論文05 エリヤの音信に注意を払い
キリストを迎え入れる用意をする
「見よ、エホバの大いなる、畏怖の念を抱かせる日の来る前に、
わたしはあなた方に預言者エリヤを遣わす」。
マラキ4:5
2012/03/15
⑤‐1.上記の聖句にある「エホバの大いなる、畏怖の念を抱かせる日」とはいつのことですか。
確かに、過去にも「エホバの日」は到来しました。しかし、全地球的な規模で、かつサタンの体制全体をも滅ぼす現代のエホバの日が間もなく来るのではありませんか。
しかし、マラキが述べたように、その日が来る「前に」預言者エリヤが「あなた方」つまり、私たち神の民に遣わされることになっているのです。
この現代のエリヤとは何ですか。また、なぜエリヤは遣わされるのですか。
現代のエリヤとは?
★聖書預言の解明方法については
論文02の2節を参照のこと。
⑤‐2.確かに、1世紀の弟子たちもそれと同じ質問をしました。それに対してイエスはこう言われました。
「…確かにエリヤが来て、すべてのものを回復します。しかし、あなた方に言いますが、エリヤはすでに来たのですが、人々はそれを見分けず、自分たちの望むことを彼に対して行なったのです…」。
その答えを聞いて弟子たちはそれがバプテストのヨハネのことであることに気付きました。(マタイ17:10‐13)
⑤‐3.確かに、ヨハネはキリストの先駆者となり、神の民が悔い改めて約束のメシアを受け入れる準備ができるように道を整えました。
その点について、マラキ3章1節には、「見よ、わたしは自分の使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整えなければならない」と言われていました。(マタイ11:10)
さらに、その後に起きることについて、「『また、あなた方の求める、まことの主がその神殿に突然に来る。そして、あなた方の喜ぶ契約の使者が。見よ、その者は必ず来る』と万軍のエホバは言われた」とマラキは記しています。
1世紀にエルサレムの神殿に「突然に来た」のはだれでしたか。そうです、約束のメシアであるイエス・キリストでした。民はメシアを求めており、待ち設けていました。(ルカ3:15)
⑤‐4.さらに、メシアが到来し、杭に掛けられてから37年後の西暦70年に、エルサレムはローマ軍に滅ぼされました。
それは1世紀のユダヤ人の体制に臨んだ「エホバの日」だったのです。ですから、マラキの預言のとおり、エホバの日の来る前に預言者エリヤと約束のメシアは到来し、神の民にその滅びを警告しました。
実際、イエスの警告どおりに忠実に行動した1世紀のクリスチャンたちはこのエルサレムの滅びから逃れることができたのです。
それは、現代にどのように成就しますか。
1世紀のエリヤは
バプテストのヨハネだった。
では、現代は?
