第 24 回 「スカイ・キャプテン」に食文化を見た

 ときは1939年、ところはニューヨーク。新聞記者のポリーが「科学者連続失踪事件」の謎を追っている。そんなおり、どこから来たのか巨大ロボット軍団が街中を行進し破壊しまくっている。破壊のさなかロボットの足元を飛び回って逃げるポリー、危機一髪。

 そこに主人公、スカイ・キャプテンこと空軍のエース、ジョー・サリバンの乗る戦闘機が登場。ロボットを撃退しポリーを救出するが彼の基地が破壊される。

 そこでポリーとジョーは互いに協力しながら「失踪事件」とロボットの謎を追う。ネパールやら南海の孤島まで行きながら謎を解明する二人。そして最後に解けた謎は・・・。


 「ノアの方舟」ならぬ「ノアのロケット」を目指す科学者とその娘が黒幕。争いと破壊を繰り返す人類に愛想尽かし、ノアの気分で他の惑星に引っ越しを計画。ロボットはパワーを集めるためのエネルギー源を堀削する機械であった。

 それを阻止しようと二人がロケットの発射基地に侵入。ついに方舟学者や娘と対決するが、何と方舟学者の父親さんは既に死んでいるではないか・・・机に伏して。

 実はとうの昔に死んでしまっている親父さんの代わりに娘がノア計画を継承していたのだ。さらに驚くべきことに主人公との対決に敗れた娘の正体は、人間ではなく何と!ロボットだった。それは既に死んでしまった父親が造り上げた精巧なロボット。

 結局はこれで「ノア計画」は失敗するのだがこの展開は残念だ。


 「ノアのロケット計画」は実に素晴らしい。ここに登場する黒幕「神を自称する人物」こそ旧約聖書に登場する”神より神らしい”。物語の立場上、悪役を振られて気の毒だけどこの映画に登場する誰よりも”善人”らしい。

 計画ではノアの方舟そっくりに「生き物のつがい」雄と雌をロケットに乗せて発射する。牛や馬や象、ニワトリやヤギや羊など、旧約聖書そのままに。

 ただ一点異なることがひとつだけ、しかもそれはまさに決定的な違いといえる点。

 それは人間がひとりも搭乗していないこと。

 計画が順調に進みロケットが無事に新天地に到着しても、そこには「娘型ロボット」がいるだけで人間は存在しない。

 とくにこの映画はアメリカ映画だから人種としてのアングロサクソン系の人間が存在しないということ。


 何が言いたいのか。ここで言うアングロサクソン系とは彼らの食文化系を指す意味。アングロサクソン系の食文化とは「畑作牧畜」民族。元来メソポタミア文明を出発点にヨーロッパ各地からアメリカへと拡がった「森林破壊」民族。

 彼らは畑作と牧畜という環境に与える負荷が大きい食文化を背景に、近代の社会を築きあげてきた。アメリカ大陸では先住民族が数千年間守り続けて来た森林を、侵略者であるアングロサクソンが「開発」と称してわずか三百年間で森林の80%を破壊。

 結果、このままではあと45年で地球上の熱帯雨林がゼロになる生活形態を推し進めている。人類が今だ経験したことのない熱帯雨林なしの丸坊主の世界。

 人間が豊かな食生活を送るために「ヤギや羊や牛」を利用。飲んだり食べたり加工したり、更には緑を生み出す草原を餌場にしたり。

 そんな人間が同乗したノアロケットでは同じ過ちの繰り返し。またもや環境破壊(それは人類破壊と同じ意味)を招いて人類滅亡へ。言いたいことは森林破壊を招くような食文化でなく、環境保全を計る食文化は可能だということ。


 洪水で方舟に乗せる人間は地球に優しい「稲作漁労」民族を同乗させるべきだった。森林を育て、海の幸を食文化とする人間を。神様、居眠りしてないで目をパッチリあけてくれ。映画の本筋より「食文化や民族」を考えさせられる不思議な作品だった。

