2004年

前住職が往く

ウィーン・ハンガリー・ルーマニア

一人旅

プラハ・ブダペスト・ルーマニア

旅程表

①09/04(日) 午後・燕三条発⇒上野⇒成田⇒スカイコート成田(泊)

②09/05(月) 成田発⇒ウィーン⇒プラハ(泊)宿泊予定/ホテル・アクサ

③09/06(火) プラハ⇒ブダペスト切符購入 宿泊予定/同上

④09/07(水) プラハ発⇒ブダペスト着 ブダペスト⇒シビウ切符購入 宿泊予定/同上

④09/08(木) ブダペスト発⇒シビウ着 宿泊予定/同上

⑤09/09(金) 宿泊予定/同上

⑥09/10(土) 宿泊予定/同上

⑦09/11(日) 宿泊予定/同上

⑧09/12(月) 宿泊予定/同上

⑨09/13(火) ⇒ブカレスト着

⑩09/14(水)

⑪09/15(木)

⑫09/16(金)

⑬09/17(土)

⑭09/18(日)

⑮09/19(月) ブカレスト発⇒ウィーン⇒成田(機中泊)

⑯09/20(火) 成田発⇒燕三条⇒自宅

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(1)準備のために

 外国旅行の一人旅はある程度の準備が大切である。

その要件を自分なりに整理して見た。これはほとんど外国語・英語が話せない、還暦過ぎのものが一人旅を経験してみていうことだから、だれでもというわけではない。語学、特に英語を話せる人はこの埒外にある。


 先ず第1は健康であること。

当たり前のことであるが、本当に一人旅には欠かせない要件である。


 第2は荷物を少なくすること。

中または小のリュックを一個、サイドバック一個、ウエスト・ポーチ一個くらいに止め、全体の重量を8kgを超えない、できれば6kgまでに抑えることができればベストである。  このことは一人旅においては大変重要である。夏場の旅であれば、地域にもよるが、大概のものは現地で手に入れることができるから、持ち物は必要最小限にとどめる。


 第3は旅程は出国日、帰国日のほかは大まかな旅程にすること。

ただし、一泊目と最終日のホテルは予約した方がよい。一泊目は到着時間が遅れた場合真夜中にホテルを探さないために、最終日は確実に宿泊できるために。後は、だいたいの企画にしておいて、気に入ったら長逗留、いやだったら通過、それが一人旅の醍醐味。


 第4にお金は、カードとキャッシュ。

カードはデポジット用、もちろん使える。キャッシュは100ドル札よりは50ドル札が、100ユーロ札よりは50ユーロ札が、よい。特にヨーロッパなら迷わず、50ユーロ札に、使い勝手がよい。


 第5に保険、普通の標準もので充分だが、加入した方がいい。


 第6に、英和・和英の入った計算機付き辞書、旅行案内・地図・時刻表等は必要なところを切り取って自作。そして5カ国または6カ国対応の旅行会話集。挨拶くらいは少し練習した方がいい。


 第7に、服装等は夏場なら洗濯する気でできるだけ少なく、あとは現地調達。うえに羽織るものと襟付きシャツがあるとよい。ズボンはジーンズと綿パン各1。綿パンをプレスをし、襟付きシャツにネクタイをすれば、ドレスコードのあるレストランもOK.


 第8に靴、できればちょっとよい革製の全天候型のウォーキング・シューズを充分履き慣らす。もし新たに購入するなら、出発の3ヶ月前。それと軽いビーチサンダル。飛行機・ホテル内でのスリッパにもなり、いろいろ便利。ヨーロッパなら、ビザなしで(パスポートのみで)入国できる。入国審査ではサイトシーイング(観光)・トゥーウィーク(2週間)のみを答えていればよい。


さあ、あとは航空券(基本的には往復)を用意して出発です。

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(2)東ヨーロッパへの玄関口・ウィーン

 法事を済ますと、リュックを背負って燕三条駅から成田へ向かったのは、9月5日(日)の午後であった。

 成田泊のホテル・スカイコート成田はバッグ・パッカーや職人達の宿泊が多い、安宿である。韓国・中国・フィリピン人の若者が多く、500円の夕食もカレーかエスニックであるが、外国の安宿を泊まり歩くものにとって、個室が確保され、風呂とトイレがあれば、充分である。ハヤシライスが盛られた皿にバイキングのようにいろんなものを取ってまわり、別料金のビールをたのんで、相席をする。

もはや外国である。

 飛行機は途中停車もせず、12時間ほどでウィーン国際空港に着陸。

4時間、4時間、計8時間の睡眠で気力充実、食事もワインも充分いただいてのウィーン到着である。我ながらよく眠れると思うのだが、機内の充分な睡眠は外国旅行、特に一人旅には欠かせない資質なのだ。時差ボケがなく、気力体力があるという第1日目は全行程を左右するといっても良い。

 ウェストバーンホーフ(西駅)行リムジンバスの前には行列ができている。

西駅でレールパスのバリデーションをし、予約窓口でブダペスト行きの座席予約をし、インフォメーションで市街地図・観光案内を、自動販売機で市内交通の24時間乗車券を手に入れて、メトロM6で中心地からはだいぶ離れた、場末のホテルを探さねばならない。

思ったよりいいホテルである。日本で予約したときは、サイトにでている最低値(8,000円)だったので、もっとまずいかと考えていたが、日本の中級の上のシティ・ホテル並である。中心街には市電を乗り継いで20分、【ホテル・トゥリンガー・ホーフ】(旅人の宿)は僕にとっては,上々のホテルである。英語も通じる。

 夕食はウィーン大学の近くをちょっと行った【シューベルト・シュトラーベン】、だいたい一人は敬遠されるのだが、割合時間が早かったこともあって問題なし。

ウィーンはハプスブルク王朝の都宮で、中世ヨーロッパの中心都市であった。フランスのパリ・イタリアのローマとともに、華やかな文化・音楽の都でもある。

また、東ヨーロッパの国々を旅しようとするとき、西ヨーロッパといわれる国々の中で、もっとも東に位置して、チェコのプラハよりも東にあって、東ヨーロッパへの最適な経由地である。 

 そして、東ヨーロッパの国々のほぼ全域は、かつて、ハプスブルク家の支配下にあったか、強い影響下にあったかのどちらかである。そのような意味で東ヨーロッパの国々を旅するとき、ここウィーンを経由地、玄関口にすることは大いに意味のあることである。

ここウィーンで、2、3日過ごし、100年ほど前までのヨーロッパの雰囲気を感じ取ってから目的の国なり、地方なりに入ることは、その地方や国の文化や伝統を理解する上で、役に立つことである。実際、東欧の国々を歩けば、農村でも都市でもその影響を感じ取ることが出来よう。それが、ウィーンへいったものも、ウィーンから来たものも。

