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9 月 23 日(火・祝)10 : 00 開式

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ワッシ―祐子の徒然草

第36回~第47回

第 47 回 続々 まりは 15 歳 ('21/2/12)

 まりが15歳になったという事は、私も歳をとったという事で、子ども達も成長した。

まりを「可愛い。可愛い。」という前は、子どもを「可愛い、かわいい。」と言っていた。はず。どうも私の認識と子供たちの認識には多少のずれ、いや、大きくずれがあるようだ。

 長男は母親から「怒られた記憶しかない。」そうだ。一人目だからそんなはずないと思うけど、記憶ってそんなものかもしれない。

末娘が自分の名前を覚えたばかりの頃、「○○ちゃんでしょ。」と言ったら、「ちがうよ、「おかあさんのかわいい○○ちゃん」だよ。」と言い返されて、嬉しいけど戸惑った。

私がいつも「お母さんのかわいい○○ちゃん。」と言っていたから、そのまま覚えたのだろう。私は無意識にそう言っていたのだが、「お母さんの」という言葉で決して離れない、切れない安心感を求め、子どもを束縛していたのかもしれない。

 なぜ私が「かわいい」を連呼していたのかというと、自己肯定感を持ってほしかったからだ。私が子どもの頃、「ゆう子は可愛くないから、「可愛い」と言ってくる人が居たらそれは嘘だから、騙そうとしているから、本気にしてはいけない。」と祖母や母に言われたことが頭にこびりついている。かわいいから、騙されないようにそう言ったのだろうけど、世間で言う可愛いと親の可愛いの違いなど分からず、ふてぶてしくなってしまった。 さて、末娘はどうなったかというと、小学までは自分は可愛いと思っていたそうだ。でも、世の中のかわいいと、お母さんのかわいいの意味が違うと悟ってしまい、容姿のコンプレックスに悩む普通の思春期を迎えることとなってしまった。 子育ては思うようにいかないという事です。

なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。めでたし、めでたし。

 まりですか?

まりは末娘の妹として我が家にきたが、いつの間にか私たちを追い越して先に年を取ってしまった。

末娘が小学校卒業するまで、毎朝の登校班について9年くらい通った。その間、まりは多くの子ども達に「かわいい」と言ってもらっていた。まりは素直に育ったね。楽しかったね。

第 46 回 続 まりは 15 歳 ('21/2/12)

 まりの病気が分かって、いつ死んでもおかしくない状態と知ってから、まりを甘やかして過ごしている。

まりと一緒に過ごせることがとても嬉しいと心から思う。まりも私と居ると安心している。と思う。

どうも、「このひとは私の言いたいことが分かるようだ。」と思っているのだろう。ときどき薄目を開けて、私が居ることを確認している。

 私が何か食べているとやって来て、欲しい言ってくる。厳密にいえば「ほしい。」とは言わないが、態度で言っていると感じる。そばに来てじっと見ている。手を出してくる。歯を当ててくる。もう、健康の為に人間の食べ物を食べさせないという時期は終わった。余命を楽しく過ごすために、多少毒でもおいしいものを一緒に食べよう。そして「いい子ね。」「おいしいね。」「偉いね。」「かわいいね。」「大好き。」を連発する。うんこしても「いい子ね。」おしっこしても「えらいね。」失敗しても「いいこね。おしっこしないと死んじゃうんだよ。」噛んできても、「痛い、痛い、かわいいね。」まりの歯は鋭くないから怪我はしない。

 手術できるような状態ではなったから、手術代はかからなった。それでも注射代、薬代、エコー代、とそれなりにかかった。出費だった。保険を掛ければ保険代がかかる。お金と命を天秤に掛けそうになる。

「お金がかかる。」と口説いたら、「お金がかかっても、死んだときに、できることはしてやれたという気持ちになれる。してやれなかったという後悔が残らない。」と言ってくれた人がいる。そうか。私の安心の為に、お金は使おう。安心て、後悔しないということなのかな。

