論文21 被造物すべては永遠の命を受け継ぐ!





第一部 被造物は誰も永遠の滅びを被ることはない!


2016.07.19.


㉑-1.今までの聖書の理解では、どの宗派であっても、悪魔などの邪悪な者たちすべては、最終的に永遠の滅びという処罰に服させられると説いてきました。確かに、それは間違いではありませんが、しかし、将来、実際に生じる事柄は、多くの人がイメージしているのとは異なります。どのようにでしょうか。


まず、最も重要なポイントは、悪魔や邪悪な人々を含めどの被造物(霊者と人間)も永遠の滅びには至らないということです。悪魔もですか?  はい、そうです。


結論から述べると、誰一人、

永遠の滅びの処罰を受けることはない!


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㉑-2.そもそも、エホバ神は、すべての被造物をご自分の子とみなしておられ、すべての者を愛しておられます。そして、できる限り、彼らが救いにあずかるようにと切に願ってもおられるのです。(ペテロ第二3:9、エゼキエル18:23、33:11)。


さらに、エホバ神は全能者です。ゆえにあらゆる手を尽くすことが可能です。


このように、エホバ神には「滅びてほしくない」という願い(愛)と、「あらゆる手を尽くす」ことが可能な能力(全能の知恵、力)とがあるゆえに、誰一人滅びないでよい方法を望み、探り出されるはずです。


エホバ神の

「愛」は、誰一人滅びないことを望み、

「全能性」は、それを実現可能にする。


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㉑-3.では、聖書が、永遠の滅びの処罰について書いていることについてはどうなのでしょうか。はい、確かに、「邪悪な者」は永遠に滅ぼされます。ええっ? では、さっき述べた「誰一人滅びない、悪魔さえも・・・」という見解とは異なっていませんか??


いいえ、注意深く考えてみてください。現行では、確かに、悪魔は邪悪な者ですが、しかし、将来、もし彼らも悔い改めて義なる生活を始めるとすれば、彼らはもはや悪魔ではなくなるのです。将来、すべての者が悔い改めて義に至る時、誰一人、邪悪な者はいないでしょう。そのようにして、「悪魔」や「邪悪な者」はその存在を根絶させられ、永遠に滅ぼされるのです。


また、マルコ3:29などで、イエスが言及された「聖霊を冒とくする者には永久に許しがなく、その者は永遠の罪を負う」と言われたことについても同様です。現状、そのように聖霊を冒とくし、言い逆らう者は容赦されないとしても、そのような者が後に悔い改めて、冒とく者ではなくなったなら、もはや、上の聖句のような処罰の該当者とはみなされないでしょう。


最終的にすべて者が悔い改めるので、

滅ぼされるべき邪悪な者は誰一人いなくなる。


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㉑-4.しかし、悪魔は本当に悔い改めますか?  論理的に考えると、はいです。


エホバ神は、被造物の心の構造を完全に把握しておられ、かつ、ご自分の望むとおりの影響を与えることが可能だからです。どういう意味ですか?


そもそも邪悪な者が滅びに値するというのは、その利己的、自己中心的な思考パターンのゆえです。実際、これまで行われてきたすべての悪は、この利己心を原動力としています。利己心とはすなわち、聖書の言う「罪」のことです。


クリスチャンは、そのような罪深い思考パターンから、エホバ神と同じ正しい義なる思考パターンに更新するように日々努めています。聖書が、古い人格を捨て去り、新しい人格を着けるよう勧めている通りです。


ですから、要は、思考パターンの更新なのです。ただ、義なる人々の場合は、自発的に悔い改めますが、邪悪な者たちの場合は、少々、道筋を迂回するという違いがあるというだけです。どういう意味ですか?


