37 回 ダ・ヴィンチ・コード

 う~ん、これが超大作ミステリーか。確かに仕掛けも謎解きも大掛かりには違いないが、前宣伝の割に最後の種明かしに「それがどうしたの?」状態。


 ルーブル美術館の館長が他殺体で発見される、それも不可解な姿で。パリ警察の要請で大学教授のロバート・ラングドンが事件現場に召喚される。しかしトム・ハンクス演じる大学教授は自分が殺人の容疑者にされていることを知らない。

 そこにオドレイ・トトゥ演じる女性捜査官ソフィーが登場。

 実は殺害された館長の孫娘であるという彼女と力をあわせて謎解きが始まる。


 材料としてのダ・ヴィンチ、シオン修道会、テンプル騎士団、十字軍、聖杯、コンスタンティヌス帝、バチカンの陰謀・・・山ほどのキリスト教伝説が登場してくる。右往左往の謎解きの中、物語りの中心にあるのがイエス・キリストの子を出産、その子孫を代々守り続け、そして今も守り続ける集団がいるというお話。


 謎解きに至る暗号や言葉など難解な場面を意図的に挿入、徹底して難しい物語を展開していながら、最後のオチで「どうしてそうなるかな~」が残念。

 何故なら常人では思いつかない暗号や仕掛けをくぐり抜け、難解な知識を駆使してやっと最後の「あるところ」に到達したのに、そこにはぞろぞろと「人々」が集まって来る。

 観客は物語りの筋から秘密を知っているのはわずか数人だけだと思わされる。あまりに複雑な推理劇のお陰で限られた人の秘密だと理解してしまう。ところがそれがオオハズレ。


 その、ぞろぞろ集団こそ「イエスの子孫を守る」人々。

 そのなかの一人の初老の女性がいきなりソフィーに向かって言う。「私はお前のおばあちゃん、祖母だよ」。

 複雑怪奇な謎解きが連続する物語りの割りに、最後はこんなに多くの関係者が存在していたなんて。幾重にも隠されたハズの「秘密」がこんなにも「多くの人たちが知っている」内容だったとは。「筒抜け、公然の秘密」状態、知らぬは当事者だけみたい。

 それならもっと早く登場して二人を助けてやれよ、と言いたくもなる。

 

 ソフィーに身の危険が迫った場面もあるのに…彼女を守るために二千年も存在していた集団のハズだろ。ジャジャジャジャーン!そう、彼女ソフィーこそイエス・キリストの「血」を宿した末裔だったのです…なんちゃって。


 「イエス・キリストの子孫を守る」友の会の皆さん、大変ご苦労様でしたね~。

 ただそのことだけに存在の意義を与えられ、誕生と伝承に生きる皆さん。

 せっかくこの世に人間として命を賜ったのに…生きる意義を問う前に、既に自らの「役割」が決定付けられている「守る会」の人たち。人生における選択の権利も人間としての主張も許されない「守る会」。尊厳も自由も認められない人たち。

 そういえば、最後に登場する「守る会」のメンバー。画面上でも確かに覇気もなく、気概も見えず、熱い心も伝わらず、何かホラー映画に登場する抜け殻のような集団。

 イエス様も罪作りだなあ~。


 そして決定的におかしな場面。ソフィーがイエスの「血」を継いでいることが判明したところで彼女自身が精神的に舞い上がってしまい、職業としての捜査官なのに「守る会」の集団に残る場面で終わる。トムもそんな彼女を容認し意気揚々と引き上げる。


 おいおい、トムよ、ソフィーよ、守る会の皆さんよ、彼女を守ったがために殺された多くの人たちの尊い犠牲はどうなるのですか?まったく何を考えているのやら。

 そもそも「イエスの血」って有り難がっていますがね、ソフィーの何代前の話をしているんですか?「偉大な人の血・血統」を有り難がる、ここに愚かで危ない誤解があります。


 今お預かりの寺院は私で17代目になります。1573年草創。430年間を16代で割ると26年強。イエスからソフィーに至る年数をたとえば1970年間とし、26年で割ると75代強、25年で割れば78代強、30年で割り算しても65代強。


 何を計算しているのか・・・。イエスとマグダラのマリアの間に生まれた子の血液の半分は、確かにイエスの血液が混じっている。

 その子の次の世代は4分の1、そのまた次は8分の1、更に16分の1。32、64、128・・・と。10代目で512分の1、20代目は524288分の1、30代では536870912分の1。

 40代目には約5440億分の1、50代で約557兆分の1、そして60代目に至っては約57万368兆分の1。

 イエスからソフィーに至るまで少なく見積もって60代の「血統」が引き継がれたと仮定しても、その血液に含まれるイエスのそれは57万兆分の1でしかない。


 ホモ・サピエンス・サピエンスが地球上に誕生してから現代まで、人類の総数は今現在存在している人口の2倍から5倍説までいろいろだ。地球上に存在している人間と過去に死んでいった人間を合計しても130億人から、多くても325億人だ。


 36代目になると「血統」を受け継ぐヒトの純粋な「血の濃さ」は340億分の1になる。この時点で「血統」はどんな意味を持つのか。何故なら人類は340億人以上存在したことがないから。まして57万兆分の1の「血の濃さ」にどれほどの意味があるのやら。


