18 回 ”ヴァン・ヘルシング”にバチカンの独善を観る

 怪人との闘いで幕が開く。黒ずくめの主人公が激しい格闘を繰り広げ、最後に高い塔から真っ逆さまに相手の怪人が落ちていく。落下した怪人はジキル博士。ハイド氏と表と裏、善と悪の関係にあるジキル博士とハイド氏。

 主人公「ヴァン・ヘルシング」はジキル博士の死を確認し、意気揚々とローマ・バチカンへと引き揚げる。実は彼、バチカンの指令を受けて「人間の脅威」となる怪人を「退治」するのが役目。モンスター・ハンターと呼ばれている。

 次の仕事はドラキュラ伯爵。伯爵の住むトランシルバニアで、ヒロインのアナ王女らと協力してのドラキュラ退治。

 

 映画の内容をわかりやすく言えば「ハリーポッター」を大人版にし、「007シリーズ」を中世劇風に味付けし、足して二で割ったようなもの。わかるかなぁ?


 物語に登場する怪人は、怪奇小説でおなじみの有名人ばかり。フランケンシュタインも狼男も出てきます。日本でも名が知れている怪人が多く、結構楽しめる。

 もちろんラストは皆さんの期待通り、ドラキュラ伯爵を退治。メデタシメデタシになるわけだけど、気になるセリフがあったので、今回登場してもらいました。


 ジキル博士退治の報告を聴いた神父が、ヴァン・ヘルシングに彼のやり方を非難する。そんな口先だけの神父の非難に彼は「いかに怪人といえども”退治”をすることの疑問」を口にする。対して神父は「人間の脅威」なのだから「退治が当然」とうそぶく。

 「彼らが死んでいくときは、人間に帰っていくんだ。その姿を見なければならない俺のつらさがわかるか」と彼、ヘルシング。

 ここではバチカンの神父が「善悪を決定する立場にある」事に疑問を呈ていしている。「人間の脅威」としての「怪人」ならば”退治”されて当然。果たしてそうだろうか?「怪人」と呼ばれる側からすれば、人間の方こそ「凶暴な怪人」でしょう。そのことをさらにわかりやすく解説する場面が、ドラキュラ伯爵のセリフに出てくる。

 ファン・ヘルシングがトランシルバニアにやってきて、ドラキュラの三人いる花嫁のうちの一人を殺害する。それを知ったドラキュラが独白する場面。

「(1ヶ月に2~3人の村人を吸血する行為の)どこが悪なんだ!何で悪いんだ!人間の生き血を吸って、命を奪うことがなぜ悪いのか」。床から壁、天井へと歩きながら語るドラキュラ伯爵。

「命を奪うことは人間もやっていることではないか!生きるために、他の命を奪うことに違いはない!」と。


確かに「人間だけに他の命を奪う権利」を認め、他の”生き物”にはそれを認めない。この独白にどのような「反論」が可能か。人間だけが他の生き物の命を奪い、人間の脅威となる”生き物”たちは”退治されて当然”。そんな行為が当たり前とされるバチカンの論理。


実はこのドラキュラのセリフの前に、トランシルバニアでドラキュラの花嫁を殺害した際、村の長老がヒーローとヒロインたち”正義の味方”に向かって語る場面がある。「なんて事をしたんだ・・・。今までドラキュラの花嫁たちが襲ってきても、1月に2~3人が犠牲になるだけですんでいた。これで村人全員が殺される。」

 バチカンのモノサシ(判断基準)によって「退治されるべき側」が決定され、人間だけに「他の命を奪う権利を容認」する世界。これを独善というのではないですか。


最初に「ラストはメデタシ、メデタシ」と言ったものの、一つだけ意外な展開も見せる。一緒に闘ったヒロイン(アナ王女)がヒーロー(主人公、ヴァン・ヘルシング)に殺されてしまう場面。このラストの場面はとても重要なところだ。


 なぜ主人公が愛するヒロインを殺すのか。それは物語の流れから不死身のドラキュラを倒せるのは狼男しかいないことを知った正義の味方たち。狼男にかまれたヒーローが狼男に変身し、ドラキュラを倒し、元の人間に戻る計画を立てて実行する。

