6 回 "水戸黄門"で"おぬしも悪じゃのう"を考える(その 2 )

各地を廻って「世直し」に精を出す黄門様一行。しかしその実態はハッキリ言って独善、独りよがり。こんなやり方で直してみても、根本を変えようとしないのだから同じことの繰り返し、モグラたたき同然、長寿番組になるのも当然でしょう。


本当に庶民や弱者のことを考えて「世直し」するなら黄門さん、先ず自分の足元から変えねばなりません。


彼のやっていることは自分の依って立つところは不問にしておいて、自分より弱い立場の「権力者や取り巻き、手下たち」を裁いてばかり。


基盤にしている「制度」はしっかり守って、下級の官僚を一生懸命懲らしめている。制度としての「封建幕藩体制」を堅持し肯定して、それが生み出す「利権のおこぼれ」の更にその一部を頂戴する「小物としての悪役」たちを徹底的に懲らしめる。


過剰防衛という言葉がピッタリの、いつもの立ち回り場面。悪役と主従関係にあるサムライたち、妻も子もある彼らは物語の展開から,外的としての黄門チームと戦うよういきなり主人から指図され、仕事として行動する。


その彼らに対して、日ごろのストレスを思いっきり発散する助さん、格さん、お銀たち。雇い主としての黄門様のひとこと「もういいでしょう」が発せられるまで、ロボットのように破壊つくす恐ろしい集団。


悪役の家老、代官、商人、ヤクザたち、皆さん独り者なのでしょうか。もし妻や子や孫がいるならばどうでしょう。妻子や孫たちは悪事に深く関わっていたのでしょうか。


太平の時代の大事件。黄門様暗殺を実行したり、切りつけたりした悪人の一族郎党、子や孫たちまで極刑が課せられる。お家や店は取り潰し、妻はもちろん、子や孫の将来はお先真っ暗です。そんな視点もなくただ独善で破壊を重ねる「正義の味方」。


多くの死傷者を出す大立ち回りを演じておいて「それじゃあ助さん、格さん、まいりましょうか」と去ってしまうノー天気なヒゲじいさん。


実はこれ、本質的に米国や日本が今現に行っているイラク侵略戦争と同じ構図ではありませんか。正義の味方を自称し、独善的価値観で破壊つくす侵略軍。黄門(ブッシュ)配下の「うっかり八兵衛」ならぬ「うっかり小泉」。


自身は「大量の大量破壊兵器」を持ちながら、その疑いのある(と一方的に決め付け)小国を懲らしめるおかしさ。もし「大量破壊兵器があるから攻撃しても良いという理屈」を肯定するなら、ロシア・中国はもちろん、米国自身も攻撃されても良いという話に当然なります。米国こそ世界最大の「大量破壊兵器」所有国。しかもダントツの量と質、最新型のそれ。ならば一番の攻撃対象国ではありませんか。


冷静に考えていかがですか。たとえば「ミサイルを1万発持つ国が、火縄銃を欲しがる国」に向かって「火縄銃を欲しがる国は危険だからミサイルで攻撃しても良い」と言うことでしょう。あきらかにこれはご都合主義、理由付けに過ぎない。しかも悪いことに「うっかり小泉」が黄門様の前で頭をなでてもらおうと日本軍まで送る始末。


このたびのイラクでの「邦人誘拐事件」を通して、それぞれの性格があきらかになりました。政府は「個人の責任問題」に終始し、なぜ誘拐事件が起きたのかという本質については黙殺。反米を旗印にする誘拐犯行組織に対し、米国頼みしか手のない「うっかりグループ」。


対して具体的な救出活動は多くのNGOが迅速かつ積極的に動いて成果を上げ、3人のイラクでの活動を世界中に知らしめました。結果的に市民の力がなければ救出は不可能だったといえます。 


(次回へ続く)

5 回 "水戸黄門"で"おぬしも悪じゃのう"を考える(その 1 )

