読書遍歴(24ー3)〈続々〉詩歌を読む
ローマ史を専門とする弓削達教授(1924~2006)に『平和の景色 私の原点』(1995年5月刊)という著書があるがそこにキリスト教牧師の大木英二の二つの歌が紹介されている。弓削達氏は国立の旭通り(近く)にあるYMCA一橋寮に入寮して部屋の柱に質素な短冊に書き付けた短歌がかけてあるのを見つけ、その後日夜目にするようになった。
「割り切れぬ心のままに征くべしと 師ののたまふは厳しくもあるか」 大木英二
それは明らかに彼の前にその部屋で生活していた先輩が、招集をされ、出征してゆくさいに書き残したものであった。師というのはゼミナールの先生であったか、教会の牧師であったのか両方の可能性があったのだが、弓削は自分の恩師でもある上原専禄教授であると直感した。
「この短歌は、大木さんが出征を前にして上原先生に、この戦争を戦争指導者が言うようには、聖戦と考えて征く気がしませんと訴えている情況を、浮かび上がらせる。恩師はそれに真正面からは答えない。恩師も無言のうちにこの戦争に反対の態度を示していたからである。しかしその恩師は、何かを答えねばならない。その答は、聖戦と割り切るな、割り切らないで戦場に赴き、戦争の地獄を、悪を悪として徹底的に見てこい、その中で戦死するなら、それも歴史の中で起った人間の一つの生き方ではないか、というような、恐らくそういう意味のこもったものだったのではなかろうか。」これが正しい解と言い切るつもりはない。しかし死を正視した長谷川櫂の立ち位置とは驚くほど似ている。
大木は戦死することなく復員し、勉強し直して牧師になり、東北地方の小さな教会の牧師を最後に引退した。弓削教授は後に文通するようになったが一度も大木には会っていない。しかし、明日は同じ運命が自分を襲うのではないかと思う日々を過ごした弓削はどこにメモしているわけでもないこの歌をいつでも正確に思い出すことができる。
『平和の景色 私の原点』には大木のたくさんの短歌からの3首が紹介されている。
火を知りて成りし文明危ふきに いまなほ懲りず原子の火
世界よりおのれを閉ざすこの国も アパルトヘイトに似るに非ずや
人間を地球を愛する人出でよ 愛国という自己愛を超えて
2011年には東日本大震災が原発のメルトダウンに連なり、文明の危うさが如実に示された。私は震え上がり、どうしたらこの惨事を生き延びられるかに思い悩んだ。そしてその10年以上前に、取り越し苦労と思いながら読んだ大木さんのこの冒頭の歌を急に身近なものとして思い起こさねばならなかった。不明を恥じるばかりである。
『サラダ記念日』(1987年)で彗星のごとく現れた歌人俵万智は仙台から石垣島へ、着の身着のままで逃げて次のように歌っていた。
「子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え」
YMCA一橋寮に在住中に弓削教授は空襲を経験している。立川の中島飛行機製作所への空爆の爆風は寮の防空壕まで届いた。寮にいた友人の門前中町の実家は3月10日の東京大空襲で灰燼に帰し、兄は不明のまま(後に焼死と判明)、大火傷をした母が父に連れられて寮に転げ込んできた。2日ほどたってから友人とその兄の消息を尋ねて死臭の漂う下町の焼け野原を見て回った。
5月25日には山手が空襲され再び一面の焼け野原を見た。明治神宮の表参道では1メートルおきぐらいに、真っ黒な死体がころがり、道端の防空壕からは手や足がニュっと出ていた。焼死体は男女いずれも仰向けにころがり、どれも両手両足をひきつけた同じ体位であった。代々木練兵場(現在の代々木公園)に逃げ込んだ人は全滅し、青山墓地に逃げ込んだ人は助かったという話だった。そこへにげるまでに、広い表参道に火が走り、バタバタと人が倒れたという。