悔い改め・転向とは、

「思考パターンの更新」に他ならない。


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㉑-5.例えば、5通りの人生、生き方、ライフスタイルがあり、どれでも選択してよいとしましょう。とはいえ、その5つのうち、成功と幸福に至る正しい道は1つだけです。義なる者たちは、その洞察力のゆえに、正しい道を見極め、早いうちから正しい生き方を選ぶことができます。


ところが、邪悪な者たちはそうではありません。快楽や富の追求、その他の間違った生き方をあえて選びます。とはいえ、その結末、その清算の日が必ずやって来ます。間違った道を歩む者はやはり、その悪い報いを身に受けることが定まっているのです。


そのようにして、邪悪な者たちもまた学びます。彼らはその結末を一通り経験した後、やはりそのような生き方が間違いであったという結論に達するでしょう。5つの選択肢のうち、4つの間違った生き方すべてをそのように経験したなら、結局は、正しい道しかないことを認めざるを得なくなるのです。要するに、消去法です。


とはいえ、彼らは大いに痛い目を見ることにはなるでしょう。しかし、それによって彼らも学ぶのです。そして、そのような痛みが、彼らに、自分がどう生きるべきかを真剣に考えさせます。ですから、エホバが現状、痛みと苦しみが存在することを許しておられることに大いにうなずけます。もし、それがないなら、罪人が改心することは決してないでしょう。


邪悪な者は間違った選択をし、

その手痛い報いを受ける。

そのようにして、やはり、

その選択が誤っていたことを

学習することになる。


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㉑-6.しかし、そのような消去法では、単にやむなく義の道を渋々歩むだけで、本当に義を愛する者とはなれないのではありませんか?  次にその点を考えてみましょう。


ある独特の思考パターンの構築には、やはりある一定の法則があります。例えば、単純化した事例ですが、りんごという果物を、始めて口にする小さい子供について考えてみてください。ある子には、新鮮でとても美味しいりんごを与えます。すると、その子は「りんご=美味しい」と記憶し、次もまたりんごを食べたいと思うようになるでしょう。


一方、別の子には、腐りかかったまずいりんごを与えます。しかも、度々、繰り返しそういうまずいりんごだけを与えると、「りんご=まずい」と記憶してしまい、もはやりんごを食べたいとは思わなくなるでしょう。


その結果、その子はりんご嫌いになって、その後、りんごを避けて生きるかもしれません。しかし、その子が大きくなって、生活環境が変わり、たまたま、今度は美味しいりんごを口にする機会があったとしたらどうなるでしょうか。


「おや?、おいしい」と驚きつつも、「実は、りんごって美味しいんじゃないのかな?」と考え直すようになり、その後もそういう事を繰り返していくと、当初の「りんご=まずい」が「りんご=美味しい」というふうに、見方や認識が更新されることになるでしょう。そう、これが思考パターンの更新です。


思考パターンの更新は可能!


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㉑-7.このように、私たちのある物への見方や考え方というものは更新されていくものです。上の子は、りんごという果物の真実(真理)を知らなかったゆえに、当初は誤った認識を抱いていましたが、その真実の姿を実際に体験した時、ようやく正しい認識へと達することができました。


同様に、邪悪な者は現在、真理の道をいとうべきものとみなして避けているかもしれません。上記で考えたように、①消去法で、手痛い処罰により、邪悪で利己的な歩みが間違っているという認識を抱かせると同時に、②今の例えで考えたように、実は義なる道は本当に快い幸せな生き方だと考えるようにさせる体験も合わせて経験させるなら、邪悪な者も、ぜひ正しい道を歩んでいこうと心から願うようになることでしょう。


要するに、②アメ(快い体験)と①ムチ(手痛い処罰)ということです。このように、エホバはあらゆる手を尽くして、すべての被造物を正しい道へと導くことがおできになります。先に述べたように、エホバ神は、被造物の心の構造を完全に把握しておられ、かつ、ご自分の望むとおりの影響を与えることが可能なのです。


エホバ神は心の設計者。

心の構造を完全に把握しておられ、

効果的に思考パターンの更新を

もたらすことがおできになる。


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㉑-8.では、具体的には、どういう日程でそれがなされるのでしょうか?


