33年ネット諸兄姉どの(2025.10.31)
10.24日に「「日本国憲法の逆襲」その一」をお送りしました。
「「日本国憲法の逆襲」その二」をお送りします。
「天皇への敗北―戦後の民主主義における天皇のものがたりについて」新潮2024.9、国分巧一朗著を見つけた。
読んでみると面白い。これはまさに日本国憲法の逆襲、象徴天皇制度の反撃だ。「日本国憲法の逆襲その二」として発信する。
(国分巧一朗;こくぶん こういちろう、1974年7月1日 - )は、日本の哲学者。東京大学大学院総合文化研究科教授。学位は、博士(学術)(東京大学・2009年)。
17世紀哲学、現代フランス思想が専門。時代の閉塞感への考察など、現代社会の分析も行う。Website)
立憲の野田元総理はフジプライム 24.6.18(火) 野田元首相「国家経営の三原則」として1.外交の基軸は日米 2.官僚の知恵をつかう3.皇室を大切にする。
つい最近では立憲民主党の枝野は、安保法制は憲法違反ではないと、憲法改正の必要なしと軌道修正をし、朝野を驚かせた。以下は国分巧一朗の所見である。
★以下国分巧一朗の所見
「立憲主義と民主主義は必ずしも一致するものではない。両者の関係にはまだ未解決の問題がある。しかし、両者はしば しば対立しつつも互に 手を取り合っていくべき理念である。「自分たちで民主的に決めたのだから何が 悪いのだ。なぜそれにケチをつけるのだ」と 民意 に居直るのでもなく、憲法の訴える価値に対する無理解の中で 「憲法に 書かれているのだから守りなさい」とエリ ―卜たる専門家たちから法形式主義的にただ価値を押しつけられるがまま になるのでなく、立憲主義と民主主義の間の緊張に満ちた対立関係の中で両方の理念を守り抜いていく。それは近代政治の最重要の遺産であると同時に、戦後の日本の 憲法学が 目指していた「戰後9条および平和主義を考える上で重要な存在がある。それが天皇である。この点を説明するためには、2021年に成立した第二次安倍政権の話をしなければならない。この政権は当初から憲法改正に積極的だったが、その姿勢は私が先に言った立憲主義と民主主義を巡る成熟とは実に正反対のものであった。一言で言えば、彼らは驚くほどに幼稚であり、この幼稚な政権が実に八年近くもの長期にわたって選挙で勝利し続けた。
安倍晋三首相 (当時 )は政権発足当初、 日本国憲法第96条に定められた憲法改正の条件、すなわち、国会で衆参各議院の総議員の三分の二以上の賛成を経た後、国民投票によって民主主義」の姿であったと思われる。
過半数の賛成を必要とするという条件が厳しすぎるからこれを変えてしまおうと言い出した。 具体的には総議員の三分の二以上の賛成という条件を単なる総議員のk過半数以上の賛成に変えてしまおうというのだ。自分たちが変えたいものを変える条件が厳しいからまず条件を変えようというわけだ。「国氏が主権者であり、憲法を国民の手に取り戻す」というのが安倍晋三 の言い訳であった。
憲法学者たちは当然のごとくこの主張を強烈に批判した。最も鋭いメスを入れた憲法学者の一人が石川健治である。石川はこれを「立憲国家としの根幹に対する、反逆で
(石川 健治(いしかわ けんじ、1962年 - )は、日本の法学者[1]。専門は憲法学。東京大学大学院法学政治学研究科・法学部教授。樋口陽一門下。)
あり「革命」にほかならないと断ずるとともに、次のような端的な事実を指摘した。ただ過半数を取れぱいい単純多数決に対し、三分の二以上のようにそれ以上の賛成数を求める多数決を特別多数決と言う。
