33年ネット諸兄姉どの(2025.11.16)
縄文の思考を追う。
わたしの書庫に縄文時代について5冊ぐらいあるが、そのうち最初のインパクトは「日本の伝統」(岡本太郎著、S31(1956)年光文社)、最も強烈なインパクトを与えたのがつい最近(2025.08.25)亡くなった小林達雄氏(1937年生、添付記事)の「縄文の思考」(2008年、ちくま新書)である。以下は「縄文の思考」の抜き書きである。
「★日本列島最古の遺跡
日本列島に人類が姿を現わしたのは、一体いつのことか。人類学・考古学の 最大の関心事ではあるが、依然としてその詳細を見極めることはできない。少なくとも、約三万年から一万五〇〇〇年前までの、いわゆる後期旧石器時代に相当する遺跡は北海道から 九州までー万箇所近い多数が発見されている。 旧石器人が天から降ってきたり、地から湧いたりするわけはないのであるから、必ずや先遺隊がいたに相違ない。また、約三万年以前の 日本列島各地には、ナウマンゾウ(若き日、野尻湖に見学に行った。)やオオツノジカやバイソンなどの大形獣が群をなし、北海道にはマンモスが渡ってきていた。各地発見の化石が当峙の状況をよく物語っている通りである。あれだけの図体の動物が入りこんでいるからには、同時代に生きた敏捷な人類はチャンスさえあれば 当然容易に渡来できたはずである。この仮説には毫の誤りもない。(注;2025.6.8毎日新聞では、約3万8000年前まえに大陸から渡わたってきたというのが有力な説せつとなっています。ところが、それより4000~5000年も早はやく日本列島にきた可能性が出でてきました。広島県廿日市にある冠遺跡から出土した石器群が、後期旧石器時代よりも古い4万2300年前のものだと確認されたのです。調査を担当した奈良文化財研究所の国武貞克主任研究員が5月25日にちに発表しました。朝日、産経なども掲載している。かって捏造事件があって慎重な姿勢がみられる。)
★土器の技術的革新性
とりわけ 土器の登場は重要である。土器は粘土製でありながら、加熟することで、水に溶けない容器となつた画期的な成果品である。まさにゴ ードン・チャイルド(ヴィア・ゴードン・チャイルド(英語: Vere Gordon Childe、1892年 ― 1957年)は、オーストラリア生まれのイギリス考古学者・文献学者。)が、土器は人類が化学的変化を応用した大事件だと評価した通リの歴史的意義がある。この点だけみても、石器や 骨角器などの新顔の出現や衰退の動きとは岐然と区別さるべき、高い次元の性質を備えた颯爽とした登場なのである。これぞまさしく人類史上における土器の技術的革新性である。だから、これを並いる各種道具と同列において、土器出現の先後関係やその年代決定のみに執着して、いかに従来よりも古く遡るのか、という皮相な関心を追求するだけでは、いかにも歴史スル、考古学本来の使命の放棄にもつながりかねない。再言すれば、土器の新しい道其としての性格・特色を吟味し、社会・文化の中にその 意義を位置づける必要がある。とりわけ、土器の技術的な革新性が重要であるが、これまで等閑視されがちであった。そして何よりも、土器の使用によって新たにもたらされた社会的・文化的効果にかかわる問題があり、その歴史上の革新性を吟味する必要がある。
★造形的革新性
ところで、土群の歴史的意義の評価は、チャイルドの指摘で尽くされるものではない。
土器は、焼成とは別に、粘土を材料とした道具の初めての成果品であったことも看過してはならない。それまでの旧石器時代に、粘上を丸めた土塊をはじめ、ヨ -ロッパ の一部では動物や人形も作られており、その萌芽はみられる。しかし、容器としての機能のイメ ―ジをみごとに実現化した土器の革新性は、人類史上において極めて重要である。さらに、造形的な観点においても、土器には画期的な意義がある。つまり、それまでのヒトの手になる造形のほとんど全てが、石器、骨器、角器、牙器、貝器、木器のいずれにしても、最初に用意した素材を割ったり、剝いだり、折ったり、削ったり、磨いたりという加工作業によって、減形あるいは減量しながら最終的に目的とする形態を作り出すものであった。ところが、それとは対照的に、土器は最初に用意した素材の量に継ぎ足し、継ぎ足ししながら、とどのつまりは増量によって最終的目的の形態を実現するのである。ここにこそ、長い造形史上における「引き算型造形」の歴史に楔のように割り込んで気を吐く「足し算型造形」の鮮烈な革新性がある。