 ところが狼男に変身したとたん、すっかり人間の心を失った主人公が、身を守るためにした行動。その結果、ヒロインは主人公に殺されてしまう。


ここで人間自身が「善と悪」を兼ね備えた生き物であることが暗示される。正義の味方を自負していても、キッカケさえあれば瞬時に殺人鬼となる事実。

 たまたま人間に、たまたまこの時代に、たまたまこの国に、たまたまこの家に、たまたまこの性に、たまたまこの容姿に、たまたまこの能力に、たまたま・・・たまたま・・・命を賜った、のでありました。

 たまたまこの世に生を受けた私が「善と悪」を決めること、「モノサシ」を作ることなど可能でしょうか。そのような善悪や基準など「たまたま」であって、独善で決めつけているだけのこと。

 金太郎飴そのままにどこを切っても「独善」が出てくる私。その事を深読みさせられました。


 それにしても私がトランシルバニアの長老なら、こんな提案をするがなあ・・・。

 1月に2~3人もの犠牲を出すくらいならドラキュラと話し合い、襲撃される夜に村人全員に献血を願って「新鮮な生(なま)血」をプレゼント、贈呈する。人間を襲わない、その代償にバチカンにはドラキュラを退治した旨を報告する。

 それこそ共生の道ではないですか。

第 17 回 ”ディ・アフター・トゥモロー”に理性の限界をみる

 近年続いている「異常」気象現象。それが継続し続ける今日、すでに異常とは呼べない「日常」的状況。背景として指摘される地球温暖化現象。そんな時代状況に合わせたかのような物語。

 南極で気象を研究している古代気象学者、ジャック・ホール教授。彼が地球規模の異変を察知。早速その温暖化から発生した異常気象を公に問題提起するが、合衆国政府からは門前払い。相手にされない。

 そんな中、世界各地で異変が起きる。インドでは雪が降り、東京では異様に巨大な雹(ひょう)が降り注ぎ、その衝撃で次々と倒れる市民たち。

それにしてもこの場面に登場する東京って、台湾か中国の都市みたい。国籍不明な都市(正確には都市というより横町)。市民はもちろん、警察官もパトカーも日本ではないみたい。トーキョーというよりトンキン風、無国籍横町。 

 そんな異常事象が世界中で続くため、さすがの合衆国政府も対策本部を立ち上げ、大統領、閣僚、三軍の司令官らを集め、会議を開く。しかし時すでに遅し、手の打ちようがない。主人公の意見を採り入れた大統領の決断で、米国民のメキシコへの大移動が始まる。

 その際ホール教授の提案で、ニューヨーク以北の地域は「見捨てる」事を決定する。なぜなら北部地域はすでに「異常寒波」の来襲で人間の生存が困難な状況になりつつあり、少しでも可能性のある地域の人々の救出に全力を注ぎ込む方針からだ。

 しかしその見捨てられたニューヨークに友人たちといる青年サム。サムは主人公ジャック・ホール教授の一人息子。ここから父の息子救出劇が始まる。


 はっきり言ってその救出劇はご都合劇。主人公に都合良く展開する。映画だから多少の「?的」ご都合主義は仕方ないものの、オシマイまで予定通り展開する。


 そもそも「温暖化」問題だったハズが科学的?屁理屈を展開して「氷河期」へ180度変更。地球温暖化を氷河期へ転換した理由は「温暖化が進む物語ではアメリカ合衆国を救えない」ためか。

 温暖化と氷河期って正反対の現象ではないですか。

 合衆国の大統領が対外債務の帳消しを認める代わりに、中南米諸国にアメリカ国民を移住させるラスト。

 隣国メキシコのベースキャンプの映像はまるでリゾート。地中海やグアム島。


 本当に地球温暖化が進行すれば「対外債務の放棄」どころか国家そのものの存在が危うくなる。そんな事態にあるとき、中南米諸国の指導者が「世界最大の資源消費国家」の国民を何億人も受け入れるだろうか。

 そしてそんな指導者を、各国の民衆は支持するだろうか。アメリカの中南米に対する視点がここにも現れている。


 中南米諸国はアメリカのために存在しているかのような感覚。アメリカの言うことは何でもハイハイと聞くと考えているのでしょうか。現代の中南米諸国にとっては、それは前世紀的発想ではないでしょうか。