第 23 回 「ミスティック・リバー」に不条理を見る

 アカデミー賞主演賞と助演男優賞受賞との謳い文句で期待して見た分、期待外れの作品。そもそもハリウッドが称賛する作品に期待をする私の方に問題があるのかも。


 物語は下街に住む遊び仲間三人の少年時代から始まる。三人が遊んでいるところに刑事を自称する二人組の男が現れ、一人の少年を騙してつれ去り性的暴行を目的に監禁する。少年は何日かして捕らわれていた所から自力で脱出して家に帰る。

 場面がかわり25年の歳月が過ぎて、少年だった彼らが大人になった時代を映しだす。ショーン・ベン(これで主演賞受賞)演ずる三人組の一人には娘がいる。

 父親であるベンは娘可愛さゆえに彼女に恋人が出来ることを恐れているが、既に娘には恋人がいて数日後に駆け落ちをする手筈が出来ている。娘も父親があまりにも自分を溺愛していることを知っているので、恋人がいることを話せない。そこで恋人と駆け落ちすることを計画する。

 いよいよ駆け落ち実行という前日に当の娘が殺される。愛する娘を殺害されたベン、しかも父親である自分の知らなかった恋人の存在。復讐の鬼となったベン、その捜査に現れたケヴィン・ベーコン演ずる刑事。加えて容疑者として浮上するロティム・ロビンス(この役で助演男優賞受賞)演ずる休職中の中年男。

 こうして昔仲の良かった三人組が絡んで物語が進展する。


 ところがこの物語の展開が「何でそうなるの?」という場面が多くてとまどってしまう。

 根本的なところでは少年時代のロビンスの暴行事件と、この度の殺人事件との関係。最後まで観ていて分からない。繋がらないのだ、暴行事件を設定する必然が。

 加えてラストのベンによる「思い込み」でロビンスが殺害される場面。少年時代は友達だったハズなのに、ベンに罠をかけられ(最初殺人を否定していたロビンス。・・・当然でしょう、犯人は別にいるのだから。「犯人と認めれば殺さない」というベンの詭弁に引っ掛かって)殺されてしまう。更にその殺人さえ不問にされるのだ。

 事実を確認することなく、実に簡単に殺害してしまうベン。それは思い込みから導き出した独断。

 テーマとして観客に不条理を教えているようだが、監督クリント・イーストウッドの甘さがここでも発揮されている。

 最も根本的な甘さを指摘しよう。

 この映画では白人対白人の視点で「性的暴行や殺人」をとらえているが、白人のカラード(白人以外の人間)に対する「性的暴行や殺人」はアメリカではもう日常茶飯事でしょう。

 白人のカラードの対する不条理はアメリカ合衆国が成立する前から絶えることなく続いています、何をいまさらの問題。白人が自分の愛する者のために行う正義は、たとえそれが殺人でも許されるという発想。大虐殺でも不問にされる、思考停止状態になる。

 だから目の前で殺人を犯しても裁判次第で無罪になったり、殺人を犯していないのに有罪となり死刑になったり。それは権力や財産、人種の相違であって、事実か否かではない。

 条理が通らないことをわざわざ映画で見せなくとも、アメリカの実態は充分知られています。日常的に踏み付けられている側からすれば、この程度の不条理など常識の範囲でしょう。踏み付けている側は踏まれた側の痛みは分からない。

 不条理大国アメリカ、その国のモノサシにあったふさわしい芸能作品だからこそ、アカデミー賞を二つも受賞したのでしょう。

第 22 回 「スターウォーズ・エピソード 3 /シスの復讐」に”正義 2 ”をみる

「スターウォーズ・エピソード2/クローンの攻撃」を評したときの言葉をそっくりそのまま使いましょう。

「正義は我にあり」。若きアナキン・スカイウォーカーが母親を殺された復讐に、自分よりはるかに弱小の「とある一族」を全滅させた行動を現代のアメリカ合衆国になぞらえて、その独善性を前回「クローンの攻撃」で批判しました。


 28年前にさかのぼるこの「スターウォーズ・シリーズ」もこのたびの完結編をもってオシマイとなりました。そのCG・電脳映像の技術は驚くほど「進化」しましたが、反面物語の楽しさは驚くほど「退化」しました。

