1 月 25 日(日)14 : 00 ~
キム・ベイシンガー演ずる女性教師ジェシカが子供を学校に送り出す場面はホームドラマ仕立て。母と子の会話が楽しく、とてものどかな冒頭の場面。
サスペンスをうたっているのに・・・と思っていると。
突然自宅へ侵入した男たちにつれ去られたジェシカは場所もわからない部屋に監禁され、わけが分からないまま途方に暮れる。
何もない粗末な部屋にただ一台あったもの・・・電話機。気を取り直して電話機に飛びつき受話器を取るが、男がドアを開け部屋に入って一撃で電話機を破壊してしまう。バラバラになった電話機を前に無力感と絶望感に落ち込むジェシカ。
「何故私が監禁されねばならないの?」。理由、動機を考えてみるが答えは思いつかない。バラバラに破壊された電話機を前に“ひらめいた”彼女は、外部へ連絡がとれないか目茶苦茶に配線を結んでいく。すると偶然「ある一台の携帯電話」につながった。まるで映画のようだ・・・。
相手はクリス・エヴァンス演ずる好青年ライアン。典型的な海辺の若者、カタカナ語で言えばビーチボーイか。多少調子のいいところもある若者。
さすが最初は「イタズラ電話」と思っていたライアン。ところが受話器の向こうに聞こえる悲鳴と罵声、彼はイチモクサンに警察署に駆け込む。
警察で事情を説明した青年ライアンは安心して帰っていく。
相談を受けた警官は翌日に定年を迎える真面目一辺倒の巡査部長。この部長をウイリアム・H・メイシーが地味に演じている。
彼は早速「監禁された女性」の自宅に電話をいれる。するとひとりの女性が電話で対応し「私はこのとおり家に居ますよ、いたずら電話じゃないの」と応える。
そこで納得した巡査部長、電話の件は忘れて定年後のことを考えてしまう。
一方ライアンは警察に話したものの相変わらず「助けを求める」電話が来るので不審に思い、ついに行動を起こす。ここからが凄い。
映画だからこんな行動がとれるって感じで、現実にはありえないアクションの連続。
彼は“違法”の限りをつくして携帯電話の声の主に応えようとする。本来確証がないはずの「電話の声」を信じて行動する素直な「海辺の若者」。
道路交通法は当然無視、したい放題。でもさすがに映画のチカラ、この連続の場面が面白い、早い展開で物語が進んでいく。
一方巡査部長も長年の勘からか確認のために帰宅途中「監禁されたハズの女性」の家に立ち寄る。その家の妻は在宅していて「問題は解決」したかのように思えたが・・・。
そのあと徐々に謎が明かされる。物語の展開は観てのお楽しみ・・・だけど「犯罪の動機」だけはバラしてしまいます。
数人の男女が麻薬を取引している現場をジェシカの夫に偶然ビデを撮影されてしまう。更にその映像には殺人現場まで写されていた。そしてその映像に写された加害者は全員警官だった。
麻薬の取引と殺人の現場を映像に撮られた悪徳警官たちは「ビデオ回収」のために、妻と更には子まで誘拐、監禁したのだった。
そう来たか。またこのパターンか。
正義の味方のハズの警察官が実は犯人だった、という物語りの展開は最近のはやり、定番のひとつ。ただ問題なのは「正義の味方」の組織のなかの一部の不心得者、この一部が問題だという脚本がいつもながら残念。
だからここでも誠実で真面目な巡査部長が最後まで活躍、彼に「警察の正義」を体現させているかのようだ。ライアンと協力して事件は解決するのだが、最後の場面で逮捕した悪徳刑事に向かって「俺は悪徳警官が一番嫌いなんだ」と言わせている。
なるほど、アメリカ合衆国では「悪徳警官」は日常茶飯事なんですな。
確かに以前観た「アンタッチャブル」でもエリオット・ネス隊長率いるFBIの一部の隊員だけが買収を拒否し、その他のほとんどの警察官がカポネの組織に買収されていた。
