24 回('05/6/15

 長男の誕生日でした。今年の誕生日は、手巻き寿司とケーキでお祝いしました。プレゼントは、8月発売のゲームを父に買ってもらうことに決めたようです。

 手巻き寿司のネタをウオロクに買いに行きました。甘エビ1パック467円。ヤリイカ1パイ98円を5ハイ。そして、いなだ1匹500円料理は上手くないけれど、家で作れば、安いし、心はこもっているし、おいしいし、と三拍子そろうじゃないですか。そして、忘れてならないのが、大葉と、かいわれと、大根。いわゆる刺身の妻。これなしで、刺身は食べられません。ところでこの「妻」の意味、知ってましたか。新明解国語辞典第四版より


つま①[妻]配偶者としての女性。女房。[雅語では夫と書き、男性をも指した]←→夫

②[料理で]刺身などのそばに添える海草・野菜など。「刺身の------」

 [他を引き立てるだけで、それ自身には価値の乏しいもののたとえ]


なるほど。刺身の妻とは、他を引き立てるだけで、それ自身には価値の乏しいものだったのか。それにしても、「妻」という字を当ててあるのはイヤな気持ちですねえ。ちなみに「夫」を引いてみましょう


夫 おっと 配偶者としての男性←→妻


とあるだけでした。子どもの頃、理由は何であったか忘れてしまいましたが、「男に生まれたかった」と言ったことを思い出しました。刺身になりたかったのですねえ、きっと。そして、また、子どもの頃、母に対して、もっと父を立てればいいのにと思っていたことも。妻のあるべき姿として、出しゃばらず、賢くあるもの、耐えるもの、と思っていたからでしょう。

 今、私は、妻であり、母であり、坊守である。しかし、それ以前に人間である。人間でありたい。人間になりたい。

 しかし、また、妻であり、母であり、坊守である以外の自分など、どこに存在するのだろうか。それは、ただ、自分の思いでしかないのではないか。心など存在し得ないのではないか、と絶望する。

 それでも悪あがきを続けるのです。

 そして、大谷専修学院の時、「かわりのきかない、ひとりの人間として生きたい」と情熱をもって語っていた中川先生の言葉を思い出しました。そして、歎異抄第十八章の「聖人のつねのおおせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。」


どう生きればいいか迷いながら、すでに生きつづけている。私の所にも、本願が来ているのでしょうか。


そう考えた誕生日でした。

第 23 回 小学生になった娘('05/6)

 小学校にあがる前のことです。夜、眠りにつく前に、菜々子が「お母さん、もし、菜々子が死んでも、またお母さんの子どもで生まれてきたい。」と言ったことが何度かあります。「またお母さんが、お母さんで、お兄ちゃんがいて、菜々子がいるの。いいでしょ。わかちゃんも。」と言うのです。生まれ変わりのことなど、まして輪廻のことなど知るはずもないのに、不思議なことをいうものだなあと思いながら、「いいよ。」と応えていました。夜、目をつむって、寝るということが、死を連想させるのでしょうか。暗くて怖いのだろうし、安心が欲しいのだろうと思い、「もし、菜々子ちゃんが死んでも、また、お母さんの子どもに生まれてきてね。」と言うと、「うん、そうするね。いいでしょ。」と菜々子。「いいよ。」と私。「ぜったいね。」「うん。」そう言って、眠りについたのでした。なんてかわいいのでしょう。こんなおこりんぼ母さんの所に、また生まれてきたいなんて、と、いたく感動したものでした。