まずは、聖書に予告されている通り、これからキリストによる千年統治が実施され、罪ある人類は完全さへと達するでしょう。(論文20で、アダムを含むすべての死人が復活することを説明しました)。とはいえ、最後の試みの時に、解き放たれた悪魔たちと彼らに同調する人々が処罰されることになっています。


その後について、これは飽くまでも私個人の推測ですが、今回の考察を踏まえて、恐らく、最後の試みで「合格」した人たちは、天へ霊者として昇天するのかもしれません。現に、油注がれたクリスチャンが天へ行っているように。一方、悪魔たちは、人間の体が再び与えられ、現にイエスもそうなさったように、地上で人間として生活させられるのでしょう。もちろん、霊者としての強力な力を取り上げられた上で。


つまり、最後の試み(テスト)の「合格」組は天へ、「不合格」組は地へ、ということです。その後、「不合格」組は、地上で、引き続き、痛みと苦しみのある生活を送らねばなりません。要するに、クラス分けをした上で、彼らには、居残り授業が課されるわけです。


そのようにして、彼らは消去法で邪悪な道を網羅し尽くし、ついには悔い改めに至るように導かれるでしょう。


クラス分けがなされた上で、

各クラスにはそれぞれに適合した課題が与えられる。

最終的に、邪悪であった者たちも、真理の道に導かれる。


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㉑-9.では、彼らがこれまで犯してきた甚だしい悪行はどうなるのですか。エホバはそれらを黙って帳消しにするのでしょうか。


いいえ。やはり、彼らはその報いを受けねばなりません。必ず、その当人の行なってきた業に応じて処罰がなされます。そして、彼らは、その処罰の痛みから学ぶのです。一方、エホバは邪悪な者による悪行の被害者すべてを豊かに癒し、完全な救済を施してくださいます。また、義の道を歩む者は、エホバと同じ快く許す精神を培っています。ですから、もし邪悪な者が悔い改めるなら、義なる者は喜んで彼らを迎え入れることができるでしょう。


ところで、現行で、エホバ神は、イエス・キリストの贖いという備えを設けてくださり、こうして罪人である私たちが聖なる神に近づくことができるようにしてくださっています。とはいえ、それは、悪魔たちのための備えではありません。しかし、恐らくは、同様の備えが示されるのかもしれません。(この点は、論文24で論じています)。いずれにしても、エホバはその時々にふさわしい手段を講じて、彼らがご自分の元に帰ってこれるようにしてくださるでしょう。


邪悪な者はやはり報いを受ける。

そして、その手痛い経験から教訓を学ぶ。


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㉑-10.エホバは本当に私たちすべてを愛しておられます。痛みや苦しみが許されているのも、実は私たち被造物すべてが最終的に救われるためのものなのです。ですから、私たちは決して心を頑なにすることなく、そこから教訓を得て、学びましょう。


エホバはすべての被造物を愛しておられ、決して誰かを滅ぼすことを企んでいるような方ではありません。そして、彼らを救うためであれば、どんなものであっても差し出す用意があるのです。事実、エホバは全人類のために愛するみ子をも差し出されました。


そのような優しい愛ある天の父にこそ、私たちは依り頼み、そして希望を置くべきではありませんか?  では、この論文を読んでいる皆さん(悪魔も含む)が、エホバ神の本当の気持ち、本音、その愛情を本当に理解できますように。エホバはあなたに本当に愛情を持っておられ、誤った歩みから救い出し、正しい幸福な道を共に歩んで行けるようにと、日々優しく教え諭しておられるのです。


痛みや苦しみが許されているのは、

私たちが学ぶため。


エホバ神は、すべての者が救いに至るように

どんなことでも行なう用意がある。


ゆえに、すべての被造物は永遠の命を受け継ぐ。





第二部 被造物に対するエホバ神の最終的なお目的は達成される


2016.09.03.


