読書遍歴(26)安積疏水と『貧しき人々の群』
猛暑も収まった気配を確かめて10月15,16日の一泊2日の旅程で明治の殖産興業政策の
一つである「安積疏水(あさかそすい)」の見学ツアーに参加してきました。(「疏水」
は「疎水」とも書かれる。)
地元の福島県で育ちながら、その名を知るのみであった安積疎水の巨大な全容と開発に
要した膨大な労力にふれることは正に目から鱗が落ちる思いでした。見学を終えて後数日
、配布された数枚のパンフレットを熟読して、安積疏水の全容を思い描いて見ました。ダ
ムから水を引くというだけの簡単に見える構造も予想以上の複雑な土木工事によって達成
され、維持されていることも知る必要がありました。以下は、誤りを恐れずに私の理解し
得た限りをまとめたものです。
日本で四番目に大きな湖である福島県の猪苗代湖の水は西へ向かう一つの流出口がある
だけで東へは流れ出ない。安積疏水はその猪苗代湖の水を奥羽山脈を全長600mの隧道を
通して東方へ導き、荒蕪地であった広大な安積原野(現在の郡山市を中心とする地域)を
灌漑する水路の総体を指している。明治の元勲、大久保利通晩年の一大プロジェクトとし
て大久保の死後に完成し、その開発は職を失って困窮した旧士族に雇用の道を開いた殖産
興業政策としても知られている。
安積原野は大槻原(おおつきはら)や対面原などの幾つもの異なった原野を包括する広
大なもので、それぞれの原野の開墾には江戸時代にさかのぼる長い歴史があったがこれと
いう成果は得られずにいた。その後、明治5年(1872年)10月10日、福島県は大蔵省に「
開拓費御下渡願書」を提出し、翌明治6年には、地元民や旧二本松藩士たちが結成した「
開成社」による大槻原(現開成地区)の開拓が始められた。またその3年後、明治9年には
明治天皇の東北行幸に随行して実際に現地を視察した大久保利通は安積原野開拓の有望性
を認め、士族授産の国営事業として推進することとなった。引き続いて明治12年にはこの
「国営安積開墾事業」とともに初の国営農業水利事業として、それまでは猪苗代湖の水利
とは無関係に進められてきた開発を、猪苗代湖の水を安積地方へ供給するための水路開削
事業に着手した。
現在の安積疏水の取水口は小坂山の岩場にある上戸頭首口(じょうことうしゅこう)に
あり、そこから1秒間最大15トンの水を疏水に送り出すことが可能である。その水は隧
道によって奥羽山脈の東麓に出て、東流する五百川(ごひゃくがわ)に注ぎ安積平野に網
の目のように広がる水路に送り出される。上戸頭首口から流出する水は地下に入り、現在
は田子沼分水場で安積疏水幹線と新安積幹線(須賀川方面への疏水で昭和37年に新設)へ
と別れて流出する。われわれのグループは山中を分水場への道をたどり、分水場の地下へ
下ってその内部(隧道から出る水が二手に分かれる構造)を見学することができた。
西へ流出する猪苗代湖の水は日橋川(にっぱしがわ)となり阿賀川(新潟県で阿賀野川
と名を変える)に流入して会津盆地を潤し、会津を日本有数の米どころとした。その同じ
湖の水を東側へ送り込み猪苗代湖の水位をさげることは西側の農民にとって看過できない
問題であった。反面では西側の住民にとって自然のままの水流はしばしば氾濫となって災
害を巻き起こしていた。安積疏水の水路を開発するにはこの西側にからむ問題も同時に解
決する必要があった。この任に当たったのがオランダ人技師、ファン・ドールンで、明治
11年に湖の水位を1mの範囲で調節することにより西側出口の水量を確保した上で東側へ
水を引くことができる案を生み出した。湖1mの水量は1億㎥もあり、これによって湖にダ
ムの機能を持たせたのである。ドールンの提案は、元々狭い湖畔に浸水しやすい西側出口
を拡げ、また渇水時に備えて出口の川底を60㎝下げることであった。このために、西側出
口には巾広で1mの水位変動ができるように16のアーチが横に連なる「十六橋」が建設さ
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れた。この水門操作によって西側出口の水量が確保されることになる。この計画は会津側
の了解を得て、国営第一号となる事業が発足したのである。
猪苗代湖は標高514メートルの高地にあり琵琶湖、霞が浦、サロマ湖(北海道)に次ぐ
日本第4位の面積を持つ。湖面は、猪苗代町、会津若松市、郡山市にまたがる。このため
従来からその水利は西側から始まり多くの篤志家がそれにかかわっていた。その水利を、
より大規模に湖の東側にまで広げたのが明治政府の国営安積開墾事業である。われわれの