もしも、私がまりで、「医者に連れて行くとお金がかかる。」と口説かれたら、「好きで病気になったわけじゃない。好きでこの家にいるわけじゃない。」と拗ねるだろう。「お金を渋るなら、医者に行かなくていい。ほっといてくれ。(死なせてくれ。)」と思うだろう。

ところが、まったく、まりが何をしても可愛いから、親バカなのだ。まったく、かわいすぎて、どうしようもない。柴でも、同じ柴は一匹もいない。さて、今日も、まりのにおいを嗅いで安心しよう。この安心は、心が落ち着く、通じ合っているってことかな。

日本語は難しい。

第 45 回 表彰状は誰のもの('21/1/27)

 昨年の夏に、うちで飼っている犬、柴犬のまりが15歳になった。

すると、動物愛護協会から「令和2年度 長寿動物飼育功労者表彰状決定のご案内」というのが飼い主宛てに届いた。しかし、

「2,000円払ってまで表彰してもらわなくていい。」とのこと。


どういうことかと思ったら、新潟県動物護協会中越支部の事業だが、一般社団法人新潟県動物愛護協会に一般会員として入会された方を対象としているとのこと。

「表彰してもらうための2,000円でなくて、動物愛護協会は色んな事業をしているんだから、その為のお金は必要だと思うよ。

それに15歳まで生きたまりに表彰してもらうんじゃないの?」

すると「払って来た。」という。

 後日、例年秋の動物フェスティバルでの表彰だというが、コロナ禍で、郵送されて来た。


『表彰状 長寿動物名 愛犬 マリ

飼育功労者 わ○○ ○一様

あなたは動物愛護の精神をよく理解され多年にわたり愛情をもって動物の適正

飼育に努められていることは他の模範となっております よって動物フェステ

ィバルに際し表彰いたします

令和2年9月23日

新潟県動物愛護協会中越支部  河野 滋』


あれれ?表彰されているのはお父さん?

第 44 回 まりは 15 歳('21/1/27)

 昨年の夏に15歳の誕生日を迎えた。

 玄関につながれて過ごした15年間。最近のペット事情は、家族と一緒に家の中で過ごす子たちが多いようだ。

しかし、日本語を話す犬というのにお面にかかったことは無い。日本語を話す猫というのも無い。ただ、野生の猫は子猫の時しか鳴かないそうだ。人間に甘えるために「鳴く」らしい。では、犬はどうだろう。

 まりは玄関に縛られていたから、常の様子はわからない。まりは鼻で玄関の戸を開けることができる。

おいて出かける時は見送って、帰ってくると出て迎えてくれていた。体全体で喜びを表現してくれていたから、とても嬉しかった。

黒目勝ちの目は、敵にどこを見ているか覚られないようにするためだと聞いた。白内障で焦点があっていないだろう、その目で見つめられると、いとおしくなる。

勝手に喜んでくれていると思っているが、本当は、拉致監禁罪で閻魔様に罰せられるのだと思う。 

 動物が苦手な隣のおばちゃんが、「かわいいね。かわいそうだね。小さい時に親と別れてきて。でもかわいがってもらって、この犬は幸せだ。」と言ってくれた。

「ほんとにそう思う。」だから、「まり、まり、かわいいね。いい子だね。どこがかわいいかっていうと、目がかわいいでしょ、鼻がかわいいでしょ、口がかわいいでしょ、歯がかわいいでしょ、耳がかわいいでしょ、背中がかわいいでしょ、前足がかわいいでしょ、後ろ足がかわいいでしょ、尻尾がかわいいでしょ、かかとがかわいいでしょ、爪がかわいいでしょ、肉球がかわいいでしょ、お腹がかわいいでしょ、鼻の穴可愛いでしょ、耳の穴可愛いでしょ、毛がかわいいでしょ、ぜーんぶ可愛いでしょ。どうしてかわいいかっていううと、まりのお父さんとお母さんに似てるからだよ。いい子いい子って、いいこにしてるかな?元気にしてるかな?って、きっと心配してるよ。」ってなでなでしてたんだ。