8月15日の終戦の詔勅は、寮のホールの高いところにおいてあったラジオの前で直立不動の姿勢で聞いた。「おれの命は助かった」ということを自分に言い聞かせた。「あのからっぽのような、満杯のような光景。それこそが平和を象徴する私の原点なのだ。」
多くの人が終戦の詔勅をどこでどのようにして聞いたかを語っている。私にも鮮明な記憶がある。録音を一緒に聞いていた軍国青年が両ひざの上に置いたにぎりこぶしを震わせて涙を流していた。私はそれが不思議なだけで何もわからずに座っていた。終って庭に出て母に「なんって言ったの」と聞いたと思う。母は「戦争が終ったんだって」とだけ答えた。私は「ふうん」と言っただけでその時は何も考えることはなかった。何十年もたってからその時のことを歌にした。「敗戦の詔書流れしかの時は幼心に正座しており。」「わが問ひに心乱さず敗戦を告げたる母の夏日めぐり来。」
実は弓削教授(当時フェリス女学院大学長)の大木英二さんの歌についての思い出は『如水会々報』1990年2月号にほとんど同じ内容で掲載されていた。本書が発行される5年前である。会報ではそれに加えて大木さんが牧師になってから勤務した東北の4つの教会を経て秋田県鹿角市の花輪教会で伝道に励んでいることが書いてある。礼拝出席平均13人という教会では十分に声が届かないので月刊のミニコミ紙のほかに、4-5分の短い、やさしい説教をテープに吹き込んで電話にセットしている。ダイヤルをするとテープが回って説教が聞けるという仕組みである。毎週3,40回の受信があるという。
伊藤桂一という詩人がいる。『蛍の河』で直木賞を受賞しているが、ほかにも『静かなノモンハン』(吉川英治賞)、『悲しき戦記』など戦場を題材にしたものが多い。1969年に初版が発行された『兵隊たちの陸軍史』は詩歌を離れたところで、軍隊経験を持たないわれわれに陸軍の組織やそれを支配するエートスを教え補ってくれる。遺著となった句集『日照り雨』に記された略歴によれば、「昭和13年(21歳)徴兵検査に応じ、習志野騎兵15連隊に入営、その後、朝鮮竜山、中国山西省、一時除隊、のち予備役招集を受け中国安徽省、江蘇省を歩き上海にて終戦。軍務8年余陸軍伍長。戦後は、底辺の兵隊諸氏の事績を語り続けている。
私が初めて読んだ伊藤桂一の本は『私の戦旅歌とその周辺』(98年7月刊)で古本で300円で買ったものを2013年10月に読了している。最初の赴任地、山西省は北海道の2倍の面積があるが、全省黄土地帯である。黄土高原といわれるのは厳しい高山がないからで、駐屯地(臨汾)を一歩出れば黄土の層でできた山ばかりという。しかし、そうはいっても山中には石造の村落もあり、穴居の集落もある。
私はその南西にあたる陝西省の西安からバスで敦煌へ移動したことがあるが右手は行けども行けども岡に遮られて目には見えない黄土高原であった。私は伊藤の戦旅歌によって初めて黄土高原を思い描くことができた。
伊藤は住職であった父に死に別れ無一物で寺を追い出された母子家庭で育った。義務教育以上の学歴はない。幸い甲種合格で徴兵検査を通った自分には人の嫌がる軍隊もともかく行き場と思われた。中国—というより、唐詩選の国の地を踏みたかった。山西省で黄土の大行山脈に紛れ込んだ時、吟行気分になれたのはそれまでの生きるための唯一の楽しみが投書雑誌に投書した作品が活字になることだったからである。加えて大自然の風光には人を魅了してしまう力があった。