 ウィーンはそういう意味では、その影響下にあった国々から多くのものを取り込んで成り立っているものでもある。

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(3)ウィーンでの食事

 オーストリア料理はないのだと言われている。

あるのはウィーン料理であって、それもハプスブルク家の影響下の各国からの寄せ集め料理だといわれている。

しかし、おいしいものを寄せ集めたのだから、それなりにおいしいことは間違いない。


朝食はホテルのものを食べるので、昼食1回・夕食2回である。

到着日の夕食は「シューベルト・シュトラーベン」(シューベルトが食事に行った店という意味)、多分、ガストハウスという種類の食堂、レストランとほぼ同格なのだろう。


 ウィーン大学からほど近い、静かな雰囲気の良い店である。こういう店は本来ひとりは

あまりよい顔はされないのであるが、時間が早い(午後7時)のと月曜日ということもあって、敬遠されずに、案外良い席へ通される。


「グーテン・アーベント(こんばんは)」(グリス・ゴット〈こんにちはの慣用〉でもよい。ただし、オーストリアのみ)、このくらいは言える。「デイー・シュバイゼカルテ・ビッテ〈メニューを見せてください〉」メニューは読めない。ドイツ語が読めないばかりではない、その花文字が読めないのだ。


 前菜に生ハム〈ローシンケン〉、スープにレバークネーデルズッペ〈レバーの挽肉団子スープ〉、メーンにアントルコート〈牛の肋肉のステーキ〉、サラダはミッシュザラート〈ミックスサラダ〉、とここまではよいのである。次にワインをたのむ。何か言っているのだが、通じない。

 「ロートヴァイン(赤ワイン)」とは言ったのだが、どうも等級と甘口・辛口を聞いているのだろうと思って、普通品「ターフェルヴァイン」・辛口「トロッケン」といっても、まだ、何か言っている。そのうち、あきれてだろうが、実物を持ってきた。ハーフボトルと普通ボトルである。もちろん、大酒のみの私はボトルを注文するとあきれた顔をされた。


 イタリアの時も感じたのであるが、食事にかける時間が短いのだ。ともかく早食いである。30~40分で終わるのだ。ひとりということもあるが、1時間以上かけるには本か雑誌を持ち込まなければ間が持てない。だから、いつも地図とメモで次の計画を立てながらの食事である。


 第2日目の昼食は「ローゼンベルガー(カフェ)」地下のセルサービスレストラン「マルクト」でソーセージに温野菜の付け合わせ・トマトと野菜のサラダ・ビール・パンである。ウィークデイの遅めのセルフレストランは本当に空いていていいものである。

 第2日目の夕食にして、ウィーン最後の晩餐?はシュテファン寺院から北へ5~6分、

時計博物館の裏通り、わかりにくい分、静かな場所にある「オーフィンロッホ」で、前菜は生ハムとメロン・スープは野菜スープ(ゲミューゼズッペ)・メインはカルプスリュケンステーク(子牛の背肉のステーキ)・サラダはトマト・飲み物はちょっとだけ高級な赤ワイン(カビネッヴァイン4~5年物)。庭のオープンスペースでキャンドルライトの下での食事、こういう時は一人旅はいただけない。一人黙して、しかしできるだけゆっくりワインを空ける。


 僕は単なる旅人、セルフレストランが似合いなのだが、レストランはどうしても会話が必要な場所、つたない英語とドイツ語で注文し、ウェーターのお愛想を聞くのがなんとも楽しいのである。

人は会話して人として成り立つのだと知らされる。

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(4)ウィーンの街とパフォーマンス

 ウィーンはリンクの中にある。

 かつては城壁だったところを、広い道路になおして、旧市街を一周できる。

ウィーンの見所の8割はこのリンク内にある。リンク以外は道幅もせまいが、歩行者天国も多いので苦にはならない。


 第1夜目夕食後、シュテファン寺院前広場の街灯に綱を張っての綱渡り、綱上でのバトン・ダンスとバトン・リボンを使った空中転回劇、ひとり、ふたり、さんにん、最後は5人の人間階段、最上階で投げ挙げられた5本のバトンが崩れたときには、各人バトンを手にしている。約40分のパフォーマンス、空き缶と帽子をもって投げ銭をねだるのだが、チームの7人で投げられるコインをことごとく受け止めるのに、また驚く。


〈カフェ・ケーキ〉

 ウィーンの街は観光客だらけであるが、案外落ち着いてゆっくりしているのは、カフェとケーキのせいではあるまいか。それこそ至る所に、カフェがあって、女性のあこがれの都ということもあってか、ケーキのおいしいところでもある。


 ウィーンではメランジェとエスプレッソが似合う。それもグローサー(大カップ)で。ケーキは選り取り見どりである。僕は家ではお菓子は食べないのだが、旅の途中では案外食べられるのである。疲れが癒される。

 さあ、これから歩き出そうというときは、エスプレッソがよい。歩き疲れたらメランジェをグローサーでゆっくりの飲むのがよい。


〈ワインケラー〉

 だいたい地下にあることが多い。ケラーが地下という意味だからかもしれないが、もちろん地上にもある。食事も出来る。市庁舎地下のラートハウスケラーはレストランとしても一流なのだろうが、お値段の方も一流らしい。

 ここもひとりは敬遠されるだろうとおもっていたが、そんなことはなく、相席でという。結構一人で来ているひともいる。


 僕の相席の人はたまたまイタリア人で、ミラノからのビジネスマンで、昨年僕がローマ・フィレンツェ・ナポリを一人旅したとたどたどしいイタリア語でいうと、機関銃のごときイタリア語で陽気におしゃべり。

 僕も単語のイタリア語・英語・ドイツ語・ルーマニア語をチャンポンにしながら、お相手をする。ルーマニア語は何となく解るらしい。楽しく夜は更ける。


 心臓語学でも、語り合えるということはいいもんだ。


〈街めぐり〉

 朝、シェーンブルン宮殿へ、ホテルのあるアルザー駅からU6の地下鉄、といっても高架を走る、に乗って六つ目の駅(ラーンゲンフェルトガッセ)でU4に乗り換え、二つ目のシェーンブルン駅下車、ドイツ語のアナウンスが聞き取りにくいので、停車駅を数える。電車の中で話しかけられると数え間違いをするのではないかとヒヤヒヤである。


 ハプスブルグ家の栄華を語るシェーンブルン宮殿は、かの女帝マリア・テレジアと後にルイ王朝に嫁ぐマリー・アントワネットの夏の宮殿でもある。

 ここの宮殿は入場料が8~36ユーロと幅があり、すべてを見るには1日がかりであろう。僕は一番安い8ユーロコースと外周を回る馬車(一人5ユーロ)観光、馬車は御者脇に、ここはステップがないので車輪に足をかけて乗り込む。馬はよい。