 そんなアメリカベッタリの前世紀の植民地的発想や感覚が残っているのは、今では小泉政権の日本くらいのものでしょう。


 救出劇に戻りましょう。ニューヨークの図書館に避難しているサムたち。

 外は寒波のために、図書館内で本を燃やす場面が出てくる。暖をとるために次々に蔵書を暖炉で燃やしている。

 そんな中、一人の男性が一冊の本を大事そうに抱えている。なぜ暖炉に入れないのか、と問う女性に、彼は答える。

「これはグーテンベルク聖書だ。世界で最初に活版印刷された、最初の本なんだ。つまりそれは象徴している、理性の時代の始まりを。西洋文明が終わりを迎えるなら、せめてこの一冊だけは守ってみせる」と。


理性の時代の始まりを象徴している書物。その理性を無批判に肯定してきた結果が「温暖化」を招いたのではないですか。そんな象徴としての書物を「守ってみせる」事で理性に対する疑問を表しているのでしょうか。映画では反対の意味で描かれています。

 彼は(それは制作者・脚本家・監督の意図でもあるのだが)肝心の「理性」を問うことが全くない。ましてや西洋文明に疑問を投げかけることもない。

 その理性が温暖化を招いた事実には頬被り。西洋文明の終わりを招いた原因を探求しない登場人物たち。目先の救出劇に一喜一憂するだけ、実にたわいない。


 やはりこのたびの物語の展開は不自然。便宜上「寒波」を作り出しているが、現実にはもっと恐ろしい状況になるでしょう。

 温暖化が進めばそれは「寒波」の比ではなく、あらゆる問題、食料や水に始まり、保健衛生や病気、人口問題や土地、総じて資源を含めた全人類の大問題とならざるを得ない。


 映画のラストのように単に「アメリカが救われて良かった」程度の問題ではない。ましてや「理性」的に行動したから主人公たちが救われた、そんな問題ではないでしょう。


 このような形でラストを迎える物語では、何の問題提起にもならない。急がれることは、全地球的規模の問題提起でしょう。

 今回は物語の展開上必要だった「安全地帯」。それをメキシコに設定してはいるが、実際に温暖化が進むとどうだろうか、この地球上のどこが安全地帯になるのでしょうか。

 温暖化のなれの果てに「リゾート地」などあり得ない。


 だから「時代状況に”合わせたかのような”物語」と最初に記したように、この映画は結局

”時代状況に合わせた物語”にはなり得なかった。

第 16 回 ”ブラックホーク・ダウン”に騎兵隊をみる

 アフリカ・ソマリアでの米軍の戦闘を描いた作品。アイディード将軍の幹部を捕虜にするため、本拠地に奇襲攻撃をかける米軍。最新鋭戦闘ヘリコプター「ブラックホーク」を先頭に、空から多くの戦闘ヘリが、地上からは多数の戦闘車両が襲撃に向かう。


 初めて戦場に行く兵士を含め、舞台は一時間で終了する作戦に軽いノリで出発する。


 完璧な計画で短時間ですむと思われていたが・・・いきなりブラックホークが撃墜される。1993年10月に実際に起きた事件を題材にしているこの映画、よくあるハリウッド製戦争物と異なり、無敵のヒーローはでてこない。


 そういえば、遙か昔「グリーンベレー」という好戦映画(監督・主人公共にジョン・ウェインというところがミソ。西部劇版ターミネーターのような彼、無敵のヒーローを演じてる。ベトナムでの戦闘をゲーム感覚でこなし、まるで西部劇の保安官。ノー天気な彼を見てると、某総理や某知事を連想してしまう。全くの無内容だった)を無批判に見ていた時代もあったな~。


 撃墜されたヘリを救出するために出撃した別のブラックホークも撃ち落とされる。作戦本部に陣取る司令官が「これでブラックホークの命運は我々の手から離れた」と早くもトボけたセリフを吐く。自分は安全地帯にいるから、そんな呑気なセリフで済むが、撃ち落とされた兵士はどうなるのか。


 事実奇襲攻撃をかけた一帯はアイディード将軍を支持する民衆が生活する場所。そのど真ん中に「外敵としての米軍」が奇襲攻撃をかけてきたわけだから、当然反撃する民衆や民兵。救援に駆けつけた米軍部隊との間に激しい戦闘が開始される。