 脅威の長寿番組。そのストーリーは単純明快で毎回同じパターンの繰り返し。ところが放送1000回を超える大人気。典型的な勧善懲悪だから、番組が始まるや否や「ああ、あれが悪代官で、こっちが腹黒い商人、向こうにいるのがヤクザの親分」と一目瞭然。なぜなら皆さん人相が悪い、可哀想なことにいかにも極悪人として描かれる。


 対して庶民の味方、正義の味方は何故か「美男美女か、上品」な人物像。


登場人物に加えて、話の筋まで視聴者は知りながら、ついつい見てしまう。結果的に常に安定した視聴率を稼いでいる。


 何故物語の顛末が分かり切っている番組を見るのでしょう。一つには決して視聴者の期待を裏切らない。安心して見ていられる。最後は必ず「正義」が勝つことにあるのでしょう。いつの時代も、社会の主流は「強気を助け弱気を挫く」から、その反動か。


 また一つには、「切り札」としての「副将軍」の肩書きがあります。


 子供の頃、よく兄弟で「行軍将棋」をしていましたが、大尉や大佐でも、相手が中将だと勝てない。無条件で負けとなります。大佐が10人でもダメ、少将でもかなわない。中将に勝つためには、大将を当てなければなりません。タンクやヒコーキでもダメ。ただ運悪く地雷に当たると中将でもオダブツですが。


 ところがこの番組、「天下の副将軍」様は爆薬が爆発してもオダブツにならない。罠にかかって小屋に閉じこめられた黄門様御一行。大爆発の後に、遺体と着物の一部が焼け残って「悪役の家老たち」が祝杯をあげている。


 するとその宴にさっそうと登場。何故だ!と問うのに答えて「実はあれは刺客の忍びの死体なのだ」こんな事は日常茶飯事。


 さらに驚くことは「毒薬」にも負けてはいない。ある時、縛られているお銀(由美かおる演じる忍び)が毒薬を飲まされる。ところが番組終了近く、死んだはずだよお富さん・・・お銀さんが現れる。何故だ!に答えて「そんなこともあろうかと、奥歯に毒消しを仕組んでおいたのさ」ひえ~、そこまで手回しがいいのか。


 これじゃあ何をしてもかなわない、無敵なわけだ。でもいつも毒消しを奥歯に含んでいて薬の副作用はないのだろうか。人ごとながら心配だ。


 それにお銀さん、立ち回りの時は、お決まりの刺激的な格闘着。でも一行が旅を続けている場面では、三味線を抱えているだけ。格闘着に加えて着替えや肌着、どこに隠し持っているのか。格闘着を干している場面も記憶がないので、お銀さんは洗濯もせずに着ているのか。あれだけ立ち回りすれば、私だったら汗だらけ。そんな汗だらけの着物で仕事を続けるお銀さん。さすが一流の忍び。汗が・・・否、涙が出るなあ~。


 番組では、物語の途中に入浴場面が映し出されるが、今後は立ち回りの後でゆっくり入ることを提案します。私自身が汗かきだから。それにしても着替えなんかは、やっぱり「クロネコヤマト」の時間指定で受け取りか。


 もっと不思議なこと。風車(かざぐるま)の弥七。彼が黄門に情報を伝える際、お得意の「風車便」が届く。ところがこれっておかしいゾ。風車便の構造上、直線しか飛ばない。すると旅籠の場合、どんなに遠くとも10メートル単位の距離から飛ばしたのでしょう。要は目に見える範囲ということ。


 すると弥七は「墨をすって、紙と筆を用意し、文字を書いて、乾くのを待って、畳んで、風車に結んで、目に見える範囲のマトに向かって投げる」のでしょう。


 彼は余程のヒマ人か。私だったらそんなことはしない。黄門一行の部屋に直接行って、口頭で説明すればよい。そうすれば、黄門様側の疑問・質問にも即座に答えられる。さては弥七の狙いは残業代の割増か。


 彼がどこでレポート(報告書)を書いているかは知る由もないが、屋根の上なら雨や雪の時はどうする。傘でもさすか。床下や天井裏、夜だったら明かりの用意までしなければ。しかも光が漏れない工夫も。