 次に、電車・市電を乗り継いで、ベルヴェデーレ宮殿へ。上宮のオーストリア・ギャラリーから下宮の中世とバロック美術館へ。

 徒歩でナッシュマルクト(市場)へ、市場はその国へ行くと必ずのぞくところ、それぞれのお国柄が垣間見られる。豆腐があったのには驚いた。ナッシュの名に恥じない、食い道楽の市場である。焼きソーセージを立ち食いする。


 昼食を挟んで、オペラ座から歩き始める。ケルントナー通りをシュテファン寺院へ、

グラーベン・コールマルクトと観光客通りを歩いて、王宮へ。王宮は宝物館と国立図書館プルンクザールをみて、後は飛ばす。

 美術史博物館はいくらいてもこれでよいということはないが、時間がなくて駆け足。

 そこから、国会議事堂・市庁舎・ウィーン大学と歩いて、ショッテントーアからまた

リンクのなかへ入って、ショッテン教会・アム・ホーフ教会の脇をすり抜けて、旧市庁舎からルプレヒト教会へ。ウィーンは、見どころ歩きどころは沢山あるが、限られた時間の中では妥協もまた「可なり」である。


 夕暮れて、午後7時を過ぎ、夕食のオーフェンロッホへ向かう。

街歩きは本来あまりコースや目的を持たずに、足の向くまま気の向くままに歩くのが最も良いのだが、外国では土地勘がないせいと、時間の制約があって、どうしても地図に頼って、人間の五感に依らない。目と耳と方向感覚が嗅覚化するとき、楽しさも倍加する。


ウィーンの街歩きは、ヨーロッパ第2日目の足慣らしには丁度良い。

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(5)ウィーンからブダペストへ

早朝、食事もとらずにホテル・トゥーリンガー・ホーフをチェックアウトして、南駅へ向かう。朝食は南駅で取るつもり。7:20発・8:28着シェプロン行き。


6:30の南駅は、まだ閑散としている。

パンと牛乳・ハムを買って、待合室で食べる。カフェは7:00に開いたので、一番に買う。

立ったまま飲む。大急ぎでプラット・ホームへ、すでに列車は発車態勢。滑り込みセーフである。


 特に発車の合図もなく、動き出す。向かい合わせのイス席はゆったりしているうえ、がら空き状態なので、4席を占領して朝食の残りを食べる。食べ始めたら、オーストリアの出国審査、その後ろからハンガリーの入国審査、いずれもパスポートにスタンプを押して終わり、質問もない。


 あっけにとられている目の前に、今度は検札。記入済みのパスにサインを入れる。

ヴァリデート(使用開始手続き)した切符には、乗車前に自分で日付を記入する。僕のユーレールパスはフレキェシュタイプなので、乗車日毎に記入しなければならない。


 これで、オーストリア・ハンガリー・ルーマニアの鉄道は6日間乗り放題である。1等車用だからだいたいの列車は予約なしでも乗れる。ただし、ルーマニアの鉄道だけは座席券がいるようだ。


 〈シェプロン旅情〉

 シェプロンはオスマン・トルコ軍の破壊を免れた、数少ない中世都市である。

 駅から旧市街までの約500メートルはすがすがしくて、歩くのには丁度良い。

 9月8日というのは、中央ヨーロッパの国々では確実に秋が始まっているのだ。差し渡し1キロにも満たない旧市街はゴシックやバロックの歴史的建造物が詰まった美しい街並みである。


 この街はきっと夕暮れが似合うのではないか。この街は通りすがりの旅ではなく、4~5日滞在して、ぼんやりさまようと良いのだろう。

僕のように滞在2時間ではほんのかすかな旅情を楽しむだけである。

 陽光がまぶしい分だけ、一人旅だという実感が迫ってくる。30分ほどでぐるりと回れる旧市街を囲むように残る城壁は、中世ヨーロッパが浮かび上がってくる幻想にとらわれる。 

チャンスを見つけて再訪したい街である。

 後ろ髪引かれる思いで、ブダペスト行きの列車(10:20発)へ。13:33ブダペスト着。


意識を切り替えてホテル探しである。

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ 一人旅

(6)ブダペスト・王宮を歩く

ブダペストは1泊のみである。あとはルーマニアの田舎めぐりを予定している。観光は王宮と街歩きのみに的を絞る。


 東駅で両替、ルーマニアのレイは200ドル分ほどを持っているので、当座の心配はないが、ハンガリーのフォリントはここで両替しないと動けない。


 先ず明日のICの座席券を求め、途中からは普通列車でルーマニアのオラデアから入国するつもりである。


 市内交通の切符は共通なので1日券を800フォリントで求め、インフォメーションでホテルを紹介してもらう。手数料込みで45ドル。ただし、ドルでの前払い。

 東駅から徒歩でも10分位。明日の朝の出発時間を考えれば寝泊まりできればよいということで決める。


 地下鉄1駅のところにあるホテル・Emke(エムケ)は予想に反してバス付きの部屋で、すぐチェックイン。荷物を置いて、王宮へ向かう。地下鉄M2でモスクワ広場へ、ここでバスに乗り換えるのだが、バス乗り場が見つからない。

 よほど歩こうかと思ったが、意を決して、慣れないハンガリー語で聞く。「メイク・ブス・メジ・ア・ヴァール」(城行きバスはどれですか)。にっこり笑って、その男性は、流暢な英語で、広場の反対側を指さす。「クスヌム・セーペン」(ありがとうございます)。何のことはない、反対側のバス乗り場を探し回っていたのだ。


 マーチャーシュ教会・三位一体の像・聖イシュトヴァーン像・漁夫の砦と回って、カフェでハムとサンドイッチにビールを傾けながら、ブダペストの街並を見下ろしつつ、日本の友人5~6人に宛てて絵はがきを書く。この城内の郵便局から投函。


 歩いて城山を下り、くさり橋を渡り、繁華街ヴァーツイ通りで繪を冷やかし、デアーク広場へ出て、ホテルへ戻る。もう5時半を回っている。ゆっくり風呂を使って、休憩を取ると夕食へ出かける。


 今度は市電を使って、レストランへ。一人旅は食事も体力・気力がいる。まず、挨拶をして、ウェーターに席に案内してもらい、慣れない言葉(英語であれ、ハンガリー語であれ)で、飲み物、スープ・メーン・サラダ位は頼むのだ。このやり取りは楽しいが体力も気力もいる。


 食前酒はハンガリーの国民酒パーリンカ100ミリ・前菜はこれもこの国ならではのフォアグラ(リバマーイという)・スープは夏限定の冷たい果物のスープ(ヒデグ・ジュムルチ・レヴェシュという)・メーンはこれもハンガリーの代表料理グヤーシュ(肉の煮込み料理)・サラダ(シャラーターク)はハム(シュンカ)と野菜(ヴェジェシュ)・これにハーフボトルのワインを飲み且つ食うのだから、これも体力・気力がいる。