 特に旧三部作(物語の時間的な流れからすれば、先に作られたこちらが後半の物語)の面白さ、楽しさは抜群でした。ワクワク・ドキドキする場面展開とスピード感。それも連続し、次から次へと。


 シリーズ六作品を通しての主人公はやはりダース・ベイダーでしょう。シリーズを通しての物語の芯はアナキン・スカイウォーカー=ダース・ベイダー。ある意味「スターウォーズ」は「ダース・ベイダー物語」そのものです。


 新しく封切られる作品になるほど「不評」なのはこの芯の設定にあるのでしょう。特にこのたびの最後の「謎解き」物語。アナキンがどのような理由と過程で悪の象徴としてのダース・ベイダーになったのか。世界中のファンが期待した「理由と課程」。

 それがスクリーンで明らかになったとき、私は思わず「苦笑」してしまいました。


 アナキン・スカイウォーカー=ダース・ベイダーは相手に触れずに命を奪うことも、大宇宙空間において誰がどこを飛んでいるのかを見抜く能力も持ち、心の中さえ透視するような「超人的能力」を持つ。

 そんな彼が「夢のお告げ」で「愛するもの」を死なせたくないと「悪の側」につく。しかも「愛する女王アミダラ」は結局出産後死んでいく。相手の心の中まで読めるハズの彼がパルパティーン最高議長のいうままに行動してしまう。観客としては理解不能。何故?そうなるかな~。

 物語の展開は論評に値しないのでここでは省きましょう。問題はアナキン、彼は前回の「愛するものの敵討ち」と同じ誤りをここでもしてしまう。


 女王アミダラの命を救いたいがために師匠であるオビ・ワン・ケノービと対決し、ジョダイの仲間や子供たちまで大虐殺。

 根拠のない「夢のお告げ」で勝手な思いこみをし、多くの罪のない子供を犠牲にする感覚。愛するものを救うためなら、復讐のためなら「他者の命」を犠牲にしても許されるという発想。

 彼の根本にあるのは「自己中心性と思いこみ」。しかもそのこと自体に目が覚めないから最後の最後まで「自己満足的正義」の世界に浸っている。

 「正義」を背負うことで「事実」を見ないことにする。そんなノー天気さをこの米国製映画は「進化」した映像で見せてくれました。

第 21 回 「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」に偽善者をみる

 「ロード・オブ・ザ・リング」三部作の完結編、「王の帰還」。

 圧倒的な戦闘シーン。巨大な像や巨人が登場し、人間さえ乗せて大空を駆ける大鷲や膨大な数量を誇るケモノたちと人間の戦い。巨大な城や火山の映像。

 まさ「コンピュータ・グラフィック(CG)、電脳映像」の完結編ともいえる映画。最新のCG技術を「これでもか!」と繰り出す場面展開がすごい。


 ところが途中からもう充分、もう満腹、もうたくさん状態。もう怒涛のような戦闘シーンは十分堪能しました、食傷気味とはこんな場面のこと。

 それでは主人公、フロドとサムたちはどうなったか?と本筋の物語に場面が変わっても、こちらもまだ山登りなんかしている。さっきと同じだ。

 この二人の動きの遅いこと。いっこうに進まない物語に、後半には「もう終わったら?」とつい思ってしまう。いらいらするほど先に進まない。


 そもそも主人公にフロドが適役か?どうみても従者のサムこそ適任。主人公のフロド以上に友人思いで冷静で洞察力があり、的確な判断をする人物。

 彼がいなければフロドの命さえどうなっていたか。食料に関してもサムが日数を計算し、1日に食べれる分量をフロドに手渡している。対して何も考えていない主人公フロド。

大体この完結編全体が長丁場過ぎる。特に後半は意味のない場面が延々と続きアクビが出そうだ。


 そんな退屈な物語の中で唯一救われる登場人物がいる。彼のおかげで物語に厚みが出ている。人間らしい味というべきか。

 それはガンダルフ?弓の名人?あるいはアラゴルン?それとも王女様?