 それを見越して親鸞聖人は「それがし、親鸞閉眼(へいがん)せば・・・魚(うお)にあたうべし」と公言されました。その意図は親鸞という「肉体や遺骨や個人に繋がる血統」が大切なのでなく教えこそ中心、伝えるべきは遺骨や血統でなく「仏法=真宗」だという宣言。

 生身の人間崇拝を否定し、仏法をよりどころとして真実に生きることを表明する。


 加えて「一切の有情(うじょう)は、みなもって世々生々(せせしょうじょう)の父母(ぶも)兄弟なり」と、私たちの思い描く血縁・血統など、どれほどの意味もないことを説かれています。

 何故なら人間だけにとどまらず、生き物すべてが父母兄弟だという視点に立つから。

 それは人類すべてが血縁として結ばれているという実に「科学的」な発想でもあります。


 善鸞事件がひとつの証しだが「血統」に迷うことは自分に迷うこと。「因」としての血筋(これも非科学的な言葉だなあ)でなく「縁」としての行為・生き方が大切なのです。


 そういえば「自称」百何十代かの「血筋」だけを唯一の頼りとして生きる一族と、そのことに疑問を持たず「○○さま~」と迷いの日暮らしをしている、オメデタイ支持者がいる国もあるようです。

第 36 回 シリアナ

 口先だけで中身は「アメリカ合州国権力」の走狗と成り果てているエセ愛国者。

 そんな一部の愛国者モドキがまかり通る現代の我が国において、愛国心のかたまりであり、祖国日本の将来を深く憂いている私が何故に邦画でなく、米国製の映画を主として題材に選ぶのか。

 いつかその点について説明をしたいと思っていたところ絶好の作品に出会えた。

 米国の映画を題材にする理由はいくつかあるが、その大きな理由の一つが今回の“シリアナ”に見られる。


 この映画は米国の世界戦略のひとつとしての中東バージョン。国家として世界の覇権を目指す米国の権力者たちがCIAを使っての産油国への介入・陰謀・石油利権をめぐる巨大企業の合併などが展開。

 要は米国の主流権力者たちが、自分たちのオイシイ生活をするための謀略と暗殺。米国お得意の典型的な内政干渉が、複数の人物の物語りを通して描かれる。


 主な登場人物はベテランCIA諜報員ボブ・バーンズ(太めのジョージ・クルーニーがいい味を出している)、経済アナリストのマット・デイモン、弁護士ジェフリー・ライト、産油国王子ナシール、それと「テロリスト」となるパキスタン青年。


 物語としては登場人部の多さと筋立ての難解さで一見解りずらい。だから2回見ることをオススメしたい。そうすると頭の中が整理され、個別の意味や全体の筋が容易に理解出来るようになる。

 CIA諜報員ボブの武器取引から話は展開するが、次々に表れる予想外の出来事と人物の登場でサスペンスドラマとしても非常におもしろい。国王の継承問題、巨大企業の裏の顔、捨て駒としての諜報員、真面目な青年の「テロリスト」への道。


 それぞれの登場人物がそれぞれに課せられた仕事や役割をこなすうちに、観客は知ることになる。米国の権力は目的のためなら手段を選ばないことを、はたして本当の「テロリスト」はどちら側なのか、そして「テロ」を命じるのは誰なのかを。


 物語りの芯になっているのは米国の産油国独占支配。

 産油国のナシール王子は選挙制度や議会の成立、女性の地位向上、教育制度、公共施設・インフラなどを推し進め、民主化を目指そうとする改革派。それは本当の愛国心、体制や権力の維持でなく、市民・民衆を愛することからきている。

 マット・デイモンのアドバイスもあり、米国権力の本音を理解した王子は決断する。

 米国の影響力から離れなければ改革はありえない、真の意味で国家としての独立もありえないことを。具体策としてそれまで米国一辺倒の石油の輸出先を、中国に広げようと動き出した。

 そんな自由を許さないCIAはナシール王子誘拐殺害計画を企てる。実行の任務に選ばれたボブの計画は交通事故に見せかけての暗殺方法。ここから予想外の展開が始まる。


 この度の物語のおもしろさは実際に映画を見た方が良いでしょう。物語りの説明をかねながら冒頭の「理由」に話を戻します。

 結局、王子やアナリストの改革・民主化の夢ははかなく消え去り、捨て駒と気が付いたボブも抹殺されます。国王の後継者は米国に操られた弟に決まり、弁護士は勝者となる。「テロリスト」となった青年は同胞・民族のために命を犠牲にします。


 ある場面でボブは「今は国務省と国防省の仕事をしている」と答える。交通事故に見せかけた暗殺計画は国家の指示だということを観客に語り、さらに別な場面では巨大企業のトップが「リーダーは無能に限る」と、新しい国王が無能な弟になったことを歓迎する。