神の民が心に留めるべき音信
⑤‐5.まず、エリヤが神の民に遣わされる理由を考えてみましょう。
それについて、マラキ4章6節には、「そして彼は、父をその子に、子の心を父に立ち帰らせるのである。それは、わたしが来てまさに地を打ち、それを滅びのためにささげることのないためである」とあります。
改めて注意を向けますが、エリヤはだれに対して遣わされますか。エホバを知らない諸国民にですか。
いいえ、エホバを崇拝している神の民に遣わされるのです。それは、その「心を立ち帰らせる」ためです。
実際、1世紀の神の民には悔い改めることが勧められました。バプテストのヨハネは「悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と神の民にふれ告げました。(マタイ3:2)
エリヤは「神の民」つまり、
エホバの証人に対して遣わされる。
⑤‐6.実際、その時悔い改めることは大変重要でした。ヨハネの勧めを軽く見た者たちは、とうとう約束のメシアをさえも退けてしまったのです。
しかし、その勧めに心を留めた誠実な人々はイエス・キリストを迎え入れました。(ルカ7:29‐30、ヨハネ1:35‐37)
ですから、現代の神の民に遣わされるエリヤの勧めに注意を払うことは大変重要です。間もなく、イエス・キリストは「その神殿に突然に来る」からです。
それは神の民の大半が予期していない時に現われます。では、イエスは何のために神殿に来られますか。
⑤‐7.イエスが大変目立った仕方で神殿のあるエルサレムに入城されたのは、西暦33年のニサン9日のことでした。
その出来事が、「見よ、あなたの王があなたのもとに来る。気質の温和な者であり、ろばに乗って、それも、駄獣の子なる子ろばに乗って」というゼカリヤ9章9節の預言の成就であったことをマタイは説明しています。(マタイ21:4‐5)
あなたはイエスが私たちと共に宴会などを催して楽しむために来るのだと思いますか。
確かに1世紀の神の民であったユダヤ人の多くがこの入城の時にイエスを歓呼して迎え入れましたが、彼らはイエスが来た真の目的を正しく理解していませんでした。
⑤‐8.その入城の後のことを、ルカはこう記しています。
「…そして市の近くに来た時、イエスはそれを眺め、それのために涙を流して、こう言われた。
『もしあなたが、そうですあなたが、この日に、平和にかかわる事を見分けていたなら ―しかし今、それはあなたの目から隠されているのです。あなたの敵が、先のとがった杭でまわりに城塞を築き、取り巻いて四方からあなたを攻めたてる日が来るからであり、彼らは、あなたとあなたの中にいるあなたの子らを地面にたたきつけ、あなたの中で石を石の上に残したままにはしておかないでしょう。あなたが自分の検分されている時を見分けなかったからです』」。(ルカ19:41‐44)
そうです、イエスは神の民を検分するために来られたのです。
同様に、イエスはまもなく現代の神の民であるエホバの証人の組織を検分するために来られるでしょう。
1世紀と同様に、
まもなく、イエスご自身が
神の民(エホバの証人)を検分するために来る。
⑤‐9.これらの考察から、「現代のエホバの大いなる日の来る前に、預言者エリヤがキリストによる検分に備えて神の民を整え、その後にイエス・キリストが現代の神の民を検分するために来られる」と結論できます。
しかし、イエスはどこに来られることになっていますか。その神殿につまり、現代の地上の神殿級である、油そそがれた統治体のいるエホバの証人の世界本部にです。
実のところ、20世紀に、一度世界本部はイエスによる検分を受けました。それはラッセル兄弟の死後、ラザフォード兄弟の時代にです。
その時のことが「エホバの証人 神の王国をふれ告げる人々」の66‐69ページ、「監督権を得ようとする企て」に詳しく書かれています。
それは、当時の聖書研究者のほとんどが油そそがれたクリスチャンの時代でした。今日、神の民のほとんどがほかの羊という状況であれば、なおのことそれと同じことが起きるのではありませんか。
①まず、現代のエリヤが遣わされる。
②次いで、イエスが検分するためにニューヨークの世界本部に来る。
⑤‐10.実際、イエスはこう言われました。
「わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく、剣を投ずるために来たのです。わたしは分裂を生じさせるため、男をその父に、娘をその母に、若妻をそのしゅうとめに敵対させるために来たからです。実際、人の敵は自分の家の者たちでしょう」。(マタイ10:34‐36)
現代のイエスの検分の時に、神の「家」の中でもこれが起きるでしょう。私たちはふるいにかけられ、イエスに忠実な人たちと忠実でない人たちとに分けられるのです。
ですから、先程挙げた資料やまたエホバの証人の年鑑などを読み返して、現代のエホバの民に対して、過去にそのような検分がどのように行なわれたのか、またその時何が起きたのかを調べるなら、この裁きの重要性を認識できるでしょう。
そうです、神の民は再び裁きを受けることになっているのです。
神の民に対する裁きは必ず起きる!