 まりは昨年の10月に腫瘍がたくさん見つかった。手術はできないと判断された。あとどのくらい生きてくれるのだろう。シートン動物病院の院長先生は、「この子にとって何が一番幸かを考えて、対処療法をしていきましょう。」と仰った。

 この子にとっての幸せを考える。相手の幸せを考えるという幸せ。

 相手の幸せが自らの幸せになる。これって浄土じゃね?

第 43 回 節談説教('19/2/6)

 昨年、公開講座で節談説教を初めて聞いた。

説教をする先生が、情感豊かに語るので、そうなのかと頷いてしまう。感動したので、隣のおばちゃんに話そうとした。

 そしたら、「いいて、女の人を家に縛り付ける話でしょ。聞かなくてもいい。」と断られた。

「色の白いほっそりとした若い女の人が、ある偉いお坊さんが来るというので、お参りに来た。そのお坊さんにどうしても話をして、どうしたらよいかを聞きに来た。」という話なのだ。

 「嫁いできたが、すぐに、夫が病気になり、介護が必要な体になってしまった。両親も高齢で、世話をしなければいけない。私一人で3人の介護を1年、2年としてきたが、私も疲れてしまった。近所の人は、夫の妹も近くに住んでいるのだから、あなたが出て行けば、その妹が3人の面倒を見るに違いない。このままでは、私の体が持たないから、子どもも居ないし、まだ若いのだから、出て行っていいというのだが、どうしたらよいかと相談に来た。」という。

 そこで、偉い坊さんが言うのです。「奥さん、私が相談に乗るというのは、茶飲み話のように、あなたはそう思うのね、で済まされない。本当に、阿弥陀さんのお心をお聞きしたいのだと言うなら、真剣に、命がけで聞かなければいかん。その覚悟はできているのか?」と、大体こんな内容だったと思うのですが、力強く語るのです。「はい、お願いします。」と女の人が言うと、偉いお坊さんは、「あなたが居なくなったら、夫とその両親はとは縁が切れる。縁というのは切って切れるようなものではない。3人を置いて出れば、置いて出たという事があなたの中に残るだろう。その後悔を持ち続けて生きていかなければならない。辛いだろうが、阿弥陀の縁というのは、背負うものだ。背負えない縁は無い。」

 すると、女の人は「ありがとうございます。」と言って帰るのです。そして10年くらい過ぎた頃、またその偉い坊さんが来て、そこに、また相談に来た女の人が訪ねてくる。そして、夫と両親を看病して、3人とも看取ったという。そして、両親から「ありがとう。」と言われ、夫からも「よく出て行かないでくれた。」と感謝され、出て行かずに看病してよかった。と報告して、めでたし、めでたし。という話だった。

 とても解り易い。具体的な事例で、阿弥陀様のご縁に生きるとはこういう事かと思われる。

美談だなあと思う。このお話の女の人は仏さまの様だね。

だけど、現実、わたしは仏になれない。そんな私が救われる話を聞きたい。

第 42 回 「今年はサンタが来なかった」('18/12/25)