伊藤の所属した騎兵41連隊は、臨汾(リンプン)から西へ4キロ連枝山脈の麓の劉村(りゅうそん)に駐屯して3年間そこを動かなかった。戸数200戸ほどの村で村民と共存した。兵数約600、馬匹700余である。伊藤の連隊は3年間に何度か山中行旅を繰り返したが村落に宿営したことは一度もなかった。山間の凹地に野営して大休止する。見通しのよい稜線を行軍して敵を捜索するが敵もまた歩き回っている。巡り合うと戦いになる。砲を撃ち合い山麓から山頂へ攻め上る戦闘形式がくり返された。戦中の記憶は刺激が強いので、いつでも振り向くと、すぐ後ろに戦中の記憶があった。「戦中世代のものは、死ぬまで戦中に身を置いているのである。」
砲撃てりしばらくは空揺れいつつやがて山巓の廟の崩る
ひとことをなんといいしか聞き分かずひとのいのちのかくて終れり
馬もはやよろめくごとに歩みにき幾日幾夜敵を追いけむ
狼のごとく山野を追いゆきて狼の如き敵と遭うかも
戦闘の様子を伝える歌を4首だけ引用したが黄土高原の忘れがたい記憶、そこに咲く花々、愛馬との別れと再会など、本書の魅力は尽きるところがない。軍隊の日常もまんべんなく描かれている。伊藤は将校集会所の当番兵などの勤務を命ぜられて班を離れていたため初年兵いじめは免れたが、暇があれば何かを書き留めていた伊藤を目の敵にした二年兵の私的制裁を受け続けた。
作戦の時は、3日分の食糧を支給されるとあとはどこまで行っても、食料は現地調達だった。中国全土どこでも同じである。ご馳走にありついた時は食事時の話題にも活気が出た。「こう長く作戦がつづいていると、旭館の女の子はみんな処女にもどってしまったろうな」といった言葉が出てきたりして座が沸いた。旭館というのは駐屯地にある慰安所で、朝鮮人の女性たちが5人ほどいた。
伊藤が俳句を作るようになったのは晩年のようである。先に遺著となった句集と紹介した『日照り雨』(2012年刊) は戦旅歌である短歌と違って一つ一つが独立して居座っているように見える。季節で分類した俳句だけで一冊が出来上がっている。同書を発刊した当時、著者は芭蕉ゆかりの京都嵯峨野の落柿舎の庵主を務めていた。5句を紹介してみる。
廻り澄む独楽なにごとか歌ひおり
花散りつぐ死生の意味の解けぬまま
貰い湯の礼に提げゆく葱一把
人の世を水仙ほどに咲いて生き
日照り雨(そばえ)降る毎にこの世はよみがえる
伊藤桂一は2009年9月19日に「詩人・菊地貞三を偲ぶ会―現代詩を語る集いー」の実行委員長をした。菊地貞三は私の中学の3人の国語の先生の中の1人であった。私は菊地先生の訃報を新聞で読んで住所を知り、夫人である菊地亨子先生と連絡がとれ、先生にその会に来るように誘われた。実に59年ぶりのことであるが、お互いの記憶だけはお互いに失わずにいたのである。亨子先生は旧姓五十嵐といい、3人の国語の教師の1人で名門女子高校の国語教師の職を投げうって、貞三先生を追って敢えて辺境の新制中学に移ってきた人だった。
「偲ぶ会」は、神田の学士会館で、発起人と実行委員会それぞれ20人前後のほかに、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、福島民報社を後援として行われた。経済的には恵まれない一生を送りながら、おそらくその故に、多くの仲間に恵まれた詩人はこうして記憶されるのだった。私は伊藤桂一の名は知っていたはずだが『私の戦旅歌とその周辺』を読むのはその4年後である。あの時、司会の労をとっておられた伊藤桂一さんにさしたる注意を向けなかったことはかえすがえすも残念に思う。
「偲ぶ会」は大勢の現代詩人の集まりで私には場違いな感じがあった。そのために、記念講演などが終わって懇親会になった時に亨子先生がせっかく一緒のテーブルに招いてくれたのを断って帰ってしまった。亨子先生は詩を書くことをやめで画を学び、香舟という雅号で長年画塾を開いていた。140人を超える参会者の中には画塾の生徒もおり受付の手伝いなどをしていた。
