12

 2004年7月、三条・中之島で水害がありました。そして、災害が起こったとき、文明の力に預かっている私の生活が、実に危ぶまれました。そして、3人の子を持つ身として、子供を守らねばならないと考えました。9月9日の救急の日前後に、 生協の購入企画に、非常食や非常用トイレ、非常用持ち出し袋などが出ます。非常食は1人3日分を用意するのが目安。水も大切と考え、五年間保存水を買いました。というのも、いざ、避難所生活となったとき、配給されるもので足るだろうか、子供の分までわれ先に、といって、人を押しのけてまでも奪えるかと考えました。

 子供の時聞いた父の説法の中に「親というのは餓鬼道にいて、ガキになって働いて子供に食べさせている。」という言葉が耳に残っていて、親とは、子のために地獄に堕ちているのだと思っていました。が、私は子を育てながら、地獄に落ちきれずに、我が身かわいさに我が子のために物資を調達する勇気がなく、私は非常食、トイレ、水などを用意しておいたのです。

夕食時、父は通夜で留守。子供と四人、机の下にもぐっていました。20分もしないうちに父は帰ってきて、ようやく外に出ました。いい月夜でした。車を広い境内に出し、そこで暖をとりながら一晩二晩過ごしました。幸いガス、水道は止まらず、電気も3日目に戻りました。用意していた非常食は使わずにすみ、避難所にも行かずにすみました。とても大きく揺れたので、何度も何度も揺れたので、二歳の和夏子はとても怖がりました。姉と仲良く遊んでいるなと思うと、机の下に隠れ「じしんごっこしてるの」と言ってました。しゃべり始めたばかりの和夏子が「じしんこわかったね。」と言えたのは感心もしました。「そうだね、怖かったね。」と答えました。ずいぶん学校も保育園も休みになったので、天気の良い日ばかりだったので、揺れないときはもう毎日、バトミントンをして、右のひじが痛くなったほどでした。お兄ちゃんはとても上達しましたよ。

 タイに引っ越した友達から手紙とお菓子をもらってきたとき、お兄ちゃんは喜んでいました。そしたら今度はスマトラ島沖で地震と津波。比べることなどできない一人一人の生活、いのちの重さ。

第 11 ('04/8/12)

 誕生日をひとりひとり祝うことはいつから始まったのだろうか。かぞえ年で年を数え、年をとり、大晦日をとしやの晩といい、家族みんなで一つ年をとる。家族が一年無事だった事への感謝や喜びがあった。そして神社やお寺への年始参りがある。ひとりひとりの誕生日には、祝う側と祝ってもらう側、おめでとうを言う側と言われる側とがある。今まで、みんなで祝う正月より、自分が生まれた日で一つとるのが正しい、当たり前と思っていた。私は12月生まれなので、満で年をとったと思うとすぐまた数えで年をとり、損をした気分になったものだった。

 さて、我が家は子宝に恵まれ3人の子が夏に次々と誕生日を迎える。22日ごとに三人の子は誕生日が来ることを父が気づいた。盆参が近づくにつれ、あわただしくなり、お祝いどころでなくなる。こちらが倒れないように手を抜く。回転寿司でごちそうもケーキも済ませる。実に簡単で、子供たちも喜ぶ。一石二鳥のようだ。だが不思議と、これでいいのだろうかと思えてしまう。

 ようやく年に一度みんなで年をとり、みんなで祝うのは理にかなっているし、いいなあと思えてきた。

 ところで、誕生日に付き物のケーキについて。私は誕生日には丸い手作りケーキで、切り分けて食べることにこだわった。

 私が保育園に行っていた頃は、母がケーキを焼いてくれた。そのケーキは丸くて香ばしくて、おいしかった。だが生クリームはおいしくなかった。生クリームをよけてスポンジケーキだけを食べていた。その話を夫の二番目の姉にしたら、当時の生クリームは今のほどおいしくなかったよと教えてくれた。そうだったのかもしれない。

 田舎なのでお店もなく、食べ物は作るしかなかった。母の手作りお菓子のためかどうか、甘いもの好きの私は、そのころお菓子屋さんになりたいと、将来の夢を書いた。しかし今、私の焼くケーキはおいしくないから、作らないで、と言われている。

