9 月 23 日(火・祝)10 : 00 開式
平成 19 年春、突然、埼玉県行田市職員の方からの一本の電話から始まりました。
電話は、近隣のお寺様から問い合わせがあり、そのお寺の半鐘(はんしょう)には大面村矢田 光善寺の名があるけれど、それはお宅でしょうか?という趣旨の内容。職員の方は「あなたのお寺を先方のお寺様へ紹介してもよいか」とのこと。「どうぞ」と伝えると、数日後西明寺というお寺様からお手紙が届きました。
お手紙の内容をご紹介します
大東亜戦争中の金属類供出運動により供出された、新潟県三条市矢田の光善寺様の半鐘が、戦後どのような経緯をたどって埼玉県行田市白川戸の西明寺の軒先にて務めを果たすことになったか、私、西明寺住職の中村重継がご紹介申し上げます。
埼玉県の行田市は光善寺様から南南西に 160 kmの位置にあります。下の図に示しました様に行田市は埼玉県北部にあり、北は利根川、南は荒川に挟まれています。古墳時代から人が住んでいる場所で、さきたま古墳群など、市内には古代の遺構が残っています。現在も市の中心部を除いて田園風景が拡がっています。
古墳時代が終わって平安時代初期には坂之上田村麻呂公が赴任し、小見に「真観寺」という寺を開山したと伝わっています。真観寺は境内に国指定史跡の前方後円墳があります。武士が治めた鎌倉時代には 5 代目執権最明寺入道北条時頼公が白川戸に「西明寺」を開山したと伝わっています。室町時代には忍城が築かれ、成田一族がこの近辺を治めました。
その時、成田氏が武運長久を願って「長久寺」を長野(現在の東行田駅裏)に開山しました。戦国時代には上杉謙信の関東侵攻の際と石田三成による忍城水攻め等で、各寺院は焼かれる等の被害を受けています。
長い歴史を過ぎるうちに、それぞれに開山された三つの寺は真言宗智山派となり、昭和の初めには次の様になりました。
江戸時代に本寺となった。昭和 2 年より重継の曾祖父「浄眼」が住職をしていた。半鐘が真観寺に寄進された時は敗戦後であったが、住職がシベリア抑留中の為、不在であった。そのため、浄眼僧正が真観寺の寺務取扱をしていた。
江戸時代に長久寺の末寺となる。現在に至るまで伽藍が多く維持が大変である。重継の祖父「喜継」が昭和 16 年より住職となる。現在は重継の父「俊継」が住職をしている。重継の祖母は「浄眼」の娘だった。
無住職の小さな寺であった。昭和 8 年に雷火で本堂を焼失した。昭和 56 年より重継の父「俊継」が住職をしていた。平成 15 年より「重継」が住職を務めている。
大東亜戦争の際には長久寺と真観寺は半鐘や鰐口を供出しました。焼けて後再建間もない西明寺には供出できる様な金属はありませんでした。敗戦となった後、行田市富士見町に屑鉄等の金属を扱う商店が幾つかできました。
その一つの商店がどういう訳か供出された半鐘を多く持っていました。半鐘を失った行田市近隣の寺院はその商店で半鐘を求めました。真観寺と長久寺の半鐘は檀徒によりその店で買い求められ、寄進された半鐘です。真観寺へ寄進された半鐘が光善寺様の半鐘で、買い求めたのは行田市宮本町で自動車屋を始めた森田右一郎氏でした。
長久寺本堂
戦時中、長久寺の住職が真観寺の寺務を取り扱っていた。
真観寺全景
手前が本堂、奥が観音堂。本堂に光善寺様の半鐘が掛かっていた。
森田右一郎氏は大東亜戦争の開戦後、兵役を逃れるために足尾銅山で働いていました。その後昭和 18 年に応召し、中支戦線で戦っていました。最終階級は伍長と聞いています。声の大きな人だったので、号令係をやっていたそうです。復員するとまもなく奥さんを喪いました。
奥さんと両親の菩提を弔う為、戦争中生き残ったのは真観寺の観音様の加護であることの御礼の為、そうして本人が「金の生」であったために、半鐘を寄進したそうです。そうして光善寺様の半鐘には新たに銘が刻まれ、昭和 23 年から真観寺に活躍の場を得ることになりました。
真観寺の過去帳に半鐘を受け入れた時の事が次の様に記してあります。
半鐘 昭和二十二年四月二十五日買入
