00022
読書遍歴(24―1)詩歌を読む
中学時代の国語の先生は3人とも詩人であった。類は友を呼ぶで自然に集まったのではなく誘い合って集まったようであった。うち2人は一生を通じて詩を書き一流ではないが詩人であった。詩ばかりを読んで聞かされ、国語の本がいつまでたっても前へ進まなかった。
最初に記憶のあるのは三好達治の「乳母車」で「母よ—淡くかなしきもののふるなり 紫陽花色のもののふるなり はてしなき並木のかげを そうそうと風のふくなり」で始まっていた。意味はわからなかったが何故か心を打つものがあった。
村上菊一郎『愛の詩集』
高校、大学と過ぎて就職したころに村上菊一郎の『愛の詩集』(1956年角川新書、204頁)を読んだ。詩と愛は切り離しがたいもののようで愛を歌った詩は多い。この本の「愛」は必ずしも男女の愛ではなく「人生の愛」である。前半分は島崎藤村に始まって峠三吉(「仮繃帯所にて」)まで、日本の代表的詩人をほとんど網羅しており、後半はフランスの近代詩人の作品が占めている。村上はロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を訳してもいるから記憶のある人もいるだろう。
フランスの詩人の中にはポール・フォールがおり、その代表作とされる「輪舞(ロ
ンド)」は「世界のむすめが手に手をとれば 海のまわりに輪舞が出来よ 世界の子供が水夫になれば 海越えて、その舟橋が綺麗に出来よ ……」は平和というものを考え始めた若者の心を打つものがあった。ランボー(「谷間に眠る男」、「わが放浪」)やアポリネール(「ミラボー橋」)の詩はシャンソンの名曲としても馴染み深い。
会社で私の机の近くにいた高卒の女子社員が友だちとヘミングウエイの『老人と海』を原書で読んでいるということで時々英語の質問を持ってきた。私はその子に英語とは関係なく村上のこの本を貸したのであったがその貸した本は汚してしまったということで、代わりに新しい本が返ってきた。今この本を手にして、人に進呈するなら、今でも老人を若返らせるこの本だと思う。アマゾンで調べると古本でなら手に入る。
詩のアンソロジーは数知れない。芳賀徹『詩歌の森へ』(2002年、中公新書)、塚本邦雄『秀吟百趣』(2014年、講談社学芸文庫)がおすすめである。室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』は北原白秋以下11人の詩人の詩と伝記を紹介するものでこのジャンルでは最高の一冊だと思う。詩は難しいという人は、「(白秋の)処女詩集『邪宗門』を開いて読んでも、ちんぷんかんぷん何を表象してあるのかわからなかった」という告白には大いに勇気づけられることと思う。小西甚一の『俳句の世界』は本格的な俳句の歴史の書であり解説書としても味わい深い。
府中市郷土の森には「村野四郎記念館」がある。府中の古い商家の出である村野は府立2中(現立川高校)から商大予科を受験したが失敗して慶応の予科から経済へ進んだ。受験制度は一橋から伊藤整の数年先を行く一人の詩人を奪ったことになる。
「詩を作るより田を作れ」と言われるように詩人では生計が立たない。しかし詩人の魂は苦しみの中にある人々に勇気を与えて蘇生させもする。戦中の出版人として生き抜いた美作太郎は獄中にあって中村草田男の「玫瑰(ハマナス)や今も沖には未来あり」という一句に励まされ続けたという。私は宗谷海峡を見下ろす小高い丘でハマナスの群落を前にしてこの歌を口ずさんだことがあった。
釧路市内には石川啄木の歌碑が26もあり、港文館という旧釧路新聞の建物は啄木記念館といってよく、その前には啄木の銅像が建っている。思うに啄木の歌に救われて生きた多くの人々が啄木を偲んで建立したものであろう。アムサール条約以前、釧路湿原はただの不毛の地であり釧路は決して観光の街ではなかった。啄木にとって釧路は小奴に慰められる「さいはての…雪あかりさびしき町」に過ぎなかった。詩人の魂はようやくその死後になって甦るかのようである。
「詩を作るより田を作れ」はもう一つのメッセジも伝えている。それは言うまでもないウクライナやガザによって代表される破壊と殺戮が世界を覆っている時に詩歌の世界に逃避していてよいかという問いである。村上菊一郎は中野重治の「機関車」という詩を紹介している。その中野は「お前は歌ふな お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌ふな 風のささやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな …」(「歌」)によって『歌の別れ』を歌っている。
中野はすでに抒情詩の形を借りてプロレタリア詩の世界に入っていた。彼の「雨の降る品川駅」は「辛よさようなら 金よさようなら」で始まり「海は夕ぐれのなかに海鳴りの声をたかめる 鳩は雨にぬれて車庫の屋根からまいおりる 君らは雨にぬれて君らを逐(お)う日本天皇をおもい出す 君らは雨にぬれて 髭 眼鏡 猫脊の彼をおもい出す」という驚愕すべき言葉で抑圧者である日本の象徴、昭和天皇を指弾していた。