 8月15日、終戦日。亡き祖母の誕生日。8月15日といえばお寺は忙しさの真っ盛り。祖母は、自分の誕生日は、いつも忙しくて祝ってもらえないとこぼしたことがある。私と兄が車の運転ができた頃だったから、16,7年ほど前になるだろう。夕方、棚参りに一区切りつくと、三条の大阪屋に車を走らせた。

 この季節、ケーキのウインドウにデコレーションケーキはない。切り分けたショートケーキはあったが、丸いものはない。兄は丸く、切り分けて食べることにこだわったため、いつも毎年、アップルパイだった。今ならケーキのスポンジは冷凍保存してあると知っているので、当日でも少し早めに注文すればデコレーションケーキを買うことができる。アップルパイを黙って食べてくれた祖母に、まあるいデコレーションケーキを食べさせてあげた。ろうそく80本くらい立てて。今だと90本だろうか・・・

第 10 回('04/8/12)

 6月24日、小学校で親子レクリエーションが行われた。参加してみると、役員の方々がゲームを考えていてくれた。3クラスに分かれてカードを裏返すゲーム。イス取りゲーム。ジャンケン列車。

 白熱して盛り上がったのはイス取りゲーム。人数より少ない数のイスの周りを音楽に合わせて回り、音が止まるのを合図にイスに座る。座れなかった子は終わり。座れなかったこの中に泣き出す子もいた。何とも残酷なゲーム。しかし、スリルのあるハラハラドキドキのゲームでもある。

 私は子供の頃からこのゲームは嫌であり苦手であった。つまらなかった。人を押しのけて自分が残るという素早さもなければ、勝ち残る気もなく。勝ちたかったが、体が動かなかったのかも。座れないと、それでゲームは終わり、端で見ている。

 その点、ドキドキハラハラは似ていても、必ず参加できるフルーツバスケットというゲームの方がよかった。見ていても楽しい。鬼が共通の何かを言い、当てはまる人はイスから立ち、ほかのイスに座り、残った人が鬼となるゲーム。しかしこれも苦手だった。

 子供たちは、初めてのイス取りゲームに何とか勝ち残ろうとする。イスの前で動かなかったりする子もいた。家の子も残り10人というところまで残り、健闘した。子供たちの次は親たちがゲームをした。音楽が止まり、私は隣の人と一つはさんで見合った。思わず「どうぞ」と、座を譲ってしまった。電車の座を譲るように。私ははじめから棄権してしまったのだ。息子は「お母さん一回でダメだったね」といった。次にまた、子供たちでイス取りゲームが始まった。しかし彼は参加しなかった。後に「あのね帳」を見る機会があり、そこにその時の事が記されてあった。

「お母さんが一回で負けてくやしかった」とあった。

 ゲームなのだから真剣に戦わなければいけなかったか。いや、ゲームなのだからいいじゃないかと思ってみたり。私は何ともいえない気分になった。今度イス取りゲームの時は、がんばろうかな?イス取りゲームは、私の弱点だった。

9 回('04/5/21

 まだ話のよくできないわかこを抱っこして、ゆっくりと、やさしく、「あのね、」と話しかける。「うん。」と返事が来る。

「わかこちゃんはね、」 「うん。」 「おとうさんとね、おかあさんとね、お兄ちゃんとね、お姉ちゃんのね、大事な大事な、宝なんだよ。」というと、「ウフフフフ」と笑うようだ。それがかわいいから、何度も「あのね、」といっては繰り返していた。

ある夜。オッパイを卒業すると決めた次の夜。今までオッパイで口封じされ、寝かされていたが、それもできず、わかこがグズグズいっていた。ななこも又、お母さんに抱っこしてもらいたくて、ウズウズしていた。りょうは、すでに寝ていた。

 わかこはねむく、横になるが、離れるとグズりだす。もう少し、もう少し、と思っているが、なかなか寝入ってくれない。待ちきれないななこが、「おかあさん、だっこして」と繰り返した。体を離すと、わかこは起きるだろう。背中をたたいて「こっち向いて」とななこはいう。私はわかこから離れ、「ななこちゃん、抱っこしてほしいのはわかるけど、わかこは離れると泣くから、もう少し待てない?それとも、わかこが泣いてもいいから、自分が抱っこしてもらいたいの?ほら、抱っこしてあげるよ。おいで。」といった。泣いて起き出したわかこを見て、握り拳を自分の足の所に振り下ろして、「ダメ。」というななこ。

