計画は前記の如く天恵の地勢を利用し極めて大規模の計画の下に堰堤式の特長と水路式の特長とを併せ有するもので、先ず一大堰堤により大量の貯水を成し、更に67里の長き隧道を抜いて分水嶺の彼方に導き一挙に高落差を得るものである。

―赴戦江發電所建設について―

赴戦江の発電工事は全て日本人の手に成った恐らくは最大の土木工事に一つであろう。次いで長津江はさらに大きな発電力を得るために施されたが、赴戦江の工事に成功せる当社に対しては最早世人は何等の疑懼なくこれを喜び迎えたのだった。

この工事に計画の大要は既に述べたので、先ず基本設計のなる直ちに準備工作として通信交通設備の新設、鉄道の敷設、工事用發電所の建設等を人煙稀なる北鮮の高原に施行せねばならなかった。蛟籠雲を描き、猛虎月に書くという工事現場は極寒零下40度に降り、屋外工事の可能なるは僅かに一年の半ばに過ぎず、準備設備の整備は最も用意周到なるを要したのである。その大要は次の如くである。

~起工~

工事は大正15年6月に起工された。建設の音は山に轟き、谷に際し延長数十哩に渡る工事場には数万人の朝鮮人が道を作り橋を架し、或いは地底深く隧道を掘削し又、白巖山頂には一挙3000尺を引き上げるインクラインが活動して人力による大自然征服の壮観がここに展開されたのであった。

~設備一覧~

運搬設備は以下の如くである。

蒸気鉄道 延長 44km

鋼索鉄道 延長 8km

軽便鐡道 延長 99km

架空索道 延長 26km

総合計 延長 177km

~工事用電力設備~

工事用電源は以下の發電所より送電を行うものである。

永高火力發電所 2100kW

道安水力發電所 800kW

漢垡里水力發電所 400kW

興南火力發電所 800kW

総合計 418kW

工事用送電配電線 410km

工事用電話線 1800km

~堰堤築造用諸機関設備~

工事用建設機関は以下の如くである。

砂利運搬用鐡道(複線) 5哩

砂利21トン蒸気機関車 4両

5トン砂利用ダンプカー 150両

スチームショベル 4台

21トン大型混合機 17台

運搬用ガソリン機関車 5両

コンクリート運搬車 50両

その他クレーン等 数両

~赴戦江貯水池(ダム湖)~

赴戦江發電所の貯水池赴戦江湖は周囲19里半面積1方里半で、大堰堤によって堰き止められた河流は山々の麓に湛えられて各所に人工の島や岬を出現せしめ、奇巖勝景に富む変化曲折極めて複雑なる周辺を持つ湖水である。

~赴戦江揚水場~

赴戦江の貯水池は第一貯水池の外、下流に更に第二、第三と堰堤を作って貯水し、これをポンプで汲み上げて順次上の貯水池に送り、貯水量の増加を計っている。このポンプも東洋一と言われるものであり、發電所低負荷時に堰堤内部より汲み上げ、突発的な電力需要に応じてる。

~原生林と製材運用~

赴戦江貯水池を周る山々は原始林を以て覆われている。朝鮮窒素肥料では総督府の許可を得て、これ等の木材を伐り出し直営の製材所に於いてこれを製材している。この木材は工事用の材料として又、興南工場付近の製箱工場に於いては製品用の荷造り箱を製作する。