太平洋戦争は日本の文学者にとって巨大な試金石であった。高村光太郎は前途有為の多くの青年を戦場に駆り立てた責任を真っ先に認めて(「我が詩を読みて人死に就けり」)、詩集『典型』を著した。その中に「暗愚小伝」があり宣戦布告を聞いた高村は「天皇あやふし ただこの一語が 私の一切を決定した」という。
斎藤茂吉の人と作品
高村に劣らぬ天皇崇拝者の典型であった斎藤茂吉は戦後山形県大石田町で病を養ったが、なお盛んな創作欲は歌集『白き山』に結実した。代表作としてよく引用されるものに次の句がある。「最上川逆白波(さかしらなみ)のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」。逆波を「逆白波」としたのは茂吉の造語という。茂吉は光太郎のようにあからさまな反省の言葉を述べていないがその内心をうかがわせる歌も残している。同じ『白き山』に次のようなものがある。
わが生きし嘗ての生もくらがりの杉の落ち葉とおもはざらめや
最上川の流れのうへに浮かびゆけ行方なきわれのこころの貧困
茂吉には『萬軍(ばんぐん)』と題するまぼろしの歌集がある。八雲書店が企画した「決戦歌集」の一冊として出版される予定であったが終戦となったため未刊で終った。それが私家版などで伝えられた後2012年に岩波書店から出版された。
岩波の本は『萬軍』の歌すべてを掲載しているがその他に前半に同書に関する評論がある。『萬軍』を編集した歌人、秋葉四郎の手になるもので、戦中の茂吉の動静を綴った後に、茂吉の弟子であった佐藤佐太郎による茂吉の弁護と杉浦明平の強烈な批判が紹介されている。佐藤の弁護は戦後3か月後に創刊された『新生』に載せた福本和夫の東條英機の軍閥独裁を弾劾する過程で茂吉の「東條首相に捧ぐる歌」を指して茂吉をただ一言、精神病者と切って捨てているものに対する長文のもので、時代相を離れた批判は意味がないとする苦しい反論である。
杉浦明平が雑誌『文学』1947年12月号に掲載した「茂吉の近代とその敗北」は歌壇の大御所に向けられた数少ない、珍しい批判という意味でも有難い。私のような部外者にとっては『萬軍』に限らず茂吉の戦争歌は言葉を飾った大本営発表のポスターのようにしか受け取れない。
杉浦の茂吉批判は茂吉の非近代性を徹底して批判するもので、茂吉は天皇を神格化し、戦争に協力して人民を苦しめたとする。しかしこの厳しい批判の中にも微かな救いがないでもない。杉浦は「茂吉の文学的退廃を追究する必要」を説きながら「もちろん、そういうのは、われわれが茂吉のうちにわれわれの希求する近代文学の一つの記念(つまり一つの古典)を認めると同時に、それがそのまま発展をとげなかったどころか、挫折し崩壊して正にその反対物に転化してしまったことを見ているからにほかならぬ」という。
茂吉の戦争歌を戦意高揚のポスターと切り捨てた以上、その『萬軍』から幾つかの例を採って示す必要があるだろう。美辞麗句が瓦礫のように積み上がっているのだ。
はるかなる南の島にたたかへば木の葉草の根くひつつぞゐる(ガダルカナル戦)
青年のひとつごころは今なれや学問の道はたたかひのみち(学徒出陣)
大亜細亜全(また)けからむとつどひたる国家代表の壮観ぞこれ(大東亜会議)
このみ空犯さむとして来たるもの来たらば来たれ撃ちてしやまむ(本土空襲)
大君は神にいませばうつくしくささぐる命よみしたまへり(特別攻撃隊)
高山の聳ゆるきはみ大河の流るるきはみ戦はないざ(本土決戦)
このようにして『萬軍』は真珠湾に始まる日本の戦争を一喜一憂しながら、つぶさに追って行くのである。
茂吉は、福本の名は知らなかったが、自身の戦時歌についての杉浦明平の批判を聞いて門人の佐藤佐太郎に次のように語ったという。「杉浦君は歌を作っていないだろう。歌は出来ないよ。あんなことを言っていて歌でも作ったらたちまちしっぽをつかまえられるからな。歌はできないよ。」「(杉浦の文章は)僕は見ないことにしているんだ。見たりするとどうしても体によくないからね。知らぬが仏で、読まなければ平気なもんだ。」「歌は空想で作るんなら楽なものだ。僕なんかも、もし晶子流の歌を作って少しでも評判になったらいい気になってしまって救われなかったね。何とかかとか言っても、時が批判する。時の批判というものはきびしいからね。」
国文学者の西郷信綱(1916~2008)に『斎藤茂吉』(2002年、朝日新聞社)という著書がある。その本の冒頭に同人が国文学を専攻するに至るまでのいきさつについて次のような告白をしている。西郷は東大の英文科にいた大学一年生の時、改造社文庫の茂吉の自選歌集『朝の蛍』を読んで「五体をつらぬく深い衝撃」を受けた。彼は、高校時代に惹かれていた高村光太郎や萩原朔太郎、三好達治とはまるで異質のものを茂吉の作品の中に見出したのであった。彼はさらに進んで『赤光』、『あらたま』を読んでますます茂吉の虜になった。