 そして、ウェーターの顔を覚えて置いて、勘定を払う。計算間違いがないか、酔っぱらった頭で計算して、そのうえチップも渡す。これも体力・気力の内。


誰に頼ることもできない。みんな一人でしなければならない。

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(7)ルーマニアへ向かう

5:05、チェックアウト、朝食用弁当(ハムと肉のサンドイッチ2個・梨2個・ジュース1本)が用意されている。徒歩で東駅へ。

駅の売店とカフェはこんな早朝でもすでに開いている。

ミネラルウオーターを買い、コーヒーを飲む。ただ、両替は開いていないので、ドルやレイへの再両替はできない。次回まで保管するか、オラデアで再両替するかである。

ともかくまだ、ハンガリーである、あせることはない。


 6:05、デブレツェン経由ウクライナ行きは定刻通り発車。1等6人掛けのコンパートメントは夫婦らしい2人と女性2人と僕の5人、結構混んでいる。


 「ヨー・レッゲルトゥ・キヴァーノク(Good morning)」の挨拶をして、進行方向に向かう窓際の一番よい席に着く。約2時間で乗換駅パスパークラダーニ(たぶんこう読むのだろう)に着く。

ヨーロッパ人は陽気である。前の30歳代?(年齢を読みとるのは難しい)の女性が早速話しかけるが、よく解らない。

 僕・「ネム・ベセーレク・マジャルル(I don't speak Hungarian)」

 女性・「ヤーパン?」

 僕・(ダーと言いそうになって)「イゲン(はい)」

 女性「ベセール・アンゴルル?(Do you speak English?」

 僕「ア・リトル(ほんの少しだけ)」

あとは手振り身振りを交えて、僕の拙い英語・彼女の流暢な英語、言葉に詰まり、指さしハンガリー会話集を持ち出して応戦しながら、あっという間の2時間。無事乗り換え。


ふう!


 各駅停車の普通車に乗り換え、遅くなった朝食を取る。

車窓は、ず~っとトウモロコシ畑、本当に広い平原である。「走っても走ってもトウモロコシ畑」である。


 約1時間走って、国境駅。最初にパスポートを集めて、出国審査、終わるとパスポートを返して、つぎに検札、しばらくあって動き出す。

いよいよルーマニア。時計を1時間進める。


 オラデア駅1キロ少し手前、入国審査、パスポートを集めながら質問、「サイトシーイング・トゥーウィーク。(観光・2週間滞在)」、次に税関検査。

「ドゥ・ユウ・ハブ・ダ・ピストル」もちろんユーモア。「アイ・ドゥ・ライク・パリンカ」オラデアはパリンカ酒の特産地である。検査官と握手。そしてそれを聞いていた入国審査官はパスポートを渡しながら、「オオー、ジャパニーズ」と握手。


陽気なラテンの国へようこそ!

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(8)オラデアからシゲット・マルマツィエイへバスに乗って

 オラデア駅でフォリントをレイに再両替して、気が変わって、バスでシゲットヘ向かうことにする。


 このままICを乗り継いでオラデア⇒クルージ・ナポカ⇒バイア・マーレと行っても、バイア・マーレ着は18:50分、シゲットへ行く便はないので、バイア・マーレ泊まりになる。それなら少し遅く着いても、今日中にシゲットに入ろうということである。こんなむちゃくちゃな変更は一人旅で予約を入れてないからできる。吉とでるか凶とでるか、まあ、行ってみよう。


 駅からトラムヴァイ(市電)に乗って中心街まで行き、まずは腹ごしらえ。カーサ・ユーリアの中庭のテラス席でセットメニュー(メヌー・コンプレート)を頼む。

 「マサ・アチェアスタ・エステ・リベラ?(この席にすわってもいいですか)」

 「ダーツィ・ミ・メヌー・コンプレート・ク・ウルスス、ヴァローグ(定食とウルススと いう銘柄のビールをください、お願いします。)」

表の看板には定食65,000レイ(約200円)とでている。3回目のルーマニア行、語彙は少ないが、簡単な会話ならスムーズに出る。

定食はチョルバ・デ・レグメ(野菜スープ)、ミエール、サラタ・デ・ビネテ(茄子のサラダ)とプイネ(パン)、おいしいのである。


 統一広場(ピアタ・ウニリ)からバスでアウト・ガーラ(バスの駅)へ。

 バスは14:30出発、約5時間30分の旅、運賃は150,000レイ(約500円)、

運転手から買う。

バスはハンガリーの国境沿いを北上し、そしてウクライナ国境沿いを西

行する。少し高いところを走るとハンガリーのトウモロコシ畑がはるか彼方まで見える。


 段々、乗客が混み合ってきて、隣の座席に置いたリュックを膝の上にのせる。バスは少し丘を登って、3時間の走行でサツ・マーレに着く。小さなガーラ(バスターミナル)で小休止。午後5時半を回っている。トイレを使って、少しパリンカ酒(50ミリ)を飲む。夕方になって寒いので(多分、気温20度くらい)、体を温めて、トイレ予防をする。

 サツ・マーレで乗り降り交差したが、あとは時間とともに乗客は減るのみ。

6時半、もう日は暮れかかってきた。

突然バスが止まって、運転手が降りる。何事かと見ると、道端で、パプリカ・ビネテ(茄子)・ペペネロッシュ(西瓜)などの野菜を売っているのだ。運転手や乗客が買い込んでいる。

僕はこのチャンスに道の陰で小便をたす。


 陽がとっぷり暮れた午後8時を回ったところで、バスはシゲット・マルマツィエイの自由広場前に到着、運転手が僕に降りろという。

「ホテル・テイサ」といっている。この次は終点シゲット・マルマツィエイ駅前のはず。明かりのない、ほとんど薄暗がりのシゲットの市街中央。ネオンもないが、かすかにホテルの文字が見える。

重いドアを開けると、やっぱり薄暗いカウンターがある。

「アヴェツィ・リベラ・カメラ、オ・ノアプテ(1泊です。空き部屋はありますか)」

「ダー、チンチスプレゼェチェ(ありますよ、15ドルです。)」

あとは、パスポートを控えてもらえばよい。キイをもらって、部屋へ。シャワー・トイレで風呂はないが、シャワーを浴びて、ホテルのレストランへ。


ともかくも、今夜の宿にはありつくことができたわけである。

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(9)食事シゲットマルマツィエイホテルテイサ

 午後10時過ぎのホテルのレストランは、僕一人である。

テーブルが30脚ほどの広さに、ここだけは煌々と明るく、シャンデリアとテーブル・ライトがある。

 「ブーナ・セアラ(こんばんは)、デ・ラ・チェ・マーサ(食事ができますか)」

 「アシュ・ヴァリャー・パリンカ・オスタ、チョルバ・デ・ブルタ・ク・アルデイ・ク・スムンテーナ、ミエール・ラ・クプトール、サラタ・デ・アルディ、スィ・ヴェーネェ.