 今までもななこは、かわいい妹 (ちょっぴり憎らしいが) のために我慢してきた。わかこがグズり、絵本が読めなくてだだをこねると、「わかこがいなければ、ゆっくり絵本が読めるから、わかこ捨ててくるね。」というと、「ダメダメ、わかこ捨てちゃダメ。いい子にするから捨てちゃダメ。」と、本気で泣きそうに訴える。本当に妹がかわいいんだと思う。それを知っているから、今回はヒステリックにならなかった。

「ななこちゃん、胸に手を当てて聞いてごらん。わかこが泣いてもいいから、ななこは抱っこしてもらいたいの?違うでしょ。」といって、泣いてるわかこを抱き、背中をトントンとたたくと、泣きやんできた。「お姉ちゃんがね、わかこちゃんを先に抱っこしてねって。お姉ちゃん、わかこちゃんが大好きなんだよ。」というと、ななこは足で布団を蹴って、こらえていた。自分も抱っこしてもらいたいのに、良い子にさせられてしまった。

 わかこが早く寝ますように、と思いながら、やさしく、ゆっくりと、「わかこちゃんはね、おとうさんと、おかあさんと、お兄ちゃんと、お姉ちゃんの、大事な大事な宝なんだよ。」とはじめた。いつもはその繰り返しなのだが、ちょっと変えてみた。「あのね、わかこちゃんはね、お母さんのね、支えなんだよ。」

 すると、すかさずななこが、「支えってなに?」と泣きそうな声で聞いてきた。「つっかえ棒」と答えた。すると又、「つっかえ棒ってなに?」と聞くので「アスパラの茎が伸びて、倒れそうになったら、倒れないように棒をつっかえて支えたでしょ。そういうの」といったら、「わかこは、つっかえ棒じゃないモン!!」と泣きそうな声でいわれてしまった。

 確かにわかこは、畑のアスパラのつっかえ棒じゃありませんよ。悪い意味で言ったのじゃないんだけどなあ。しかし、私も畑のアスパラか・・・。たとえ話には気を遣おう。

 2人とも早く寝ないかなあ。

8 回('04/5/18

 小学校時代、夕食の時の楽しみは父親の話でした。「祐子さんは、自分を親が勝手に生んだと思う?」と聞きました。「どうしてこんな顔に生んだとか、も少し美人に生んでくれれば良かったとか。足が長い方がいいとか。だけど、もし、親の思うような子に生めるのだとしたら、もし、わたしが祐子さんを選べるなら、もちょっと美人で足がスラーっとしたのに生んだかなあ、なんてねハッハッハー」(ちょっと、まるでわたしが短足のブスみたいじゃないですか。)と、父は冗談ぽく話してくれました。

 親の責任逃れのようにも聞こえますが、もっともだとうなずきました。子供は両親を選んで、あなた達の子として生まれたいといって生まれてきたわけではない。気づいたら、この父、この母を親として生まれていた。(始まりがはっきりしないことを「無明」というと後に教わりました)子の立場からだけでなく、親の立場でも言えることなのでしょう。気づいたら、この子を子として親になっていた。子供を選べたわけではないのです。そこに、人間の思いを超えるものの存在を感じました。漠然と、しかしはっきりと。

 わたしの両親は、あの父と母だが、本当の本当の親は阿弥陀様だ(当時阿弥陀とは知らないが)と思ったのです。本堂の暗いところに立っている仏様だと感じたのです。父と母に、自分の身勝手な思いが通じないとき、「本当のお母さん」と心の中で呼んでいたのを思い出しました。

やり場のない自分をすでに包み込んでいてくれたのかもしれません。

 私もまた、子供達にとって、思いの通じない、都合の悪い母親であるでしょう。私が救われたように、今また、子供達を導いていただきたい。

7 回 来訪者

 5月の連休・3日に、寺泊のいとこのお兄さんお姉さんたちが大学帰省中の忙しい中、遊びに来てくれました。突然の来訪、とても嬉しかったです。うちの子達はもっともっと喜んで、はしゃぎ回り、お兄さんお姉さんたちをクタクタにノックアウトしてしまいました。

来訪目的の一番は、わかこに自分たちを認識してもらうことだったようです。まだよく話せないわかこに自分たちの名前を覚えて、言ってもらうこと。ちあきお姉さんは以前もよく来てくれていたので「ちー」と覚えていました。こうやお兄さんを「こー」と、どうにか。なつきお兄ちゃんは「なー」とすると側からチャチャが入り「ブーブー」と声がかかると「ブーブー」とわかこが言うのです。「なーだよなー」といっても「ブーブー」というので、笑い声が飛び交います。