 改革や民主化を目指す者、米国にとって邪魔な存在はCIAによって謀殺されること。反対に米国権力の意のままになる存在は歓迎されることを示唆します。


 富もチカラも教育も、発言の機会さえない大部分の民衆の側に立った王子は、有能で本物の愛国者であったがゆえに米国の権力によって息子や妻と共に抹殺されます。


 この骨太な映画の主題はここにある。権力は具体的な組織を使い、利権を得ること、守ること、その為に「邪魔者は消す」ことを。それは合法的テロリズム。


 現実に、ウィスコンシン大学=ゾルタ・グロスマン准教授はアメリカの究極的目的を「米国の支配地域の確立と、自分たちの前に立ちはだかる宗教勢力や自国の利益を守ろうとする人々、あるいは言うことを聞かない政府といった障害を除去」して、武力による世界一極支配を確立することにある、と述べています。


 米国映画を題材にする理由のひとつがここにあります。権力者としての政治家・巨大企業のオーナー・法律家・CIA・高級官僚などを具体的に画き出し、批判する作品を作る。


 平凡でささやかな生活さえ打ち壊して、自分たちの都合のいい世界を作り上げる国家。その同じ国で作られる批判映画。しかも物語りとしても一級のドラマに仕立てて。

 「理屈」ばかりで物語りとしての完成度が見られない邦画と違い、脚本も確かだ。ちなみにこの原作者は元CIAの諜報員。


 はたして日本の映画界は同様の作品は可能だろうか、大丈夫だろうか。

 「特攻」映画や愛する人のために「犠牲になる」ことを賛美する安っぽい作品を評価する感覚。特攻や愛する人のために犠牲になること、それは本末転倒。特攻しなくとも、犠牲にならなくともよい社会、世界をつくることが先ではないですか。


 愛する人、大切な家族と平和に暮らす生活を妨げる権力と命懸けで対決する。

 それが本当の愛情や勇気であって、思考停止し流されるままの生活の末、死なねばならない状況を無批判に受け入れる。どこに本物の愛や勇気があるのでしょう。


 米国の映画産業人が自国の権力の過ちを堂々と告発する作品を公開する、これこそ真の愛国者でしょう。自国の政府や時の権力者でさえ、不正があれば批判する活力。

 対して米国の権力側から称賛され続ける我が国歴代のソーリ大臣と与党。


 先ほどのゾルタ・グロスマン准教授の「方程式」からすると、我が国の「権力者」こそ国民や祖国を「売り渡して」いることを証明している・・・どうでしょう。

 自国の利益を放棄し、無能さを競って米国に操られて恥じない職業を政治屋という。


 もっとも米国主流権力者のイエスマンでなければ戦後の日本ではソーリ大臣になれないと言うのも、悲しくツライ事実ですが。

第 35 回 ヒトラー「最期の 12 日間」

 1942年、ミュンヘン出身の若い女性がナチスの総統アドルフ・ヒトラーの秘書に応募する。そこからこの物語りは始まる。

 彼女の名前はトラウドゥル・ユンゲ。ヒトラー直属の秘書となった女性ユンゲの視点を通して、1945年4月にヒトラーが自殺するまでの最期の日々を描いている。


 映画の副題にもあるとおり、物語が描かれている主な場面は「最期の12日間」に集中している。

 ソ連軍に包囲されつつあるベルリン、地上では多くの市民や兵士が不条理に殺され続けるなか、地下要塞の司令部では崩壊前の「やけ酒、やけくそ宴会や口先だけの机上作戦」が虚しく続く日々。

 総統閣下の取り巻きである「優秀」な将軍たちはヒトラーの思いつき作戦にイエスマンを演じ、作戦室から出れば酒浸り状態。第三帝国の終焉を疑う者はいない。


 外では一般市民、それも老人や少年が空襲やソ連戦車部隊の攻撃で次々倒れ、さらに脱出や退却をこころみればナチスの親衛隊や突撃隊の手で殺される始末。いたるところに重傷者が放置され地獄の世界。


 そんななかひとりの将軍が市民の犠牲をこれ以上出さないために降伏を提案する。外では無謀かつ意味のない戦闘が続いている、市民にはこれ以上の血を流させたくはないと。

 ゲッペルスは言う、「ナチスを選んだのは国民だ、一度も強制はしていない。だから国民が滅びるなら自業自得だ」。


 最期のベルリン防衛のために2万人もの若者(将校や兵士)が死んでいったことを報告した将軍に、今度はヒトラーが「(国家やヒトラーを守る)そのために死ぬのが若者の務めだろう」。

 さらに「ナチスを選んだのは国民自身だ、だから哀れむ必要などない」と。

 部下たちの言葉には一切耳を貸さない総統。ブルーノ・ガンツ演ずるヒトラー総統は一方で徹底した独裁者を、もう一方で好々爺(こうこうや)の姿を画面上に映し出す。


 「優秀」な将軍たちは「命がおしいのか!降伏などありえない、最期まで戦う」と豪語していたが、最後にならない前に「戦わないで」自害する。こうして自分たちは責任から逃避してしまうが、強制的に残された兵士や市民は死にたくないのに殺される。

 その場面、不条理に兵士や市民が殺される場面が続く。まったく無駄死にとはこのことだ。対してヒトラーやゲッペルス夫妻など勝手に、無責任に死んでいく。

 酒盛りや宴会の末に自害していったヒトラーと取り巻き連中。裸の王様をイエスマンが取り巻く図、そしてその末路・・・。


 実はこれ、充分に現代の私たちの姿を描いてはいないだろうか。

 ヒトラー曰く「ナチスを選んだのは国民自身だ」というセリフ、これは事実だ。ナチス=国家社会主義ドイツ労働者党を選挙で選んだのは紛れも無く国民の意志。時には非合法な活動を実行して失敗も経験した。だからこそ選挙では法律に従い、合法的に選ばれた。