(パリンカ酒100ミリ・チョルバ・仔羊肉・パプリカのサラダとワインをください)」

 「デシーグル・ク・プラチェーレ、アシュテプターツィ・プツィーン.

 (かしこまりました。少々お待ちください)」


かくして、遅い夕食にありつくことになった。

ルーマニアでは羊肉がおいしい。日本ではほとんど食べたことがない。

ルーマニアでは羊にかぎらず、牛、馬、豚、鳥(含む野鳥)と肉はなんでもおいしい。

肉だけではなく、野菜もパンも穀物も芋類もおいしいのである。もちろん、僕がこよなく愛するルーマニア産の酒(ブランデーの一種)、ツィカ、パリンカがおいしいことは、論をまたないのであるが、食べ物全体がおいしいように思われる。


 先ず、食前酒のパリンカを一口、スムンテーナ(生クリーム)をたっぷり入れたチョルバ(スープ)を一口、チョルバには青い生のとうがらし(これもアルディという)が付いてくる。これも小さく一口、辛い。大急ぎでチョルバをもう一口。またパリンカを。


 チョルバとパリンカがなくなった頃、ミェール(羊肉)とサラダがくる。ワインを一口飲んで、肉を。アルディのサラダは、唐辛子形の大きいパプリカを煮て、酢漬けにしたようなものだが、甘さと酢と大唐辛子の食感がなんとよい。これもワインに合う。


 パンはプイネというが、基本的には食べ放題である。フランスパンに似た食感で、少しざらついた感じだが、いくらでもいただける。


 パリンカ100ミリとハーフボトルのワインを飲みあげ、大ぶりの骨付き羊肉と小さめのどんぶりくらいのチョルバ(牛の臓物入りスープ)とサラダを終わると程良く酔いが回り、午後11時もとうに過ぎている。

 「フォルテ・ブーナ、ノータ・デ・プラータ・ヴァローグ、

  (大変おいしかった、勘定をお願いします。)」


 「ノアプテ・ブーナ(おやすみなさい)」 

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(10)木の文化・マラムレシュ

 シゲット・マルマツィエイの街にいるとほとんど解らないのだが、マラムレシュ地方は羊と木に支えられた文化である。街から少し離れると濃い緑と羊と共なる生活にふれることができる。


 シゲット・マルマツィエイの街から西へ20kmほど、観光名所、サプンツァ村の「陽気な墓」がある。1935年村人イオン・スタン・パトラシュ氏が、故人の生前の職業や生活を、ユーモラスに彫刻し色彩を施した墓標を作ったのが始まりである。絵を見るだけで、羊飼い、先生、料理の上手なおばさん、猟師、バスの運転手など個人の生活が見て取れる。

 これらのお墓は土台はコンクリートや石だが、墓標は木である。


 民家の家屋も平垣も門も教会も、建築物はほとんどが木造である。だから、われわれにとっては何かほっとする安心感がある。しかも、この門や玄関の扉になかなか手の込んだ彫刻が施されている。

この彫刻が最もすばらしいのは、木造教会だろう。これも築400年物から現在進行形まで見ることができる。そして、これを作る大工や彫刻職人はなかなかの芸術家然として高いプライドを持っている。


 一般家屋でも、門や玄関扉、その両脇の回廊の柱に施された見事な彫刻は、そのままその家の家格を示してあまりある。

 そして厩と馬、羊の畜舎と干し草の納屋、プルーン・リンゴ・ルクチェの木、馬は農作業に、羊はミルク・チーズ・肉・皮製品・織物などに、プルーン・リンゴ・梨などは果物として・またブランデー酒に、木のスプーン・皿・鉢・桶・樽などに。


 つまり、木と羊と馬はマラムレシュの自給自足文化を支える根幹をなすようだ。

 夏場は村に羊の数は少ない。羊飼いが山の草場へ300頭・500頭と連れて行って、チーズ作りに専念している。それでも時折、100~200頭の羊を2人くらいの羊飼いが移動させている光景を見ることがある。陽気で気位高い羊飼いは、重労働ではあるが、プロフェッショナルである。


 シゲット・マルマツィエイの街から40kmほどはなれたボクダン・ヴォーダ村のはずれのペンションに泊まると羊や馬に接することができるし、少しだけれども、マラムレシュ地方の村の生活を垣間見ることができる。馬好きの僕にとって、馬車を貸してもらって(とは言っても馬主ごと拝借するのではあるが)、その馬車で村道を走るのは何とも言えない。日本ではすでになくなって久しい、農村の生活である。

 マラムレシュ地方はフランス語を話す人々はいくらかいるが、ホテルでも英語はほとんど通じない。

だから、ルーマニア語の字引を引き引き、会話集の手助けも借りながら、げつばた話す。たぶん、幼児語に近いのだろうが、一生懸命聞いてくれる。

ただ、間に馬がいるので、馬主とはお互い通じるものがある。

言葉は幼児語なのだが、馬のあつかいは世界共通なので、走らせるルールを教えてもらえれば、村道でも牧場でもオーケーだ。

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(11)ルーマニア・トイレ愚考

 これはヨーロッパの国々を旅していていつでも感じることであるが、トイレの数が少ない。

列車でも駅でも、ましてや街中の公衆トイレおやである。数は日本に比べて本当に少ない。

欧米人は本当にトイレの使用回数が少ないのではなかろうか。だから、例えば各車両のトイレがひとつ、または無しでも足りるのだろう。


 シゲット・マルマツィエイで1日行を共にしたタクシーの運転手は約8時間の間に1回しかトイレを使わなかった。

その間僕は3回ごやっかいになった。日本人は日中普通に動いていたら、3時間に1回は普通であろう。

この9月初旬のマラムレシュ地方の気候は、新潟県の10月半ばの気候で、朝は特に寒く、タクシーは暖房を入れている。 そんな時でもタクシーの運転手は勤務中1~2回の用足しで持つのかと思う。