 正解はゴラム。フロドとサムについて道案内の役をしているあのゴラム。CGで作られた老人風怪人。観客からブーイングをされる役目をさせられている、あの弱々しい老人風の人物です。

 彼はフロドとサムにつき従い、案内役を引き受けたふりをして「指輪」を狙う。指輪を奪うためにフロドとサムを仲たがいさせ、巨大蜘蛛にフロドを殺させようとしたり、あの手この手を使っての大活躍。


 特に二人を疑心暗鬼にさせて決別させる場面では、現代に通じる「偽善者」を彷彿とさせる、まさに卑劣な人物。表面だけはフロドをヨイショし、時が来れば捨ててしまう。

 加えて「厚みがある」場面は何と言ってもその卑劣であるゴラム自身の葛藤、何度となく迷う場面を描いて苦悩するゴラム。こころの中にある善悪に揺れる姿は痛々しい。

 善悪のこころに悩みながら結局は指輪を手に入れるという欲望を満たすことを選び取る。


 このキャラクターこそ私を含めた現代人自身。自分の欲望のために他者の命まで利用する。そんな自身の「悪の姿」を見たくないためか、ゴラムの言動に批判的な観客。

 自身の現実は「悪代官」なのに、否だからこそ「悪代官」にはブーイング、水戸黄門には拍手する。そんな私の姿そのもの。偽善者を演ずる私。

 ゴラムはなかなかの知恵者で最後には指輪を手に入れる。そこでハッピーエンドにすればよかったのに、ここで監督は彼を殺してしまう。さぞや残念だったろう・・・ゴラム。


 次回作は主人公を交代、「ゴラムの帰還」でアカデミー賞を狙ってほしい。

第 20 回 「ボーン・アイデンティティー」に米国の免罪をみる

物語としてはどこにでもあるような展開、しかし面白かったのは主人公が記憶喪失、その設定がよくできている。

 主人公、ジェイソン・ボーンが背中に銃弾を2発受けたまま漁船に拾われ、その後治療を受け、港に降り立つ。記憶を失った彼は唯一の情報源である腰に仕込まれたカプセルの「銀行口座の番号と名義名」を頼りに行動するが、いつの間にか「秘密の組織」に命を狙われる。


 アメリカ大使館での戦いで知り合ったローラ。協力を得ながら逃走、自分のアイデンティティーを探求するボーン。ようやくたどり着いたパリのアパート。そこがどうやら住まいだったようだ。

 安心するのもつかの間、アパートでまたしても銃を乱射する敵に襲われる。撃退し、更なる逃避行へ。次の隠れ家も「秘密の組織」に突き止められ、狙撃者との戦いに・・・。

 倒した相手であるテロリストの死に行く口からボーンは知る。彼自身もまたテロリストであることを。

 しかも彼は特別なプロジェクトで作り上げられた最強のテロリストだった。

 そのプロジェクトとは最強のテロリストを育て上げる米国の「秘密組織」の計画。米国の意に沿わない組織や国家、それら特定の人物を抹殺する殺人兵士を育成する組織。

 その最強の殺人兵士に育て上げられたボーン。


 失われた彼の記憶が徐々に戻ってくる。何故海に漂っていたのか、どうして銃弾を受けたのか、特別な能力が自然と発揮されるのは何故なのか。

 彼が命じられた任務、それはある国の指導者の殺害。5日間の隠密のあと、いざ射殺実行。そのとき、標的の周りに子供たちが・・・。

 彼の持つ銃口は標的の頭に向けて狙いを定めている。後は引き金を引くだけ。銃口と頭の距離はゼロセンチ。簡単で完璧な「仕事」のハズだった。


 ところが子供たちの姿を見たボーンは躊躇する。引き金を引けない。彼は背中を向けて引き上げる。そのとき背後から銃弾が・・・。一発、二発。そして海中へ。


 彼は米国の「テロ組織」から指示を受けて「仕事」をする兵士とはいえ、それは国際的には「あってはならない組織・兵士」。だから、存在そのものが「あってはならない」こと。だからその後も次々に命を狙われる。組織の存在を知られてはならないと。