⑤‐11.と言っても、私たち神の民だけが裁きを受けるというのではありません。最終的には諸国民すべてに、さらには悪霊たちにもその裁きと処罰は臨むことになっているのです。
しかし、その一連の裁きのまさに一番最初に私たち神の民は裁きを受けることになっています。その点を、ペテロはこう言いました。
「…今は、裁きが神の家から始まる定めの時だからです。さて、それがまずわたしたちから始まるのであれば、神の良いたよりに従順でない者たちの終わりはどうなるでしょうか」。(ペテロ第一4:17)
それと同じく、神の民に対するエホバの裁きの執行の様子をエゼキエルは幻で見ました。
その裁きの執行者たちに対して、エホバは「あなた方はわたしの聖なるところから始めるべきである」と言われました。そして、「家の前にいた老人たち」からその裁きは始まったのです。
「家を汚し、中庭を打ち殺された者で満たせ。行け!」とさえ言われている状況をあなたはどう思いますか。(エゼキエル9章)
一連の裁きの一番最初に、
神の民(エホバの証人)が裁きを受ける。
⑤‐12.ところで、恐らく、ある人々は、「イエスがそのような裁きを自分たちに臨ませるなど考えられない。むしろエホバとイエスはご自分の民を保護してくださるのではないか」と考えるかもしれません。
しかし、「…『これらはエホバの神殿だ、エホバの神殿だ、エホバの神殿だ!』という惑わしの言葉を信頼してはならない」とエホバは言われました。(エレミヤ7:4)
ですから、先程挙げた20世紀の例からも明らかなように神の民にも裁きは臨むのです。
むしろ、神の民に悪いことは生じないと主張するのは偽預言者たちです。
「…そして、彼らはわたしの民の崩壊を軽くいやそうとして、平和がないのに、『平和だ!平和だ!』と言う」。(エレミヤ6:14)
しかし、あなたは自分たちに不利な話を聞きたくないと思いますか。
「…それで今、エホバのこの言葉を聞くように。『イスラエルを責める預言をしてはならない。イサクの家を責める言葉を出してはならない』と、あなたは言っているのか」。(アモス7:16)
実際、それは私たち神の民が滅びから救われるための音信なのです。ですから、たとえその助言が私たちの耳に痛く感じるとしても、真剣に注意を払うべきではありませんか。
「愛する者の負わせる傷は忠実」なのです。(箴言27:6)
また、こうも言われています。
「…確かに、どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに思えず、かえってつらいことに思えます。しかし後には、それによって訓練された人に、平和な実、すなわち義を生み出すのです」。(ヘブライ12:11)
ですから、共に曇りのない心で、このエゼキエル9章の幻を吟味することは、私たちにとって真の益となります。
自らに不都合な話であっても
曇りのない心で吟味すべき。
⑤‐13.エゼキエル9章に記されている裁きは「家」つまり神殿の前にいた老人たちから始まりました。
ですから、現代においてこの裁きは地上の神殿級のいるエホバの証人の世界本部の監督たちから始まるでしょう。実際に、20世紀の例がそうでした。
「家を汚し」と言われているような、私たちにとって信じられない事態が起きても驚き慌てて冷静さを失ってはなりません。
しかし、イエスは何を根拠に私たちを裁かれるのでしょうか。その点でエゼキエルの幻は私たちに洞察を与えます。実際、イエスが私たちの不忠実以外の何を裁くことがあるでしょうか。
それで、神の民が不忠実になり、裁きを受けることに関する聖書中の物語がいくつかありますので、その点を考察してみましょう。
もし、神の民(エホバの証人)が
裁かれる事態が生じても、
動揺してはならない。
神の民に対する裁きを預言的に示した物語と聖句
⑤‐14.エホバはエレミヤにこう言われました。
「…しかし今、わたしがわたしの名を最初に宿らせた、シロにあったわたしの場所に行き、わたしの民イスラエルの悪のためにわたしがそれに対して行なったことを見よ」。(エレミヤ7:12)
これは、イスラエルが約束の地に入ってから最初にエホバの幕屋を置いたシロについて述べたものです。そこでの奉仕はエホバの目に悪とされたので、結局退けられました。