見学が「安積疏水見学」を謳いながら、湖の西側、日橋川に沿った構築物もあわせて見学
したのはこのためであったといえる。安積開墾事業は政府から福島県に払い下げられた後
、明治21年(1888年)3月福島県より安積疏水組合が事業一切の引き渡しをうけ現在も各
地の土地改良区によってシステムの維持改良が図られている。高所からの水の流れはそれ
に沿って幾つもの水力発電所を生んだ。疏水見学に名を借りながら、日本の工業化の一翼
を担った歴史ある発電所の幾つか(沼上、猪苗代第二、丸守発電所など)も見ることがで
きた。安積疏水組合が事業を引き継いだ4か月後、同年(明治21年)7月15日には磐梯山が
大爆発を起こして地元に甚大な被害をもたらし、檜原湖、小野川湖、秋元湖を始めとする
大小200に及ぶ湖沼群を出現させた。その総貯水量1.9憶㎥は落差300mを利用し3カ所の発
電所を通過して猪苗代湖に注いでいる。
いうまでもなく会津は戊辰戦争の激戦地であった。戸の口原の戦闘で敗れた白虎隊は飯
盛山の山頂を目指して果たせず、飯盛山から水を引く洞門をくぐって山の中腹に移動した
。そこには彼らが鶴ヶ城(若松城)が炎上していると誤認して自刃したとされる16人の白
虎隊員の合同墓を始めとして墓碑や各種の記念碑が建っている。今回はその墓地ではなく
、麓にある洞門の出口を参観した。ここを流れる用水は現在でも会津若松市の用水として
だけでなく郊外の水田をも潤している。
明治政府による安積疏水の建設は明治11年(1873年)3月7日付で大久保利通が太政大臣三
条実美に「原野開墾之儀ニ付伺」を出したことに始まる。開削工事が始まったのは12年10
月28日であり明治15年10月1日に通水式が行われた。安積疏水開発の立役者とも言うべき
大久保利通はその完成を待たずに旧金沢藩の不平士族の凶刃に倒されている。明治11年
(1878年)5月14日、利通満47歳であった。事件は紀尾井坂事件として知られるが実際は
その近くの清水谷とされ、そこに大久保の追悼碑が建っている。
郡山市は人口約31万人で仙台市に次ぐ東北第二の都市であるがその繁栄は安積疏水のも
たらしたもので安積疏水以前に遡る史跡は乏しい。昭和43年(1968年)に安積平野開拓の
歴史資料館として郡山市開成館が野外博物館として開設されているが2021年2月の地震の
被害の修復中で閉鎖されていた。移築された開拓官所長の官舎と入植者の住居2軒を参観
した。安積疏水の通水ルートに沼上峠を選び、事業の基本設計を行ったファン・ドールン
の故郷であるオランダのブルメン市と姉妹都市の提携を結んで友好を図り、国内でも久留
米市、鳥取市と安積開拓のつながりに由来する姉妹都市となっている。明治期の開拓では
、福島県による開墾時代に旧二本松藩および開成社の主導する入植が行われたが、国営安
積開墾の時代になってからは明治11年から16年にかけて政府の勧奨によって広く、久留米
、二本松、棚倉、岡山、鳥取、土佐、会津、松山、米沢の各地から集団入植が行われた。
ツアーのガイドは会津藩校ゆかりの日新館館長の石田明夫氏で評判になったNHKの
2,3の連続ドラマにも参画しており、地元の研究者でなければ知り得ない逸話や語源を
数多く披露してくれた。山形・福島にまたがる吾妻山は会津の東にあるから東山である。
喜多方も会津の北方に位置するからである。(たしかに、会津は新潟と同じ経済圏に属し
て経済的・文化的な中心地であった。)宮城県の県名は奈良時代に国府が置かれた多賀城
の直轄地である「みやけ」(屯倉・三宅)から来た。福島県の「中通り」や「浜通り」と
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いう名称は多賀城時代の呼称である。なかんずく驚いたことは東京から青森に至る国道が
なぜ敢えて四号(線)という縁起の悪い数字が宛てられているかの理由である。四は死に
連なるから通常は避けられる数字である。理由は言うまでもなく旧奥州街道、日光街道で
ある道路の道筋は旧賊軍の住処だからというのである。石田氏は次いで49号(線)をあげ
る。浜通りのいわき市から猪苗代湖の北を通って新潟市に至る本土を横断する国道である
。石田氏はそれ以上を言わなかったが「死苦」に通ずるということかもしれない。いずれ
も、にわかに真偽は定めがたいが面白い。
石田氏が話題に乗せなかったのは作家の久米正雄と宮本(旧姓中條)百合子との2人の
作家である。久米正雄は長野県上田市で生れ、父は上田小学校の校長であった。ところが