 無論、選挙の後では自分たちに都合の良い法律を作ったり、政敵を暴力で排除し弾圧するという手口は日常的だった。そのめちゃくちゃな政党が政権を得ることが出来たのは国民多数の支持の結果。もちろんヒトラーのやったことは非道で残酷な政策だった。弁解や否定のしようがない。しかし、彼ひとりを悪者にして済む問題だろうか。

 国民の多数決により政権を奪取したということは、当時ナチスの主張を支持し、期待した人が多かったということ、彼の政策を認めていたということ。


 だから「国民が(ナチスを)選んだ、一度も強制はしていない。だから国民が滅びるなら自業自得だ」(ゲッペルス)とか「ナチスを選んだのは国民自身だ、だから哀れむ必要などない」(ヒトラー)という言葉が堂々と出て来る。


 主義主張のためには、他者の命や他国の民衆が犠牲になることは当然とする正義。最近の日本の流れを見ていると恐ろしくなる。改悪教育基本法成立、防衛省設立、イラク支援法の継続、憲法改悪投票法成立などなど・・・。これは冗談なのだろうか、私たちは夢を見ているのか。

 当時のドイツと同じ論理、多数決が正義という印籠。いつも使われるのが、つまるところは「国民の望んだ結果」。

 「社民党さんがいくら立派なことを言っても我が党の得票率にはかなわないでしょ。どちらが国民の支持を受け、期待されていますか」と豪語する与党幹部。


 事実からすれば「多数決が正義」とは無論限らない。何故なら多数の人たちは「自分の都合」で支持するから。要は損得でしょ、しかも目先と自分の。

 先日亡くなった城山三郎氏は「政治でも経済でも、リーダーが自分のために動くとだめだ」と指摘。自分のためという意味は、目先の都合や損得を生きる基準にすることでしょう。それはリーダーに限らないこと。


 裸の王様が権力の座にいられるのは、取り巻きがイエスマンだから。そして市民・選挙民がイエスマンと一緒に裸の王様を指示しているから。


 だから「王様は裸だ!」と叫ぶ子たちが登場しないように教育基本法を改悪したのでしょう。事実を事実として見ない、見れない生徒を作り上げ、「日の丸・君が代」で従順な教師を評価し、イエスマンにならない生徒や教師や保護者を排除する。


 合法的な選挙によって合法的に戦争をする憲法をつくる。そのことを目指す政党を支持する多数の人々。

 ナチス政権崩壊・ドイツ敗戦の数ヵ月後、日本でも「王様は裸だった」ことに目が覚め、新しい子たちはイエスマンでなく、自分で考える時代を迎えたハズなのに・・・。

 その代表的世代であるはずのソーリ大臣が、またもやヒトラーのようにイエスマンを従えて「裸の王様」を演じている。


 そして誰もが「王様は裸だ」と叫ばない。そのうちこの愛する日本の国が悲惨な状況に陥(おちい)った際、指導者たちはこう言うのか。

 「(こんな惨状を招いた)政権を選んだのは国民だ。一度も強制はしていない。だから国民が滅びるなら自業自得だ・・・選んだのは国民自身だ、だから哀れむ必要などない」。


 ヒトラーは自分だけでは独裁者にはなりえない。ソーリ大臣も同じこと。つまるところ事の本質は「彼らを支持する側」にある。悲惨な結果を招くか否かを決めるのは選挙民、私たち自身の姿勢に問題の根っこがあるのです。

第 34 回 “ミュンヘン”に虚しさをみる

 1972年、ミュンヘン。オリンピックに参加していたイスラエルの11人の選手がテロリストたちによって殺害される。

 直後に閣僚を召集したイスラエルの首相は決断する。犯人はパレスチナ側のテロリストと断定、報復を宣言する。


 報復の為に選抜された工作員のリーダーはひとりの男性。特別な訓練を受けたことも、特殊部隊の兵士でも、情報部員でも、殺人鬼でもない。殺人を初めて犯すフツーの市民。


 エリック・バナ演ずるリーダー役アヴナーが暗殺者となり、終わりのない復讐劇が始まる。

 5人のメンバーで組織された「暗殺グループ」はパレスチナの「事件関与者」を捜しだし、次々と暗殺していく。ヨーロッパ各国を駆け巡り、拳銃や仕掛け爆弾を使って「報復」を繰り返す工作員たち。


 そんな活動のなか、まったく偶然から敵対するはずのパレスチナ工作員たちと同じ場所に泊まるはめになる。最初はとげとげしいやり取りだった彼らも、徐々に言葉を交わし始め何か少しだけ穏やかな空気が流れる。


 そして次の標的を暗殺する場面では、言葉を交わしたパレスチナ工作員をやむなく射殺してしまう。そのことを契機に彼のなかで少しずつ変化がおこる。


 血で血を洗う戦い、終わりのない殺し合い。ひとりを暗殺すれば次に別の人物がその位置を占める。標的を暗殺した直後にまた新しい標的が登場する・・・しかも新たに登場するのはより強力な相手、標的にキリはない。