 ところが、小学一年生になった菜々子は、そんなこと言っていたなんて、遥か彼方に忘れ去り、夜は疲れて、行って見るとすでに布団の上で、安らかな眠りについていることも多くなりました。そして、たまにお風呂で二人、ゆっくり入れるときに、何を言うかと思えば、「私、お母さんの子に生まれなければ良かった。」と一言。ドキッとして「じゃあ、お母さん、出ていこうか。」と言うと、「もう遅いもん。」と、返ってきたのです。「え、何が。」と聞くと「お母さんがいなくなっても同じだよ。菜々子、お母さんに似て、足に毛が生えてるもん。」と答えが返ってきました。「あ、ごめんね。」と言いながら、少しホッとしました。少し早いがお年頃になってきたのね、と了解することができました。「死んでも、またお母さんの子に生まれてきたいって言ってたのよ、あなたは。」と心の中で言いながら、「あのね、お父さんのお母さんも、毛深かったんだって」と言い分けしながら、プールに入る前に、足をきれいにしてあげる母でした。

 この話は、年頃の菜々子にあっても、内緒にしておいてくださいね。

第 22 回 父の日に('05/6)

 私の息子の育て方について、なにかアドバイスがほしいと思い、父に「どう育てていったらいいかわからない」と問いかけたことがあります。なにか具体的な指針がほしかったのです。というのはやはり、子を育てる上で、家族の中で意見や方針が違っていたからです。また、私を育ててくれたとき、何をよりどころにしていたのか、知りたくもあったからです。私の父はこう言ったという、後ろ盾がほしかったのです。しかし、返ってきた答えは「その子に聞きなさい。」でした。「え。」と聞き返したのですが、やはり「その子に聞くことです。」という一言だけでした。呆気にとられました。突き放されたような気がしました。まだよく喋れない子に聞くというのは、どういうことなのでしょう。考えました。その子をよく見、その子の欲するところ、本当にその子にとって、今どうしてあげることが、親として大事なのか、またできるのかを知るということなのでしょうか。私の全五感を働かせ、できる限りのことをしよう。私に任されたのだから。腹を据えるしかありませんでした。親になったのだから、しっかりやりなさいという励ましと優しさとして受け止めました。

 そして、自灯明、法灯明という言葉を連想しました。一人一人違う子に、ハウツーのマニュアルで育てることはできないのだ、と改めて知ることになりました。自らを依り所として、他を依り所とせず、法を依り所として、他を依り所とせず。

その子のいのちの叫びに耳を傾けられるようにと思いました。そして、私も、本当はどうしたいのか、私にも耳を傾けるようにと思いました。

第 21 回 善行寺のご近所('05/6)

 ここ、宮原の善行寺の隣には、先代、鷲尾惇一の弟夫婦の分家がある。その隣には、先々代、鷲尾忠孝の弟夫婦の分家がある。人呼んで鷲尾団地という。


先々代の弟は、鷲尾蟄隆(ちつりゅう)という。今はすでに亡くなっておりますが、学者で建設省に勤め、川に橋を架けていたそうです。山梨県には、鷲尾橋と名の付いた橋まであるそうです。その娘である昭子おばさんは、とても丁寧な物腰の方です。今の世に珍しい。その控えめな様子から、ザバッと切り出す洞察力は、呆気にとられます。正おじさんは、急性を丸山といったそうです。中学校の美術の先生をされていたそうです。今では、県展で無審査で出品できるほどの彫塑の腕前の持ち主です。自宅は美術館さながら。玄関に飾られた水彩画が、私は大好きです。


隣に住んでいる先代の弟は、鷲尾堯(たかし)といいます。堯おじさんは、なかなか大した人です。私より善行寺のことをよく知っていて、困ったときには頼りになる生き字引のような人です。しかし困ったことに、テレビ番組のビデオ撮りに凝っていて、テレビの前から離れようとしません。運動不足解消は、日課の善行寺通いです。これからも毎日欠かさず、顔を見せに来てもらいたいです。その連れ合いの佐智子おばさんは、美人で、気さくで、子ども好きです。我が家の3人の子は、おばさんに大変かわいがっていただいています。みんな自分の家のように上がり込んでしまっていました。お寺のことから、赤ちゃんのあやし方、病気のこと、情緒のことなど、私の悩み相談室です。


