33年ネット諸兄姉どの(2025.11.02)
終活で整理しているわたしの蔵書の中に「和泉式部日記」(清水文雄(1903~1998和泉式部の研究、学習院時代に三島由紀夫の才能を見出したことでも知られる。)校注、岩波文庫 1984年(S54))がある。
帯封に「帥(そち)の宮とかわした贈答歌・手紙を宮との恋愛生活を書き記した式部の真情は、千年の歳月を越えてなお人のこころをうつ」(新訂)と記されている。なぜこの本をかったか全く記憶にない。
昨年の大河ドラマ「光る君へ」では、「つながる言葉」という第30回で「あかね」(和泉式部、女優泉里香が演ずる)が藤原公任の自宅四条宮で北の方の主宰し、まひろ(この名前は創作である。籐式部、紫式部)が漢詩・和歌を教える「学びの会」に登場する。
まひろが、和歌を歌う心構えとして紀貫之の有名な「人はいざ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」
を読み上げ、この詩が劉延芝(唐代の詩人)「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 」(唐詩選)をベースにしたものという解説をしている。(この劉延芝の詩は「代悲白頭翁」と題する七言古詩である。わたしは高校一年の担任が漢文の先生だったので漢詩解説(S26年平野彦次郎著)をもっていてこの全文を読んでみた。
人の老いやすいことを詠じた詩である。)
あかねは、先生はそんな難しいことを考えて詠うのですかと云って次の句を歌う。
「声聞けば あつさぞまさる 蝉の羽の 薄き衣は みに着たれども」
この会の帰途、廊下にあかねがふらふらと出てきた親王さまがわたしを疑っておられるのとまひろにいう。
第35話「中宮の涙」にでてきたあかねは恋人あった二人の親王が薨去したあと、まるでわたしが命を奪ったみたい。まひろは、思い出を書いたらと言う。
★以下は日記の、その時期の解説である。
「太皇太后宮(冷泉皇后昌子内親王)を御継母として親しく仕えられた弾正尹(ダンジョウノカミ)為尊親王は、その御病中はもとより、それ以前ら、いくたびか宮の御許に出入されたであろうから、宮の女房であった式部との間に恋愛の萌え出る機が、おのずからに生じたことと思われる。弾正尹為尊親王は、冷泉天皇の第三王子で、三条天皇の同母弟、御母は摂政太政大臣藤原兼家(道長の父、娘詮子は円融天皇に入内して一条天皇を生む)の女、贈皇后宮超子である。天元五年 (982年―794年に桓武帝遷都があった時から、すでに188年たっている)六歳のとき、そのご生母を喪われ、兄弟の宮とともに外祖父兼家のもとで德育をうけられた。弾正の宮は、幼少の頃からすでに、その容姿は「かがやく」 (『大鏡』 )ばかりであったが、同母弟帥の宮と同じく、その性質は「かろがろ」 (同上 )で、「いみじう色めかしうおはしまして、知る知らぬわかぬ御心」『栄華物語(赤染衛門)』 )の持主でもあった。その弾正の君と式部との交涉は、いつごろから始まったか判然しないが、宮は悪疫流行をもかえりみぬ「師夜歩き」 (同上 )がもとで、「いみじうわづらはせ給ひて」 (同上 )、長保四年 (902年 )六月十三日 (『権記』 )、二十六歳で崩ぜられた。故宮の四十九日の法要はてたあとで、貞淑な正妃 (藤原伊尹第九女 )は、悲歎のあまり尼になられた ( 権記』『栄華物話』『大鏡』 )。こうして、弾正の宮と式部との恋も、かりそめのはかないものに終ったようである弾正の宮に死別して、「夢よりもはかなき世の中を歌さわびつ々、明かし暮ら」 (『日記』 )していた式部は、長保五年四月十日余りのころ、宮と四歳ちがいの同母弟太宰帥牧道親王の恋をうけ入れる機縁がつくられた。宮が橘の枝を贈って式部を誘われると、「薰る香によそふるよりは時烏 聞かばや同じ声やしたると」と答えて、何の心をかえって積極的に迎える最を示した。このとき帥の宮は二十三歳、式部はそれよりも少なくとも数年の年長であった。ご生母超子の美貌を享けられて、三親王とも容姿端兆であったが、 帥の宮はそのうえ、ご兄弟中でもっとも芸術的天分に恵まれ、漢詩・和歌ともによくされた。式部は、恋の対象として欠けるところのない帥の宮に対して、真の精神的な愛を感じたであろうし、宮も美貌才藻の式部に青春の感傷をかけられたもののようである。しかし、初めから身分不釣合のこの恋は、周囲の猛烈な反対をうけねばならなかった。