だからここまではよく理解出来る。合衆国の悪徳警官の多いことは。
ただそれは現場の警官だけが「悪徳警官」であって組織をつかさどる、管理する立場にある組織の親方は「善人だらけ」ということか。そうならば合衆国のの警察組織は素晴らしい。「指導者」は立派なんですね。
対して我が国ではどうだろうか。
新潟県や神奈川県を代表に「警察の不祥事」はどうなったのでしょう。北海道での「裏金問題」は過去の問題であって、なおかつ一部の「悪徳警官」の問題だったのでしょうか。
私の体験からすると現場で活躍している警察官の大部分は「尊敬すべき」人達です。
以前、PTAでの交通・防犯指導や現実の事件・事故に関連して思ったことは新潟県警の警察官は人手がないなか(それは現場の警察官が非常に忙しいという意味)実によく汗を流している。感心するほど誠実で勤勉です。
日本の場合は正反対ではないですか、アメリカと。肩書きのない警察官は真面目に勤めながら、肩書きをいっぱい持っている親方・指導者こそ問題なのではないですか。
それは警察に限らないかも知れません。組織の現場の「誠実な人達」に対して「指導者たちのオソマツ」さ。
例えば戦時中の日本軍。15年戦争に「忠君愛国」で兵隊、いち兵士として命をかけて戦った金子安次氏はこう指摘しています。
「彼ら(師団長や軍司令官、職業軍人の参謀や高級副官)は軍隊の時は肩を怒らせて、日本精神だとか、武士道だとか、犠牲的精神だとか兵隊に押し付けてきたが、その立派な行動は(戦争が終わると)まったく見えませんでした」 ・ 「士官学校を出た職業軍人の戦死者は少ないですね。何故でしょう」と。
また金子氏はNHKの番組の中でこんな言葉も紹介しています。
「ニューギニアの戦線で10万余りの兵隊が死んだ、それも何と餓死だ。この作戦を計画した参謀たちは何の罪にもならないのですかね」。
事実をひとつ。多くの反対意見のなか、インパール作戦を強行し「餓死や病死で白骨街道」と呼ばれた地に、多数の兵士を見殺しにした最高司令官「牟田口(むたぐち)中将」。
彼だけは一目散に東京に逃げ帰って無事だった。メデタシメデタシ。
コイズミ氏が自分よりナサケナイ後継者しか選べないように、牟田口中将のもとにはそれなりの指導者が多かったのでしょう。「神国日本」にふさわしい「立派な指導者」が。
アカデミー賞主要四部門受賞の栄光に輝く「傑作」を期待して見た。
「ヒット・ピット・ジム」の名前を掲げたボクシングジム。ジムのオーナーでトレーナーでもあるフランキー、黒人の雑用係スクラップ、売り出し中の黒人ボクサー、ウィリー。あとは口先とハートだけの白人少年やパンチは強烈だが思慮の浅い黒人ボクサーが汗を流している古いジム。
そんなジムにウェイトレスで生計を立てる女性ボクサー、マギー・フィッツジェラルドがやって来る。
貧しい家庭に育った彼女にとってボクシングは生きがいそのものだ。より強くなりたいために名トレーナーのフランキーの指導を受けようとするが「女は教えない」というのが彼の方針だ。
そんななか大切に育てていた売出し中のウイリーが突然よそのマネージャーに引き抜かれる。しかもそれはウイリー自身の意思なのだ、ビック・ウイリーが望んだこと。ジムの経営にとっても手痛い損失だ。
まともなボクサーがいなくなったジムでマギーのパンチを見ていたフランキーは、ついに彼女を育てることを決意する。
それからはドラマのように物語りは展開する。トントン拍子で彼女は勝ち進み、たちまち対戦相手がいなくなる。仕方なくワンランク階級を上げて戦うがそれも順調に勝ち進み、ついにミリオンダラー、賞金1億円の試合にまでたどり着く。
その試合結果からこの物語りの本当の主題が始まる。監督そして主演を演ずるクリント・イーストウッドの主張のゴングが鳴った。