 最新兵器で制空権を握る米軍。民衆の動きさえ映像で捉えながら、孤立した兵士を救えない。次々に民衆、民兵に殺される兵士たち。観客は米軍兵士に感情移入し、何とか助けたいと。武器を持って押し寄せる民衆が、民兵が「恐怖と憎悪の対象」になる。


 「グリーンベレー」を無批判に見ていた頃の私なら「正義の米軍」対「悪の民兵」の視点で「同情すべき米兵」を応援したでしょう。


 完全装備の米軍は防弾チョッキや夜間用眼鏡は無論のこと、殺傷力・破壊力のずば抜けた最新式の武器を持つ。対して民衆が主流の民兵は歩兵用の銃や、せいぜい機関銃、当然防弾チョッキなどない。足元を比べれば、蹴れば重傷を負わせられるゴツい軍靴の米兵。対してハダシの民衆、民兵。


 そもそも戦場となっているのはソマリア人の生活の場である。米兵は「仕事」が終われば、家族と名誉と年金の待つ故郷に帰ることができる。今戦っているところがどんなに破壊されようがかまわない。その破壊・汚染された土地で一生暮らすのは誰か。


 先ほど「実際に起きた事件を題材」と言ったように「題材」にはしているものの、その内容には疑問が残る。


 例えば米軍を攻撃するソマリア人の中に、武器を持った少年が描かれる。彼は敵としてのアメリカ兵に向かって銃を撃つが、誤ってソマリア人を殺してしまう。少年が悲しんでそのソマリア人を抱きかかえているとき、狙われたアメリカ兵が立ち上がって、少年に向かって銃を構える。引き金に力が入る。


 そこで一瞬躊躇する兵士。観客は「相手は少年だぞ」と心の中で叫ぶ。その無言の期待に応えて、兵士は銃を下ろし、その場を去っていく。


 このシーンで正義の味方を強調、観客に安堵感と信頼を与えている。人道的で崇高なアメリカ兵。


 無論こんなオメデタイことは現実にはない。無抵抗の子供や女性、それに老人を虐殺するのは米軍の得意技。それもはるか昔から、しっかりと受け継がれている。


 私は一連の戦闘場面を見ながら、確かにアフリカのソマリアを舞台にしているものの、同じような場面をどこかで何回も観ている気分になって、思い出した。


 これって第二次大戦を題材にした映画に登場する、ドイツ人や日本人をソマリア人に置き換えただけの話ではありませんか。正義の味方としての米軍、「恐怖と憎悪の対象」としてのドイツ兵や日本兵。残酷で凶暴で卑劣なドイツ、日本兵。自由と平等の精神で敵兵さえ尊重する崇高なアメリカ兵。しかもどこか少しマヌケな敵兵と、完璧で余裕さえ見せる米軍。


 さらにさかのぼれば「西部劇」に登場する「恐怖と憎悪の対象」としてのネイティブアメリカン。アメリカ先住民をソマリアに移しただけのこと。


 自分たちは西部劇に出てくる「騎兵隊気取り」で「悪役」を懲らしめる。インディアンと勝手に名付け、白人が侵略するはるか前から、自然と共存した悠久な生活を送っていた先住民の世界を、強大な暴力で蹴散らした正義の味方。


 建国以来「恐怖の対象」を駆逐し続けてきた騎兵隊。そのなれの果てが、正義の米軍ではありませんか。そしてその「恐怖と憎悪の対象を作り出している主犯」にこそ目を向けることが大切でしょう。


 さらに言えば、殺される米兵に観客が感情移入し、同情している間に、その五十倍以上の数多くのソマリア人がこの作戦で虐殺されました。五十倍ものハダシの人たちが。

第 15 回 ”パニック・ルーム”に白人問題をみる

 「イヤな予感」が大当たり~


 全体としての筋の流れや登場人物の描き方も丁寧で、なかなか見せてくれた作品です。特に雨の夜に侵入する「悪役」三人組のそれぞれの性格がうまく描かれていて、見る側をうまく画面に引き込んでいる。