 そもそも危険極まりない。あんな危ない大きなクギみたいなものが飛んでくる。人に当たれば大ケガか、最悪の場合、命にかかわる。今まではたまたま被害が出なかっただけ。大きなリスクを犯してまでしなければならない行為なのか。


 「お同行」を称える東本願寺の中でさえ、「接見の間」が差別的に造られている。ましてや天下の将軍様が住まいする江戸城、「○○殿、久しいのう」といくら黄門様が言っても、弱小の○○藩の殿様では顔さえ知らないのではありませんか。ましてや地方の藩の家老なら「ああ!あなた様は・・・。どなたでしたっけ?」となるでしょう。


 このように喜劇としてみる分には楽しい番組ですが、この物語に流れるテーマ、悪を否定し、善を肯定する、実はこれが問題です。無論これが大人気の理由なのでしょうが、非常にわかりやすい物語故にアブナイ。


 本当の悪とは、悪人とはだれのことでしょうか。果たして黄門様御一行は本当に正義の味方なのでしょうか。誰にとっての悪人であり、善人なのでしょうか。


 「おぬしも悪じゃのう」。あまりにも有名になったこの言葉こそ唯一光っている、まさに本質をついているセリフです。


(次回へ続く)

4 回 映画”マトリックス”で”真偽”を考える

 続編になるほど中身のない、ツマラナイ作品になるという「マトリックス」シリーズ。そもそも1作目も「あの場面」以外、見るべき場面はなかった。物語としても正義が悪を倒すオキマリの筋。


 しかもキアヌ演じる主人公は「東映ヤクザ映画」風で、最初はやられっぱなし。防戦一方、逃げ回るだけ。途中いろいろな解説が入り、最後はお約束の”いきなりボブ・サップ対曙”、あれだけ強力なパワーを誇っていた敵が次々倒される。

 水戸黄門のラスト、「であえ~であえ~」で登場する「数が多いだけのサムライ集団」みたい。日常的に武術の訓練をしているハズの護衛・殺人集団が、素手を相手に刀を振り回して負けているオソマツさ。

 黄門一行チームの何倍も人数がいるのに勝てない。よほど武術の訓練を怠けていたのか、お銀の立ち回り姿に戦闘意欲をそがれ戦意を無くしたか。

 もっとも江戸時代、お銀のようなあられもないコスチューム姿で立ち回れば唖然とするのは当然でしょうが。


 おっと!水戸黄門は次回。ついつい私もお銀の立ち回り姿を思い出し熱も入って・・・。

 マトリックスの3作目「レボリューションズ」。この作品に至っては(多くの論評・雑誌・ネットで)「金返せ~、時間返せ~」コールの多いこと、多いこと。無論私は今現在見ていないし、永久に見ることはないでしょう。

 見てないモンが”考える”とは何事か。ご心配なく。1作目だけは見ています。これで充分。映画の論評をすることが目的ではないのですから。目的は別にあります。

 物語として新味はないものの設定がいい。主人公が日常生活を送る世界が、実は造られた世界だと。ある目的を持った組織の造った世界。そのことを知らずに生活する人類。人々はその「造られた、偽の社会」で暮らしている。そんなときに「現実の、真の世界」から彼を「救世主ではないか」と接触してくる人類。最初は疑問を持つ彼、しかし最後には”救世主”として戦う。


 今回のテーマはここにあります。私たちの日常の場であるこの社会が「ニセ」の生活を送る場になっていないだろうか。本当に人間として成就すべき世界であると認知されているのでしょうか。

 グローバリズム万歳の「富める者中心主義」。イラク出兵に代表される力こそ正義、その正義を自称する「西の将軍様」に付き従う「日本藩の脳天気殿様と家臣」とそれを支持する「善良な」私たち選挙民。