「♪今年もサンタがやってくる~」とTVの中で、某ファーストフードのCMソングが流れている。

 今日は12月25日。昨晩遅くに雪が空から降ってきたせいか、暖冬だが朝は冷え込んだ。

我が家では、毎年、末娘の所にだけは、サンタが来ていた。 しかし、今年はクリスマスツリーも出さなかったし、サンタも来なかった。

 すると、高1の末娘が、お昼近くに塾から帰って来て、「今年はサンタが来なかったね。」と言った。

 私は、「サンタさんに何か頼んだの?」と聞いた。「ううん。」と娘。「だからだよ。」と言葉少なに答えておいた。

果たして、サンタクロースは、頼んだらプレゼントを届けてくれるのだろうか。

 最近は、サンタクロースとお手紙のやり取りもできるらしい。

 サンタクロースの由来は、ニコライというキリスト教の神父さんが、貧しい家に真夜中に金貨を投げ入れたおかげで、娘を見売りに出さずに済んだという話がもとになっているらしい。日本でいえば、これは確証の無い作り話だという事だが、大泥棒のネズミ小僧の次郎吉が、盗んだ金を貧しい家にばらまいたという話に重なると思う。クリスマスの晩にサンタクロースが子どもにプレゼントを届けてくれるというメルヘンは、個人の私利私欲を満たすための行い、行事ではないのだという事だ。

 クリスマス商戦、と言ってしまっては、由来からかなりずれているだろう。そういう点で所得税や年金制度は、ニコライや作り話のネズミ小僧の次郎吉に通じるクリスマスプレゼントの具体的な現れと思う。それでは夢がないね。

 それにしても、サンタクロースがプレゼントを持って来てくれる、届けてくれるというのは、子どもを笑顔にしてくれる。メルヘン、おとぎ話の世界、なら、それもほほえましい。

 しかし、届いたことで喜んでいたのが、要求して(お願いして)もらえるとなると、成長とともに去年より高価なものをお願いするようになる。微笑んでいられなくなる。今年は、サンタに届けてもらえるようなプレゼントでは間に合わなくなったのだと思っている。

 本当に欲しいものは、仙人の指か、お陰様か。

第 41 回 「母に教えられたこと」('10/11/1)

 先日、お寺の会議の後、ささやかな振る舞いがあり、肉汁の味噌汁を作ってお出しした。

私の父と同じ年代の方が、味噌汁を差して、「この味噌汁一つ作るのに、色んな人の手がかかってできている。ただ、何にもしないで口に入る物は、無いのだ。」と言っていた。

若い時、食べ盛りの高校生くらいの頃、魚や肉が食事にでなくて、「こんなの食べられない。」と文句を言ったそうだ。

すると、母親が「食べ物一つ、色んな人の手がかかってできている。一つ一ついのちを頂いているのに、食べられないなら、食べなくていい。」と言って、夕食を抜かれたそうだ。 そしたら、腹が減って腹が減って、どうしようも無くなったと言う。

 母親が、食事を抜かせてまで、自分に教えようとしたことが解って、それから食べ物に文句を言わなくなったそうだ。食卓に上るまでの陰の手間を考えることができるのだろう。肉には、いのちがあって生きていたことを思うのだろう。野菜にもいのちのあることを思うのだろう。食べる度に母親を思い出すのだろう。

 当たり前にしていたことが、本当にありがたいことだったと教えて頂いたのだ。

 私の父親と同じ年代で、食卓に肉や魚が無いと文句を言うなんて、裕福な家でしたかと聞くと、そうだと答えていた。

 今、食べたいものがいつでもスーパーにあり、お金を出せば、大概の物が買える。食べられることが当たり前に思っている私は、パンがここに来るまでを思い至らず、さんまは100円で安かったと思い、いのちを頂いているとは、思えない生活をしている。

 だからこそ、手を合わせて、「なむあみだぶつ」と私に聞かせよう。阿弥陀如来は、私に早く気付けよと語りかけてくれるだろう。駄目な人間だと思い知らせてくれるだろう。

そして、大丈夫だと語りかけてくれるだろう。

第 40 回 「見えんけど、居る」('10/10/24)

 NHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」が9月で終わった。

春から始まったこの物語の底に流れていたのは、主人公の布美枝が子どもの頃に、おばばから聞いた昔話に出てくる妖怪だった。

布美枝の夫、村井茂(水木しげる)も、妖怪の絵を描き続ける。次女喜子は、「妖怪の住みにくいところは人間も住みにくい。」と言っている。

また、布美枝は「見えんけど、おる。」とも言っていた。

 妖怪=人知では解明できない機会の現象又は異様な物体。ばけもの。(広辞苑 第六版)とある。

 「妖怪」を「阿弥陀仏」と置き換えると、「阿弥陀仏の住みにくいところは人間も住みにくい。」「見えないけど、いる。いらっしゃる。」

 阿弥陀仏=阿弥陀に同じ。阿弥陀=サンスクリット語のAmitabha(無量光仏)Amitayus(無量寿仏)という名の最初にあるAmitaの音写。

無量なる仏という意。西方浄土、極楽世界にあって、法を説く仏。またさとっている仏。永遠に救いを与える仏。いのちと光きわみなき仏。

過去久遠劫に世自在王仏のましました時、ある国王が無上同心を発し、王位を捨てて出家市法蔵比丘となって仏のもとで修行し、諸仏の浄土を見学し、

五劫の間考えて、特別にすぐれた願(四十八願)をお越し以来徳を積んだため、今から十劫以前にその願行が成就して阿弥陀仏となり、

この世界から十万億土を去る西方に極楽を建立し、今も説法しているといわれる。・・・・・・・(中村元著 仏教語大辞典)

 ゲゲゲの女房を見ながら、妖怪でなく、阿弥陀仏を見ていました。

第 39 回 「陸上競技選手権大会」('10/7/14)

 陸上競技とは、無縁だった。足が速くないから。

運動会はどちらかと言えば、無くてもいいと思う方だった。ところが、娘はちがっていた。

運動会でも速い。保育園の運動会でも、涙が出そうなくらい感動した。小学校の運動会も、みんなが頑張っているから、とても感動する。特に、リレーは、バトンを次々と手渡していく、足の速い子も遅い子も、手渡されていくその迫力に感動する。 たまたま、小3の時、怪我をした子の代わりにリレーと50m走に出たのが始まりだった。参加者の少ない大会で入賞したのだ。みんなの前で、表彰された。どのような気持ちだったのか、私には想像しかできないが、嬉しかったのだろう。次の年、3・4年共通混合リレーで優勝大会新を出し、メダルまでもらった。ゴールドメダルだ。そして、去年と今年と参加した。やはり、普段から陸上をしている人にはかなわないと思った。

が、運も有って、2チームで出場したリレーは、2チームとも6位、7位に入賞した。

 今年初めて、お父さんが陸上競技場に応援というか、見に来た。お父さんは、子どもの頃足が速かったそうだ。その姉二人も足が速かったそうだ。きっと、似たのだろう。その夜、「陸上競技場に初めて行ってみた。」と言った。子どもの頃に陸上競技場は無かったそうだ。

「菜々子さんに連れて行ってもらったんだよ。菜々子さんがいなかったら、行くこと無かったでしょ。」と言うと、

「そうだな。」と言っていた。

思いもよらないことだらけです。

第 38 回 「自由研究」('10/7/8)

 夏休みが近づいてきた。子ども達は、夏休みの計画を立て始める。

親も、計画しなければならない。夏休みが短くなってきたからだ。7月26日から8月25日まで。7月24,25日が土日になるので、24日から休みになるだが。ほぼ、1ヶ月。自由研究をどうしようかと、考える。どうもうちの子は、毎日観察するというような物は向かないようである。私に似たのだろう。

2年の娘は、前々から「漢字の成り立ちに」について調べようと決めていた。学校に通い始めてから、国語の時間に漢字を習うが、どうしてこういう形なのか不思議らしい。何をどう調べるかと思い、少し話しをした。