悪気のない幼児だからこそ、その場を和やかにするのでしょう。心洗われる思いがします。大人になると一言一言に裏があるのではないかと疑い、不安の心が起こります。まだよく話せない幼児には、言葉に裏も表もなく「そのまま」なのでしょう。それに触れるとこちらの心も軽くなります。出来るならこのまま素直に大きくなってもらいたいものです。そんな願いが和夏子の「和」の字にあるのではないでしょうか。

やっぱり親バカですよね。

わかこ語らく 追加

なーい=ない   ”泣く”=最大の抗議

6 回 わかこ入園

 次女和夏子は、1歳8ヶ月で4月から保育園に通い始めました。4月5日入園式。名前を呼ばれても母親にしがみつき離れず、壇上に上がりませんでした。長女菜々子は同じ1歳8ヶ月入園ですが、呼ばれもしないのに他の子に混じって壇上に上がっていたのを思い出します。親が離れがたいのか、子が離れがたいのか。まだオッパイにしゃぶりつき、話も出来ない我が子を、保育士さんに預ける覚悟は出来ていたつもりでした。

 入園4日目に40度の熱を出しました。急な環境の変化のためかと心配しました。熱の後、私の方が用心深くなり、午前中で迎えに行ったりしました。別れ際泣かれると、このまま家に連れ帰りたくなりました。しかし連れ帰れば、手の掛かる子がいて、4月から予定していた整理が全く出来ません。つい「あんたのせいで、何も出来ない」と当たってしまいます。子供も、母親と一緒にいたいだろうけど、鬼婆では、迷惑なことでしょう。改めて意を決して、保育士さんに任せました。わかこもわかるのでしょう。泣きながらでもバイバイと手を振ってくれます。頼もしい限りです。

 母親(わたし)が熱で倒れました。父親の送り迎えです。今度はなな子が気を利かせて、妹と一緒に赤ちゃん組へ行き、父親にいまのうちに帰れと合図をするのだそうです。菜々子のお姉ちゃんぶり(お母さんぶり)に保育士さんもびっくりしてました。子供たちはそれぞれ成長しています。

 3人同じように育てたいけれど、一人一人違います。また、次々、兄、姉、妹となり、わたしもみんな同じようには出来ません。これからまた、親として悩むことでしょう。


わかこ語らく

わーわー=「わかこも」の意、わかこの事。両手を胸のとこで指しながら

ねえねえ=おねえちゃん   にいにい=おにいちゃん   かあかあ=おかあさん

ちち=おとうさん      じいじい=おじさん、おじいさん 

ばあば=おばちゃん、おばあちゃん

ぞう=ぞうさんのうた  にゃー=ねこ  わん=いぬ   ぼうす(い)=ぼうし

バァーバァー=手を振りながらバイバイ  パイパイ=おっぱい  っち=こっち

しぇーしぇー=せんせい  ちーちー=おしっこ、うんこ やーやー=いやだ

ふーふー=シャボン玉  ハミングでちょうちょう=ちょうちょうのうた

両手で手を丸め、指先をたたくジェスチャー=「ピアノを弾く」の意

手を広げて上に上げるジェスチャー=ありがと

顔をしかめてぺこっと頭を下げるジェスチャー=ごめん


よくこれで生活できる。おそれることなかれ。

5 回('03/12/30

 今年もまた12月が来て、一年の終わりを告げようとする。そしてまたクリスマスという日も来る。この日に、子供たちにプレゼントが届く。種もしかけも大あり。

 はじめはほんの遊び心で、長男長女の枕元にミニカーとモンチッチの人形を袋に入れておいた。その反応は、長女は飛び上がり、「お母さん、サンタクロースが来たよ!本当に来たんだよ。見て!」と大喜び。あまりの喜びように、少々心が痛みました。

その次の年は筆入れに鉛筆。そしてとうとう、「お母さんが買ってきたんでしょ」と兄が言うと、妹も一緒になって、「だってバーコードがついてるもん」と。

 なんだか悲しくさびしくなりました。サンタになってだました自分。夢を見せてるつもりが、私のほうが子供に夢を見せてもらっていたのです。

 ようやく気づきました。それでも、子供の喜ぶ顔は見たいものです。そして物ではなくて、こうして3人の子に恵まれ、家族で一年過ごせたことが、何よりの幸せだとわかるでしょう。いつの日かきっと。