 そのように考えてみると、日本人との比較の上で、トイレの使用回数は極端に少ない。

 日本人観光客を専門に扱う旅行業者、ツーリストの間では、旅程を立てるとき、2時間以内に1回の割合でトイレ休憩を取るような計画でなければならないと言われている。

特に、観光バスの場合、ヨーロッパの都市は観光バス向きには作られていないし、駐車場も限られ、そこにトイレがない場合すらある。


トイレ愚考第1の疑問

 日本人と欧米人とではどうしてかくもトイレ使用回数が違うのだろう。

飲んだり食べたりの回数や量はそんなに違わない、というより一般的に欧米人の方が多い。僕の考えでは、多分気候に関係があるのではなかろうか。


 湿潤な日本の気候とは異なって、ヨーロッパのほとんどの気候は乾燥した気候である。

この気候が長い間にトイレ使用回数にまで及んだのではあるまいか。乾燥しているから、常に水を飲んでも体表面から発汗し、しかも汗としてのこらない。

だからと言うわけではないだろうが、ヨーロッパのミネラルウォーターはガス入りが普通である。飲み慣れればこの方がおいしのである。

 そこへゆくと日本は湿潤である。だから汗をかきやすいうえに、体表面に汗そのものがのこる。

ということは、基本的に汗が発散しにくい環境にある。それで長い間にその気候に適応して日本人は汗ではなく、尿としての体外排泄量が多くなったのではあるまいか。

まあ、愚考であるから、証明の必要もないのであるが、人間構造学として、どなたか研究してくださると、欧米人と日本人の違いが公衆トイレ文化・行動文化学として明らかにされるかもしれない。



トイレ愚考第2の疑問

 ヨーロッパのトイレは特別の場合を除いてほとんど有料である。無料な美術館・博物館ははじめに入場料を支払っている。駅や役所などの公共の場所でもほとんど有料で、日本円に換算すると10~100円位する。大都市は高く、地方は安い。高いからといって、きれいで使いやすいとは限らない。もし、きれいで、無料のトイレを使いたければ、マクドナルド(最近はヨーロッパのどの街にもある)へ行けばよい。買い物をしなくても使わせてもらえる。これはアメリカ文化とヨーロッパ文化の違いなのかもしれない。


 なぜ有料なのだろうか。

 例えば、1回100円でも、管理・設置・処理を考えれば、料金で成り立つはずはない。

無人化のものもあるが、「おばさん」がいて料金を取り、清掃をする。多分この人件費にもならない。

日本人に比べて圧倒的に使用数が少ないのだから。


 トイレに関しては、日本の公衆トイレは欧米のどの国よりもきれいで、数も多く、無料が原則である。日本のちょっとした公園でも、まずトイレの設置から考えるといわれている。そして最近はいずれも立派な水洗である。


 僕の勝手な憶測で論証すれば、ヨーロッパのトイレ有料化の原因は、おそらく都市形成時代にまで遡り、多分、紀元前に起源があるのではなかろうか。

ポンペイなどの古代遺跡を見ると、建造物にトイレそのものがなくて、「おまる」で用を足して、道に棄てた? 古代遺跡の石造りの道は真ん中が凹面の川になっている。

これは現に都市として機能しているルーマニアのブカレストでも見ることができる。一般的に都市構造があまり変わっていないヨーロッパの街で、後代、道は車に適応し、家屋にはトイレが設置されたと考えるべきだろう。そうすると、古い家屋ではトイレが地下や階段下へ作られる。事実、カフィ・バール・レストラン・駅・市庁舎・美術館等でトイレが地下にあるのは当たり前である。とすると、都市構造成立以後にできたトイレは新空間であって、公衆といえども有料化されたのではあるまいか。


 第3に、有料化は水道水の節約を目指しているのではあるまいか。

 ヨーロッパの水事情は、あまり良くない。最近の日本もご同様ではあるが、水道水は飲用にはあまり適していない。飲まない方が無難である。

そして、水洗の歴史が長い分だけ、節水型トイレは少ない。紐を引っ張って一気に流す式が多い。

勢い一回の水使用量は多くなる。このバランスをとっているのが有料の伝統なのではあるまいか。


 いずれにしても多くの日本人にとって、トイレ問題はヨーロッパの街を歩くとき、念頭に置かなければならないことのひとつである。

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(12)ルーマニアのヒッチハイク

 ボグダン・ヴォーダ(シゲット・マルマツィエイから40kmほど南東)からビストリツァへ向かったのは9月11日の土曜日の朝であった。

土日になるとバスは激減するとは聞いていたが、聞きしにまさり、一本もない。ここにはタクシーもない。


 峠をふたつ越えればあるという列車は夕方のものしかない。そこで峠に向かって歩き出し、ルーマニア人にならって、その方向に向かう車に乗せてもらうつもりである。

今日中にビストリツァに着ければよいと覚悟する。地図を見ると120kmくらいの行程である。

 5kmほど歩いたところでスチャバまで行くという車に最初の峠の上まで乗せてもらう。約25km程で頂上。

習慣に従って5万レイ(170円程)のお礼。

 待つこと40分で次の車へ。峠の上は牧草地になっていて、羊が放たれていて、景色も良く、少し離れがたかったが、次の車がいつとも分からないので、ともかく進行方向の車、鉄材を積んだトラックに乗る。

地図を示して聞くと、ビストリツァまで25kmくらい手前のサーナート村まで行くという。


 峠はふたつと聞いていたのだが、いくつもの峠を越えてゆく。

考えてみればカルパチア山脈中の西の山並みを走っているのだ。トラックは砂利道をゆっくり走る。小さな峠がいくつもあって、その麓には小さな集落がある。途中で僕と同じくビストリツァまでゆくという2人連れの娘さんも助手席に乗せ、4人掛けで走る。

こんな山奥でも斜面には広大な牧草地が次々現れる。美しい景色である。

 サーナート村に着いたのは午後1時ちょっと前。約5時間の行程である。

まだ先がある。村唯一の雑貨店でパンとハムと牛乳で遅い昼飯。トラックの運転手には10万レイ(約320円)を支払う。これは約80kmのガソリン代の一部ともいえる。

この村には鉄道駅もあるのだが、線路はぐるっと迂回していて、ビストリツァまでは乗り換えも含めて8時間以上もかかる。


 鉄道駅の向かいの道路で、例の娘さん達と拾ってくれる車を待つ。

僕は内心あせっているのだが、娘達はおしゃべりに夢中である。車がくるたびに手を挙げるのだが、なかなか乗せてもらえない。

1時間ほども待って、ようやくワゴン型ジープに乗せてもらう。盛装しているので聞いてみると、夫婦でビストリツァの結婚式へ行くらしい。


 そういえば今日は土曜日である。結婚式・披露宴を見ることができるかもしれない。


ともかくも、写真館まで行くという夫妻に、ホテル・コロアナで降ろしてもらう。娘達は街の中心で先に下車。

彼女たちは2人で5万レイ。僕はひとりでも5万レイ。

 待ち時間も入れると、約120km 7時間、20万レイ(約660円)のハイキング。バスが順調に運行していれば、ほぼ往復できる費用と時間である。


 ルーマニアの地方では、実はこんなふうに車を使うのは日常のことである。タクシーさえも方向が同じで乗客がひとりなら、いくらかのお金で乗せてくれる。

土日・バス便皆無の時、バスの時間帯以外、バス路線以外の道路では実に有効な手段である。

そして実はこれは馬車にも応用できる。バスも何もない田舎道では自分の進行方向への馬車で、空きさえあればきっと乗せてくれる。ただし、きっとバスや汽車よりも高くなるはずだ、日本人にとっては。