かてて加えて、引き算型造形においては、石材をはじめ 骨や木などの素材の物理的性質に強く制約され、造形の融通がきかない。一方の粘上造形では、継ぎ足しの工程で、気に入らなけれぱ、あるいは理想とするよりよきかたちの追求のために、いくらでも加除修正を自由自在に行うことができるのだ。イメ —ジにより近づけるための意図に応えてくれる、文字通りの柔軟性がある。だからこそ、土器には古今東西、無限のかたちの実現が保障されてきたのである。石器などにおいて、時代や地域を超えて同形同大の形態がしばしばみられるのは、引き算型造形の素材がもつ物理的制約のせいで自由がきかないから、特定の機能に対応してその索材の上にイメ—ジされたかたちが、どうしても似た形態に収斂しがちとなるのである。好みを許さない待ったなしの形態で 妥協せざるを得ないのだ 。それに対して粘土造形は、人類の造形史上の画期的な新分野の開拓を保障し、現代にもその伝統は継続され、古くて新しい陶芸世界が生きているのである。さらに、土器の器表面に、粘土の盛り上げ、貼りつけ、刺突、箆描き、彫りこみ、筆による彩文、彩色などの多稀多様な文樣あるいは装飾デザインを展開させたことは、造形の可能性をさらに広げたのである。
★縄文姿勢方針
土器の実用的使用(煮る)の上に立って、 縄文時代の狩猟漁労採集は、文字通り山海の恵みを専ら享受する構えをとる。 貝塚などに残された 貝の種類三〇〇、魚 七〇、獣類六〇、鳥類三〇種ほどをそれぞれに超え、その他にカメやへピや海獣を食科としていた。 骨格や殻のない植物は残リにくいが、それでも約六〇種知られており、実際はその五倍の三〇〇以上と見積もっても大裂裟ではない。白井光太郎が『食用植物』で挙げているのは、キノコ類を除いて四五〇種に上る。地下の根茎、球根にはじまって、茎、葉、若歩、花、つぽみ、果肉、種子など多彩である。とにかく縄文人が食用とした動・植物のパラエティ ーは尋常ではない。この 事実に感嘆してばかりいては駄目だ。ましてや、これを手当たり次第に口にしたなどと早とちりしては、縄文人の思いや 精神をいつまでたっても理解できない。
とにかく、「縄文姿勢方針』は何よりも食科 事情の安定にそのままつながる理想的な戦略であった。つまり、食料を極端に少ない特定種に 偏することなく、可能な限り分散して万 遍なく利用することで、いつでも、どこでも、食べるものに 言欠かない状態を維持できるのだ。まさに「縄文姿勢方針」の真骨頂がここにある。
このように好き嫌いの我儘を一切 いわず、多種多様な利用を心がける「縄文姿勢方針」は、食料 事情の盤石の安定を保障するにとどまらず、それがそのまま巧まずして自然との調和をいささかも乱すことなく、生態学的な調和をしっかりと維持する効果につながっているのだ。まさに、自然の秩序の中の一員として生きた縄文人の生き方の 重要な意味がここにある。
一方の農耕はごく少数の 栽培作物に集中するが故に、冷害旱魃などの異常気象で不作ともなると、それに代わるべき用意がないだけに、たちまち食料不足を招き、餓死者続出ともなる。その危険を避けるために、あくなき増収を目折して、耕作用の田畑を拡大し、一方的に自然の領域を侵し続ける方針を決して曲げることなく、貫き通してきたのだ。「 自然の克服」という合言葉は、やがて地下資源に手を出し、大気をも汚染し、オゾン 層すら破壊しながら依然として止むところがない。しかも、この期に及んでなおかつ 真剣な反省がみられない。歴史を振り返ることもなく、未来を 見据えた哲学すら生まれていない現状は深刻である。
★岡本太郎の見方
縄文土器は、この粘土造形の特色を最も艮く発揮させ、ヤキモノとしての土器の造杉において、とくに世界に冠たる独自で個性豊かな展開をみせたのだ。改めてこの事実を認めたのは岡本太郎であり、「ここに 日本がある」と叫ばしめたのであった。それまでは、縄文土器は考古学研究上の恰好な対象にしか過ぎなかったのだったが、ついに造形あるいは美学的・芸術的分野でも高く評価され、気を吐くに至ったのである(「縄文の思考」p046)。縄文学者なら知らぬ人いない有名な言葉である。
わたしは、「日本の伝統」(岡本太郎著、昭和31年(1956年)光文社)を持っている。この本とでは約50年の時間差があり、岡本太郎が引用している根拠とはかなり違っているが、かれの言わんとすることを引用しておきたい。
・縄文土器 ー民族の生命力
いやったらしい美しさ
はじめて縄文土器を突きつけられたら、その奇怪さにドキッとしてしまう。どこの野蜜人が作ったんだろう、ものすごい、へんてこなものだ、と思うにちがいありません。
それこそじつは日本人、正真正銘のわれわれの祖先の作りだしたもの、大事な文化の遺産なのだ、と聞くと、二度びっくり。ふつうの人は何か怪しむような顔をして、どうもあんまりドッとしないらしい。
じっさい、不思議な美観です。荒々しい不協和音がうなりをたてるような形態、紋様。そのすさまじさに圧倒される。
