論文20 すべての人は復活する!
第一部 だれが復活しますか? 復活しない人がいますか?
2015/02/09
⑳-1.イエスは、次のように言いました。
「あなたの中でなされた強力な業がソドムでなされていたならば,ソドムは今日この日に至るまで残っていたからです」。 (マタイ11:23)。
つまり、もしイエスご自身がソドムで伝道してたなら、ソドムは滅びなかったことでしょう。ですから、彼らには機会が与えられさえすれば悔い改める可能性もまだ残っているはずでした。であれば、彼らにはまだ情状酌量の余地があります。つまり、彼らは永遠の滅びを被ったとは言えません。
もし、イエスご自身が
ソドムで伝道していたなら、
ソドムは滅びなかった。
つまり、機会さえ与えられれば、
彼らは悔い改める可能性があった。
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⑳-2.しかし、以下の聖句をどう考えるべきでしょうか。
「ソドムとゴモラおよびその周りの都市も・・・,永遠の火による司法上の処罰を受け,警告の例としてわたしたちの前に置かれています」。(ユダ7)。
確かに、神からの火により、ソドムという都市は永遠に失われてしまいました。それは、来るべき滅びのひな型でした。しかし、上記で説明したように、ソドムの住民、人々、一個人一個人にはまだ情状酌量の余地があるのです。ですから、彼らはもう一度楽園で復活し、神からの教育を受ける機会にあずかることになると言えます。
確かに、「都市」そのものは永遠に滅びたが、
「住民(人々)」には情状酌量の余地がある。
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⑳-3.では、だれが復活するのでしょうか? 聖書によると、義者も不義者も復活するはずです。では、不義者のうちだれが復活しますか? だれが復活しませんか? エホバ神はむやみに人を滅ぼすことを望んでいません。できるだけ多くの人を最善の手を尽くして救おうとしておられます。ということは、エホバ神は彼らに考え得る「最高度の機会」をもお与えになるはずです。
エホバ神は罪人を救うために、
「最大限の努力」を払う。
ということは、
ソドムの人々にも「最高度の機会」が
与えられるはず。
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⑳-4.例えば、アダムは罪を選択した時、まだ「不義の結果」を見ていませんでした。彼はそれをまだ知らなかったのです。もし、彼が不義の結果をすでに見ていたなら、同じ選択をしなかったかもしれません。
逆に、ソドムの人々は「不義の結果」しか見たことがありませんでした。「義の結果」(楽園)を経験したことがありません。ですから、復活して、楽園でそれを経験することになるでしょう。
つまり、人は「義の結果」と「不義の結果」の両方を経験することで、初めて選択肢を得ることになります。その選択肢を得て初めて、彼らはそのどちらを選ぶかを決めることができるのです。両方を知らずに、どのようにどちらかを選ぶことができるでしょうか。
とはいえ、義人たちは、まだ「義の結果」(新しい地、楽園)を見てはいませんが、それを信仰のうちに見ることができます。ゆえに、義を選択することができるのです。
「最高度の機会」とは、
不義の結果(サタンの世)と
義の結果(楽園)の両方を経験し、
選択することができる状態。
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⑳-5.私の考えでは、アダムを含め、すべての不義者が復活するでしょう。イエス=アダム、イエスの腰の実=アダムの子孫に対応しているので、イエスはアダム自身とその子孫すべてを買い取ったと言い得ます。
アダム=イエス(釣り合う、同価値)
イエスの腰の実=アダムの子孫
イエスは腰の実だけを捧げたのではない。
イエスはご自身の「体全体」を
差し出したゆえに、その犠牲により、
アダム個人をも買い取ることができた。
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⑳-6.アダムも他の不義者も、まだ「義の結果」と「不義の結果」の両方を経験していません。ゆえに、復活してその機会が与えられるでしょう。そのようにして、死者すべてが復活した時、死人は一人もおらず、こうして死の力は完全に相殺されて無力となり、イエスは死を征服したと言い得るのです。
確かに、一部の不義者は「裁きの復活」という結果になるかもしれません。しかし、公正の神は、彼らに考え得る最高度の機会を与えるでしょう。打てる手はすべて打つはずです。
しかし、だれが復活するかどうかは、個人の信仰(読者であるあなたの信仰)とは関係がありません。各人はその点で(誰が復活するかどうかという)不必要な論争に没頭するよりも、自分とエホバ神との関係を強化し、こうして楽園に生活するに値する者とみなしていただけるように努めることを優先すべきでしょう。
アダムを含め、すべての人が
復活する(死者がいなくなる)ことにより初めて、
死の力は無力化され、死を征服したと言い得る。
第二部 楽園ですべての人は復活する
2016.07.04.