大東亜戦争出征中当山第四十三世喜継代
右住職出征中ニ付本寺寺務取扱兼住中
右代金金弐千円
宮本町森田右一郎寄贈ス
この当時の 2,000 円というのはどのくらいの価値であったでしょうか。各時代の米の価格と比較してみました。
昭和 23 年 米一俵 千五百円
昭和 26 年 米一俵 三千円
(職人手間 三百円)
昭和 38 年 米一俵 五千円
(教員初任給 二万円)
平成 6 年 米一俵 一万六千円
(職人手間 二万円)
(教員初任給 十七万円)
朝鮮戦争が始まるまで、職人一人の手間は米一升だったようです。森田右一郎氏は約 10 日分の働きを喜捨した事になります。光善寺様の半鐘は昭和 22 年から 29 年間、真観寺の軒先にて務めを果たすことになりました。
森田右一郎氏は大変に元気の良い人でした。後に真観寺の世話人になりましたが、世話人会議の後の席でお酒が入ると大きな声で「のんきな父さん」や「加藤隼戦闘隊」を歌い、重継に教えてくれました。
ところが、昭和 51 年頃、長久寺にて半鐘を新しく作り直すことになりました。大きな長久寺も半鐘は二つ要りません。長久寺に下がっていた半鐘をどこか別の寺に移すことになりました。長久寺で使っていた半鐘は大きかったので、真観寺以外には納まる場所がありませんでした。
本寺末寺間で慎重に検討した結果、玉突きの移動がありました。長久寺の半鐘が真観寺に移され、真観寺に下がっていた光善寺様の半鐘は半鐘を持っていなかった西明寺に移されることになりました。
(真観寺と長久寺は本末関係にありました。そうして、浄眼と喜継は師弟関係にありました。師匠の命により昭和 14 年に娘と結婚の上、東福寺(真観寺から北東方向に 1 km)に赴任した喜継は東福寺にて新婚生活を営むべく庫裏の建設に着手しました。
ところが、庫裏完成後に師匠の沙汰により寺替えとなり、昭和 16 年に真観寺の住職に着任しました。親友の森田右一郎氏に寄贈された半鐘であっても、師匠の寺から半鐘が来るとなると自分の所の半鐘を手放しても受け入れざるを得なかったのではないか、と推察されます。
西明寺は昭和 51 年時には浄眼の子「浄継」が住職を務めていました。師弟同士、親類同士であったという甘えた判断も働いたと思います。
父俊継が西明寺の住職となったのはその後の昭和 56 年です。いずれにしても昭和 51 年頃西明寺に半鐘が来たのは確かです。森田右一郎氏は半鐘が替わっていたことを亡くなるまで気付きませんでした。)
それ以来 30 年間、光善寺様の半鐘は西明寺にて葬列の入山時と盆の施餓鬼法要の集会と入堂及び退堂の合図を行田市白川戸に響かせてきました。
私も高校生位の時から半鐘の銘に「蒲原郡大面村字矢田 光善寺」と刻んであるのを見て気に留めてはいたのですが、光善寺様にお知らせする事もなく、昨年まで時が過ぎてしまいましたが、平成 19 年 4 月に仕事を辞め、時間が自由になったのを機に光善寺様にお便りをした次第です。
平成 19 年 6 月 27 日、光善寺様と世話人様にはるばる足をお運び戴き、半鐘をご紹介することができました。
その後、光善寺様に半鐘は西明寺で引き続き使っても良いというお許しをお手紙で戴きました。私ももう一度、この半鐘に越後の風景を見せたいと思っておりました。
本日、こうして半鐘を携えて光善寺様に参ることが出来ましたことを誠に幸せに思います。
平成 20 年 4 月 24 日
天州山種智院 西明寺住職
中村 重継
半鐘の寄贈は昭和 22 年 4 月 25 日であるが、半鐘の銘を入れた時期は昭和 23 年 12 月となっている。(これは祖父喜継のシベリアからの帰還が昭和 23 年 11 月であったため。)
祖父の復員船は日露戦役でバルチック艦隊を発見し、雷撃をかわして水木しげるを南方に運び、「俘虜記」の大岡昇平も復員時に乗船した強運な「信濃丸」でした。 新潟港経由で帰還しました。新潟から信越線→上越線→高崎線という経路です。
帯織駅も当然通ったでしょうが、まさか、大面村の半鐘が真観寺に来ているとは考えなかったでしょう。