論文17 大群衆が記念式のパンとぶどう酒に
あずかるようになる日
金で買い取られた奴隷の男がいる場合、あなたはこれに割礼を施さねばならない。
こうして後に、その者はそれにあずかってよい。
出エジプト記12:44
2012/11/21
⑰-1.現在、毎年行なわれているキリストの死の記念式で回されるパンとぶどう酒にあずかるのは、天への希望を抱く油そそがれたクリスチャンだけです。一方、地的な希望を抱くほかの羊の大群衆に属する人々はそれを見守っています。しかし、やがて油そそがれた残りの者がすべて天に召された後はどうなるのでしょうか。それから後も記念式を行ない続けるのでしょうか。そして、それ以後も大群衆はそれを見守る者として出席し続けるのでしょうか。
油注がれた残りの者すべてが
天に行った後、記念式はどうなる?
大群衆も罪と死からの救出を必要としている
⑰-2.そもそも、キリストの死はなぜ記念すべきものとして毎年祝われているのでしょうか。それは西暦33年のその日にイエスが犠牲の死を遂げることによって、罪の許しが可能になり、永遠の命のための手だてが設けられたからです。それは信仰を持つ人々にとって罪と死からの救出を意味しています。その記念式の意義については、毎年話されているとおりです。
⑰-3.イエスは、「わたしの肉を食し、わたしの血を飲む者は永遠の命を持つ」と言われました。そして、イエスは「わたしがあなた方に話したことばは霊であり、命です」と言っておられます。(ヨハネ6:54、63)。ですから、イエスは永遠の命を得るために霊的な意味でキリストの肉と血にあずかるべきであると教えておられたのです。それと調和して、イエスは最初の記念式を制定された際に、回されるパンはご自分の体で、ぶどう酒はご自分の血を表わしていると説明されました。それ以来、イエスに信仰を働かせてきたイエスの弟子であるクリスチャンはそのパンとぶどう酒にあずかり、そのようにして霊的な意味でキリストの肉と血にあずかる者であることを公に表明してきました。それは、ちょうどエホバへの献身を水のバプテスマによって公に目に見える形で表明することと似ています。
キリストの血と肉にあずかることは、
永遠の命を得るための必要条件。
⑰-4.しかし、20世紀になって、ほかの羊の収穫が始まりました。彼らの存在が明らかになって以来、彼らは一度も記念式で回されるパンとぶどう酒にあずかったことがありません。しかし、彼らもまた産まれながらに罪と死に束縛されている者であり、それからの救いを必要としているのです。油そそがれたクリスチャンがキリストの肉と血にあずかる必要があったのであれば、ほかの羊にはなおのことその必要があるはずです。しかし、聖書は何と述べていますか。キリストの犠牲の死を預言的に表わしていた過ぎ越しの犠牲についてこう言われています。
しかし、ほかの羊は、いまだかつて
記念式のパンとぶどう酒に
あずかったことがない。
⑰-5.「これが過ぎ越しに関する法令である。すなわち、異国の者はだれもそれを食べてはいけない。しかし、金で買い取られた奴隷の男がいる場合、あなたはこれに割礼を施さねばならない。こうして後に、その者はそれにあずかってよい。」(出エジプト記12:43、44)。
⑰-6.この聖句の現代の成就において、モーセの時代のイスラエル人が現代の霊的イスラエルの油そそがれたクリスチャンに対応していることは明らかです。そして、上の聖句にある「金で買い取られた奴隷」は、キリストの贖いにより代価をもって買われたほかの羊に属する人々のことです。注目すべきなのはその非イスラエル人であった奴隷は割礼を施された後で、初めてその犠牲にあずかることができたという点です。これは、現代にどのように成就しますか。
モーセの律法下では、
非イスラエル人でも、割礼を受けることで
過ぎ越しの犠牲にあずかることが可能となった。
大群衆は心の割礼を施される
⑰-7.モーセの死後、ヨシュアはヨルダンを渡ってエリコのそばのギルガルにおいて男子に二度目の割礼を施しました。(ヨシュア5:2‐9)。論文13の3-5節でも説明しましたが、このヨシュアは新しい地の後継者であるヤコブ級です。そして、アメリカの滅びに先立ってヤコブ級とアメリカの忠節な証人たちはそこから脱出することになっています。その脱出がヨルダン川を渡ることに、また紅海を渡ることに相当するのです。ですから、大群衆が割礼を施されるのはアメリカから逃れた後であることが分かります。そして、それはエリコの城壁の崩壊の前、つまりサタンの世の体制全体がハルマゲドンの戦いで完全に崩壊させられる前であることも分かります。
大群衆に霊的な割礼を施されるのは、
アメリカを脱出した後であり、
かつ、ハルマゲドンの前。
⑰-8.しかし、その「割礼」とは何のことですか。「その人の割礼は霊による心の割礼」であるべきことを使徒パウロは論じました。(ローマ2:29)。ですから、大群衆はまだ心の割礼を施されていないということが分かります。実際、間もなくイエスが世界本部に来られるのは、主に大群衆を矯正するためです。そして、世界本部が清められた後、アメリカ政府による反対に遭うことで大群衆はさらに精錬されます。油そそがれた統治体は三年半の忍耐の後に天に召され、その後をヤコブ級が引き継ぎます。そして、ヤコブ級がアメリカのエホバの民と共にアメリカから脱出し、その後、大いなるバビロンの滅び、そしてアメリカの滅びが続きます。その頃、すでに大群衆はかなりの精錬を受けており、確かに心に割礼を受けているということが明らかになっていることでしょう。その後に箱船の戸が閉じられたように、エホバの組織の門は完全に閉ざされ、その後世界的な禁令の中で七年間忍耐しなくてはなりません。(論文04と07を参照)。このように、肉に対する文字通りの割礼はほんの数分で完了するかもしれません。しかし、心の割礼はある程度長い期間、試練を忍耐することにより完成します。