4 回('03/12/30)

 三人の子供たち。まん中の菜々子がたびたび訪ねます。「お母さん、3人の中で誰がいちばん好き?」と。さて、答えに困ります。以前、やはり3人のお子さんをお持ちだったお寺の奥さんは、(すでに、ガンで亡くなられたそうですが)ひとりひとりに「あなたがいちばんよ」といって抱きしめて、子育てしたとか。

 私は兄と2人兄弟でしたし、母にそんなこと聞いたこともありませんでした。なぜ、菜々子はそんなこと聞くのでしょう。愛情不足という言葉が頭をよぎります。言葉で言うのは簡単ですが、乾いた心は満たされません。


「菜々子がいちばん好きよ」と言えば、「うそ」と返ってきます。

「じゃあお兄ちゃん」と言えば 「・・・・」 黙ります。

「3人ともみんな好きよ」と言っても、「だから、誰がいちばんなのって聞いているでしょ。」なかなか手ごわい。


 ごまかしも、本当も効かない。3人とも好きなんだけどなあ。菜々子はとってもかわいいし、楽しいし、とても助かる。頼りになる。兄が邪魔にしても大好きだし、妹にも優しい。私がイライラすると、助けてくれる、大切な子です。居なくなったら大変だと思うのです。

 兄は下の妹にメロメロです。菜々子は兄が大好き。蹴られてもついてきます。妹の和夏子はお姉ちゃんが大好き。くっついていって真似します。お姉ちゃんも困りますけど。そして3人はお母さんが大好き。そしてお母さんはボロボロ。ボロ雑巾。ただくたびれていればいいのに、私は怒り、傷つけます。もう少しすれば楽になる、と人は云います。でも、私の手に余ります。

 私は思います。3人なんて欲張ったからだ。2人でやめとけばよかったと。本気で思うのです。そうすれば片手づつ子供を抱けたのに。3人は無理。片手づつどころか、3人が3人、両手で抱いてもらいたがるのです。あぶれた子は泣きます。順番なんて聞きません。自分が一番でないといけません。

 さてどうしたらよいでしょう。しばらくほっときましょう。できることしかできないのですから。

3 回('03/11/13

 去年の10月、保育園の運動会も近づいた頃でした。年長だった長男は、「ぼく、一番になれないんだ。2番にはなれるけど。」と言った。3人で走る徒競走は、必ず3位入賞です。2番でもいいじゃないか、と思いました。が、「一番になりたいけど、もう少しなんだけど、いつもKが一番なんだよ。」

 3年間、なぜか同じ三人で走ってきました。彼は1位になりたいのです。

私は 「じゃあ、朝起きて練習しようか」 と言ってみました。ところが父親は、「そんなことしなくていいんじゃない。2番になるのは偉いんだぞ。1番より2番になる方がすごいんだぞ。」と言うのです。私は驚きました。

そして、たまたま来てくれていたお義姉さんも、「2番になれるなんてすごい。1番より2番になるのはむずかしいんだよ。おばさんは2番が好きだ。」というので、全く驚いてしまいました。鷲尾家の教えだろうか、と不思議に思いました。

さて、運動会当日。彼はソワソワと 「1番になれるかな。でもKが1番だよな。」と、まだ言っていました。ところが、本番。なんとゴールのテープを切ったのは、彼でした。とてもうれしそうに 「1位だったよ」と報告してました。

ライバルのKくんは前夜熱を38度も出し、座薬で下げての出場だったのですけれど。

法事から帰った父親に、「ぼく1位だった。」と報告すると、「え、ほんとか、よかったな。」と言ってくれました。私はホッとしました。「2番でなくて残念」と言われずに。


私は小学生の頃走るのは苦手で、1位なんて夢のまた夢。ビリにならないように走るのが精一杯でした。でもビリは嫌でした。

 その頃だったか、私の父はこんな話をしてくれました。「1番になれるのは、ビリがいるからなんだ。誰もビリになる人がいなかったら、1番にはなれないでしょ。わかる?」 (1人で走っても1番とは言わないか)と、話はよくわかりました。1番を1番たらしめるには、ビリはじめ2位のみなさんですからねえ。偉いんです。けれども私は、やっぱりビリは嫌でした。朝の練習をして、ビリは他の人になってもらいました。