赴戦江第一發電所

第一赴戦湖 航空写真より望む

※2018年現在

赴戦江第一堰堤 航空写真より望む

※2018年現在

赴戦江第一堰堤及び第二赴戦湖と赴戦江第一揚水機場 航空写真より望む

※2018年現在

赴戦江第一揚水機場を望む

※現役稼働

第二赴戦湖 航空写真より望む

※2018年現在

赴戦江第二堰堤 航空写真より望む

※2018年現在

赴戦江第二堰堤 赴戦江第二揚水機場放水口 航空写真より望む

※2018年現在

第三赴戦湖 航空写真より望む

※2018年現在

赴戦江第三堰堤 航空写真より望む

※2018年現在

赴戦江第二揚水機場を望む

※現役稼働

第一赴戦湖及び赴戦江第一發電所 取水口 航空写真より望む

※2018年現在

赴戦江第一發電所 取水口 航空写真より望む

※現役稼働中にて流木混入防止柵あり

※2018年現在

赴戦江第一發電所 上水槽及びバルブ室を望む

※2018年現在 稼働中

赴戦江第一發電所 全景

※建屋ー上水槽

赴戦江第一發電所 建屋及び所内變電所を望む

2018年現在 稼働中

第一赴戦湖景観 辨天島より望む

山頂より赴戦江第一堰堤を望む

第一赴戦湖景観 遊覧船を望む

※日本人向け船舶

弁天島より第一赴戦湖景観を望む

山の上ホテルより弁天島を隔てて第一赴戦湖景観を望む

第一赴戦湖景観 翠岩岬を望む

赴戦江高原を行く朝鮮人の女性

※開拓地 赴戦江高原にて撮影

赴戦江高原の開拓を強制される朝鮮人と牛

※赴戦江高原にて撮影

赴戦江高原 原始林を利用する感地院製材所

建設中の赴戦江第一堰堤を望む

赴戦江堰堤工事区間付近を望む

※写真右上が堰堤設置個所

上流より赴戦江第一堰堤を望む

竣工直後の赴戦江第一堰堤を望む

~昭和6年8月 撮影~

竣工直後の赴戦江第一堰堤を望む

~昭和6年8月 撮影~

第二赴戦湖景観を望む

赴戦江第二堰堤を望む

赴戦江第一揚水機場を望む

※東洋一の揚水量を誇る

赴戦江第一揚水機場 ポンプ室を望む

赴戦江第一揚水機場 電業社納品ポンプを望む

赴戦江第二揚水機場を望む

※東洋一の揚水量を誇る

建設中の赴戦江第一發電所 取水口を望む

竣工直後の赴戦江第一發電所 取水口を望む

※ゲート室の横に建設用インクラインが残る。

隧道巻き立て完了区間を望む

※コンプレッサーの前 常務取締役「久保田豊」

コンプレッサー奥 朝鮮人工夫

第二横坑を望む

※朝鮮人少年

斜坑 土砂吐きインクラインを望む

※日本人労働者

竪坑 土砂吐きエレベーター室

※扉左 日本人労働者

扉右 朝鮮人

建設中のサージタンクを望む

鉄管隧道巻き立て工事を望む

※左 日本人

右二人 朝鮮人

鉄管隧道 接続工事を望む

バルブ室を望む

新興鐡道 松興線 鉄管運搬風景

※運搬軌道として発足

鉄管据付工事を望む

鉄管据付工事を望む

鉄管据付工事を望む

※100馬力の重量物引揚用鋼索鉄道と上架移動起重機

竣工直後の鉄管を望む

※右奥に見えるのが東洋一のインクライン

尾根に沿う鉄管、建設用軌道を望む

山頂より鉄管路を望む

※全長3km、直径2mの鉄管4条である

下流 城川江へ放水

赴戦江第一發電所 全景を望む

赴戦江第一發電所 全景を望む

赴戦江第一發電所 発電室を望む

赴戦江第一發電所 制御室及び制御盤を望む

赴戦江第一發電所 所内一次變電室を望む

※所内配電用に降圧

赴戦江第一發電所 地下ケーブル室を望む

赴戦江第一發電所 所内變電所を望む

赴戦江第一發電所 対岸より所内變電所を望む

興南工場 屋外變電所

~昭和10年頃 撮影~

※赴戦江第一發電所より一回線は直送

興南工場 110KV変圧器

~昭和10年頃 撮影~

赴戦江第一發電所 周辺全景を望む

※写真左の鐡道は東洋一のインクライン(松興線) 中央部の建屋は社宅、合宿倶楽部

赴戦江第一發電所 事務所

松興里小学校

※朝鮮人日本語教育施設

赴戦江水力事業 全断面図

赴戦江水力及び長津江水力 全体図

長津江水電 常務取締役 久保田豊

※以前は赴戦江發電所建設に従事

長津江水電 常務取締役 久保田豊

※以前は赴戦江發電所建設に従事

長津江水電 常務取締役 久保田豊

※日本に帰国後に日本窒素と共同にて現在「日本工営株式会社」を設立

~感想~

赴戦江は(ふせんこう)と日本人によって名付けられた地名だそうです。赴戦江は昔から高原が広がっており、冬場の渇水さえ対応できれば大電力貯水ができる地点として朝鮮窒素が以前から目をつけていたそうです。当時は高原に畑を営む朝鮮人がいたそうですが、支配下にあったこともあり強制立ち退きをしたのではないかと思います。写真にも何度か朝鮮人が出てきていますが、歴史の教科書では教えてはならない写真が多いので少し平成生まれの私でも「何人?」って思うところが多々ありました。

堰堤の建設は第一發電所として利用するのは赴戦江第一堰堤のみですが、中国方面に流れていくのが本来の河川ですが、3つの堰堤によって越水分を堰き止めては發電所低負荷時に2つ揚水機で第一堰堤に汲み上げていました。航空写真では現在も使用しているようなので、かなり需要があるのだと思います。本来ならば、一河川同取水同放水が決められていることなのですが、戦前でしかも支配下である朝鮮では法律を捻じ曲げるのが当たり前だったのか、本来流れていくはずの河川が故意に渇水を起こす恐ろしい世界であるのがよくわかります。

發電所建設にはその後の利用目的として新興鐡道株式會社が松興線として観光用に利用しています。傾斜が東洋一ということもあり、日本では白山連峰をそのまま鐡道で登っていくみたいなものではないかと思います。主に資材運搬と鉄管の据付を容易にするために發電所導水路にそって敷設されています。この鉄道も現在利用されているのか、駅名がハングルで表示されていました。

第一發電所放水後は第二、第三、第四と下流に向かって棚田方式で放水、取水を繰り返しているようです。

現在もこの一連の發電所が稼働しているのは本来はあってはならないことです。支配下にあったのであれば運転できないように処置をしてから帰国しないといけないところを、終戦直後に朝鮮窒素は解体されていますが当時興南工場の従業員であった金一家が後にこの一連の發電所、工場を利用して化学兵器生産を開始しているとのことです。

↑この話の続きは別ページで又掲載しておきます。

早く壊れろと發電所に恨みを持ったのはこの發電所が初めてです。

平成30年4月8日 執筆