はげしく迫いかぶさり、重なりあって、突きあげ、下降し、旋回する隆線紋 (粘土を 紐のようにして土器の外がわにはりつけ、紋様を絵がいたもの )。これでもかこれでもかと、 執拗にせまる緊張感。しかも純粋に透った神経のするどさ。
とくに爛熟したこの文化の中期の美観のすさまじさは、息がつまるようです。つねづね芸術の本質は超日然的なはげしさだと言って、いやったらしさを主張する私でさえ、 思わず叫ぴたくなる凄みです。いったい、これがわれわれの祖先によって作られたものなのだろうか ?これらはふつう考えられている、なごやかで繊細な日本の伝統とはまったくちがっています。むしろその反対物です。だから、じじつ、伝統的主義者や趣味人たちにはあまり歓迎されないらしい。
たしかにそこには美の観念の断絶があるようです。一時は、これは現代日本人とは異なった人達によってつくられた、ペっの系統の文化ではないか、と考える学者もあったくらいです。弥生式土器や 埴輪などには、現代に直結する、いわゆる日本的感覚がすなおに汲みとられます。だが縄文式はまるで異質で、ただちにわれわれと結びつけては考えられない。そういう疑問も、今日では学問的に否定されていますが、いちおううなずけないことではありません。私がはじめて伝統、そして芸術の問題として、縄文土器を取りあげたのは一九五二年ごろでした。 当時まだ一ばんに、考古学の資料として観察はしても、それが芸術の伝統としてわれわれに 直結するものとは考えられていなかった。
いまの日本人の神経には、こんなにこってりとして複雑な、いやったらしいほどたくましい美感はどうにもやりきれない。かなわないという感じがする。そこで自分のひよわな精神の範疇で遮断してしまい、自動的に伝統の仕切りの外がわに 置いて考えようとしているようすでした。いや、まだまだそれが現状のようです。だからじじつ、弥生式土器や埴輪ならば、日本の古典としてそれを愛し好んでポスタ ーにもカレンダーなどにもさかんに使いますが、縄文式のはうはどうも敬遠されがちのようです。
以上、いちおう生産様式が両世界の生活感情の上にどのように決定的な的 ®を与えるか、その土台について以史したが、そこで 立体的に土器の形態、紋様を観察してみることにしましょう。ここにはみごとに二つの文化の性格、世界観が打ちだされています。
「縄文土器のもっとも大きな特徵である隆線紋は、はげしく、するどく、縦横に奔放に躍動し、くりひろげられます。その線をたどってゆくと、もつれては解け、混沌にしずみ、忽然と現われ、あらゆるアクシデントをくぐりぬけて、無限に回帰しのがれてゆく弥生式土器の紋様がおだやかな均衡の中におさまっているのにたいして、あきらかにこれは獲物を追い、闘争する民族のアヴァンチュールです」と云うが、植物にも依存してた「縄文姿勢方針」から見るとこうとは言い切れない。むしろ以下の文章に注目したい。
さらに、異様な衝撃を感じさせるのはその形態全体のとうてい信じることもできないアシンメトリ— (左右不均斉 )です。それは破調であり、ダイナミズムです。その表情はつねに限界を突きやぶって政動します。
一つのアシンメトリック (左右不均斉 )な面を起点として、見る者はどうしても土器の周囲をまわって見なければすまない衝動を感じはじめる。ところで、視点の移動につれて、なんという想像を絶したイメージがくりひろげられるでしょうでしょうか。
—そびえ立つような隆起があります。するどく、肉ぶとに走る隆線紋をたどりながら、視線を移してゆくと、それがギリギリッと 舞いあがり、渦卷きます。とつぜん降下し、左右にぬくめくと二度三度くねり、さらに垂直に落下します。とたんに、まるで思いもかけぬ角度で上向き、 異様な扱をえがきながら逐いのぼります。不均衡に高だかと面をえぐり、切りこんで、また平然ともとのコースに戻るのです。
わたし(イチハタ)は、思う;この自由闊達な思考、即アシンメトリック (左右不均斉 )、アンバランスこそダイナミズムを生み出す源泉であろう。「縄文姿勢方針」という、一万年に及ぶ安定した生活の中で生まれてきたものでしょう。頂点に立つのは火焔型土器(pdf添付)である。
松岡正剛(1944-2024,日本の実業家、編集者、著述家)の千夜千冊では、この異様な土器を日本人の大半が自慢をするのだが、この土器は縄文時代全体に及んでいるのではないし、日本列島の全域に発現したものでもない。全期を通して縄文土器の文様様式には、いまでは約70ほどの異同が確認されているのだが、なかで火焔土器はほぼひとつの「クニ」だけがある時期に生み出し、そして消えていったものだったのであるという。
しかし、わたしは、消えて行っても、縄文人の思考が到達した最先端であることには違いないと思う。
イチハタ