句集『日照り雨』の「あとがき」には「装丁は今は亡き畏友菊地貞三の夫人香舟さんの俳画を頼りました」と書いてある。亨子先生は署名入りの『日照り雨』2冊の贈呈を受け、その1冊を私に分けてくれた。
私はその後、亨子先生が亡くなる(2021年8月3日)まで3回ほど世田谷区代沢の都営住宅の1階に住んでおられた亨子先生を尋ねており、貞三先生の詩集も何冊か頂戴した。その中の一冊は亨子夫人の手になる『行雲流水』と題する菊地貞三の遺稿集で、詩はなく、随筆のほかは短い2編の小説で埋まっていた。小説の一編は、終戦間際に大学を中退して、通訳兵として勤務した湯本捕虜収容所(現磐城市)での捕虜たちと菊地との交流を描いた「ひとりのときに」と題するものである。題名は捕虜たちの演芸会で歌われ、人気のあったデューク・エリントンンの “In my Solitude” から取られていた。湯本捕虜収容所は東京捕虜収容所の第六分所として開設されたもので、使役企業は常磐炭鉱(鹿島営業所)であった。小編ではあるが日本の捕虜収容所の内部を知らせてくれる。
問題はもう一つの『早春』である。これは失われ、忘れ去られた作品であった。読売新聞社が募集した第一回短編小説賞に首位で入選して1960年3月の紙上に発表された、新聞紙一面を覆う程度のごく短い作品である。音楽の才能のある一人の生徒をめぐって一人の国語教師が音楽と画の教師二人を相手にした、いわば教育論争を描いていた。三人の間の心理的な葛藤もあったであろう。私はモデルになっている三人の教師も一年上にいた当の生徒もはっきりと名指しできた。
失われた作品をあらためて活字に戻すことを可能にしたのは実はこの私だった。全くの偶然であったが、私は勤務していた会社の給湯室で半ば捨てられていた新聞を見つけて保存していたのだった。『早春』を貞三先生は再び目にすることはなかったが、このようにして『早春』は先生の遺稿として僅かでも日の目を見ることができた。
入選の副賞はキャノンの一眼レフ・カメラだった。貞三先生はそのカメラを愛用した。一時、朝日新聞に高田敏江という詩人が一週おきぐらいに写真を添えた短文を寄せていたがその写真は貞三先生が撮影したものだという。菊地夫妻は朝日新聞の校正を請け負っていたがやがて朝日新聞の学芸部に採用されていたのである。
『行雲流水』は校正に手を貸した親しい友人のほかには、未発表であった「ひとりのときに」を貞三の書類の中から拾い出して主宰する詩誌(「第二次ERA」2010年10月発行)に掲載した詩人中村不二夫と「中学時代の教え子」である私の2人をあげて謝辞をのべている。私と『早春』を結び付けて書かれていないのは「自分の大事な作品をどこかへやってしまったなどとは恥ずかしくて言えないでしょう」ということだった。あてもなき空身で上京してからの苦しい生活と相次ぐ引っ越しのために詩は残しても小説は忘れられたのであった。
五十嵐亨子が就職したばかりの高等女学校から、自ら望んで田舎中学の教諭へと移ることにはもちろん周囲が強く反対した。それを乗り越えて実際に赴任して見ると、そこには単に高校から中学への格下げどころではない大きな変化が待っていた。黒板に向って字を書いていると後ろから黒板めがけてドッジ・ボールの球が飛んできた。振り向いた次の瞬間にボールは彼女の胸に当たった。彼女はたまらず机に突っ伏して動けなかった。家に戻って布団をかぶって横になっているところへボールを投げた犯人の親が謝りにきたが彼女は会わなかった。「せっかく親が謝りにきたのに」と貞三に言われたという。