 そしてついに立場が逆転する。いままで暗殺者として「加害者」側を追う立場だったアヴナーたち、その「被害者」側であったハズの彼らが今度は追われる側になる。加害と被害の立場が逆転する。殺す側だった彼らが殺される側へ。

 敵対する側から送られた暗殺者の登場である。


 夜には部屋のなかでまともに眠れない状況に追い込まれるアヴナー。不安や葛藤、虚しさや子どもに対する親父の心情。自分自身が標的にされる恐れ、心理状態。家族が狙われる恐怖。彼の内面がよく描かれている。


 暴力の応酬を繰り返すうちに、そのうち誰が味方なのか、そして敵とは一体誰なのかが分からなくなる。自分が何をしているのか、それさえウツロな日々を送る主人公。

 テロリストに対する復讐の意義とは・・・報復の連鎖の虚しさを実感する。


 監督スティーブン・スピルバーグの視点、極力中心点に立って描こうとする姿勢も伝わるこの映画は実話をもとにしている。

 ときおり実写の映像も挿入して現実感を盛り上げているが、普通の市民が暗殺者となる設定そのものがリアルだ。


 最後に自ら「暗殺者」を投げ捨て「普通の市民」に戻る主人公。この場面で「国家の要請」をはねのけて進んで行く主人公を描いたスピルバーグは、何を言いたかったのか。


 物語りの途中にはこんな場面もある。自分たちが暗殺している相手は本当に「殺すべき相手」なのかという疑問。それは単に感情的な意味でなく、殺された11人の選手たちを本当に殺害したテロリストを我々が報復しているのか?という本質的疑問。

 それは政治的駆け引きや利害、作り上げられた標的ではないのか。

 実はそれは直接手を下す彼らには知ることの出来ないこと、確かめようのないこと。まるでロボットのように指示されて動く工作員たち。


 ここで指摘したい。お互いが正義を掲げて殺し合う裏に何があるのかを。報復、復讐の心を利用して、一体何を目指そうとするのか、誰がそれを決定しているのか。

 自分は正義に立っている、だから相手は不正義だと規定する独善。「正義は不正義を生み出す」モトなのに。


 暗殺が限りなく続く場面を見ているとそれだけでやるせない、虚しい気分になる。結局「利用され、犠牲になる」のはいつも普通の市民。そして「利用する」のはそれを強要する「国家の要請」。


 では国家とは一体何か。萱野稔人(かやの としひと)氏は「(国家とは)暴力を合法的に組織化し占有することで成り立つ」としている。

 「権力の側」からすれば暴力を合法的に認めて独占しているから、安心して警察や軍隊のチカラを行使出来る。

 「権力を持たない側」からすれば暴力を合法的に認めさせられているから、たえずそのチカラにおびえおののく。


 萱野氏はこうも指摘する。「国家が法を維持するために暴力を独占的に行使し、他の暴力をたえず取り締まり続けること・・・(その結果、国家による)富の独占と所有が成り立つ」と。

 互いの体制内の市民・大衆を利用し、暴力をもって殺し合いを「要請する国家=権力者」。これでは永久に「国家を超える思想」を認めることは権力者側にはありえない。


 いつの時代も「国家を超える思想」をもった人物が登場するとそれを弾圧する権力者。国家を背景として利用し生き続ける寄生虫権力者たち。残念ながら、それぞれの時代の権力者たちは「国家を超える」という視野の大きさを、ついに得ることはなかった。


 ちなみにここで言う国家とは、「国民・市民のための国」・「市民・大衆が中心の国」という意味でなく「権力者が国民・市民を利用し、犠牲にする普通の国」という意味である。


 「国家とは何か」に付随してもうひとつ大きな問題。「暴力を合法的に」と定義したように、では「合法とは何か」という問題。法律に合うとは一体どういうことか、そもそも法律とは何か。いかがですか皆さん?

 既に紙面が尽きました。また機会があれば考えてみましょう。


 それにしても「殺人(暴力)」が生み出すものは憎しみだけ、という事実を映し出す映像に圧倒されると同時に、「虚しさ」ばかりが残る映画でありました。

第 33 回 “ロード・オブ・ウォー”で悪魔を考える

 ソ連崩壊前のウクライナに生まれ、少年時代に家族と共にアメリカに渡ったユーリー・オルロフ(ニコラス・ケイジ)とその弟ヴィタリー。両親が経営するニューヨークのレストランを手伝っていたふたり。


 ある日ギャングの抗争を見たユーリーは、「武器を売る」ことが「儲かる商売」であることを思いつく。そこで気乗りのしない弟を誘い本格的に仕事を始める。


 ソ連の崩壊という絶好の機会を得た彼はアフリカの独裁国家などを相手にソ連製の「武器の密輸」を始める。順調に仕事量が増えることに比例して、背後にインターポールの刑事ジャック(イーサン・ホーク)の姿が見え隠れはじめ・・・。