そして善行寺のご近所には、樺沢さん、佐藤さん、恩田さんと並び、皆心優しい人たちに囲まれています。

第 20 回 メロンパン③('05/3/9

 先日、メロンパンを買いに行くと、以前ほど並んでおらず、私の前に、5~6人の高校生の男女と、私の後ろにご婦人が一人。メロンパンの数と、前の人の数を数えながら、何個買うのかしら、私の分まであるかしら、オーブンの中身が焼けるまで待たないといけないかしら、と考えなら待っていた。


 風の寒い日でした。まだ2月ですから、仕方ありません。売っているお兄さんが、手を真っ赤にして(もう手は赤黒く、腫れているようにも見えましたが)へらでメロンパンを茶色の紙袋に1個2個と入れ、お金をレジに入れていた。


 私は「4つください」と言って、百円玉6個を渡すと、紙袋にメロンパンを2個づつ入れ、それをビニールの手提げ袋に入れてくれた。そのお兄さんが「寒いですねえ。長岡を甘く見てました。(このパン屋さん、新潟市から売りに来ているのです)」と言って、膝下までの外套の足元を見て「ちゃんとこうして(長靴を履いて)来たのだけど、ホッカイロが足りなかった」とおどけて見せた。「風が寒いですものねえ」と答えると、「でも、まだ背中にオーブンが当たっているから、まだあったかいと思うんですけど」と言っていた。こんな会話でもないと、心まで冷え冷えに凍り付いてしまいそうだった。すると、そこに一人のおじさんが来て、1個いくらか聞いてきた。


「焼きたてだから、おいしいですよ。」と私が言うと、売っているお兄さんは、「ありがとうございます。」と言った。「3日後くらいに食べるとおいしくないけど。」と私。「はい。1日後ならおいしいです。」とお兄さん。「うん、明日にはおいしい。」と私。おじさんは「3個もらおうか。」と言って、買っていった。たったこれだけのことなのに、足取り軽く帰路につく。言葉を交わすだけのことなのに、心が軽くなる魔力がある。また心が重くなることもある。言葉という字に、「葉」という漢字を当てるのはなぜだろう。太陽の光を浴びて、光合成したり、呼吸して栄養を作るように「ことば」には人の心に働く栄養があるように思えた。

19 回 メロンパン②('05/3/9

 メロンパンを買いに並んでいると、なぜか声をかけられるのです。あるご婦人が「これ中身、何か入っているの?」と聞かれ「入ってないですけど、おいしいですよ。」というと、「そう、すごく並んでいるものね。今日はいいけど、今度買ってみようかしら。」と言って去って行かれた。


 またあるとき「すごく並んでいるけど、なに売っているの?」と聞かれ、「メロンパンです。焼きたてでおいしいですよ。」と答えた。


 まるでメロンパン屋のサクラのようだと思ってしまうほど、人に聞かれ、また「おいしいですよ」と言ってしまう。でも、本当においしいのだから、仕方がないです。このメロンパンを食べて、メロンパンに目覚め、パン屋さんに行くと、メロンパンを買って見るようになった。しかし、ダイエーで売られているメロンパンほどおいしいと思うものに、まだ出会っていない。(すでに、メロンパンはただのパンではなくなっていて、愛しい、恋しい、あの方のような存在になってしまっている。恐ろしいメロンパンの魅力。)


 またあるとき、マクドナルドでメロンパンをわかこがかじりついている様子を見て、子連れの母親の方が、「おいしそうね。」と声をかけてきたので「はい、おいしいですよ。1個150円ですけど。」と親切にも値段まで教えてしまっていた。すると「すごく並んでいるものね。今度買ってみようかしら。」と言って行ってしまった。


 私に声をかけてきた人は、その後買って食べてみたのかどうか知る由もないですが。声かけてもらって、私はとてもうれしかったです。ただ黙って並んでいても、みんなメロンパンを買う目的は一つだと思うのですが、寂しいのです。声かけてもらって、「おいしいよ」と答えられた私の心は、自然とおいしい暖かさで満たされます。一人メロンパンを食べながら、見ず知らずの人と、おいしさを分かち合えたような気持ちになっているのです。私に声かけてくれて、ありがとう。