 物語はジョディ・フォスター扮する母親とその娘が「隠し防御部屋(パニック・ルーム)付き高級アパート(日本の不動産チラシ風にいえばマンション)」に引っ越すが、その夜に三人組の強盗に侵入される。三人がただの思いつきのコソ泥でないことは後半に明らかにされる。


 そこで母と娘が映画の題名にあるパニック・ルーム(隠し防御部屋)と「知恵と勇気」をフルに使って三人組を撃退する・・・。と簡単に言ってしまえばこんな展開。


 さすがに撃退するまでの過程では、彼女らの努力もあと一歩のところで実を結ばないなど、観客をガッカリさせるようにできている。何回か挑戦するがもう少しのところで失敗し、落胆させる。観る者をハラハラさせる技術はさすがで、観客の心理をうまくついている。


 ところがこのガッカリさせるハズの仕掛けが私には伝わってこない。なぜなら「ガッカリ、ハラハラしない」のだから。的中した「イヤな予感」とはミスキャスト。


 誰がミスキャストか・・・それは母親役の主人公、ジョディ・フォスター。


 なにしろ今までの彼女の経歴からして「泥棒に恐怖する女性」像が全く伝わってこない。「悪役」に反撃する彼女を見ていると楽しんでいるかのよう。余裕しゃくしゃく、果たして彼女にかなう泥棒などいるのでしょうか。


 彼女の役回りに対していい演技をしていたのは「悪役」を演ずるアフリカ系アメリカ人(黒人)俳優。彼の存在が特に光っていた。劇中の役は典型的な黒人労働者。そのせりふから、平凡な暮らしを送り、日常の仕事をまじめにこなし、暖かい家族と暮らしていることが推測できる。


 その彼が子供の学資を得るために泥棒の首謀者(白人)に誘われて加担する。無論そんな彼だから、暴力や凶器を使う仕事でないことを条件にしていたことも、観客は物語の展開から理解する。


 三人の計画では留守宅だったハズの家に母と娘が引っ越していて、突然最悪の展開にな

り、パニックに陥る泥棒たち。パニック・ルームに入りたかったのは泥棒の方か?


 首謀者ともう一人の白人に比べ、彼(黒人)の知識、技術力の高さ、冷静さはケタ違い。対して二人は「気分屋」の首謀者と「拳銃を振り回すだけ」の白人。まさに現代のアメリカ社会を反映。白人というだけで貴ばれ、黒人というだけで蔑まされる社会。


 そもそもニクロイド(黒人)、モンゴロイド(黄人)、コーカソイド(白人)などはそれぞれの環境に適応した結果としての差異であり、優劣や上下の差別は成り立たないのは当然でしょう・・・この話は別の機会にします。


 劇中に彼が語るセリフに、アメリカ社会における黒人の現在が明らかにされる。いくら誠実に仕事をし、約束事を守り継続して勤めても、子供の学資もままならない現状。高い技術力、知識でさえ黒人というレッテルの前では無力だということ。


 いわゆる犯罪を犯す率が圧倒的に高い理由をここに見ることができる。途中何回か首謀者に「手を引く」ことを表明する彼だが、子供のことを思い、犯罪を続けてしまう。


 「宝くじ」が大多数の「空くじ」のおかげで成り立っている事実と同じく、ほんの一部のおいしい暮らしをする者が、大部分の「ただ者」のおかげで成り立っている社会。


 社会的弱者が犯した犯罪を、その背景を見ることもなく、無条件で「罰することで解決」する社会とは、弱肉強食のそれではありませんか。


 物語の最中、彼が母と娘に良心的に接する場面が幾度か描かれている。


 それでもラストには、計画が失敗し、犯罪者として逮捕される黒人。残念ながら彼への「罰則の場面」は描かれない。観客はそれまでの彼の言動から同情し、軽い刑罰を期待する。そんな期待を見る者に残しながら、映画は終わっていく。


 しかし、アメリカの差別の現状からすれば、現実には「極刑」が下されることでしょう。白人の女性、しかも母と未婚の娘。彼女らを監禁し、殺人未遂にまで至った仲間の一人が黒人であった。