それまでボクシングが中心だった物語りが「いのち」の問題へと急展開する。ボクシングという激しい動きからベットに横たわる静へ。動から静へ、素早く激しい動きの時の流れから遅々として進まない、回復しない重く暗い映像へと変化する。
最後の試合、WBA世界ウェルター級チャンピオン”青い熊のビリー”との戦いで寝たきり人間と化したマギー。
一生このベットの上で寝たままの人生を送る事実を認めることが出来ない彼女は、フランキーに「私を殺して」と再三哀願する。そんな彼女にしたのは自分のせいだと落ち込むフランキー。
彼女は言う。「もう充分私の夢はかなった。貧しいウェイトレスで一生を終わっていたハズの私が世界を廻ってボクシングが出来たんだから・・・だから早く殺して」と。
無論フランキーはそんな言葉に耳をかさない、ただ自分のことを責めるだけ。
そんなある日、自分の現実の姿に耐えられないマギーは自殺を図る。幸い救急の手当を受け一命を取り留めるが、回復するや否やまたもや自殺を図る。
二度の自殺未遂を契機にフランキーは決断する。ただベットに寝ているだけのマギーの苦悩、その結果を肯定し、満足した人生を送ったことを納得している彼女の言葉が彼の心に決意を生み出す。
自分が育てた結果が彼女を不幸にしたことに落ち込む彼がついに決心し、ある夜ついに決行する。愛するゆえに「いのち」を絶つことを。
この一連の場面をとらえて「ヒューマンドラマ」と称して涙を誘う「傑作」。この映画の広告文にこうある、「ラスト30分は涙が止まらない・・・」。
涙が止まらない?そうかい。この一連の場面を見ていた私はラスト30分は怒りがフツフツと湧き起こってきた。何故か。少なくともマギー自身は「夢は充分かなった、連戦連勝の人生を送った今は満足している」と。
その彼女が自分の意思で死んで行けることは「満足」出来ること。充実した毎日で満足だったと、納得した人生を送ったことに感謝と喜びを心底感じているマギー。
では彼女と正反対に「満足」出来ずに、不条理に殺されていく女性たち、子供たち、老人たち、そして人間たちはどうなるのか。
アメリカが自国の繁栄のために他国を侵略、その過程で多くの女性、子供、老人、無論若者たちも・・・虐殺する行為はどうなのか。自分たちのオイシク楽しい生活を続けるためには誰だろうと踏み付け、破壊する国家。その結果、無残にも殺され続ける人々は道理も満足もなく虚しく命を奪われていく。
その事実にまったく目を向けることなく展開するお涙頂戴の脚本。
こんな薄っぺらなドラマをヒューマンと称して・・・不愉快になって来る。侵略戦争で虐殺された人々は「無意味に、不条理に、意思を確認されることなく」殺されていく。しかも「正義を妨げる悪の仲間」として。
過去数百年の合州国の歴史で絶えず行われて来た侵略と虐殺。それに涙することなくこんな作品を「ヒューマンドラマ」と自賛する感覚、アカデミー賞とは能天気賞の別名でしょうか。実に安直なドラマ。
無論私はこの映画を能天気と批判してオシマイにしたいわけではありません。こんな物語を絶賛する合州国の感覚と正義。そんな力こそ正義の国家に「言われるままに従う」我が国のありようを問題にしたい。
アメリカの植民地と成り果てた日本。果たして本当の意味で国を売っているのは誰か。そして売国的権力者を放置しているのは誰か。権力者を権力者ならしめているのは私自身。
権力はそれを持った者にあるのではなく、権力者をノー天気に支持する私たちにあるのでしょう。無批判な人生を送る私たちにふさわしい「傑作」だった。
医学生エルネストと親友アルベルト、若いふたりの旅の物語り。