 愛するエヴァを妻に迎え、幸せな家族まで手に入れてまさに順風満帆なユーリー。そんななか弟が「武器を売る」ことに疑問を持ち「麻薬」に溺れる生活に落ちいってしまう。


 刑事ジャックはユーリーの「商売」の物証を得るために妻のエヴァに彼の本当の仕事を明かす。「貿易商」のハズが実は武器商人だったことに愕然とする彼女は言う。

 「なぜ?武器を売るの。なぜ?人殺しの手助けをするの」。

 「俺は法律を守って仕事(武器の取引)をしているんだ」と言う主人公。「合法かどうかではない」と妻。夫の仕事についていけない妻は子どもを連れて家を出て行く。


 「麻薬」から救いだしモトの「商売」へ弟を戻し、仕事を再開したユーリー。

 そんな彼らの目前で「子どもや女性たち」が虐殺される場面を見た弟ヴィタリー。武器の売買に嫌気がさし「商品」を爆破、結局取引先の手で殺される。


 愛する妻も子も、そして弟さえ失ったユーリーだが、その後も彼の商売は止む事なく拡大し続ける。しかしその背後にはインターポールの捜査の手が。

 そして巧妙な手口でついにインターポールのジャックに逮捕されるユーリー。


 意気揚々と尋問を始めようとするジャック。それに対して「ジャック、君が望むような結果にはならんよ」と話始める主人公。

 「ユーリー、お前が何を考えているか知らないが・・・お前の刑期はとてつもなく長い。二度と社会には出てこれんぞ」。


 「ジャック、あと少しするとそこのドアがノックされ・・・その人物がこう言う『ユーリーは釈放だ』と」。「そんなことはない。お前は重罪人だ」。

 「ジャック、君は世界を知らない。俺は確かに重罪人だ、だがその俺を必要とする本当の悪魔が世の中にはいるんだ・・・。武器商人を必要とする『本当の悪魔』からの使者が来て、俺は釈放される」。


 このセリフの後、ドアがノックされる。そこには「上司の使者」が立っていて「釈放」を命じる。

 刑事ジャックがユーリーにアメリカ映画の定番セリフ「地獄に落ちろ」と言い捨て、続けて言う「もう、とっくに行き着いているか」と。

 別れ際のユーリーのセリフが核心をつく。

 「アメリカ合州国の大統領は俺が1年間で売る武器を、たった1日で売る」。

 「個人の武器商人は確かに儲かっている。しかしそれは『武器供給国』に比べればわずかなもんだ。国連の常任理事国五ヶ国が『そっくりそのまま』最大の武器輸出国五ヶ国なんだ」と。


 この映画の主題はここにある。個人の商売としての「武器売買」などたかが知れている。アメリカ合州国だけで06年度の世界の武器輸出市場の46%を占める。ロシアも中国もイギリスも、そしてフランスも武器の主要輸出国なのである。

 これら五ヶ国は皮肉にも「国連の安全保障理事会の常任理事国」そのもの。


 武器・弾薬の消耗がなければオイシイ生活が送れない人たち。オイシイ生活をするために武器・弾薬を定期的に消費するシステム・構造を作り上げることに熱中する集団。


 現代の戦争の根本原因たる「侵略」は、だから「偶然」でも「敵対する」からでも「主義主張が異なる」からでも「人種が違う」からでも「歴史が異なる」からでも「民族が対立する」からでも、「宗教が違う」からでも、ましてや「国民や人権を守る」だの「感情的」に始めるものでもない。

 念入りに計画され、厳密に計算され、膨大な資料や根拠、人材や時間や資金、マスコミ対策と民衆の洗脳、それはまさに地球的規模で検討されて動く「国家による政策」そのもの。


 「本当の悪魔」は『自由の戦士どうしが争いあっている』構造を巧みに作り上げる。

 現在進行形のイラク内戦でも「お互いに “我こそは正義なり” 」と叫んでいる。結局それは「本当の悪魔」の思う壺。


 殺される前、麻薬に溺れる弟ヴィタリー。ここで観客は考えさせられる。麻薬で「イカレた弟」の方が実はまともであって、目の前で罪のない母と子が虐殺されても平然としている主人公たちの方が「イカレて」いることを。

 弟は虐殺を目の前にして人間性を取り戻す・・・そして行動した。


 「本当の悪魔」は武器商人の背後だけに居るのではない。それは「教育の法律」を改悪し「愛国心を法律で強制」する「醜い指導者」が支配する国にも存在する。

 「美しい国」と叫びながら「恥ずかしい国」造りに熱を上げる権力者たちの、なんとウツクシイことか。


 武器・弾薬消費の構造に組み込まれたイラク侵略にやすやすと乗せられ、「国際貢献」という名のアメリカ貢献。正確には「アメリカの主流権力者貢献」をするために、いまだに航空と海上の自衛隊活動を続けて恥じないウツクシイ人たち。


 地球的規模で「人類絶滅の危機」がすぐそこに迫っている現代、多くの人々の平凡な暮らしを犠牲にし、破壊し、虐殺してまで使い切れない程の莫大なゼニを儲けることにどんな意味があるのか。はたしてそんな商売は継続するのか。