㉑-11.ここで述べる「被造物」とは、すべての人間、そして、天使や悪魔などの霊者を含む、エホバ神と同じ特質を付与された理知ある被造物のことです。


ところで、論文20と21の前半にて、①すべての人が復活すること、②悪魔を含め、被造物は誰も永遠の滅びを被ることはないことについて説明しました。


では、これらの論文の内容を踏まえて、エホバ神の最終的なお目的がどのように成し遂げられるのかを考察してみましょう。



①すべての人が復活する。

②すべての被造物は誰も永遠の滅びを被ることはない。


では、エホバ神の最終的な目的はどのように達成されるのか?



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㉑-12.そもそも、エホバ神は、なぜ理知ある被造物をお造りになったのでしょうか。


まず、み子イエスもまだ生まれていなかった頃、エホバ神はお一人で様々な事柄をお考えになりました。事実、私たち人間が思考してきたようなあらゆる分野のあらゆる事柄をすべて網羅されたことでしょう。もちろん、それには、義や知恵や美しさだけでなく、悪や愚かさや汚れなども含まれます。(伝道1:17、12-13)。


そのような私たちの想像をはるかに超えた宇宙的規模の広範囲にわたる深い考察を一通り終えて、エホバ神は、物事には良いものと悪いものとがあるという結論に達したものと思われます。ただし、それは、表面上・見た目の良し悪しではなく、ある物事をどんどん進めて行くとどうなるのかを、ありとあらゆるシミュレーションを重ね、結局、最終的にダメになるものは良くないもの、最終的に良い結果をもたらすものを良いものと結論したということです。(ローマ6:21-22)。


そして、エホバ神は、そのご自分が見出した良いものについて、それらをご自分一人だけのものとせずに、他の者にも分かち合うという素晴らしい事柄をお考えになりました。それで、最初にみ子イエスを、そして、天使や人間たちを造っていかれたのです。


ですから、理知ある被造物をお造りになったのは、彼らがエホバ神と同じように、良いものを良いと結論し、共に喜び合うためなのです。


天地創造前、エホバ神は

お一人で様々な事柄を思考した。


その思考の結果見出された良い事柄を、

他の者に分かち合うことを願うようになり、

天使や人間をお造りになった。


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㉑-13.そのように、被造物がエホバ神と同じ結論に達するためには、やはり、エホバ神が天地創造以前にご自身お一人でお考えになったのと同じ思考過程を同様に経なければなりません。つまり、被造物は、エホバ神の思考過程を追体験しなければならないのです。それは、生徒たちが先生が受けてきたのと同じ教育過程を経なければならないのと同じです。(ルカ6:40)。


それで、ここで注目していただきたいのは、エホバ神が義や知恵や美しさ(光)だけでなく、悪や愚かさや汚れ(闇)についても一通り考察されたという点です。つまり、そういう考察を経て、物事の良し悪しを評価することができるようになったわけです。(ヨハネ第一1:5-7)。


ということは、被造物もまた、悪や愚かさや汚れ(闇)についても、一通り深く考える機会が与えられる必要があるということです。そして、現在、人類社会で悪が許されている根本的な理由はまさにこれなのです。


被造物は、エホバ神と同じ

思考過程を追体験しなければならない。


エホバ神は「光」だけでなく、

「闇」についても考察された。

ゆえに、被造物もそのような

「闇」について考察する機会が必要。


悪が許されているのは、そのような理由による。


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㉑-14.まとめると、エホバ神のお目的は、被造物と共に良いものを分かち合い、喜ぶことです。そのためには、まず、被造物がエホバ神と同じ結論に達するように教育しなくてはなりません。つまり、この6000年間、悪が許されてきた真の理由とは、天使や人間たちを教えるためだったということです。


ただし、そのように悪の存在を許すことは、悪のもたらす有害な影響すべてを、最終的に完全に拭い去ることを前提としてのものです。悪により受けた、心の傷、体の傷、物的損害、そして、それによって奪われた命・・・、それらすべてをエホバ神は拭い去り、まるでなかったかのように完全に元に戻すことがおできになります。(イザヤ65:17-19、啓示21:4)。