その時の様子がサムエル第一1‐4章に記されています。その当時の大祭司はエリで、二人の息子ホフニとピネハスはエホバに不敬な振る舞いをしました。(サムエル第一2:12‐17、22‐25)
さらに、神の人が遣わされ、エリの家は祭司職から退けられると預言しました。これは、実際にソロモンの時代に成就しました。(サムエル第一2:27、36、列王第一2:27)
そして、このエリの二人の息子たちは戦いで同じ日に死に、さらには契約の箱までが敵に奪い取られてしまいました。その報告を聞いたエリは席から落ちて首が折れて死にました。(サムエル第一4:17、18)
エレミヤに言われたように、エホバは大変厳しくシロでの神の民の悪行を裁かれました。
エホバは神の民の悪行を
実際に裁いてこられた。
⑤‐15.とはいえ、確かに、エリは息子たちに助言したのです。しかし、息子たちはその行ないを改めませんでした。
ここで、重要なのは、祭司エリが息子たちの悪行を容認していたという点です。彼は大祭司の職権を行使して下位の祭司である彼らを処罰すべきでした。
この祭司が民の悪行を容認するという似たパターンは別の例でも見られます。
それは、祭司として正式に任命される前のアロンが、民の子牛崇拝を容認したという出エジプト記32章の事例です。それは、モーセがシナイ山に登って留守にしていた時のことでした。
先程のエリの場合も、このアロンの場合も、祭司級が従属の監督たちや民の悪行を容認していたゆえに、これほどの裁きを受けたというのが重要な点です。
さらに、このアロンの事例では、それに対する処罰についても記されていますので、さらに詳しく見てみましょう。
共通しているのは、
祭司が民の悪行を容認していること。
⑤‐16.まず、山の上のエホバのもとからモーセが降りてきて、待っていたヨシュアと共に民のところに戻りました。(出エジプト記24:12‐13、32:15‐17)
そして、民の不忠実な行為を見てモーセは憤り、アロンを問いただしました。そして、「エホバの側にいる者はだれか。わたしのもとへ!」とレビ人たちに呼びかけました。
そして、こう命じました。「あなた方は各々剣を帯びよ。宿営の中を通り、門から門に戻って、各々自分の兄弟を、各々自分の仲間を、各々自分の近しい者を殺せ」。(出エジプト記32:26‐27)
もし、あなたがその時、呼びかけられたレビ人の一人ならその呼びかけに応じたでしょうか。まさにこの状況は先程挙げたイエスの言葉のとおりです。
「私は…剣を投ずるために来たのです。わたしは分裂を生じさせるため、男をその父に、娘をその母に、若妻をそのしゅうとめに敵対させるために来たからです」。(マタイ10:34‐36)
ですから、この物語のモーセとは神の民を裁くために天から下ってこられるイエス・キリストであることが分かります。
モーセ=イエス・キリスト
イエスは
神の民(エホバの証人)を
裁くために来る。
⑤‐17.さらに、それと類似した聖句はゼカリヤ13章7‐9節にもこうあります。
「『剣よ、わたしの牧者に向かい、わたしの仲間たる強健な男子に向かって目を覚ませ』と、万軍のエホバはお告げになる。『牧者を打って、群れのものたちを散らせ。わたしは必ず、取るに足りない者たちの上にわたしの手を戻す』。『また、その全土で必ずこうなる』と、エホバはお告げになる。『すなわち、そこの三分の二が切り断たれて、息絶える。あとの三分の一はずっとそこに残される。そしてわたしは必ずその三分の一に火の中をくぐらせる。わたしは、銀を精錬するようにして彼らをまさに精錬し、金を調べるようにして彼らを調べる。それはわたしの名を呼び求め、わたしはそれに答える。「これはわたしの民である」とわたしは言い、「エホバはわたしの神です」とそれは言うであろう』」。
確かに、「牧者」である監督たちが打たれるとあり、これはエゼキエル9章の幻と同じです。
そして、民は散らされ、三分の一しか残されず、それらも火によって精錬されます。この精錬もマラキ3章1‐4節と同じです。
このようにして、エホバの民はエホバの大いなる日の来る「前に」、諸国民に先立って裁きを受け、精錬されることになるでしょう。
神の民(エホバの証人)は精錬される!