18 回 メロンパン①('05/3/9

 長岡のダイエーの1階入口で、毎週月・火曜日の夕方、焼きたてメロンパンが販売されているのをご存じでしょうか。バレエに通っている友達のお母さんが「おいしいよ」というので、買いに行ってみることにしました。昨年の11月頃だったと思うのですが、行ってみるとメロンパンを買うお客さんが20~30人ほども長い列を作って車のオーブンで焼き上がるのを待っていました。高校生や会社帰りの人たちに混じって並ぶのはちょっと恥ずかしかったです。


 おかしなもので、多くの人が集まっていても、知らぬ人ばかりではなんだか心細く感じるのです。でも、そのときは末娘のわかこを抱いていたので、心細さも少しはなかったです。秋も深まりを見せた木枯らしの吹く寒い中、30分も待ったでしょうか。焼きたてのメロンパンが大きなトレーの上で、いい香りを漂わせていました。ようやく手にしたメロンパンは、ほかほかで温かく、今すぐほおばりたくなりました。


 わかこは直径12㎝ほどもあるかと思われるメロンパンをほとんど全部食べてしまったのです。ほんとにおいしかったです。


 それから、火曜日のレッスンに行けば必ず買うようになりました。5時半頃にはもう売り切れて、ないときもありましたけど。2月1日の大雪の日には、外で並ぶ人もなく、あまりの寒さのためか、3個以上買ったら「チャイ」を一杯どうぞ、とお茶のサービスがありました。5個買って「チャイ」を一杯いただきました。


 「インドのお茶ですよね」と声をかけたら、売り子のお兄さんが「そうなんですか?」と逆に問われ「日本では香辛料として、ショウガとシナモンを入れるんですよね。」というと、もう一度お兄さんが「どこのお茶なんですか?」というので「インドのお茶です」と答えた。知らずにサービスしているのもおかしかったけれど、久しぶりに口にしたチャイが、寒さのせいもあって、熱々でおいしかったです。

17 回('05/3/7

 去年は体調が悪く、裏の畑に何か作るのが遅くなってしまいました。それでも毎年、土合(どあい)の原さんが、耕耘機で畑を耕してくれて、上条の佐々木さんがナスと南蛮を植えてくれます。それで、ナスと南蛮は晩秋まで私たち家族を楽しませてくれます。毎年は植えもしないのに、コンポストをあけると、その中からカボチャの種が芽を出して、カボチャの蔓が畑を縦横無尽に覆い、カボチャがころころといくつもいろんな形のがなっていたのです。ところが去年は、コンポストを開けたのが6月頃だったと思うのですが、もうカボチャは芽を出さず、取っておいた種をまいたのですが、時期が遅いのと、植え方が悪かったのか、2,3個小さいのがなったばかりでした。


 裏の畑は、土合の原さんのお母さんのウメさんが、いつ頃からか、お寺の草取りに来て、遊ばせておくなら、と畑にしてくれたと聞いています。ウメさんは、息子の諒が1歳になる6月に亡くなりました。90歳だったでしょうか。カボチャが黙ってなっていたのは、ウメさんが畑に宿っているからだろうかとも思えました。


 さて、今年は何を植えましょうか。トウモロコシは、子供が喜ぶので毎年植えています。あとスイカを植えてみたり、プリンスメロンを植えてみたり、なかなかうまくいかず、取る時期もよくわからないものです。ミニトマトにキュウリ、インゲン、サツマイモ。種から育てて実った年のキュウリは、柔らかくておいしかったです。


 土をいじって、畝にしているとき、広いなあと感じる畑なのに、蔓や葉が伸びて育っていくと、足の踏み場もないほどに狭くなるのです。欲張っていっぱい植えるからでしょうね。夏場、私たちは、草畑と呼んでいます。草が一番元気で、とてもあの中に作物があるとは思えないほど、草ぼうぼうです。カラスの目もごまかせます。