悪の存在意義=被造物が学ぶため


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㉑-15.今までの考察からすると、悪が許されるようになったのは必然であったと言えるかもしれません。とはいえ、エホバ神が進んで悪をもたらしたということでは決してありません。そうではなく、エホバ神と同じ特質を持つ私たち人間や天使の思考範囲の中には、悪や愚かさや汚れ(闇)も含まれているゆえに、当初、義や知恵や美しさ(光)のみを教えられていたとしても、いずれ、誰かが、そのような良くないものの領域があることに気付き、思考するようになるのは避けられないことだったのだと思われます。


恐らくケルブであった悪魔サタンは、能力の一際優れた天使の一人でした。彼もまた、エホバ神と同じように、種々様々な広範囲にわたる物事を勉強し、思考したことでしょう。そして、ある時、エホバ神が教えておられるのとは異なる、正反対の物事も存在することに気付いたようです。近視眼的に見ると、それは「良いもの」に思えたのでしょう。もちろん、それは欺きの欲望だったわけですが。


サタンは、そのような自分の考えた事柄について、エホバ神に尋ねたことでしょう。エホバ神は理路整然とお答えになったはずですが、彼は納得できなかったようです。その後、彼と親しい天使たちにも、彼の「新しい理論」を説明していきました。ある者は首をかしげ、別の者は大いに賛同し、こうして、天使たちの間で論争が起きるようになったのです。


当初、「光」のみを教えられていたとしても、

被造物が自分たちの思考範囲の中に、

「闇」が存在することに気付くのは必然であった。

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㉑-16.このサタンの「新しい理論」とは、要するに「自分優先・自己本位の精神」のことです。「自分の望む事を望む時に望むだけしてもOK!」というのがそのモットーです。これは、近視眼的に見ると「自由」であるゆえに、「良いもの」と思えたのでしょう。


一方、エホバ神の教えは、あれをせよ、これはダメ、自制、辛抱、忍耐・・・であり、これは「束縛」であって、我々の自由を侵害するものではないのか?というのがサタンの考えです。(創世記3:4-5)。


かなりの数の天使たちが、「自由に生きる」ことで、より幸福になれると勘違いし、サタンのこの新しい理論に賛同したようです。もっとも、「自由」と「自分勝手」とを履き違えているわけですが・・・。それに、「新しい」と言っても、それは被造物の観点でのことであり、それらはすでに、エホバ神がお一人であった時に思考し尽くされ、良くないものとして退けられたものでした。しかし、その論理を実行に移す良い機会が訪れました。そう、人間の娘たちと同棲するために、地上に降りてきたのです。(創世記6:1-2)。


サタンが提唱した新しい論理は、

一見すると自由で良いものであるかのように思えた。


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㉑-17.エホバ神は、そのように、被造物が「闇」の物事を思考し、その結末を経験することを良しとされました。それは、かつてエホバ神ご自身も光だけでなく闇についても一通り考察されたのと同様に、私たちもまたそのような体験を通して、闇の物事が本当に「良いもの」なのかどうかを判別できるようになるためです。


実際に、多くの心ある人々は、悪の結末を目にし、サタンが推奨するような自分優先・自己本位の精神が間違っていると結論してきました。それは、エホバ神と同じ結論です。たとえ、ある人が一時期、邪悪な業に携わり、悪の道に喜びを見出しているとしても、悪の結末、つまり手痛い代償を支払わされることにより、本心に立ち返るということも少なくありません。(歴代第二33:10-13、詩編119:67、71)。


被造物の間で悪が横行するようになったが、

そのような体験を通して、「闇」の物事が

本当に悪いものであることを認識できる。


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㉑-18.と、ここまで考えてきた通り、今、悪が許されているのは、私たちを教育するためだということでした。被造物は、悪の結果生じる痛みや悲しみを経験し、サタンの推奨した「自分優先・自己本位」の生き方が間違っているというエホバ神と同じ結論に達します。とはいえ、そのような悪によってもたらされた被害すべては、将来、完全に癒されることでしょう。