日本国憲法では特別多数決が求められる五つの局面が想定されているが、憲法改正の発議の場合とは異なり他の四つの局面では、 総議員ではなくて出席数の三分の二で議決できる。安倍晋二が言っているように、もし憲法改正の発議を単純多敦決にしてしまったなら、最も厳しい条件の特別多数決に課されていた問題が、その他の四つより軽い条件の もとで 議決されることになってしまう。 無茶苦茶と言う他かない。つまり、その程度のこと考えずに安倍晋三は96条改正などと口にしていたのである。私が幼推と言っているのは、安倍晋三という政治家に見いだされるこのような態度のことに他ならない。石川が使っていた言葉を用いて 、「議論の筋道を追うことを軽視する、その反知性主義」と言ってもいい。議論の筋道も、これまでの経緯も、ルールの根拠も考える気がない。ただ自分の都合が悪いものを取り除こうというだけである。さすがに9条改正は断念された。そしてこれを断念すると、安倍晋三は ,国民が主権者であり、憲法を国民の手に取りもどす」とは二度と言わなくなった。
但しこの態度は持続した。これまでの政権ならば、「さすが そこまでやるのはまずい」と言ったであろう政策についても、この政権はまるで「先輩、知らんぷりしていれば何でも出来ますよ」とでも言わんばかりの態度で振る舞った。それは憲法秩序あるいは立憲主義に対するあからさまな挑戦であった。2013年2月、「特定秘密保護法」成立。 2014年4月、武器輸出法の三原則の緩和。そして何より同年7月の集団自衛権をめぐる政府の憲法解釈変更および翌2015年9月の平和安全法制 (安保法 )成立。憲法違反の疑いが濃厚な法案や方針が次々と実現されていった。
この間、「民主主義の危機」が叫ばれたが、この言い回しには補足が必要である。この政権常に ,選挙で選ばれた自分たちが物事を決めて何が悪い」という態度であった。それは安倍晋三の「憲法解釈に責任を持っているのは内閣法制局長官ではなく、国民の負託を受けたこの私だ」という。 行政の長の位貿付けを否定した発言に如実に表れている。ここにあるのは、未成熟な民主主義が立憲主義に対立した際に陥りかねない 。自分たちで民主的に決めたのだから何が悪いのだ。なぜそれにケチをつけるのだ」と民意に居直る態度に他ならない。つまり、危機に陥っていたのは民主主義というよりも立憲主義だと言わねばならない。どれだけ民主的な手続きを経ていようとも権力は常に制限されねばならないという立憲主義の原則が踏みにじられていたのだ。もちろん、このような態度は立憲民主主義における民主主義の理念からもほど遠いものであって、その意味ではやはり民主主義もまた危機に瀕していたと言うべきであろう。
さて、安倍政権による立憲主義への挑戦が露骨になっていく間に、にわかに存在感を高めていったのが前天皇の明仁 (2019年に譲位して現在は上皇 )であった。天皇と皇后の態度と発言は明確に護憲の立場であり、立憲主義的であった。この点について、石川健治は私と行った対談 (未発表 )の中で、日本国憲法の中に、立憲主義が危機に瀕するとそれを守るために天皇が前にせり出してくる構造が内蔵されていたことが分かったと述べている。どういうことか。
天皇は憲法によって規定された存在であり制度である。日本国憲法の第 1条は象徴としての天皇を規定するものだ。っまり、憲法が蔑ろにされれば、天皇はその存在そのものが危うくなる。だからこそ天皇は立憲主義を破壊するような勢力に対しては敵対する。明仁は1989年の即位に際しても「日本国憲法の遵守」を強調する声明を発表していた。天皇は立憲主義を守るように構造的に位置づけられている。憲法と天皇のこの関係は安倍政権やその支持者にも理解されていた。だから安倍政権の支持層は明確に天皇に対して批判的であった。安倍政推の支持者が本当に保守派であるのならば、これは全く理解不能な事態であると言わねばならない。
他方、天皇の護憲的態度は、護憲の立場にあるリベラル勢力には大変喜ばしいこととして受け止められた。当然であろう。自分たちの態度を天皇が支持してくれたのであるから。日本の有名知識人の中には、明確に天皇制支持を表明する者まで現れた。