学校では私たちの学年がとりわけ荒れていた。亨子先生は一年下の学年を教えることになり私たちは残る一人の詩人に国語を教わることになった。なぜわれわれの学年が野蛮に近い小僧たちの群れであったかについては私なりの説明がある。それは戦争に負けたからであった。私たちの小学校時代の教師の多くは女学校を卒業しただけの代用教員であったが、それでも戦時下の厳しい統制の下で目立った破綻はなかった。戦争が終り応召していた先生たちがぼつぼつと復員すると、生徒たちは懐かしさのあまりもろ手を挙げて歓迎したのであった。しかし、それらの先生はマラリアや赤痢などの疫病に冒されていて、すぐまた姿を消してしまった。そして一つの学年の中でも私のクラスは担任の先生が定着せず丸一年間教師不在のまま放り出されてしまったのであった。それは昭和21年、小学5年のことであり、その余韻が残ったまま課目ごとに教師が代わる中学へと進んでいたのである。
われわれはこのようにして亨子先生とは切り離され、教室は暴力派によって支配されていた。しかし、表面は少数派でしかなかった生徒たちの間では先生に申し訳ないことをしたという思いが消えなかったし、何ごともなかったかのように見えた先生の方でも忘れてしまえる事でなかった。私はこのようにして亨子先生との間に心理的な絆を築いていたし、先生の方でも同様であったろうと思う。
われわれの学年の新らしい国語の先生は僧籍のある円満な人格者で、年長でもあり尖鋭な芸術家グループと見られた他の詩人や画家、音楽家たちとは、親しくはあっても、一線を画しているように見えた。私たちの学校には学校新聞はなかったが、この大滝清雄という詩人が作り上げた「こもれび」という不定期の詩の新聞を発行し、私たちはそれに作品を載せていた。亨子先生はそれらの作品を読んでわれわれの学年の情操が導かれる様子、そしてその後のわれわれの動向を知ることができたはずである。
先生は一度私を務め先に訪ねて来てくれたことがあった。中学を卒業してから10年もたった後である。私はあいにく不在で一枚の名刺が残されていた。それは朝日新聞の名刺でそれには「私は今こんなところにいます」と添え書きがしてあった。「菊地貞三を偲ぶ会」で59年ぶりに再会するまでには、このようないきさつもあった。先生の家を訪れた時に私が真っ先に伝えたことは、われわれのクラスは学校から完全に放棄されて野生化した、失われた一年があったことである。先生はパソコンを使わなかったから、私とは会う以外はもっぱら手紙で交信した。話題は過去のことに限らず、「さすがは国語の先生」と思わせる実りのある話題も多かった。詩人、菊池貞三の略歴には私たちの中学の名前は出てこない。しかし夫人はその頃の生徒たちとくつろいでいる亡夫の写真を見ながら「貞三はあの頃が一番幸せだったのかもしれない」と漏らしたことがあった。
貞三先生は私が2年生の時、前任の隣村の中学で教えていたという少女を私たちの授業参観に連れてきたことがあった。彼女が学校を休んで先生に会いにきたのだったかもしれない。彼女は大滝先生の授業の時間、後ろの壁際に僅かの時間立っていただけだから私の記憶に残ったのは白いブラウスを着た小柄な少女ということでしかない。中潟寿美子というその女性のその後について書けばまた話が際限なく長くなる。彼女が20歳の時、彼女の父親の発案で中潟寿美子の「20才を記念して」小さな詩集が編まれた。菊地貞三が跋を書いている。そこにある21篇の詩の中から3編の冒頭だけをここに短く紹介しておくことにする。
「鬼火」 雨の夜は鬼火になりたい。遠くには渋面とみられる笑いに顔を歪ませて/ひくひく家々の屋根をかけて歩きたい。/おびえながら愛した日々を/つまんですてゝ歩きたい。……
「ふなのり」 強い男に生まれていたら/私はふなのりだ。/酒は思い付いた時にごびごびあほり/朝のひまどきはズボンのような鮫でも釣ろう。……
「そり」 冬の晩は/そりを引いて/お前を探す。/手になるのは 硬い手錠だ。/雪を染めるのはかわいい血のさびだ。……