 何も難しい論議など不要です。憲法学者や教育評論家、社会学者や経済評論家など「エライ先生」方が登場されなくても結構です。

 全く高級なモンダイではありません。この国の政権党が「西の将軍様」の子分である限り、基地問題も靖国問題も北朝鮮問題も在日外国人問題も本質的な変化はないでしょう。本当に私たちは「主権を持った国」に住んでいるのでしょうか。それこそ幻想の中で生活しているのではありませんか。

 どう考えても、自衛隊なんだから「中東まで行って殺し、殺される」必然性はないのでは?自衛隊は自国を守るのであって、よその国の将軍様の指示で動くのではありません。自国を攻撃してくる敵に対して防衛する組織ではないですか。

 我が国の法律の最高法規、憲法がないがしろにされている現実の前で「法曹界やマスコミ」に関わる人々の沈黙。

 現実の世界を「見ざる、聞かざる、言わざる」で過ごし、「見る人、聞く人、言う人」として人間として生きることを放棄していませんか。今年が「猿年」なのは皮肉でしょうか。

 丸田善明氏(岩手真宗会館館長)は「世界は市場経済システムによって貧富の差を拡げて安定感を失い、人間の闇はいっそう深まりゆくでしょう。《破闇》を課題とした仏願に道を聞き、《共なる歩み》に立つほかありません」と指摘されています。


 さらに『歎異抄』に「火宅無常の世界はよろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」ともあります。

 世間では「一寸先は闇」と言います。しかし、今この国の現状を見ていると「一寸先は光」に見えます。無意識に過ごしている日常の裏にある「真の世界」に目を覚ますことが出来るでしょうか。

 人類の滅亡を推し進める側が「愛国や世界平和を唱える」。それに従うだけの「善良な」選挙民。「真の世界」は果たしてどこにあるのでしょうか。


 次回は『テレビ番組”水戸黄門”で「おぬしも悪じゃのう」を考える』

3 回 映画”千と千尋の神隠し”で”善悪”を考える

その観客動員数とベルリンの金熊賞・米アカデミー賞の長編アニメ賞受賞と宮崎駿を「教祖」にしてしまった映画「千と

千尋の神隠し」。リピーターも数多く、興行的にも大成功。スタジオジブリ万歳。

 物語は、あまり覇気(はき)のない千尋(ちひろ)という10歳の女の子が主人公。彼女が不思議な世界に紛れ込んで、そこでブタにされた両親を救うために活躍。様々な体験を通し成長、両親を救い出す。下敷きになる主題は特別突飛なものでなく、どこにでもある筋書き。

 ただ物語としての設定がすごい。摩訶不思議な「お湯屋」が主舞台となって、登場する「人物や生き物」たちも個性的。物語の展開も早く、ハラハラドキドキ。

 とても「教祖」でなければ思いつかない個性的な「登場人物・生き物たち」

 その中で要となる登場人物「顔なし」、「湯婆婆(ゆばーば)と銭婆(ぜにーば)」、そして主人公「千(せん)と千尋」。「顔なし」は孤独から金品で我が意を通そうとするが、自分の意に添わない千の策で「悪役から善役」へ。

 同じく貪欲な「湯婆婆」も、善人役の「銭婆」を描くことで「悪と善」を併せ持つ姿を。そして主人公、覇気のなかった「千尋」が「白(はく)」を愛することを通して主体的・行動的な人物「千」として大活躍。

 ここで描かれる主要な人物は決して平面的なそれでなく、ある時は主人公に好意的であってもすぐに敵対的に。また反対に意地悪な人物が手助けをしたり、厚みを持った描き方をしている。

 宮崎監督自身が「僕なんかもそうですけど、ジブリにいるときと、家にいるとき、地域にいるときの自分が全然違うんです。そういう分裂の中に生きていることも確かなんです」と。

 分裂の中に生きている。実は登場人物の善悪を決めているのは観客である私。分裂しているのは私自身。見ている私がある場面では「湯婆婆は悪者」と決めつけ、別の場面で「やっぱり良い人」と。