上記のように考えると、要するに、今の世界は、一種の「教材」だとみなせます。あるいは、家族の中で行なう劇のようなものになぞらえることができるかもしれません。(コリント第一4:9)。例えば、幼い弟が主人公で、お兄ちゃんたちは悪者役です。その劇で、弟は悪者役のお兄ちゃんたちからの攻撃や誘惑を受けながらも、正しい生き方を貫き通さなければなりません。そうする時、お父さんからお褒めの言葉をいただけます。


さて、その家族の中での劇が終わった後、その悪者役のお兄ちゃんはどうなるでしょうか。お父さんから家を追い出されるでしょうか。いいえ、そのようなことはありません。


つまり、今、悪魔や邪悪な人間たちは、いわば「悪者役」になっているわけです。そのようにして、被造物を教育するための「劇」が行なわれています。そして、すべての被造物が、「あ、やっぱり、自己本位な生き方(闇)は間違ってるよね」と、エホバ神と同じ結論に達する時、その劇は終了します


この世界は「教材」または、「教育劇」。

すべての被造物が、

「闇」=「良くないもの」と正しく認識する時、

この「劇」の役割は終える。


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㉑-19.被造物に対する最終的なエホバ神のお目的は、被造物すべてがご自分と同じ結論に達し、こうして共に「良いもの」を分かち合って喜ぶことです。そして、上述したように、悪が許されるようになったことは必然だったのであり、誰かを滅ぼすためのものではありません。むしろ、すべての者がそこから教訓を得て、益を得るためのものです。神は悪を仕方なく許しているのではなく、被造物の益になる教材であるゆえに、最終的にプラスになると見込んであえて意図的に許しておられるのです。(ヘブライ12:7-11)。


ですから、偉大な教育者であられるエホバ神は、最終的に、悪魔や悪人を含むすべての被造物を、ご自分と同じ結論に達するように導かれるおつもりです。確かに今は、彼らが悪の欺きの理論に惑わされるまま盲目な状態にして、こうして彼らを悪者役として任じておられますが、まもなくそのような期間も終わり、彼らの目を大きく開かれて、何が真実かが理解できるようにされることでしょう。(テサロニケ第二2:10-12、ローマ11:25-36)。


被造物すべてはエホバ神と

同じ結論に達するように導かれる。

その過程で必要な思考材料であるゆえに

悪の存在が許されている。


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㉑-20.ここで、私は声を大にして言いたいと思います。すなわち、「被造物は皆、兄弟である!」と。


確かに、悪魔や悪人たちは、憎むべき酷い事柄を行なっています。しかし、彼らから受けた損害はいずれすべて完全に回復するのですし、何よりも、私たちはこのような「闇」の状況から教訓を得て、かつてエホバ神が天地創造の前にお一人で熟考なさったのと同じ思考過程を追体験できているのです。そして、私たちもエホバ神と同じ結論に達します。そう、すべては私たちの益となるのです。


そして、悪魔や悪人も、「劇」が終われば、目が開かれて、悪行をやめるでしょう。その時、彼らはもはや悪魔でも悪人でもない、エホバ神の是認を受けた、神の子の一人となるのです。このような壮大なエホバ神の教育プランを思う時、確かに、今は敵対している悪魔や悪人であっても、結局は私たちと同じエホバ神の子供なのであり、それゆえに、「被造物は皆、兄弟!」だと言い得るわけです。


もちろん、悪魔や悪人の行なっている「闇」の業には組しませんが、それでも彼らを愛し続けることはできます。それは、会衆から排斥された実の兄弟の行ないに倣わないとしても、引き続き気遣いを示すのと似ています。


エホバ神の目には、すべての被造物が、ご自身の愛する子供なのです。ですから、私たちもそれと同じ見方ができるようになりましょう。((タイ5:45-48)。そう、被造物は皆、兄弟なのです!


エホバ神の許しておられる

物事は必ず私たちの益となる。


被造物は皆、兄弟!、家族!