 私たち日本の、そして世界中のウツクシイ悪魔に聞きたい。

 「侵略(戦争)」し「環境破壊」をし「資源の浪費」や「武器弾薬の消費」などしているほどヒマなのか。いったい何を目指すのか、人類の歴史にどんな意義があるのかを。

第 32 回 “ジャーヘッド”に思考停止をみる

 う~ん、なるほど海兵隊の訓練ではこうやって死人が出るのか。

 実弾の下、ほふく前進の際動揺した新兵が被弾即死。訓練の時点から当たり前のように死人が出る組織だから、当然戦場では死人に対して無感覚になるわけだ。


 サム・メンデス監督によるこの作品は全体として良く出来ている。特に基地での訓練の場面と戦場での日常生活を画いたところ。

 大学か海兵隊かを選択し、父の影響で結局カリフォルニアの海兵隊基地に入隊した主人公スオフォード。

 すぐに後悔した彼が体験する軍隊生活。理不尽な命令は日常茶飯事。上官の「軍隊ではアメリカ合州国の法律は通用しない」の言葉通り、人権や自由とは無縁な社会。


 彼がこうして体験する軍隊の目的、それは人間を殺人マシンへと作り変えること。

 人殺しを平然と実行する「優秀な兵士」を育てる施設。それは普通の市民を「戦後」まで、死ぬまで「正義の兵士」にしておくこと。

 それは「正義自体、正義そのもの」を問わない兵士作りでもある。

 題名の通り、ジャーヘッド=空っぽの頭にすること。思考停止、ものごとに疑問を抱かない、上官の命令に従うだけのイエスマンの大量生産。


 そんな彼は上官の薦(すす)めもあって狙撃兵の道を選ぶ。優秀な狙撃兵としていよいよ戦地に向かう。そこは「アメリカの正義」を行使する場。

 ところは中東の砂漠地帯、サウジアラビア。時は第一次イラク戦争、別名「湾岸戦争」。


 サウジアラビアの米軍基地で待機する彼ら。最前線の戦闘とは無縁な平穏な月日が流れ、兵士たちは時間を持てあましている。

 そんな時期に起きた「事件」を契機にスオフォード自身が迷いはじめる。それは「優秀は兵士」への道でもある。


 そんなある日、ついに出動命令が下り部隊は最前線へ移動を開始する。移動中のトラックのなかで兵士たちが語り合う場面。

 そこにこの度のアメリカ軍の侵略戦争、第一次イラク戦争(湾岸戦争)の核心が語られる。

 監督サム・メンデスはひとりの兵士に「何故俺たちはここに居るんだ」と質問させた後、複数の兵士に言わせている。

 「俺は石油成り金てやつを見て来たが、やつらはアラブの油で稼いでいる・・・俺たちがここに居るのは、そんなやつらの富みを守るためだ」。

 その彼に「そんなのはウソっぱちだ」と非難する兵士もいる。悪いのはサダム・フセインただ一人という建前論に対しては・・・。

 「では、誰がサダムに武器を売っているんだ」と言わせてアメリカの本当の目的を暗示している。


 ここがアメリカ合衆国のある意味すごいところ。ジャーヘッドと言いながら、しっかり政府批判をする兵士を登場させる度量をもつ社会。

 戦争の目的が「石油の確保や兵器の売上(それは武器・弾薬の消耗)」、結局は「特定の階層によるゼニ儲け」にあることを指摘する。

 このような映画が作られる土壌の厚み。合州国が日本よりまだマシな部分が映像で展開する。

 最前線に到着後部隊は偵察に出発、その現場では黒焦げの死体がごろごろ。しかもひとり残らず非武装の市民たちだ。

 無抵抗の子どもや女性や老人の遺体。兵士のひとりがつぶやく「住民は逃げていただけなのに・・・」。

 戦闘から逃げるために移動中米軍から攻撃を受け、メチャクチャになった多くの車両。無数の弾丸の跡と煙があがり、あちこちに放置されたもう二度と息をしない市民たち。


 戦争で被害を受けるのはいつも「民衆」、得をするのはいつも「強者」。結局は力を持たない弱者が傷つけられ、殺される。


 この場面、力を持つものが無言の死体を生み出すその事実に目を向けた主人公は思う。

 「祖国アメリカのために命をかけて戦う。僕は誇りに思って、そう信じて疑わなかった。砂漠(ここ)に来るまでは・・・」。

 英雄としての父への思いと現実の軍隊、戦場との格差。派手な戦争映画とはほど遠い、暗く重い残酷な戦場。


 この映画で登場する「敵側」の兵士は将校役の2人だけ。戦闘場面としては敵側の兵士はひとりとして登場しない。

 通称「湾岸戦争」、第1次イラク戦争では「敵対」するほどの軍隊を持った「敵側」などそもそも存在しない。現在、地球上にアメリカ軍事力に敵対可能な軍事力を持った国家などどこにあるのか。

 この度の第2次イラク戦争、通称「イラク戦争」。どう考えてもアメリカの軍隊がイラクの軍隊に負けることなどありえない。それなのにどうして「国際貢献」と称してアメリカ軍への支援が日本から必要なのだろうか。