 「顔なし」も見ている私が物語の途中では「悪者(何しろ人間ではないので悪「人」といえないので・・・)」に仕立てておきながら、後半では「善い者」。

 その都度同じ登場人物に「悪者と善者」のレッテルを貼り続ける私。

 この物語全体に流れているのは「打ち倒すべき敵(悪)などそもそも存在しない」のではないか、という問い。どこにも絶対悪が存在しない。悪を決めている視点はどこにあるか。自分の思いこみの視点で”善悪”を判定している私。

 監督は前作「もののけ姫」で「くもりなき眼(まなこ)」という言葉を巫女(みこ)役ヒイに語らせている。

 「その地におもむき、くもりのない眼で物事を見定めるなら、あるいはその呪いを断つ道が見つかるかもしれぬ」と主人公アシタカに告げる。

 「くもりなき眼」を語らせる監督自身、「だからいいんですよ、ルイ・ヴィトンなんか買いに行かなくて。買い物かご下げてまた買い物に行くようになればいいんですよ。テレビゲームなんていらないじゃない。こんなに電気いっぱい使わなくていいんだもん。お風呂、二日に一回でいいんですよ」と。

 そこには私たち庶民の奥底にあるハズの、「まっとうな発想」を支持しながら、「浅ましい」指導者のもと「政府の言うことなんか乗っちゃいけないし・・・。さもしい・・・そういう下品なおっさんたちが日本の政治を牛耳っているかと思うと、これはこれで腹立ちますが」と憤慨もする。

 続けて「偉そうに言っていても僕自身本当に無力なんです。途方に暮れるんです。・・・でも一方で大量消費文明といういかがわしいものが、ようやく終わりに向かって動き始めた」ことに淡い期待をする。

 「いいときがあれば悪いこともあるという当たり前のこと」(宮崎駿)。勧善懲悪でなく、私一人の中にある「善と悪」。そしてその「善悪を決めつける言葉」にも言及する。

 「言葉は力である。・・・言葉を発することは、取り返しのつかない重さを持っている」(宮崎駿) 「根源というか・・・。生きているって何だとか、家族って何だとか、飯を食うっていうのはどういうことなのか、物を持つというのはどういうことなのかとか・・・」(宮崎駿)

 そういう根源を問う姿勢の前では、私の考える「善悪の判定」など吹き飛んでしまう。

 「私の考える判定基準」を問い、吹き飛ばされない「基準」はきっと『近くに』あります。


次回は『映画”マトリックス”で”真偽”を考える』

2 回 映画”踊る大捜査線 レインボーブリッジを封鎖せよ!”に”差別”を見る

邦画としては史上二番目となるヒットを飛ばした劇場版「踊る大捜査線THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ”」

ハリウッドや最近の韓国映画に対抗してか、最初から物々しいテロ鎮圧の演習シーン。


一昔前だったら「アメリカじゃあるまいし、こんなこと日本じゃああり得ないヨ」とマンガになるのに、最近の社会状況だと不思議に納得してしまう。それにしても主人公の織田裕二はカッコいい。軽いノリでテロ鎮圧部隊の隊長を捕虜にしてしまう。


物語は織田裕二演じる、青島刑事の所属する湾岸署。その周辺で連続殺人事件が発生。本庁からは「女性の」エリート管理官が指揮官として登場。この女性管理官、優秀な官僚のはずなのに、作戦が裏目に出てことごとく失敗。最後に「男性の」指揮官がサッソウと登場し、青島刑事との連携で事件は解決へ。途中の場面では①警察側が監視カメラを街中に秘密裏に設置。②そのことを批判する主人公。③しかし後半、そのカメラが犯人を捕らえる役に立つ。どこかの知事が喜びそうな監視カメラ網を、最後は肯定する脚本。

終盤、犯人を捕らえてみれば企業の「リストラ被害者」たち。その被害者たちのセリフ「集団、組織による犠牲者だった。個人こそ大切」の叫びは、犯罪者の言葉として否定的に観客に伝わる。この映画の観客動員数を考えると、「こんな脚本でいいのかな?」と思わず考え込んでしまう。