エホバに教えられた者となる
⑤‐18.ここでは、あえてこれらの物語や聖句の細かな適用を説明しませんでした。なぜなら、それを聞くことを望まない人たちがいるからです。
しかし、それをもし知りたいと望む人がいるなら、そうすることもできます。実際、イエスが例えをもって民に語りかけたのはそのような目的のためでした。
「…わたしが例えを使って彼らに話すのはこのためです。すなわち、彼らは見ていてもむだに見、聞いていてもむだに聞き、その意味を悟ることもないからです。イザヤの預言は彼らに成就しています。それはこう述べています。『あなた方は聞くには聞くが、決してその意味を悟らず、見るには見るが、決して見えないであろう。この民の心は受け入れる力がなくなり、彼らは耳で聞いたが反応がなく、その目を閉じてしまったからである。これは、彼らが自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心でその意味を悟って立ち返り、わたしが彼らをいやす、ということが決してないためである』」。(マタイ13:13‐15)
しかし、エホバに教えられている識別力のある人にとって、その答えを得ることはそう難しいことではありません。(ヨハネ6:45)
しかし、エホバに教えられていない人たちはやがてイエスのもとを去っていくでしょう。それはヨハネ6章25‐71節の事例からも明らかです。
イエスが目に見える姿で来られた時にもそのようなことが起きたのであれば、目に見えない姿で再び来られる時にはなおのことそうなるに違いありません。
エホバに教えられている
識別力のある人であれば、
「答え」を得ることができる。
⑤‐19.ですから、今から先、神の民の中で分裂が生じたとしても動揺してはなりません。それはあらかじめ預言されていたのです。
ですから、これから先試みられるのは、だれに対して忠節を示すかという点です。それは、親しい家族や仲間に対してですか、それとも、エホバに対してですか。
モーセがレビ人に何と呼びかけたかをもう一度考えてみてください。(⑤-16節の出エジプト記32:26‐27をもう一度見てみてください)。このモーセとは、現代のエホバの民を裁くために間もなく来られるイエス・キリストを預言的に示しています。
近い将来、あなたがイエスからこの指令を受ける時、あなたがだれに対して忠節なのかがすべての人の目に明らかになるでしょう。
⑤‐20.バプテストのヨハネの音信に注意を払った人々は、確かに報われました。そして、現代その同じ音信が「エホバの大いなる、畏怖の念を抱かせる日の来る前」にふれ告げられることになっているのです。
ですから、私たちは識別力を働かせてその音信に耳を傾け、たとえイエスがその神殿に突然に来られたとしても、その用意ができていなければなりません。
イエスは「用意のできていることを示しなさい」と言われましたが、あなたは何の用意をすべきかを理解していますか。それを知らずにどのように用意ができるでしょうか。
しかし、そもそも、あなたはそのことに関心がありますか。もし、あるのでしたら、エホバ神にその答えを真剣に祈り求めてください。
そうすれば、エホバご自身が聖書の中にその答えがあることをお示しになられるでしょう。そのようにしてエホバに教えられる者となってください。
そして、エホバが教えてくださったとおりに行動しましょう。そうすれば、イエスが神の民を裁く際に忠実な者とみなしていただくことができるでしょう。