父は明治31年に起きた小学校の火災で明治天皇の御真影を焼いた責任を取って割腹自殺を
した。このような事件の話は聞くだけのことであったが、ここに実例があることを知った
。久米は安積中学から一高、東大へと進み、やがて夏目漱石の弟子の1人となった。漱石の
作品『心』には明治天皇に殉死する主人公である「先生」の心境が語り手である「私」の
目を通して描かれている。漱石が久米の父の話を聞いていたかどうか、何かしら符丁が合
うような話である。
さて久米はその後、母、幸子の故郷である福島県安積郡桑野村で育っている。その桑野
村こそは安積原野開墾の最初の土地であり養蚕によって村をおこすべく桑の木が多く植え
られていた。幸子の父、久米の祖父、立岩一郎は開成社の開拓出張所長として安積原野の
開拓に尽力した後に桑野小村の村長を務めている。
宮本百合子の祖父、中條政恒は米沢藩士で早くから藩内で北海道開拓を説きながら受け
入れられずにいたが、やがて安積原野の開墾に乗り出し前述の郡山開成社の発起人となり
、数年にして100ha余の開墾に成功し、入植者の桑野村を誕生させた。内務卿大久保利通
の心を動かしたのは桑野村の存在であった。中條政恒は開成社の成功の後、疏水の完成を
見ずに桑野村を去るが、官を辞した後、東京九段下に居を構えるが安積開拓の人々に請わ
れて一家を挙げて郡山町へ移住した。「安積開拓の父」と呼ばれ、開成山大神宮に頌徳碑
が建立されている。
百合子は著名な建築家である父清一郎と華族女学校出の才媛の母葭江との間で情操豊か
に育てられた。恵まれた読書環境にあり日本の古典文学を始め、『泰西名著文庫』などで
ロマン・ロランやオスカー・ワイルドを読んだ。女学校の高学年になるとロシア文学に熱
中しトルストイに傾倒したという。
百合子はお茶の水高女から日本女子大に進んでいたが一学期限りで退学し作家生活に入
った。すでに処女作『貧しき人々の群』が『中央公論』に発表されたと同じ大正5年
(1916年)9月、百合子17歳のことである。
私はこれまで宮本百合子の本を読んだことがなかった。もちろん共産党員の作家であり
、党の重鎮、宮本顕治の妻であるという特異な立場の作家であることは承知していた。し
かし日本文学史を読んでもその主流に位置する人のようには見えなかった。プロレタリア
文学という一ジャンルはあっても小林多喜二が多分にその殉教的な獄死によって突出して
取り上げられるだけで、総じて世評の低い一群の作品の周辺にいる作家に見えるだけであ
った。日本の小説を熱心に読んだのは遠い昔のことであり、読むとすれば戦後間もなくの
大作『播州平野』かなとぼんやりと思っていた。だから『貧しき人々の群』を手に取った
のは安積疏水を実見してその開発者たちの辛苦を追体験する一助と考えたからにすぎない
。いくら天才的少女の作品だと言っても文学作品として大の大人の鑑賞に堪えるものとは
思われなかった。
『貧しき人々の群』は名士である父の知り合いから坪内逍遥に紹介され『中央公論』の
瀧田樗蔭の手に渡って発表されたものである。百合子は小学校に入る頃から毎年夏休みに
は祖父の遺志に従って郡山に住み続けた祖母、運のもとで暮らした。そこで百合子は貧し
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い生活を強いられている小作人入植者の生活をつぶさに観察しそれを一編の小説に仕上げ
たのである。それは確かに若作りの作品であり、感傷的ともいえるが何度もの推敲を重ね
た作品としてこれという破綻は見られない。トルストイ的な善意と慈善が通じないために
少女の心に生まれる破綻と失望が素直な筆致で一貫して描かれている。『貧しき人々の群
』という愛名はいかにもプロレタリア作家の作品を思わせるが、彼らが描く現実とは離れ
たところにある。
百合子はその政恒の子である父清一郎と母葭江との間に生れた。父は著名な建築家であ
り、母は華族女学校出の才媛という家庭で情操豊かに育てられた。恵まれた読書環境にあ
り日本の古典文学を始め、『泰西名著文庫』などでロマン・ロランやオスカー・ワイルド
を読んだ。女学校の高学年になるとロシア文学に熱中しトルストイに傾倒したという。お
茶の水高女から日本女子大に進んでいたが一学期限りで退学し作家生活に入った。処女作
『貧しき人々の群』が『中央公論』に発表されたと同じ大正5年(1916年)9月、百合子17
歳のことである。
私はこれまで宮本百合子の本を読んだことがなかった。著書の発禁時代が長く続いたせ
いもあるかもしれない。共産党員であり、党の重鎮、宮本顕治の妻であるという特異な立