西郷は自分が受けた感銘が独りよがりのものではなかったことの証として芥川龍之介の『僻見』という一文にある言葉を引用している。「(茂吉は)単に大歌人たるよりも、もう少し壮大なる何ものかである。もう少し広い人生を震蕩するに足る何ものかである。」西郷はこの「震蕩」なる言葉は、「人の心を一時的に陶酔させることではなく詩歌の享受能力を深めたり拡げたりする意を含むと解すべきであろう」という。西郷は自らの変身、英文学から国文学への転身を、芥川が茂吉から受けた感銘、それによる開眼とおなじものとして説明していた。
西郷が引用する『朝の蛍』から以下に五首を紹介するがこれらはその直後『赤光』によって一躍短歌界の雛段に躍り出た茂吉の本領を示すものということができる。
あま霧(きら)し雪ふる見れば飯(いひ)をくふ囚人のこころわれに湧きたり
死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほた)のかはず天に聞ゆる
めん雌(どり)ら砂あび居たれひっそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり
あかあかと一本(いっぽん)の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ
西郷はその著書の「序」に書いている。「茂吉が制服を着して『大君』や戦争をほめたたえるガラクタ歌をやたら増産するにつれ、がっかりし、私は茂吉にさよなら(傍点)したわけで、それ以後の茂吉についてはだからほとんど何も知らずにきた。わが人生をしたたか揺さぶってくれた『朝の蛍』『赤光』『あらたま』の世界が崩れ去っていきそうな事態から眼をそらしたかったのだ。」「ガラクタ」という言葉は茂吉自身も使っているらしい。あまり知られない次のような歌もある。「死骸の如き歌累々とよこたはるいたしかたなく作れるものぞ」(「霜」)。「いたしかたなく作れるものぞ」とはどういうことであろうか。「累々とよこたはる(死骸)」と己の作品を葬り去る心境は計りがたい。
茂吉の次男の作家北杜夫は、茂吉に寄せられる「滞欧経験の意外な貧しさ」、「文明批評のなさ」などの批判に対して「私に言わせればむしろ当たり前のことであり茂吉にこれを要求するのは無いものねだりと断言しても良いのではなかろうか。……あえて強調したいが、茂吉が生じっか『文明批評』を成す頭脳を持っていたならば、あれだけの秀歌が生まれたであろうか」と反論している。西郷はこの言葉を引用したうえで「実は私は賛成したい」と言っている。
以上、『茂吉幻の歌集「萬軍」』(岩波書店)と西郷信綱『斎藤茂吉』(朝日新聞社)の2冊によって、茂吉の戦争歌と戦後の茂吉の心境の忖度を試みた。しかし、茂吉の戦争歌そのものについては、茂吉の歌に密着、並行して、満州事変から大東亜戦争の終りまでの戦史を綴った歌人加藤淑子の『斎藤茂吉の十五年戦争』(1990年3月、みすず書房刊)を必読書として挙げるべきだろう。読者はこの本によって太平洋戦争の歴史を読むことができる。ここでは、そこから戦争直後の茂吉の言葉を紹介しておく。
「7月27日朝(日本はサンフランシスコ放送でポツダム宣言を知った)より詔書公布までの犠牲は軍,民とも甚大であった。何故もっと早く事を運ばなかったのかと悔いてもはじまらぬ。……自身やみ難き衝迫のため、また各方面よりの徴求により実に多くの戦争の歌を作ったがそれももう終りである。」
加藤は茂吉が昭和14年3月河野与一教授からマルクス全集、書簡集を借用した後の次の歌を紹介している。
マルクスが profunda melancholia をうつたへし書簡残りき老身彼は(作歌其折々)
マルクスの身体的諸症状(不眠、食欲不振、咳)を知り老マルクスに人間性を見出した歌としている。茂吉はその前に、ナチスの理論的指導者ローゼンベルグ(ニュルンベルグ裁判で絞首刑に処された)の『二十世紀の神話』を中学時代の友人、吹田順助に送られて一読して以来多大の関心を寄せ読後感を発表していた。
「我が詩を読みて人死に就けり」という高村光太郎の苦渋の末の懺悔に比べれば、茂吉の生涯には韜晦しつつなお韜晦しきれない姿を見なければならないのではないかと思う。茂吉の戦争歌は富士山に譬えてその中腹に残る宝永の噴火跡というべきものかもしれない。北斎の「富嶽三十六景」にも宝永山は描かれていない。
私はこれまで経めぐってきた詩歌の世界のスケッチをするつもりであったのが斉藤茂吉という巨大な山岳に突き当たってしまった。茂吉が短歌の世界だけでなく広く文学、さらには日本の戦争努力にまで多大な影響を及ぼしてきたことは疑いない。ここで引用した文献のほかにも言及できなかったが、中野重治のようなれっきとした左翼作家も大部の『斎藤茂吉ノート』を残している。