この国では、日本人はやはりお金持ちだから。

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(13)東ルーマニアの結婚式

 ホテル・コロアナにチェックインするとフロントは「今日は結婚式が多くて街のレストランもホテルのレストランも満員だから、午後6時までにホテルのカフェで食事をすますように」という。

午後3時をいくらも過ぎていないのに、カフェに隣接するレストランはすでに準備が進められていて、立入禁止。しかし、僕は1時過ぎに昼食を食べたばかりである。この忠告は一応無視する。


 シャワーを浴びて、カメラをもって街を歩く。

まず、北西のはずれにある鉄道駅を目指す。途中、食堂を探し、ピアタ(市場)を探す。

もちろんカフェでもよい。駅からタクシーに乗って、そう大きくもない街を一周。大体の様子を頭に入れて、大きな教会の前でタクシーを降りる。


 この頃になると、街中を、警笛を鳴らして結婚式を祝う車が走り回っている。

写真館では結婚式に先立って、記念写真を撮る新婚さんとその親族が幾組も集まって、新婚さんのオンパレードである。かわいい女の子や男の子、着飾った親族と友人。記念写真前の夫婦の写真はまだ撮ってはいけないという。

 記念写真が終わると写真館から教会の前庭へ出て友人や親族の撮影となる。僕もここでは撮影が許される。


 お祝いに訪れる人々は、みんな花束を持参する。

写真館の前には臨時の花市が出現する。だいたいこのような花市の出店は、いわゆる「ロマ」と呼ばれている人々のようである。本当に結婚式ラッシュである。

ホテルへ帰るまでのどの教会前にも、結婚式に参加する親族・友人と新婚夫婦のいくつものグループが順番待ちをしている。

式が終わると、レストランかホテルでの披露宴となる。


 僕は帰途カフェで、ハム・ソーセージ・サラダでパリンカ酒を飲み、スパゲッティ様の食べ物で夕食を取ってホテルへ帰る。もう披露宴は始まっている。まだダンスは始まっていないが、楽師達は下のカフェで音合わせに余念がない。


 ダンスが始まったのは、午後10時を回った頃だと思う。風呂を浴びて、ベッドでうたた寝をしていた5階の部屋にまで音楽が響いてきた。僕は襟付きのシャツと綿パンに着替えてロビーに降りると、ロビーもカフェもダンスが始まっている。ボーイが飲み物や食べ物を振る舞っている。


 僕は披露宴のまっただ中にいた。少々酔っぱらったタキシードの男が僕の腕を取って、ボーイを呼び止め、ワイングラスを取ると「ノロック(乾杯)」「ノロック」。どうやら、花婿か花嫁の父親らしい。

「ジャパニーズ」「ヤーパン」。あっちへ連れて行かれ「ノロック」、こっちへ連れて行かれ「ノロック」。

そのうちみんなでのダンスに引き込まれ、見よう見まねのダンス。

楽師は休みなくバイオリンやギターのような楽器を奏でる。


 底抜けな披露宴である。時間の感覚がなくなって、気がついたときは12時を回っていた。聞けば、夜明けまで続くという。僕は朝が早いのでと休むことにしたが、ようやく、新婚夫婦のデモンストレーション・ダンスが始まったところである。

ラテン系民族のせいであろうか踊ることや楽しむことにかけては天才のようである。

翌朝、一番の電車にのるためにチェックアウトした6時半にロビーのソファーで寝ている何人かがまだ居残っていた。

華燭の典は、まさに夜を徹してのパーティなのだ。

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(14)ルーマニアの車中で

 今、このお手紙をクルージ・ナポカからシギショアラへの列車の中で書いています。

列車はインターシティ特急列車なのに、時速60~70kmくらいのゆっくりした速度で丘陵地帯を走っています。丁度、日本の千枚田とでもいうのでしょうか、丘のてっぺんまで牧草とトウモロコシの畑が広がり、羊と馬と牛が放たれています。

数百の羊は刈り取られたトウモロコシ畑の中へゆっくりと移動しています。


 日常を離れた一人旅は、車中や食堂での相席で会話ができれば楽しいのですが、何から何まで一人でするつらさもあります。

そのひとつに荷物の管理があります。誰も見ていてくれませんので、トイレに立つにも工夫がいります。

相席の人に頼む以外は、駅を出た直後の車掌の検札時が割合安全です。しかし万全ではありません。

 無賃乗車の浮浪者やロマと呼ばれている人々もいます。

なにしろ駅ホームまでは自由往来、車内検札だけのなのですから。相席の人に頼むにしても、駅を出た直後にトイレを使います。

そして、お金やカメラ・バッグは必ず持っていきます。「人を見たら泥棒と思え」は自己管理の第1条件です。


 今日9月12日、ビストリツァ7:35発の鈍行でクルージ・ナポカへ。

鈍行でも一等車があるので、一等パスの僕は6座席を独り占め(少し悲しいのですが)で、クルージ・ナポカまできて、そこで一旦下車して昼食を取り(ホテル・セントラルのメロディというレストランでした)、バイア・マーレー発・首都ブカレスト行特急に乗り換え。


 昨日の土曜日(11日)は晴れ日なのでしょうか、ビストリツァで8組、今日はナポカで2組の結婚式を見ました。村でも町でも着けば必ず教会へは行きますので、そういう光景に出逢うのでしょう。その方々でしょうか、ナポカ駅頭は見送り人でいっぱいで、特急一等車もほとんどが新婚さんです。


6人掛けのこのコンパートも2組の新婚さんです。僕は話しかけることもできず、窓の外を眺めています。

幸いというか不幸というか、窓側席の僕の前は空席です。


列車は夏休みが終わるとあって、一等も二等も満員状態、二等では通路に立っているものもいるようで、ルーマニアの列車で、こんなにも混み合っているのを見るのははじめてです。


 車窓はほとんどトウモロコシと牧草地ですが、時々南面する斜面に背の低い葡萄酒用の葡萄畑が現れます。ワインこそはヨーロッパの証拠かもしれません。

今でこそ日本でも安価なワインでおいしいものも手に入りますが、ここでは1リットル350~1,000円くらいで相当なものから、まあ高級なものまで手にすることができます。もちろんホテルで飲む場合はこの限りでありませんが。


 列車の中は移動教室でもあります。こうやって日本語で手紙を書いていると、隣の新婚さんがのぞき込んで、このきたない文字を「MINDRU ムンドロウ(美しい)」という。