つまりここに 見られるのは、 9条を守り抜こうとする 護憲派の 立場を、 1条を根拠として存在している天皇が支持するという構造に他ならない。この構造のもつ捻じれを指摘したのが、日本を代表する知識人・哲学者、柄谷行人である。柄谷は豊下楢彦の研究に依拠しつつ、敗戰後の新憲法制定過程において、マッカ ーサ—の意図は天皇制の維持にあり、戦争放棄を謳った 9条はそのことについて国際世論を説得するための手段であった点に注目している。つまり、もともと 9条は、天皇の位置付けを規定した1条のために必要だった。ところが今では1条によってその位置付けを規定されている天皇が 9条を守ろうとしている。 1条のための 9条から、 9条のための1条への変化が起こったというわけだ。ではこの変化をどう捉えるべきだろうか。柄谷は象徴としての天皇という日本国憲法の成定は決して戰後に突如現れたものではなく、明治維新までの天皇のあり方に依拠していると指摘している。天皇によって平和主義が守られる構造は明治以前の徳川体制のあり方そのものだというのである。くりかえすと、憲法9条が根ざすのは、明治維新以後77年、日本人が目指してきたことの総体に対する悔恨です。それは ,「德川の平和」を破って急激にたどった道程への悔恨です。したがって、徳川の「国制」こそ、戰後憲法9条の先行形熊であるといえます。 ただ、私がそのようにいうのは、憲法9条は日本文化に根ざしているという意味ではありません。また、徳川時代の国制を称賛したいわけでもありません。憲法9条が含意するのは、カントが明確した普遍的な理念です。
憲法 9条 ーすなわち憲法の平和主義 ーを、憲法 1条 ーすなわち天皇 ーが守る構造が、徳川の ,「国制」に根ざしているのかどうかについて私は判断できない。しかしここで一つだけ、私がこの 十数年、憲法学者たちから伺ってきた話をもとにして言えることがある。
戦後 日本の憲法学者たちは、日本国民が民主主義と立憲主義について成熟し、自らの頭でこの憲法が訴える価値を理解し、自らの手でこの価値を担うようになることを目指してきた。天皇に頼らずとも、国民が平和主義をはじめとする憲法の訴える価値を守れるようになることを目指して、憲法物語の作成が試みられてきた。だが、第二次安倍政権下で我々が目にしたのは、その憲法物語の試みが結局、天皇にはかなわなかったという残酷な現実である。憲法秩序の破壊者たる安倍晋三の企てを止めるために、日本国民は結局、天皇に頼らざるを得なかった。天皇と憲法の平和主義との関係については、柄谷の 言う通りなのかもしれない。確かに、 日本国憲法には立憲主義が危うくなると天皇がぐっと前にせり出してくる 構造が内臓されていたのである。しかし、この構造に賴らずに立憲主義を守り抜くことこそ、戦後 日本の憲法学が目指していたことだったのではないか。ならば、天皇と憲法の平和主義との関係を構造的に分析するに留まらず、「日本国民は天皇に頼らずに立憲主義を守るべきだったのではないか」と 問うべきではなかろうか。これは立憲主義の危機のもとで、次々と天皇に対する好意を表明していった日本のリベラル勢力に対しても発せられるべき問いである。
私は憲法学者ではないが、日本で 研究と言論に関わる者として、そしてこの憲法のもとで 生きてきた個人として、戦後日本の憲法学の試みに自分が無関係であるとは到底思えない。だから私は強い敗北感を感じている。」
(憲法はボロボロになっている。しかし、田原総一郎の主張ではないけれど、憲法改正はしない方がイイ。
昨日、29日(火)立憲民主党の最高顧問枝野は、安保法制は違憲ではないから憲法改正は必要ないという奇妙な論理を展開した。これなども田原総一郎と同じ発想なのか。30日の朝日によれば、立憲の代表野田佳彦によれば政権交代した場合でも安保法制の存続の下で政権を運営すると云っている。国民の玉木は野田・枝野両氏の発言については正しい方向への変化だと歓迎している。これで政局がらみに展開することは必至か)
イチハタ