一つには「女性差別」。これほど露骨な女性差別映画は久しぶり。特に「管理職」の立場にある女性が制作者には気に入らないらしく、徹底的にその無能ぶりを描いている。失敗し続ける作戦に動揺する女性管理官。最後は「これがヒステリーだ!」の見本。そして彼女が自制不可能の時、カッコよく登場する「男性」指揮官。


ここでスクリーンを見ていた観客は「やっぱり(指揮をとるのは)男だ」と妙に納得してしまう。ここでウマイのは「女性だから無能」だとは描いていないこと(だから女性のリピーター客が多い)。青島刑事の同僚で、彼が好意を持つ若い女性警官。

彼女は現場で大活躍、命がけで事件を解決する。弾丸を受けながら人質を守る。これも自己犠牲で泣かせる。「女性管理者」をコテンパンに不適格者として描く一方で、「現場で活躍する女性」は優秀な設定。指揮官としての能力はないが、兵隊としては優秀と。


まるで「主婦」としての女性は優秀だが、「世帯主や管理者」としては評価されないこの国の現状そのまま。もっともそれは「真宗寺院」も同様か?女性上司を認めたくない制作者。「男の補助役や兵隊」として活躍している限り、という条件付きの優秀な女性。堂々と男社会の本音がでている。


現場の警察官として優秀な女性を描いている反面、管理職としては、いざとなると感情丸出しの女性管理職を描いている。事実は私を含め、感情丸出しで自制の効かない男性管理職は多く、冷静な女性管理職は少なくはない。果たして性によって「能力」に差があるのですか、それとも個人によるのですか。勿論、管理職を無批判に肯定するものではありません。


芸術家、音楽家がそうであるように、感情が肯定的に評価される分野があり、あるいは故本田宗一郎が管理者(経営者)でなく技術屋として尊敬されているように。

二つには「帰属差別」。 「組織に属する個人と属していない個人」、そこに優劣を暗に語る。青島刑事は最初の場面で「組織を批判する」セリフを口にする。組織より個人が大事だと。事実彼は捜査でも個人プレー。だから彼の演じる役柄は軽快・自由に見える。


ところがそんな彼が最後「犯人たち」に向かって「組織はいいもんだよ」。組織は個人より優れるというセリフを語る。あれ~?青島刑事さん、いつ心変わりしたんすか。連続殺人事件の犯人たちは組織から使い捨て。だから組織を批判的に見る集団。彼らの叫びは否定される。


強者、組織の上に立つ側に都合のよい物語展開。その他にも「エー、ホントかよ」的場面は多いが、要はこの映画の製作企業が「フジテレビ」であることで納得。男中心の・組織中心の社会(それは女性・個人軽視)。


フジ・サンケイグループの思惑がしっかり根を張っている映画。そういえば政治の世界では「辻元清美」さんが標的になっていましたね。最後にお願い。「踊る大捜査線・その3」では”まとも”な女性像を描いてネ。


次回は映画「千と千尋の神隠し」で”善悪”を考える。

1 回 『映画ターミネーター3』に”真宗”を見る

アニメ映画「蓮如物語」とは桁違いの観客動員数を誇るターミネーターシリーズ。特にその「2」の成功で待ち望まれた続編その「3」(蓮如物語のラストはまるで「わらしべ長者」。アメリカンドリーム風の蓮如上人成功物語。どこに”真宗”があったのでしょう。トホホ・・・)


 先日「3」を見る機会があり、その物語に”真宗”を見てしまいました。

 今回の物語は、青年になった未来の人類の指導者ジョン・コナー。彼を亡き者にするために未来のコンピューターシステム(スカイ・ネット)から送り込まれた悪役の女性型ターミネーター。これに対して未来の人類から彼を護るために送り込まれた善役ターミネーター。2台のターミネーターが戦い、ジョンと彼の将来の連れ合いになる女性を善役のターミネーターが護る。まあ基本的にはオキマリの筋ですが・・・。