そして前の新婚さんものぞき込んでくる。こういう時は女性の方が大胆なようです。

 それでもこの日本文字をきっかけに、話が始まるのです。

そして僕の拙いルーマニア語の発音をみんなで一生懸命なおしてくれるのです。

ルーマニア語はイタリア語ローマの言葉の流れを汲んだれっきとしたヨーロッパ語族ですから、きっと発音が「いのち」なのでしょう。


ですから、僕のような見ず知らずのものにまで、本当に4人がかりで教えます。

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(15)シギショアラ

 クルージ・ナポカから特急列車で3時間、ルーマニアのほぼ中央に位置するシギショアラはルーマニア人が観光客に必ず勧める町である。

歴史的には12世紀末ザクセン(ドイツ)人によって建設されたといい、ドイツ名をシェースブルグというそうだ。

長くハンガリーの支配が続いたので、ハンガリー語も耳にする。


 駅頭に降り立ったのは、4時を少し回っていた。丘に向かって赤い瓦屋根の街並みが続いている。

まずは明日の列車の座席を予約して、と窓口へ行くと、明日のものは明日にしろという。

押し問答をしているうちに窓口をぴしゃりと閉めてしまう。

しかたなく、明日は明日の風が吹くさと、タクシーに乗って、ホテル・シギショアラという。


 スズキの軽自動車のタクシーは、ルーマニアの地方ではよく見かける。

女性ドライバーはものすごいスピードで走り出す。ルーマニア人は運転はうまいのだが、みんなスピード狂のように見える。丘の上の旧市街の真ん中のホテルまで5分。


 9月12日、夏休みも後わずかな最後の日曜日、予約なしでも大丈夫とレセプションへ。一泊35ドルだという。木造の古い館を改装した中庭に面した部屋はベランダつきのまことに結構な造作である。

大きなバスでシャワーを浴び、カメラを手に石畳の街を時計塔・木造階段(300段ほどある)・山上教会、そしてまた時計塔前のヴラド・ドラクルの家(ドラキュラのモデルになったヴラド・ツェペシュの生家)前を通って、展望台へ、途中いくつかの出店を冷やかし、坂を下って12月1日通り(シギショアラの繁華街)へでる。


 もう陽は落ち始めているが、夕陽のオープンカフェでドーナツ状お菓子のパパナッシュとコーヒーで一休み。

ちょっとキザだけれども、至福の時である。

観光地だけれども季節が少しずれているので、道行く人もゆったりして、数も少なく、日常のように感じられる。 つるべ落としの陽が残光のみになる頃、テーブルランプが灯される。

煉瓦の家壁がほの暗く、上辺が夕陽に光っている。もう少し留まっていたい気分だが、坂を上ることを考えて、立ち上がる。名残惜しい街である。


 ホテルのレストランは半地下の洞窟で中庭へ出ることができる。中庭のテーブルでは幾組かが静かに談笑している。

僕は洞窟の出っ張りの陰のテーブルについて、パリンカ酒とワインと生ハム(シュンカ)・チーズで飲み始め、牛肉のスープ(チョルバ・デ・バーカ)・羊肉のグリル(ミエール・ラ・クプトール)・甘大根のサラダ(サラダ・デ・シュフェーレ)を待つ。

 若いルーマニア人男女4人のグループが隣のテーブルについて、ビールを飲み出す。

少し声高なしゃべりが、意味も分からぬままに心地よい。ちらちらとこっちを見るのだが、気にも止めず明日の行動予定表を見ながら検討する。


 本来レストランなどでは本や書類を見るのはいやがられるし御法度なのだが、混み合ってもいないレストランの一人の席、カード式の予定表にメモを入れながら、パリンカ酒からワインに飲みすすむ。

食事になれば、メモなどと言っておれず、合間にワインを飲むくらいで、間を取る。

そうでもしないと習性からか、あっという間に食事が終わってしまう。 

ルーマニア人も食事時間はおしゃべりを含めて長い。いや、おしゃべりの時間が長い。


日本人から言えば、毎日の夕食が宴会をして楽しんでいるようにさえ見える。

ウィーン・ハンガリー・ルーマニアへ一人旅

(16)ビエルタン

 13日早朝、朝焼けのシギショアラの街を写真に撮るため展望台を回ってから、朝食を取る。35ドルの宿泊代にしては豪華なバイキングである。

部屋の結構、お風呂の結構、食事の結構は一流ホテル並である。


 シギショアラ⇒ビエルタン⇒シギショアラ⇒ブカレストの予定で、ビエルタン往復はタクシーを使う。

昨日頼んでおいた軽自動車のタクシーが時間通りきてくれる。往復約60kmのドライブである。行きがけに駅へ寄って、午後1時20分発ブカレスト行きの座席を予約する。


 ビエルタンには世界遺産の要塞教会がある。ここの教会内部のフレスコ画はすばらしい。

修復作業が継続されているが、修復以前のものでも色・構図ともに一見の価値がある。

 オスマントルコの襲撃に備え、厚い防壁に囲まれたお城のような教会には、街全体とその周辺を望見できる見張り台も併せ持っている。

ただ、タクシーの運転手の説明によると攻撃を受けたことは一度もないと言うことである。


 タクシーは相変わらず猛然と走る。人家がないところでは90km以上は出ている感じがする。

12時までにはシギショアラ駅に帰ると言う約束だったが、11時ちょっと過ぎには到着。20ユーロ(約2,600円)の旅であった。

 駅の脇のカフェで、生ハムとソーセージでビールを飲み、サンドイッチで昼食を取る。

ハムのうまさは言うまでもないが、ソーセージのうまさも格別である。ヨーロッパではどこでもそうだが、日本と比べてどうしてこんなにハムやソーセージがうまいのだろう 。

仕上げにコーヒーを頼んで、車内用にサンドイッチと缶ビールと水を買って、時間まで待たせてもらう。


 列車は遅れてきた上に、車両編成が変わっていたが、ともかく一等車両に乗り込み、切符の座席と思われるところに座り、車掌を待つ。

このコンパートでも窓席に座るが、相席は3人の入れ墨のある男性、この席でいいのかと切符を示すと、とたんに「ジャパニーズ?」「ダー(イエス)」「ユウ・トーキョー」「ヌ(ノー)・ニイガタ」「コンドゥクトール!(車掌さーん)」「ノープロブラム」「オーケ・オーケ」。ルーマニア人の親切心と人なつっこさに触れる。彼らはブラショフで下車。

 ブラショフからブカレストまでは2時間ちょっとなので、5時過ぎには到着のはずである

。ブラショフからの相客は夫婦者の2人だけ、僕は一人旅の最後を祝って、サンドイッチを肴に缶ビールでひとり乾杯する。


 5時過ぎ、列車は遅れを取り戻して、静かにブカレスト・ノルドのプラットホームに到着。

向かえに来てくれていたクリステイ(ユリアの妹の旦那)と抱擁し握手する。僕も抱き合ってする抱擁がうまくなったものだと思う。

 このようにして僕の一人旅は終わった。あとはルーマニアの親族との交流とユリアと孫のお供をしての帰国がのこされている。