⑳-7.これまで、エホバの証人を始め、他の復活信仰者たちは、ある人たちは復活しないだろうと考えてきました。
ですが、王なるイエス・キリストによって、あらゆるものは征服されてゆき、「最後の敵として、死が無に帰せしめられ」ます。つまり、イエスはこれまで人類に及ぼしてきた「死」の影響力を完全に相殺するということに他なりません。
ということは、これは、今まで死んだ「すべての人」が、誰一人例外なく生き返るということを意味しています。さもなければ、死を完全に「無」には帰せしめられないでしょう。(コリント第一15:20-28)。
過去に死んだ人は
誰一人例外なく生き返る
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⑳-8.では、アダムや、ノアの大洪水で滅んだ人々、また今後ハルマゲドンで裁かれる人々でさえも復活するのでしょうか。結論から言うと、「はい」です。
事実、比較として考えるべき点として、サタンと悪霊たちはもうかれこれ6000年間も、一個の人間などよりはるかに邪悪な事柄をたくさん行なってきましたが、それでも、千年統治の終わりまではその存在が許されているのです。その彼らに比べて、アダムにせよ、他の人々にせよ、それほどまでに邪悪な業を成し得た人が一人でもいるでしょうか。もちろん、「いいえ」です。
ですから、ある人(人間)は復活に値しないほど、つまり存在するに値しないほどまでに、邪悪であるとは言えません。悪霊たちでさえも、未だに存在することが許されているのです。
アダムも、大洪水やハルマゲドンで
滅びた人たちも、全員復活する。
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⑳-9.それにしても、復活の根拠となるイエスの贖いは、アダム個人にも適用されますか? これも結論から言うと、「はい」です。
イエスは、アダムと同等の犠牲を捧げた際、アダムの腰の実である私たち全人類をも買い取られました。(ローマ5:12-14。また、ヘブライ7:8と比較)。つまり、イエスはアダムその人の代わりとなることで、アダムその人を買い取り、同時にその腰の実である子孫全員を買い取ったのです。ですから、贖いの効力はアダム個人をも包含しています。また、エバはそもそもアダムのあばら骨でしたから、やはり彼女をも包含しています。
例えば、戦場で人質交換をする際に、こちらの陣営から敵陣に身代わりの人(Aさん)を送ったとしましょう。では、敵陣からは、帰ってくるはずである人質(Bさん)の、何と生殖器だけを切り離して送り返してくるなどということがあるでしょうか。いいえ、そうではなく、やはり、その人質(Bさん)その人(全身、全体)をそのまま送り返してくるはずですし、こちら側もそれを念頭に置いて身代わりの人(Aさん)を送るはずです。
私たち子孫はアダムの腰の実、エバはあばら骨です。イエス(Aさん)とアダム(Bさん)は同等のものとして人質交換されたのですから、やはり、アダムその人(全身)も「死」という敵陣から帰ってくるはずなのです。
イエスの贖いによって、
アダム個人をも買い戻すことができる。
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⑳-10.しかし、アダムは神の子であったのに、意図的に罪を犯したのではありませんか。これも先に挙げたように、悪霊たちと比較すれば分かることです。彼らもやはり神の子で、意図的な選択により堕落して悪魔になりましたが、それでも存在が未だに許されています。その彼らに比べて、アダム個人が存在に値しないと言い得るほどの邪悪な業を行なったとは考えられません。
それに、アダムにも情状酌量の余地があります。つまり、彼以前には地上に罪人はおらず、警告となる例は一つもなかったのです。もし、罪の結果が悲惨なものであるということを、私たちと同様に経験し、十分に知っていたなら、あの状況でアダムは罪を犯さなかったかもしれません。
ですから、私たちアダムの子孫は生まれながらに罪人であるゆえに情状酌量されていますが、アダムの場合は警告の例がなかったゆえに情状酌量の余地があると言えるのです。ゆえに、イエスの贖いはアダム個人にも適用され、彼は復活することになるでしょう。
アダムにも、情状酌量の余地がある。
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⑳-11.では、気になるハルマゲドンで滅ぼされる人たちについてはどう言えますか? 先に考えたように、裁かれるとはいえ、彼らのうちの誰も、悪霊たちよりも邪悪な業を成し遂げ得る者は一人もいません。それは、ノアの大洪水やエルサレムの滅びなどで死んだ人たちにも言えることです。
基本的に、そのような裁きの意義というのは、その時代その時代における邪悪な社会情勢を一旦リセットするということにこそあります。そして、心の正しい人だけを残して、再び新たな社会をスタートさせます。ノアの大洪水はその顕著な例です。
要するに、神の裁きとは清めであり、ふるい分けです。そのような「大掃除」は飽くまで人類社会をできるだけ健全な仕方で継続させるためのもので、ことさら人々を永遠の滅びに投げ込むためのものではありません。
それは今後起きるハルマゲドンについても同様です。一旦、この事物の体制をリセットするのが目的です。それを考えると、その際に、神とキリストに聞き従う人々だけが生き残れることは理にかなっています。つまり、そういう義なる人たちが新しい社会の中核となり、基礎となって再スタートすることにより、公正で平和な世の中に作り変えていくことができるからです。
ハルマゲドンで滅ぼされる人たちは、生き残った義なる人々が新しい義の社会を十分確立した上で、つまり、楽園となった社会で、復活し、もう一度チャンスが与えられることになるでしょう。そのようにして、千年王国の王イエスは、死を無に帰せしめます。
ハルマゲドンで滅ぼされる人たちも、
楽園でもう一度チャンスが与えられる。
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⑳-12.では、結局のところ、全員が復活するのであれば、今の人生を好きなように生きたっていいじゃないかと思いますか? そう考えるのはその人の自由です。とはいえ、そのような選択の結果責任はやはりその人自身が負わねばなりません。
神に従う生き方と、自分勝手に生きる生き方と、どちらが幸福な人生になるのかは明らかです。つまり、そのように理解できる人にとっては。
今、神が求め、集めているのは、そのような神の教えの価値を識別できる人たちです。そのような人は是非、神からの訓練を受け入れて、試練を耐え抜き、神に選ばれるにふさわしい者となれますように。そのような人は、ハルマゲドンを生き残り、かつ一度も死を経験することなく、永遠の命を受け継ぐという特権にあずかることになるでしょう。