 今はまだ真っ白な雪に覆われていますが、春はもうすぐそこまで来ているのでしょう。幼い頃、雪どけのさらさらというせせらぎの音を聞き、雪どけ香りに包まれ、春が来たと感じ、どきどきしたものです。長岡の地で、あの音も香りも感じることは少ないけれど、本当にあの春の到来は楽しみで、喜びでした。


 雪の下で春を待っているのは、私たちだけではないのでしょう。なんだか、うれしいですね。

16 回 諒がサッカーチームに入った

 「2月6日の夕方、何か予定ない?」と聞いてくるので、「予定なんてないよ。何なの?」というと、小学校の体育館でサッカーの練習があるから、見学に行きたいというのだった。自分から言い出したのだ。友達から時間と場所を聞いてきて。前から、やるならサッカーと言っていたが、煮え切らずにいた。親がやらせるものでもないのでほっておいたら、自分で動き出した。親にできることは、必要な道具をそろえることくらいだ。


「サッカーやってよかったよ。楽しいよ。」と、まだ始めて1ヶ月にならないが、週1回か2回の練習に積極的に参加している。力あまっているんだし、よかったよかった。


そして今、2年生なのだが、3年生になるとスキー授業が始まる。その前にスキーをしてみたいらしい。雪が降り始めると「1回スキーに連れて行ってほしい。」と言っていた。昨日、六日町みなみというスキー場へ行き、スキー教室に入れてもらった。


雪がどんどん降る中、5回リフトに乗って滑ったとのこと。ハの字(ボーゲン)だけだけど、楽しかったようだ。「また行きたい。」「もっと滑りたい。」と言っている。スキーの楽しさを味わっているようだ。


子供と夫がスキーを楽しんでる間、私は何をしていたかって?ねむったわかこをずっと抱っこしてましたよ。目が覚めたら、ソリで遊びました。ええ、わかってます。きっと、スキーを滑れないのは、家族の中で私だけになることでしょう。


私もそろそろ、楽しみを見つけていかないと、ひとりぼっちのさみしいおばあさんになりそうです。

15

 ななこがバレエをやめた。4年弱、続けてきた。2歳8ヶ月の時に始めたのだから。本人がやりたいと言ったのではなかった。保育園でも音楽が鳴ると、リズムを取って、踊るのが好きだったから。それより、私が外に出たかったからだと思う。

 レッスンで、ななこは私と一緒に踊りたがったが、そういうわけにはいかなかった。もし今、あの時に戻れたら、親子でできるダンス教室か何かを探しただろう。そのときは探す余裕もなかった。

 生まれたときから、どこかしっかりしていて、私は私として生まれてきたのよ、と自信に満ちているようだった。しっかり者のように見える。今でも甘えるのが下手なようだ。3人兄妹の真ん中のせいもあるかもしれない。

 10月からバレエの稽古が週2回になり、忙しくなった。もっと友達と遊びたいと言っていた。他にピアノも習っているから、週3回の習い事は保育園に行っている子にとっては、苦痛だろうと思えた。また一方で、やっとバレエらしい内容になってきて、これからなのにと思え、だましだまし1月まで続けた。

 「バレエもピアノも大きらい」と言わせてしまった。「1年生になったらバレエやめるから」「3月にやめる。」「来週からもう行かない」とうとう、バレエに行くのをやめた。バレリーナにするつもりもない。私は「いいよ。」と言った。

 ピアノは続けていた。今、4月の発表会の曲を練習している。ピアノの稽古に行ったとき、「ピアノは楽しい。死ぬまで一生続ける。」などと言っている。6歳の子の言うことかしらん。

 気の強い子に思われるけど、とても根のやさしい子なのです。たのしく弾けて、うらやましいです。夢中に弾いている姿は、全身全霊を傾けているようです。

 ピアノを自由自在に弾くように、自由自在に生きてほしい。

14 回

 この冬になって、わかこが私に「おかあさん、だいすき。」と言うようになった。そう言われて、私は「おかあさんも、わかこちゃんだいすき。」と言う。するとまた、「わかちゃん、おかあさんだいすき。」と繰り返す。