大学の卒業を間近に控えた主人公エルネストとアルベルトは中古バイクにまたがり広大な南米大陸を縦断することを、まともな計画もお金もないまま実行する。
ふたりの若者はそれぞれの国や地域を訪れることで、それまで知識としてしか知らなかった現実社会を体験する。時には若者らしくハメを外し、恋もし、ウソの新聞記事さえ書かせて珍道中。
ごく普通の学生が旅を続けることで社会の矛盾と直面、自分の育った環境との違いに驚く青年。
例えば「鉱山」で働くひとびとの立場の危うさ、例えば「ハンセン病療養所」での偏見、差別。純粋なこころを持ち続けるひとりの青年の疑問や行動が、その美しい南米の風景をバックに展開される。
社会の矛盾や偏見に出会って彼は「事実」を理解する。
ハンセン病の療養所では「手袋をする」規則を無視、素手で患者と接していく。喘息持ちでありながら患者たちと本気でサッカーをし川を挟んで隔離されている患者を黙認せず、誰も渡ったことのない川を泳いで渡り共感する立場を鮮明にする。
鉱山では思想を理由に差別される夫婦に貴重なドルを全部渡し、親友に非難される始末。
こうして普通の医学生だったエルネストだが、旅が終わりに近づく頃には「革命家」の様相を感じさせるようになる。
この映画では一貫して美しい風景画が描き込まれているが、このことで「南米はひとつ」、人間の住む大陸はひとつの意図が映像化されている。国境は何の為にあるのか、国は誰のためにあるのか、そもそも国境なるものが必要なのか。
無論それは南米に限ったことではない、世界はひとつであって世界を分ける無意味さをも語っている。
国境が存在することの無意味さを自覚した彼は既成の価値観にとらわれることがない。
私ならどうだろう。ハンセン病患者にたいしては手袋を二枚重ねしないだろうか、患者と一緒にサッカーをするだろうか、共感した相手に金銭をあげるだろうか。
「国境」を疑問に思いながらどこかで「国家」を頼りにしていないか。「権威」を否定しながら、自分が権威になりたがっていないか。
私の不純さがこの映画の主人公を通して見事にあかされる。あなたはどうですか?と。
ロバート・レッド・フォード製作のこの作品はルポルタージュ風に描くことでより現実味を増している。
事実、ハンセン病患者役として登場するひとたちは役者でなく実際の患者にご出演願ったとのこと。しかもそんな重い場面を暗く演出せずに、反対に明るい南米の風景を観客に示すことで「偏見を偏見として」そのまま見ていくことの大事さを語る。
主人公エルネスト、後のチェ・ゲバラはこうして事実に目を覚ました。つくられた制度や差別、権威や暴力を使い人間を利用し殺害までする社会。そんな不条理を批判、弱者の側に立ち巨大な権力に戦いを挑んだひとりの青年。
後年、彼チェ・ゲバラを謀殺したのはまたもやアメリカのCIAだった。
「B級映画はこうして撮る!」てなポール・アンダーソン監督の強烈な意思を感じた作品。典型的なそれは物語りの展開に起因する。何と言っても脚本がお粗末、これでお金を取ろうとはなかなかのもの。実は脚本も監督自身が書いている。
民間のウェイランド社が飛ばしている人工衛星が北極のブーべ島から「熱源」が出ているのを感知する。その正体を探るためチームを編成、地下に存在する「熱源」に到着するとそこは「エイリアンとプレデター」の決闘の場所だった。
それでオシマイ、それだけの物語り。典型的なB級作品。
まさにどうってことのない物語りながらここで取り上げた理由、それは主人公の設定にあった。
主人公の探検家でガイド役のレックスに映画「エイリアン」同様女性を起用したこと、しかも黒人女性を。
主人公を取り巻く男性陣には考古学者役のセバスチャン教授を筆頭に屈強な男性が配役されながら、最後に残るのは彼女ひとり。女性の脇役も登場するが他の脇役同様白人で、しかも脇役の彼女を含め皆さんがオダブツとなる。