 そんな黒人を許すほど、アメリカ社会の差別性はヤワでない。徹底的に「ただ者」を差別し、踏みつける「(ただ者としての弱者には)差別と不平等、不自由」の国アメリカ。


 このように黒人の置かれている現実を見事に演じた彼だけが、生き生きと光っていた作品でした。


 ちなみに、一般的に黒人差別を含め「黒人問題」と言っているものの、正確には黒人自身に問題があるのでは無論なく、差別する側、加害の側である白人が問題なのです。ですから黒人問題とは、その差別を生み出す「白人側の問題」そのものでしょう。表題を黒人問題でなく「白人問題」とした所以です。

第 14 回 ”スパイダーマン 2 ”に「本当の願い」をみる

 前回の「スパイダーマン」はそれなりによくできたヒーローアクションものであったものの、取り立てて語る映画ではなかった。だからこの「2」も機会がなければ見ることはなかったでしょう。


 たまたま機会を得て、見終わった結果は、大いに語るべき内容でありました。決定的な違いはドラマ性、物語性が、前作に比べ、はるかに深くなったこと。


 特徴的に感じたことは、同じアメコミ(アメリカン・コミックス)物の主人公と比べて、彼スパイダーマンことピター・パーカーが平凡な青年として描かれていること。それはヒーローの姿を悟られまいとして平凡さを演じているのでなく、日々の暮らしを送りながら、いわば生活人として描かれていること。


 ヒーローの生活の基盤である古いアパート。その彼の部屋に帰るたびに大家に「家賃!家賃!」と催促される。配達ピザ店を首になったばかりで、お金がないので、逃げ回るパーカー。


 年取ったメイおばさんの心配をして仕事を探し、学生生活を送る。そして事件が起きればヒーローとして活躍、「悪人」を退治する主人公。


 当然時間が足りない。必然として成績が落ち、アルバイトをする時間までなくなり、ますます生活費が足りなくなる。


 そんなアメコミのヒーローが過去に存在していたでしょうか。家賃の心配をするスーパーマンやアルバイトで悩むバットマン。彼らはそんな生活の問題に関わらず、自由自在に「悪人」を退治していた。単純に何も考えずに、悪人退治に精を出していればよかった。


 対するスパイダーマンは、日々の暮らしに悩む。更にそこに追い打ちをかけるように思いを寄せる女性、メリー・ジェーンの婚約。相手はエリート宇宙飛行士。ピーターへの恋心を持ちながら、煮え切らない彼の態度に、ジェーンは再三彼の本心を確かめる。


 しかし自分がスパイダーマンとわかれば、メリー・ジェーンにも危険が迫ることを考えて、本心と反対の返答をする。


 ここからが今回の主題です。家賃や成績、彼女との生活、それらの問題を一挙に解決する方法があることに彼は気がつきます。ヒーローをやめること。そうです。ピーターとして生きて、スパイダーマンの服を脱ぎ去ること。そこで決意します。


 それから成績はグングン上がり、教授の覚えもよく、期待される学生になります。自分が望んだ生活、恋人との楽しい学生生活。それこそ「願っていた」暮らしだと彼は晴れ晴れとしていきます。日々表情が明るくなっていく場面の演技がとても良い。


 今の生活こそ「私の望む願い」だと。


 ところが、ピーターの順調な生活とは裏腹に、街角では相変わらず暴力や強盗事件がはびこっています。私の願いを保つためには「片方の目」を閉じること。それは事件が起きても見聞きしないこと。目の前をパトカーがサイレンを鳴らして通り過ぎても見なかったことにする。


 見聞きしないことが前提の「願い」とは、実は「本当の願い」ではないことが、この後起こる事件で知らされます。怪人ドック・オクの登場でピーターは「私個人の願い」から「本当の願い」に生きる決心をします。自分だけの願いに満足するのでなく、みんなの願いにかなう生き方。


 「私の望む願い」を捨て去ることで、結果的に彼女との暮らしを手に入れることができたのです。げんこつを作って、握っていた手を広げて、自分の奥からわき上がる「要求」に任せる。守ることで手に入れることができると考えていたものが、実はあるがままにすることで得ることができる。私の望みを手放すことで「本当の願い」をかなえる。