 筋の基本はお馴染みでも、今回の「3」では最後の場面が今までとは異なり「ハッピーエンド」で終わっていないこと。メデタシ、メデタシ、でなく数多くの「核を搭載したミサイル」が地上に降り注ぐ場面で終わるというショッキングな展開。


 善役で最強のターミネーター・シュワちゃんがついていながら何故ハッピーエンドにならなかったのか。

 それは最後に明らかになるが、そもそも未来の人類の指導者、ジョン。彼は強靭な肉体の持ち主でも、頭脳明晰でもないばかりか、オートバイでは転倒し、拳銃はオモチャを使っている始末。未来の連れ合いの女性からは「犬のオリ」に閉じ込められる。いわゆる二枚目でもなく、とても映画のヒーローらしからぬ人物。見ている私が「こんなんが人類の指導者なの?」と思ってしまう。

 ごく普通の青年。カラテ、ジュウドウ、アイキドウ、囲碁、将棋、ゼロ段。まさに頼りない設定。ここが良い。

 何しろジョン自身が本当に自分が指導者になるのか不審を公言する。ましてや女性も同調するどころか、最初は彼を「麻薬中毒のイカレポンチ」と思っている。


 その彼女もハリウッド的美人でもカワイコちゃんでもない。そこも良い。まさに普通の二人が人類の指導者に「なるべき状態、環境」に追い込まれる。

「歎異抄」の「さるべき業縁のもよおし」の通り、最後の一連の場面から二人が「指導者という状況に立たざるを得ない」事を観客は理解する。

 絶望の中で二人が手を握り合うカット。素晴らしい!この場面を見せたいがために映画を作ったのか、と思わせる感動のシーン。

 次々と核ミサイルが降り注ぐ中、絶望のただ中にある人類l。その中でアップされる二人の手。この握り合う手に”希望”を表現した製作者。人類終末の環境を受け止めて、そこから未来を切り開こうとする強靭な意志を表現。

 

また途中の場面では、ターミネーター・シュワちゃん自身が護るべきジョンを、反対に抹殺すべくソフトを書き換えられて行動。二者択一で動揺する場面。悩めるシュワちゃん。その憤りを車を叩き壊すことで晴らし、最後は自身の動きを停止。ジョンを護るべきか、抹殺すべきか、人間と同じく悩み、苦しむ場面。

 護る使命と殺害の指示。相反する悩みは私たちの日常でも多い。

 もとより製作者はターミネーターに”真宗”を表現させているわけではありません。ただ日常的に「思いどおりに」行かない生活、「思いを超えて」生かされている事実。我が思いをはるかに超えたところにある生きざま。それは充分表現しています。

 「さるべき業縁のもよおし」を現代風に言えば「状態・状況とか環境・立場」でしょうか。思い悩んでいる”あなた”、その悩みは永久には続きません。ただ一点悩みの元を「他者のせい」にしている限りは保証の限りではありませんが。

 悩むこと、苦しむこと、それは”あなただけ”に課せられた特別な問題ではありません。ジョンと同じく”フツー”の私たちには、それ相当の”思い悩み”はあるのです。ごく普通に生活していれば当然起きてくる「摩擦熱」のようなものです。本気で相手と交わり、生活すればするほど、摩擦熱は熱くなり、煙が立ち、そして火を吹くでしょう。 そのような状況に立たされれば誰にでも摩擦は起こるのです。 その熱や火が”わたしの思い”を見つめ直すことを催促しているのではありませんか。


 「ハッピーエンド」や「メデタシ、メデタシ」で終わるべき人生など存在するのでしょうか。そもそも何をもってメデタイとか幸福とかを定義するのでしょうか。

 ひょっとすると、それって”欲が満たされる”ことですか。さあどうでしょう。

 「私や俺」を探しに「光善寺同朋会」に来て見ませんか。お待ちしてます。


次回は「映画”踊る大捜査線レインボーブリッジを封鎖せよ!”に”差別”を見る」