 この「ジャーヘッド」が教えることは多い。そのなかで特に強調されるのは「からっぽの頭」にならないこと。絶えず疑問を持ち「何故だろう」と思考し続けること。

 それこそが「私が迷っている」ことを自覚出来る方法だ。

 現代社会が迷っているという時代認識があって、その上で自身の迷いに目を開く。ジャーヘッドとは実にうまく付けた題名だ。

第 31 回 “世にも不幸せな物語り”にしあわせをみる

 題名が「世にもフシアワセな・・・」とあったので、どれほどの「不幸せな物語り」が始まるのかと見ていたら、いっこうに「世にも不幸せな物語り」の始まる気配がない。


 ある日ボードレール家の住まいである豪邸がその主(あるじ)夫婦とともに燃え落ちる。

 残されたのはボードレール家の3人姉弟妹(きょうだい)。長女ヴァイオレット、長男クラウス、末っ子サニー。

 3人はまだ未成年のため、後見人として血族だという親戚のオラフ伯爵に引き取られる。それから3人にとっての物語りが始まるのだが、とても「世にもフシアワセ」と呼べるほどの物語りの展開でなく、反対に両親を失いながら懸命に生きていく頼もしい姉弟妹を画いている。


 ここで画かれるフシアワセな状況とは「世にも」などとはほど遠く、「どこにでも」あるような物語り。

 だからオラフ伯爵のかずかずの陰謀に負けることなく、3人がチカラを合わせた行動で困難を克服。ついに最後には伯爵の犯罪を暴き、メデタシメデタシ。

 実は伯爵がある装置を用いて邸宅の火災をおこし両親を殺害、その財産目当ての陰謀であったと。


 両親を殺された姉弟妹の力を合わせた、「姉弟妹、家族愛」の物語り。何のことはないこれは大変「シアワセナ物語り」でありました。


 この程度の物語りを「世にもフシアワセ」と定義出来る社会からすれば、現在の日本の社会の実態をどう表現すれば良いのだろうか。


 「世にもフシアワセ」な実態は「物語り」の方にあるのでなく、「現実」のこの社会に存在する。この物語りとしての映画が「幸せ」に見えるほど、痛ましい事件が続く日本の社会。

 映画では3人がチカラを合わせて行動して、悪人としてのオラフ伯爵を撃退する。それがこの映画の物語りの中心に“揺らぐことなく”ある。

 幸せやフシアワセの定義の前に「お互いに理解、協力出来る」という関係、筋の通った揺らがない関係。これこそ最高の幸せではないですか。


 今の同年代の日本の子たちは「いじめ自殺」に代表されるように孤立を余儀なくされている。自分のことを理解、同調、支持してくれる仲間や友人、家族、教師、校長がいれば死ぬことはない。

 実に痛ましく悲しいことに、自ら命を絶つことでしか「フシアワセ」から開放されない日本の子たち。


 「いじめ」という抽象的な言葉でなく、「暴力や脅し、無視・無関心、嫌がらせによる孤立・孤独化、結果として今と将来への絶望」状況に追い込まれることを「いじめ」と定義すれば、「いじめ自殺」をするのは子どもたちばかりではない。

 多くのオトナたちがその犠牲者となっている。だから、子たちの何倍もの成人たちが自ら命を断っている。


 例えば昨年度1年間で自殺した「自衛隊員」は101人、決して少なくないオトナの命が「いじめ、嫌がらせ」で失われている。

 日本全体でも20~30代の死因の第一は自殺、それが5年間も継続している。「ガンや不慮の事故」を抜いて、自分自身を殺す成人のなんと多いことか。


 話がそれるようだけれど、最近自殺という言葉の代わりに「自死」などと不思議な言葉をのたまう「知識人」が登場するテレビ番組を見た。

 ふだんはテレビをあまり見ないのだけど、最近子たちの「自殺」を扱う番組が多いせいかテレビの前を通っただけで発言が聞こえてくる。


 その画面で「知識人」と呼ばれる人物が自死を連発。

 自死とはいったいどんな意味なのか。前後の話の流れから自殺のことを意味しているらしい。自分で死ぬ、と言うようなことらしいがこれは非常に傲慢な言葉ではないですか。

 自分が死ぬとは、自分の身体を「自分個人の持ち物」と見ている発想から来るのではないですか。

 自分のチカラで生まれて、育って、考えて。自分の自由になる身体(からだ)として認識し、我が思いの通りに利用出来る私の身体。そう考えるから「自死」が絶えないのでしょう。


 正確には自殺、自ら死んで行くのではなく「賜ったいのち」を「自ら殺して」しまうのです。それって殺人でしょう。老衰で自然と死んでいくのではない。

 強制的に“いのち”を終わらせる行為。自分だろうが、他者だろうが、対象が“いのち”であることに変わりがない。


 「世にも不幸せ」な姉弟妹が元気に「チカラを合わせて」生きて行くこの映画のどこにも“いのち”を投げ出す場面など登場しない。


 賜った“いのち”を自分の都合で強制的に終えることなど思いもよらない。自分で自分自身を見捨て、自分を殺すなどという発想はどこにも見えない。

 そんな思考とは正反対にたくましく生きて行く、そんな幸せな姉弟妹。

 どこから見ても本当の意味で「世にも幸せな物語り」。


 自殺を自死などとのたまう「知識人」が登場するテレビ業界。そんな業界が作る価値観に乗せられたこの国の現状を見るとき、本当に「不幸せな物語り」が展開しているのは果たしてどちらでしょうか。