 「だいすき。」と言われて、ちょっとテレくさく思い「いいわよ、そんなお世辞言わなくても。」と言い交わしそうになった。しかし、あっ、ちがう。彼女は今、精一杯、自分の気持ちを表現しているのだから、しっかりと受け止めようと思い、「お母さんも好きよ」と言った。

 8歳の兄が「おかあさんすき。」と言ってきたときも、もう、ちょっと照れくさいけれど、「おかあさんも、りょうくんすきよ。」と抱きしめよう。6歳のななこが「だっこして。」と来たときも、わかこに邪魔されながら、できるかぎり抱きしめよう。もうすぐ、お母さんのだっこは、いらなくなるのだろうな、と予感するから。

 またあるとき、わかこが私に「おかあさん、だいすき。」と言ってきた。

私はいつものように「おかあさんも、わかこちゃんすきよ。」と言ったら「ダメ。」と言う。

「じゃあ、おかあさん、お兄ちゃんすき。」と言った。すると、また「ダメ。」と言う。

「じゃあ、おかあさん、ななこお姉ちゃんだいすき。」と言った。また「ダメ。」と言う。

次に「じゃあ、おかあさん、おばあちゃんだいすき。」「じゃあ、おじいちゃんだいすき。」「おじちゃんだいすき。」「おばちゃんだいすき。」「いちごだいすき。」「りんごだいすき。」と言ったけれど、

全部「ダメ。」と言われ、

しかたなく「おかあさん、おとうさんだいすき。」と言ったら、

ようやく「いいよ。」と答えが返ってきた。

お父さんとお母さんの間で子供は心を痛めているのだな、と思った。

 またあるとき、わかこがささやくように「おかあさんだいすき」と言う。そして、ささやくように、「おかあさんといっしょにいると、たのしい」と言った。2歳半の子が言う言葉に驚いて、辞書を引いてみた。三省堂の新明解国語辞典だ。


たのしい[楽しい](形)

その状態を積極的に受け入れる気持ちが強く、できることならそれを持続したい感じだ

つまり「おかあさんと、ずっといっしょにいたいよ。」ということなのだ。ちなみに「すき」を引いてみる。


すき[好き]

①理屈抜きに(相手に)心が引きつけられる様子

わかこは、まだおっぱいから離れられずにいるから、理屈抜きに、おっぱいに引きつけられているのかもしれない。

こんなに慕われている母は、毎日我が子を保育園に預けて身軽になって仕事にいそしんでいる。どこまでが仕事か、とてもあやしい。

13 回 ランドセル

 今年、娘ななこが小学校に入学する。学習机やランドセルを買わなければならない。秋はやい頃、夕食の時、ななこと何色のランドセルにしようかと話になった。


「緑がいい」と言った。

父は「6年間使うんだから変な色にしない方がいい。」という。

小学2年の兄は、「緑なんて誰もいないよ。いじめられるからやめた方がいいよ。」

「赤にしとけ」と父。

「せいぜいあってもピンクだよ」と兄。

「ピンクはいやだ」とななこ。

「緑でいいんじゃない。」と私。「緑でいじめるなんて、いじめる方がおかしいよ。」と私。

「でも、緑なんていないし、目立つよ。」と兄。

「逆に目立って、間違えずに済むかもしれない。」と父。

「そうだね。」と兄。

「でもだいたい男は黒で女は赤だよ。」と兄。

「まだ早いからよく考えて決めよう」ということになった。


 しばらくたって冬。またランドセルの話になった。今度、ななこは「じゃあお兄ちゃんと同じ黒がいい。」という。「いいけど、黒は男ばっかりだよ。」と兄「ななこの好きな色にしたらいいよ」と私。私は、ななこがいじめにあえばいいとは思わないし、ただ目立てばいいとは思わない。ただ、ななこらしく生きてほしいと願っているだけだ。經、ジャスコでランドセルを買った。何とかいう赤っぽいオレンジ色に決めた。ななこがいいなら、いいよ。私は、ななこが大好きなんだから。