 メイおばさんのセリフも印象的です。「個人だけの幸せを願うのでなく、子供たちの希望としてスパイダーマンに活躍してほしい」と。


 「私の望む願い」を本当の願いと思いこんで努力する。しかし結果的にはかなわない現実。「本当の願い」と私の望む願いとは、どう違うのでしょうか。「その3」が楽しみです。

第 13 回 ”ウインドトーカーズ”に偏見を見る

時は太平洋戦争(正確には15年戦争またはアジア太平洋戦争)も終盤のサイパン島。主人公はニコラス・ケイジ演じる優秀なアメリカ海兵隊員。上官の命令を忠実に実行する勇気ある軍曹。


 物語は暗号を巡っての「白人とアメリカ先住民(ナバホ族)」の友情を描く。ここではアメリカ軍の暗号がナバホ族の言葉を基本に作られている。そこで暗号解読を防ぐため、もしナバホ族の通信兵が日本軍の捕虜になりそうなときには、部下である通信兵を殺さねばならない。「暗号を守るため」に人的被害(通信兵を殺害すること)は容認(実行)するという命令に従うヘンダース軍曹。


 彼は意識的に部下であるナバホ族の暗号通信兵(コードトーカー)ベン・ヤージー二等兵と親しくしない。それでも戦闘を繰り返す日々の中で彼を理解し、親密になる。


 そんな彼の部隊の中の一人の兵士が、典型的なアメリカ兵として描かれている。アメリカ先住民や日本兵を「インディアンやジャップ」とののしり、日常的に口にする。「爺さんの代から教えられている」騎兵隊は善、先住民は悪。何しろ俺は親の代からの海兵隊だからと。そんな「愛国心いっぱいの善良なアメリカ白人」の一人。


 平気で先住民の前でインディアン狩りの話をして「コマンチ族の耳は3ドル」「ジャップもインディアンも目がつり上がった野蛮人よ」と。


 さすがに主人公は露骨な先住民差別はしないが、日本軍をジャップ呼ばわり。もっとも当時の日本はアメリカ・イギリス人を「鬼畜」と呼んでいたからどっちもどっちか。


 ところが典型的なアメリカ兵が、戦闘を通して先住民への見方が変わり始める。最初はことごとく批判・敵対的だった彼が「インディアンからナバホ族」へと尊敬の感情を持つようになる。それは戦闘を繰り返すうちに、先住民の活躍にも影響され、意識が変わり始める。明らかに「アメリカ人(正確にはその中の白人)こそ最高」の発想が転換する。


 偏見を偏見と気がつかずにいままで生きてきた、そんな彼自身の視点が変化する。そして後半には、日本軍にまで言及する。


 ヘンダーソン軍曹に対して彼は言う。「50年後に俺たちは、日本人どもと車座になって、酒を酌み交わし、バカ話をして、別の敵を一緒に追ってるかも」。


 この言葉を軍曹は本気にしないが、事実はそうなっている。米国の植民地の親分として、「小泉知事」はブッシュ大統領の意向を忠実に実行している。「酒を酌み交わし、バカ話をして」イラクに軍隊を送り込んでいる。


 ところでこの「ウインドトーカーズ」の主題は「白人と先住民の友情」を描いているが、当然その関係は「対等」ではない。あくまで白人の側が先住民を「見直す」だけの話。


 評価するのは白人の側、決して先住民の側が評価することはない。ちょうど小泉知事が評価される側であって「評価する側になり得ない」と同じ意味で。


 たまたま勇敢で能力のある先住民を「友人」とするだけ。勇気もなく、能力もない先住民ならどうだろうか。私自身が勇気も能力もないことから、余計な心配をしてしまう。


 それにしてもこの映画に登場する日本兵、勇気があるのかトンマなのかわからない。最初は優位に戦っていながら、後半になると(上映時間の関係からか)米軍が一斉射撃をしているにもかかわらず、塹壕から飛び出して突撃、次々に弾の餌食になっている。


 その日本軍陣地の司令部もお粗末で、ヘンダース軍曹と、ヤージー二等兵のたった二人に乗り込まれ、やられ放題。昔見たテレビ番組「コンバット」のドイツ軍を思い出します。


 せっかく「偏見とは偏見と気がつかないこと」を観客にメッセージしながら、「無敵アメリカこそ」正義が見て取れます。困ったもんです。