そればかりでなく、式部の脆弱な資性は、このときでも他の男性を拒みえない状態であったので、ひとつには群がる異性から式部を隔離するため、ひとつには周囲への反抗心から、宮は意を決して、式部をその邸の南院へともなわれた。それは同じ年の十二月十八日のことであった (『日記』 )。このとき南院には宮の正妃がいられた。小一条大納言藤原済時の中の君であるが、内が式部を南院に入れられたので、いたたまらずして、翌寛弘元年 (1004 )正月、春宮 (後の三条天皇妃である御姉娍子の勧めに従い、南院を出て、小一条の祖母上 (藤原師尹の室、済時の母 )のもとに帰られた (『 日記』『栄華物語』 )
式部の南院入りを伝え聞いて諫める人もあり、みずからも、「この宮仕へ否にもあらず、巌の中こそ住ままほしけれ」 ( 「日記」 )といっているとおり、必ずしも好もしいことではなかったが、式部は、「かたじけなき御こころざし」 (『同上』 )を無にするに忍びず、「心憂き身なれば宿世にまかせてあらん」 (同上)と観念して、何の御意にすべてをゆだねた。
かくて式部は、南院人るとともに、いよいよ宮のご籠愛を一身にあつめることとなった。寛弘元年(1004年)四月の賀茂の祭に、帥の宮が、美しく飾った車に式部と同車して祭見物をされたことは、『栄華物語』にもみえるが、『大鏡』にはつぎのように記されている。
帥の宮の、祭のかへさ、和泉式部とあひ乗らせ給ひて御覧ぜしさまも、いと興ありきやな。御車の口のすだれを、中より切らせ給ひて、わが御方をば高うあげさせ給ひ、式部の方をばおろして、衣ながういださせて、紅の袴に、あかき色紙の物忌ひろきをつけて、土とひとしうさげられたりしかば、いかにぞ、物見よりは、それをこそ人見るめりしが。
帥の宮の得意思うべきである。というよりも、この場合はむしろ、並みいる観衆に対する誇示のポ—ズの目立つ記述ではある。それはともかく、南院時代における二人のこのような状態は、いつまでつづいたであろうか。それを明らかにするよすがは、今のところない。その南院も、寛弘三年 (1006 )十月五日夜の火災で烏有に帰した ( 「御堂関日記(道長の日記)」「権記(藤原行成の日記)」 )。それ以後は、宮は他におられ、式部も従って移ったであろう。かくて宮と式部との関係は、長保五年から寛弘四年まで足かけ五年つづいたが、この年の十月二日に、宮は二十七歳の短命の一生を終えられた (『御堂関白記』『権記』 )。宮の薨去は、式部にとってほとんど致命的であった。『和泉式部続集』に入る百二十余首 (九四以下 )の歌は、いずれも綿々たる追慕傷心の詠でないものはない。(中略)
帥の宮の薨去は、式部の一生に一大転機をもたらした。式部は世の妻が夫の喪に服するときのように、一年の喪に服したことが、歌集によって知られる。そして寛弘五年(1008年)十月に喪か明け、その後召されて一条中宮影子の女房となり、そのとき娘の小式部もともに出仕したらしい。すでに中宮のもとには、紫式部や伊勢大輔が古参として出仕していた。」
伊勢大輔;いせのたいふ / いせのおおすけ 寛弘5年(1008年)20歳ごろに一条天皇の中宮・上東門院藤原彰子に仕え、和泉式部・紫式部などと親交し、晩年には白河天皇の傅育の任にあたった。康平3年(1060年)までの生存が確認されている。
大河ドラマ「光る君へ」では小式部も伊勢大輔も出てこない。
・小式部の小倉百人一首;「大江山生野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立」
この中宮奉仕が機縁となって、道長の家司の一人として、源頼光とともに道長の信任を厚うしていた
藤原保昌に再嫁し、後に夫が丹後守になったとき、式部も従って下った。そのときに小式部が詠った歌である(日記解説)。
・伊勢大輔の小倉百人一首;「いにしへの奈良の都の八重桜今日九重に匂ひぬるかな」
この奈良の八重桜は紫式部が受け取る予定だったが、急遽、伊勢大輔が受け取ったときに即興で
詠った歌である。あまりの出来栄えに周囲の者は驚き、一気に彼女の評判は高まったと云う(website)。
歌二つあげて終わりにする。
いずれも、ゲームなんかない小学生・中学生時代、百人一首の「かるた」取り記憶の底にある歌である。
源頼光、藤原保昌、大江山―大河ドラマ「光る君へ」では全くでてこないー風景の違った「鬼退治」になる。稿を改めたい。
イチハタ