仲間が次々殺されていくなかで主人公の女性がエイリアンに立ち向かう姿は初代「エイリアン」のリプレーを彷彿とさせる。ただリプレーと違うのは「ひとりで立ち向かう」のではなく、プレデターと共闘すること。
その意味から「エイリアン2」までのシガニー・ウィーヴァーこそ「闘う女性」の地位を確立したお手本と、あらためて称賛したい。
しかし残念ながらこのB級映画では、物語りのオソマツさゆえにせっかく差別され続ける典型としての黒人であり女性である主人公までもB級に仕上げてしまっている。
それにしてもB級ながら黒人の女性を「闘う」主人公に設定する作品が登場する時代を受け入れるアメリカ。その度量の深さと広さにアメリカのある意味での良さをあらためて感じざるをえない。いつも合州国(の特定の階層)を批判している私ですが、良い点は素直に評価しますよ。
対して我が国ではどうだろう。出産費用をタダにする法律をまじめに検討していると・・・少子化対策として。あのね、出産費用がタダじゃないからこどもが増えないのでしょうか?この貧しい発想、呆れ返りますね。
出産費用をタダにすれば女性がどんどんこどもを産むと本気で考えているのでしょうか。女性は出産マシン、子作り機械ではないのですが。
女性・女系天皇論のそもそもの始まりは「男子」を(今のところ)授からない嫁さんが元ではなかったですか。金輪際、出産費用などに悩まなくて済む嫁さんでありながら「どんどん」出産しませんね。法律を作る政治家の感覚、彼らを選ぶ選挙民、私たちのこんな感覚こそ絶望的ですね。
問題は女性をこども出産機械としか考えていないこの国の、社会のありよう。これでは映画の中でさえ「部落やアイヌの女性」を戦う主人公として設定出来ないでしょう。
現在の日本社会は「格差」を生み出し、一部の勝ち組と大多数の負け組みを作り出す、弱肉強食の価値観が蔓延しています。しかもライオン総理が格差を支持、弱者に手を差し延べるどころか「強者の味方」ばかり演じています。
「強者ばかりに感動する」ライオン総理を指導者としていただくこの国は、このB級映画の主人公のような主体的な女性でなく、閣僚にイエスマン・イエスウーマンばかりを起用。
これではこの国の女性はもちろん、男性まで本当の意味での「人間としての対等」、性差を問わずに「互いを尊敬」する社会を実現することはないでしょう。
「ボーン・アイデンティティー」の続編である本作品は前作以上の出来栄えだ。前作で記憶喪失の場面が物語りのカギとなっていたが、本編ではいよいよそのカギが開けられる。
「秘密組織」から逃れたボーンとマリーはインドでひっそりと暮らす。そこへ暗殺者キリルが現れボーンの代わりに恋人マリーが殺されてしまう。真相究明に燃えるボーンは秘密組織に反撃を開始する。
ナポリからベルリンへと反撃を続ける彼の記憶に時々よみがえる過去の体験。更に真相を探究する彼の前には複数の組織が襲いかかる。そしてついに彼の記憶が戻ったとき、全貌が明らかになる。
これ以上ストーリーを語るのはやめましょう、聞いてから見ては面白くない。久しぶりにオススメの映画だ、貴重な時間を使って見ても面白い。
特にアメリカのテロ活動の実働隊CIAのヨーロッパでの活動はさもありなん、と思わせる場面。ナポリのアメリカ領事館、そこに働く職員は表向き調査官でも拳銃を常に携帯するCIA要員。
ベルリンには直属のスナイパー部隊まで揃えて、ロシアの内務省にまで通じている米国の諜報機関CIA。
加えて物語の要のところで「ロシアの政治家殺人事件」、「カスピ海の石油利権をめぐる陰謀」、「CIAから横流しされた2000万ドル」など、いかにもそれらしい素材を絡めながら「CIAの実態」を映し出している。