 今年1年生になって、5月末の運動会。徒競走でころんで4位。障害物競走では1位になり、喜んでいました。素直な成長だと思います。「1位だ。ヤッター。」

「1位だ、どうしよう」なんて、おかしいですよね。では、又。

第 2 回('03/10/21

 ~~ 10月13日、祖母の命日でした。亡くなって7年、時々思い出します。母は1歳で父親が戦死。サイパン島でギョクサイで死んだのです。 ~~


 母をそこに連れていってあげたいと思っていた。私は母は行きたがるだろうと思っていた。ところが母は、「行かなくていいよ。そこに行っても父はいないよ。」と、きっぱり言い切った。私は少し驚き、また、母は偉いなあと思った。母の行っている事は真実だと思う。

 そういえば「皇室アルバム」などというテレビ番組は好きで、よく見ていたようだった。が、村の戦没者慰霊祭にも出ず、もちろん靖国神社など行ったことはない母である。いっつも馬鹿のような事ばかり言っている母の中に、こんなにもはっきりとしたものがあるのだと知った。

 祖母は、朝憲祖父亡き後、光善寺に行き、死んだら浄土で朝憲さんが「よくやった」といって待っていてくれる、と言っていた。30代で亡くなった祖父と、84で亡くなった祖母は浄土でどのように会うのか、は謎だけれど。


母の両親は、必ず浄土にて待っているのだろう。

第 1 回

 7月29日待ちに待った赤ちゃんが生まれました。

女の子で名は和夏子と決まりました。赤ちゃんですので小さくてかわいいのですが、腕の太いのと唇の形は私にそっくり。まちがいなく私の子です。


「私の子なんだから」と、主人に抱かせないと、

「違う、仏様の子だ」というので、

「何を言うか、あなたは名付け親、私は産みの親」と言い返しています。


 赤ちゃんは泣きます。オムツをかえ、だっこをして、おっぱいをあげていると、それ以外何もできません。ですから上の子に手が回らなくなりました。日課の歯磨き点検と絵本読みも、ままならなくなりました。点検したくても和夏子が泣きます。絵本を読みたくても、おっぱいをあげていると、ページがめくれません。いらいらして怒ってしまいます。

「早くしないからわかちゃんが起きる!」

「もう絵本はなし!」

と鬼のように目を吊り上げて、眉間にしわを寄せて怒っています。すると菜々子は、

「絵本読んで」と、泣いてきます。かわいいんですよ。

「もう怒ってない?」

「怒ってないよ。」

「よかった。」というので、

「ごめんね、読んであげたいけどできないんだよ。」

と冷静になるとそれが言えるのに、すぐカッとなってしまうのです。

「お母さん怒ってばっかりでイヤだねえ。」と言うと、

「ううん、おかあさんやさしいよ、おかあさんだいすき」と、2人とも言ってくれます。

抱きしめたくなるのですが、和夏子を抱いているので、できません。


ついに、菜々子に言われました。

「おかあさん、3人も子供がいて大変だねえ。」

四歳の子供のいう言葉かしらと思い、

「昨日来た人がそういってたの?」と聞くと、

「え、違うよ、言ってないよ。」と言うので、本当に菜々子がそう感じたのでしょう。

私は「そんなことないよ。」と言い、

「3人いて喜びのほうが大きいよ。」とは言えず、苦笑してしまいました。

でも本当に、諒、菜々子、和夏子の寝顔を見ると、なんとも心安らぐ気持ちになります。


 以前、諒と菜々子で 「僕のお母さん!」 「私のお母さん!」と取り合いになったことがありました。幸せなお母さんだなあと思いながらも、おかしくて笑ってしまいました。「僕のお母さんだよね」 「はいはい。」「私のお母さん。」 「はいはい、どっちものお母さんよ」 と言いました。

 「10億の人に10億の母あれど」という詩がありますが、兄弟がいたら母の数は減るだろうにと思ったものでした。でも違うということがわかりました。3人兄弟でも自分にとっての母は一人一人にあるのだと。だから私は三人に分身するのです。現実、分身するわけはないのですから、はたらきとして、「おかあさん」があるのではないかと思いました。太陽の光のように一人一人に「おかあさん」というはたらきがあたるのです。「おかあさん」と呼ばれて、「おかあさん」のはたらきをするのです。私はまだまだ「育ての親」ならぬ「育てられの親」です。

元気ですかぁ 

   楽しい青少幼年教化の連絡会(仮称)通信 2002年10月発行(季刊) 秋号より転載