場の作家であることは承知していた。しかし日本文学史を読んでもその主流に位置する人
のようには見えなかった。プロレタリア文学という一ジャンルはあっても小林多喜二が多
分にその悲惨きわまりない獄死によって突出して取り上げられるだけで、総じて世評の低
い一群の作品の周辺にいる作家と見ただけであった。日本の小説を熱心に読んだのは遠い
昔のことであり、読むとすれば戦後間もなくの大作『播州平野』かなとぼんやりと思って
いた。だから『貧しき人々の群』を手に取ったのは安積疏水を実見してその開発者たちの
辛苦を追体験する一助と考えたからにすぎない。いくら天才的少女の作品だと言っても文
学作品として大の大人の鑑賞に堪えるものとは思われなかった。
『貧しき人々の群』は名士である父の知り合いから坪内逍遥に紹介され『中央公論』の
瀧田樗蔭の手に渡って発表された。百合子は小学校に入る頃から毎年夏休みには祖父の遺
志に従って郡山に住み続けた祖母、運のもとで暮らした。そこで百合子は貧しいドン底の
生活を強いられている小作人入植者の生活をつぶさに観察しそれを一編の小説に仕上げた
のである。それは確かに若作りの作品であり、感傷的ともいえるが、16歳の時に書かれた
『農村』(昭和27年に発見された)をもとにして何度も推敲を重ねた作品であり、これと
いう破綻を見せない。トルストイ的な善意と慈善が通じないために少女の心に生まれる破
綻と失望が素直な筆致で一貫して描かれている。『貧しき人々の群』という題名はいかに
もプロレタリア作家の作品を思わせるが、彼らが描く現実とはまったく別の世界が描かれ
ていた。
ドナルド・キーンはこのことを次のように表現している。「(百合子の)プロレタリア
的作品の一部は、戦後になってから初めて活字になったほどの圧迫を受けた。が、戦後の
作品は左翼文学であったとはいえ、昭和初期のプロレタリア文学とは質的に違っており、
百合子は思い通りに自分の希望または失望を伏字のない文章で発表することができた
。」(『日本文学を読む』1947年11月)
キーンの宮本百合子評は激賞に近い。『播州平野』(1946年)は終戦の年の8月15日から
10月11日までのさまざまの出来事を記録した小説である。銀座の百貨店の商品を物色した
1人のアメリカの将校が「…真摯な驚きをあらわした低い声で、ひとこと明瞭につぶやい
た。『日本人は破産している』と」という箇所を引用した後で次のように述べている。
「以上の文章ほど当時の東京を見事に再現したものを知らない。勿論、一時代の雰囲気
や事物を上手に描くことはあらゆる小説家の任務の一つであろうが、日本歴史の中で終戦
の頃は最も有意義な時期であるから、昭和五十二年の東京を同じように上手に描いた小説
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よりも『播州平野』の方が重みもあり、響きもある。もう一つ注意すべき点は、百合子の
文章は芸で医術的であることである。」
主人公のひろ子は、思想犯として網走の刑務所に入っていた夫重吉と十何年振りかで一
緒に生活できるようになる。たいへんな喜びだが、やはり人間であるために誤解ないし不
十分な理解に悩むこともある。そこに描かれている人間を認めたうえでキーンは次のよう
に書いている。
「『一九四五年の冬は日本の民主主義の無邪気な発足の姿』であり、進駐軍の命令に従
って刑務所から解放された重吉は、工場の広庭で、『君たちは話すことができる』と労働
者たちに呼びかける。日本のもっとも苦しい時期であったと同時に、希望に満ちた時代で
あった。そしてわれわれがその時代の喜びと悲しみをもう一度味わおうと思えば、宮本百
合子の小説ほど頼りになる文献はなかろう。」
日本人の評者の中からは一つだけ中野重治の評を引用しておくことにする。「彼女の五
十二年の生涯は、第二十世紀前半の日本と日本生活との複雑な映像を集中した鏡をなして
いる。わたしの考えでは、しかしそれはもっともも優れた鏡、もっとも美しい鏡の一つで
ある。」
中公新書に石光真人編著『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(1971年5月)がある
。会津若松城落城時10歳であった柴五郎の文字通りの臥薪嘗胆の生涯が描かれており、こ
れによって会津人がたどらねばならなかった生涯がここにある。安積疏水の開拓史を学ぶ
過程で白虎隊にふれているので、ここにこの本の題名だけをご紹介しておく。私は普段友
人に本を送ることをしないがこの本だけは数人の友人に進呈した記憶がある。