前作で秘密組織とされたそれは実はCIAの計画した「トレッドストーン作戦」を進める組織、CIAが計画、実行したもの。そのCIAが画策したトレッドストーン作戦から生み出された殺人マシンこそ主人公ジェイソン・ボーン。
前作ではボーンの最初の指令が某国指導者の暗殺とされていたが、実はそれ以前にロシアの民主的政治家ネスキー暗殺の指令を実行したことが判明する。ベルリンでのCIA要員殺害事件とネスキー暗殺事件が複雑に絡み合って記憶がよみがえる。
前作でも指摘したように映画の限界で「CIAの一部」悪役が諸悪の根源として描かれて、本作でも良心的善人役としてCIAのパメラ・ランディという捜査官が登場。彼女は水戸黄門のように悪役をあぶり出すカッコイイ役割を演じている。
実は組織としてのCIAは善人で構成され、その中の一部の「不心得者」が悪さをしていると。はたしてそうでしょうか、事実を見てみましょう。
ヨーロッパでCIAが組織として暗躍している問題が今注目されています。秘密の収容所を複数設置、CIAのテロ責任者が勝手に「怪しい」と決めつけた容疑者を拘束、移送、拷問を繰り返し、CIA所属の専用機が縦横無尽に各国の領空や空港を無断で飛びまわっています。現実の非合法な行動はスパイ映画以上です。
「違法な拘束と拷問」を公然とするCIAに対し欧州会議(46ヶ国加盟)は捜査を開始し、まさに大問題と化しています。
CIAの謀略は一国の大統領まで操ります。「イラクのフセイン大統領はCIAの手持ちの駒、アメリカの友だった」とアメリカのマスコミは今頃になって公言しています。
そんな事実を娯楽としての映像で暗示した本作のもう一つ見所は、主人公がたった一人で行動するところ。
「007やミッションインポシブル」に登場する主人公たちは最新式の秘密兵器や体制側の組織を基盤に活躍する。チームや巨大な組織、デジタル機材満載。
対してボーンは体力と知力だけで勝負、アナログ感覚。一人で走り、運転し、推理し、闘う。相手はCIAだけでなくイタリア警察、ロシア警察など体制をバックにした巨大組織。
そんな彼に「悪役」として登場するトレッドストーン作の首謀者ウォード・アボットが語る。
愛するマリーを殺したのはアボットだと迫るボーンに対し「マリーを殺したのはボーン自身」だと。ボーンが逃走の際「彼女を利用さえしなければ、マリーは死なずに済んだろう」と。
そのセリフに答えずにボーンはマリーの死にぎわの言葉を投げ付ける。「マリーが望んだ、だからお前は殺さない、マリーに感謝しろ!」。マリーは射殺される直前に言った、「殺し合いはもう止めて。殺し合いはキリがない、殺し合わない方法は他にあるわ」と。
殺人マシンから人間に戻ろうとするボーン、最後に少女を訪れる場面がそれを暗示して映画は終わる。
その映像はアメリカ合州国が侵略を開始する数日前からの場面から始まった。イラクの日常生活がスクリーン上に映し出される、それはまるで観光映画をみているよう。
ごく当たり前の人々の暮らしをカメラが追う。場面が変わり、次第に「開戦前夜」の準備に忙しい様子が伝わる。商店街では次々とシャッターが南京錠や溶接で閉じられ、緊迫した空気が観客に伝わる。
その時がやって来た。人間を「殺すため」だけにつくられた機械・・・それを武器と呼ぶらしいが「殺人機械=殺人機」と呼ぶことが本来ふさわしい・・・によって大音響と共にあかあかと燃え盛る都市。爆弾やミサイルが次々に着弾し「大量虐殺」が目の前で繰り広げられる。
この映画ではある複数の家族を中心に「侵略と破壊の不条理」を語っている。
幼く愛しい三人の子供を一瞬で奪われたアリ・サクバン一家、クラスター爆弾をそれと知らずに触れただけで瞬時に右手を失った15才の少年アフマドとその母親の嘆き、そして爆撃の破片で目を負傷した12才の少女ハディールと悲しむ父親。