様々な試練を経て初めて、
霊的な割礼が施されることは完了する。
⑰-9.その頃、すでに油そそがれたクリスチャンは一人も地上には残っていません。そして、大群衆は精錬され心の割礼を受けています。さらに、彼らは大いなるバビロンとアメリカの滅びからも救われていることでしょう。その後、彼らは世界的な禁令のただ中で、引き続きその立場を保つ決意でいることをどのように示すのでしょうか。そうです、その頃から大群衆は記念式のパンとぶどう酒にあずかることになるでしょう。そのようにして、彼らもまたキリストの肉と血に霊的にあずかる者であることを公に表明しなければなりません。とはいえ、中途半端な決意でそれにあずかることはできません。その時の世界の状況は中国を中心とする強硬な政府が治めているからです。それは恐らく、ナチスやソ連における迫害と対比できるほどのものとなるのかもしれません。ですから、確かにそれは命懸けで行なう公の表明なのです。しかし、彼らはそのようにして、子羊の血で自分の衣を白くし、エホバ神とキリスト・イエスの保護を受けて大患難を通過することになるでしょう。そして、その後もこのお二方の力強い救いの業を称え続け、復活してくる人々にもそれを教えてゆくでしょう。ですから、記念式はキリストの千年統治下の新しい地においても続けられてゆきます。
霊的な割礼の完了後、大群衆は、
記念式のパンとぶどう酒を食することで、
キリストの肉と血にあずかる者
であることを公に表明する。
人間の権威者の見解に対する平衡の取れた霊的な見方
⑰-10.それでは、油そそがれた統治体が今まで示してきた見解は間違いだったのでしょうか。つまり彼らは不当に大群衆からパンとぶどう酒を差し控えてきたのですか。確かに、その点に関する彼らの論議には理解の不足ゆえに誤った部分があったかもしれません。しかし、現実を見てください。確かに、大群衆が心の割礼を受ける前に記念式のパンとぶどう酒にあずかることはエホバのご意志ではなかったのです。例えば、大祭司カヤファはまさにイエスを殺そうとしていた人々の主立った者の一人でしたが、彼の発言について使徒ヨハネはこう注解しています。「だが、彼はこれを独自の考えから言ったのではない。その年に大祭司であったので、イエスが国民のために死ぬように定められていること、しかもそれがただ国民のためだけではなく、各地に散る神の子たちを彼が一つに集めるためでもあることを預言したのである」。(ヨハネ11:51、52)。ですから、私たちはいつでもこの種の問題についてはこういう考え方をするべきです。「人の心の中にある計画は多い。しかし、エホバの計り事が立つのである」。(箴言19:21)。
⑰-11.また、ダビデは邪悪なサウル王についてこう言いました。「彼を滅びに陥れてはならない。エホバの油そそがれた者に向かって手を出して、罪のないままでいられた者がだれかいるだろうか」。(サムエル第一26:9)。この言葉を述べた時の状況を考えてみてください。ダビデはサウルから命を狙われており、逃亡者の身となって困窮させられていました。それでも尚、彼はエホバに先んじて自らの手で裁きを下すことをしませんでした。それは、サウルがエホバの油そそがれた者だったからです。この二つの事例から、何が分かりますか。カヤファもサウルも邪悪な者ではありましたが、それでも、ヨハネやダビデは彼らがエホバ神からの権威者であったゆえにその言葉や立場を重んじました。そうであれば、私たちも現代のエホバ神の権威者に対してそのようにすべきではありませんか。
人間の権威者の思い違いですら、
エホバ神はそのご意志の遂行として
用いることができる。
⑰-12.しかし、それは彼らの言葉を盲目的に受け入れるということではありません。それはまた別の方向の極端です。私たちは彼らの高い立場に基づいてではなく、彼らの示す神の言葉に基づく教えや指示に従うのです。いずれにしても、私たちは人間の権威者の威厳や地位とか、あるいは逆に、不完全さや間違いにではなく、常にエホバ神のご意志に目を向けるべきです。エホバ神はたとえ彼らが全く別の意図を抱いていたとしても実際に彼らを用いてご自分のご意志を果たすことがおできになるということに信仰を持ってください。(創世記50:20、イザヤ10:5‐7、啓示17:17と18:9、10…、その他この類の事例はたくさんあります)。そして、エホバはご自分の望まれる時にそのような人々を立て、また望む時にそのような人々をその立場から退けることがおできになるのです。では、あなたはそれでもまだ油そそがれた統治体が過去に示してきた見解に対してつぶやきますか。そうする前に、それがあえて許されてきたエホバ神の崇高なご意志に注目すべきです。そして、それを祈り求めてください。実際、大群衆が受けるべき精錬、心の割礼とはそのような肉的、また人間的な考え方を捨て去り、まさにエホバ神の高い観点から物事を見る霊的な思考を身につけることではありませんか。
人間の権威者の
①威厳や地位に盲信することなく、また、逆に、
②不完全さや間違いに注意を向けるのでもなく、
その人に働いているエホバ神の意図にこそ注意を払うべき。
人間の権威者に対する
平衡の取れた霊的な見方ができないうちは、
霊的な割礼を受けたとは言えない。