「漢字が、中国から伝わったのは知っている?」

「うん、知っている。」

「じゃあ、漢字が伝わる前は、どうしていたと思う?」と聞くと、

「あのね、手話で話しをしていたと思う。」と言うのです。

思いも掛けない答えに「えっ。」と聞き返してしまい、逆に驚かせた。

「ちがうの?」

「いや、そうでなくて、こうかなと、想像することが大事なんだよ。そこを調べてみようよ。」

 早速、図書館に行って、漢字の成り立ちに関する本を子ども向けのところから、3冊ほど借りてきた。大人向けのところにもいろいろあった。

「発想」から、何が飛び出してくるのか。「あたりまえ」のところで生活している私にとって、娘の「発想」に付き合えるのは、この上ない事だと感じた。

私を照らしてくれる、私のあたりまえを照らしてくれる光だった。

第 37 回 「無理と道理」('10/6/24)

 「無理が通れば道理が引っ込む。」と祖母が言っていた。祖母の意見とほかの人の意見が対立する。祖母の意見が通らない。そうすると言っていた。祖母の意見が「道理」で、他者の意見が「無理」である。祖母はいつでも正論だった。少なくとも、本人はそう思っていた。

 しかし、どうだろうか。どちらが無理で、どちらが道理かわかるのだろうか。

人の言ったことに合点したとき、「道理で。」とうなずく。理が通ったのだ。「無理」でも通ってしまえば、道理になりはしまいか。いや、それは道理違いだろう。それは、筋道違いだろう。屁理屈でも理は理なのか。

 普天間基地はどうだろう。沖縄に落ち着いてしまった様だが、国外、県外移設は、無理だったのだろうか。

終戦時、アメリカとの密約があったからだそうだ。道理でと、納得している。果たして、いま、納得できるだろうか。

戦後65年。無理と道理は、見分けがつきにくい。

 阿弥陀の世界には、正定聚・邪聚・不定聚とあるそうだ。この世の中で言う法律に則して生活することを不定聚。法律を守らない生活を邪聚。その人がその人のままで居られる、仏様の世界を正定聚。本当の道理とは、その人がその人のままで居られる世界で、

あるものがあるようにある世界で現実になるのだろうと思う。

 そんな世界に生まれたいと思いませんか。

第 36 回 「平等」('10/6/23)

 兄弟でも、違うものだ。

 真ん中の娘は、「毎日が、楽しい。」「楽しくなければ、生きている意味無い。」と言う。やりたいことを、かたっぱしからやって、毎日忙しい。「楽」しているわけでない、むしろ、苦しい、大変なことも多いと思う。しかし、「楽しい」と言う。

長男は、「生きていも、意味無い。」「つまらない。」と言う。親から見れば、長男は、物分り良く、いい子で手がかからない。

長女は、言い出したら聞かない、手に余る。困ったことだ。しかし、だから、この子なのだと思う。

 それにしても、同じ家に住みながら、同じ親から生まれたのに、こうも言うことが違うと、いささか、不平等だと思わずに居れない。

どうしてと、考えてしまう。

 「極楽」と言うのは、苦しみの無い世界を言うのではないそうだ。

苦しみが苦しみとならない世界のことを言うのだそうだ。そうすると、今、長女の居る世界は、極楽なのだろう。

では、長男の居る世界はと言うと、生きているのに生きていない。「地獄」何地獄だろうか。わたしをわたしが受け入れられない。思春期なら、誰もが通る道だと思う。父が、話してくれたことは、子供にしてみれば、誰も生んでくれと頼んで生まれてきたのでない。

親にしてみれば、子供がほしいと思っても、こんな子が生まれるとは、思ってもいなかった。思いを超えた存在なのだ。思いを超えて、ここにある。私の思いで無く、あなたの思いでもなく、如来の願い。如より来た願い。

 だから、尋ねる、お前は、本当はどうしたいのだ。どうなりたいのか。

人間の言葉は、難しい。言葉がその意味と逆のときもあるからだ。好きなのに嫌いと言ってみたり。よくないのに良いと言ってみたり。本当に、ほんとうは、難しい。

 明らかなのは、本当に本当の自分に、出会いたいと思っているのだということだ。

今、ここの私。不平等だけれど、平等な世界がある。

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