昨日までは観光映画に出て来るような平和で豊かな日々の暮らしをしていた人たちが、何の責任や道理もなく我が家が、家族が、人間が破壊される。
「破壊され、殺される側」の人たちは「理解する間」もなく「意味不明・理解不明」のまま殺され、悲しみに暮れ、憤り怒る。「なぜ俺たちが、どうしてイラクなんだ!」と。
そんななか殺人機械を駆使して首都バクダットに凱旋する米軍。大部分のイラク人の無表情と抗議のなか、茶番としての「銅像引き倒しショー」が決行される。
圧倒的な殺人機械の機能を誇る米軍。それを操る米兵は当初得意満面で登場、感謝と喝采で迎えられると思いきや意外な市民の対応に予想外の表情を示す。
更に占領期間が長くなるにつれ市民からの抗議に「不満、不安」の様子も。なかには警備していたところから「抗議を受けない所」へ移動する若い兵士の姿も映し出される。
この映画は侵略される被害者としてのイラク人の人々の惨状を映し出すのは勿論、加害者としての米軍兵士にも焦点を当てている。解放軍としてやって来た正義の味方が実は侵略者として迎えられたことを知り、「我々は何故ここまでやって来たのか?」と本質的な疑問をうかがわせる表情をする兵士たち。
無理もない、正義の使者を自認しても事実は殺人集団でしかないのだから。目の前で頭や足を吹き飛ばされる市民の多くは子供や老人、女性など弱者ばかり。それはアメリカの最新式殺人機械の成果。
一兵士として純粋に「解放軍」を自認しても現実の惨状を目の前にして「不安」を隠せない若い兵士たち。
彼ら彼女らは「収入や特典」を得るために兵役を就かざるをえない若者も多い。帰国して精神的不安から情緒不安定になり入院生活を送る者も多い。
映画には米兵の自殺や帰国後の場面は登場しないし、ナレーションもなくアメリカ政府も公表しないが、実態はベトナム侵略戦争と同じかそれ以上になる可能性も。
今ではウソの代名詞となった「大量破壊兵器阻止」という大義、そのために送られて来た兵士は「ウソの大義」を守るために戦うことを余儀なくされている。これではやる気、戦意が低下するのも無理はない。
後で述べるように、ある意味ではアメリカ兵も被害者なのかも知れない。だからこそカメラを向ける綿井健陽(たけはる)の執拗な問いかけに、次第に口ごもる米軍兵士たち。
いまアメリカ国内ではアフガニスタンやイラク侵略の前提である「9・11」事件への疑問が語られている。あまりに多い不自然で奇怪な点が不問にされていることに政府への不信感が拡がっている。
例えば今もって米連邦航空局(FAA)も運輸省(DOT)などの公的機関も(激突した四機の民間機が)「当該の事故機である」と特定出来ないでいる。
どういう意味か。飛び立った民間機が間違いなく激突した民間機と同じである、ということが特定出来ない。いまだに物証によって機体の所属が判明していないのだ。
さらに言えばブッシュ一族を中心に彼らの取り巻き(例えばチェイニー副大統領やベイカー元国務長官など)が絡む「戦争利権」。
ハリケーン被害で明らかになったアメリカの社会構造。イラクまで行かされる兵士やハリケーン被害者は社会における「利用される側」。これでもか、これでもかと傷つけ、傷つけられて生きざるをえない私たち無名の民。
対してそれによってオイシイ生活を送る「利用する側」としての「戦争で利権を得る」階層。
皮肉なことにアメリカ国内のそのような矛盾がイラクにおいて、この若いジャーナリストの102分間の作品から透けて見える。
「リトル バーズ」の副題を「イラク 戦火の家族たち」としているが、もう一つ副題をつけたい、「アメリカ 戦火で儲ける一族たち」。