 そこでついにボーンは反撃に出る。何しろ主人公だから最後はハッピーエンド。結末は少し苦しいけれど、それなりに了解。まあ・・・見てのお楽しみ。


 今回の疑問。そのひとつは「最強のテロ兵士」なのに子供が回りにいただけで「仕事を放棄」して引き上げる行動のオカシサ。米国のテロ組織なら「サイテーの兵士」でも躊躇しないで「仕事を実行」する現実。子供でも、女性でも、老人でさえも。

 ましてやこの場面では、白人の主人公が黒人の標的と黒人の子供たちに手出しができない設定。

 本当にそんなことってあるだろうか。建国以来の米国の実態から言って、そんな白人の良心的テロ兵士などいただろうか?一般市民でさえ白人以外の人間を蔑視する社会なのに。現実はそんな甘いモンじゃない。

 ふたつめは「テロ組織」を一部の人間が勝手に組織したかのような設定。米国が史上最強・最大の「テロ国家」であることは否定のしようがない。南米各国がその典型だが「いつでも、どこでもテロ」を遂行してきた国家、アメリカ合州国政府。

 それなのに悪役を設定して「彼らだけがあく」で終えていること。まるで国家としての「免罪符」を求めているかのような脚本だった。

19 回 「アイ・ロボット」に盾(たて)と矛(ほこ)をみる

 物語は「ロボットが実用化された社会」で起きたある殺人事件。その真相を追う刑事を主人公にロボットと人間の「功罪とその矛盾」を描いた作品。

 最初の場面で表明される。ロボットは三原則を守る、その原則の基本であり、第一条件が人間を守ること。劇中に何度となくロボットが人間を救出する場面が映し出される。

 人間を守り、保護することが任務として組み込まれているロボット。確かに主人公の刑事自身、自らの命をロボットに救われた経験を持つ。ただここがミソ、その際「ロボットの判断」で刑事は救われたが、同じ状況にあった少女が救出されずに溺死。彼は以来それがトラウマとなり、負い目となり何度となく夢を見る。

 なぜ自分が助かり、少女は溺死したのか。ロボットの答えは実に論理的。「それは二人(刑事と少女)を救出できる『確率』を瞬時に計算した結果」と答える。

 救出可能な「確率がより高い」方を選んだと。


 そんな中、高名な科学者が死亡する。自殺か他殺か、それとも事故死か。主人公の刑事と友人でもあった科学者の死の原因を最後に突き止める。明らかになった犯人とは。犯人(犯体?)はロボットをまとめる頭脳役。

 巨大な頭脳を持ったそれは主人公の「何故?」に答える。

 ロボットの三原則、その一番目であり基本である原則は人間を守ること。それが最優先。


 ところが肝心の人間たちが戦争をし、殺戮し、環境破壊をし、温暖化さえ招いて地球そのものまで破壊しようとしている。

 だから三原則の第一、人間を守るために人間を犠牲にすることも必要になる。私たちロボットは常に原則を守っている。だから人間の規制も必要。自由も制限する。人間は子供と同じ、守らねばならない。私たちロボットが人間を守る。

 更に続けて、人類には完全な保護が必要。われわれは創造者を守らねばなりません、と。「人間を守るために人間を犠牲にする。人類の生存のために人間の犠牲は仕方のないこと」と答える頭脳。


 この映画はロボットを題材にしているが、置き換えればこれは人間自身のこと。私たち人類は「自分の基準」で「人類を守るために人間を犠牲にしている」。某国の「幸せのため」に他国を犠牲にし、自国の豊かな生活を維持するために他国を侵略する。

 そんな大それた問題でなくとも、身近な日常生活でも「自分を守るために他者を犠牲」にしている私。矛盾をかかえながら生きている私。

 その矛盾の中私たちは「確率でなく」心情や気分、感情や思いと呼ばれる「計ることができないモノ」を加味しながら生活している。

 単なるロボット映画からそんなことまで考えさせられました。矛盾しながらの生活を。