読書遍歴(25)〈続〉詩歌を読む
これまでに読んだ詩歌は数知れないが自然に身に付くようにして根強く脳裡に刻まれているのは教科書で読んだ俳句の幾つかである。水原秋櫻子の句が幾つか、まとまって出ていたように思う。
桑の葉の照るに堪えゆく帰省かな(1)
コスモスを離れし蝶に谿深し(2)
夕陽さす雪谿と見れば霧かかる(3)
何れも中学の教科書に載っていたものであるがこれらの句は後年になっていずれもそれぞれの機会に自然に頭に浮かんできた。順を追って説明する。大学に入学して上京するとしばらくは家に帰れない。初めての夏休みに帰郷して村の道を歩くと当時盛んだった養蚕用の桑畑が続いている。桑の葉は夏の日光を反射して目にまぶしい。しばらくぶりで出会うかもしれない近隣の人にどんな顔を見せたらよいだろうか。そんな気恥ずかしさにも耐えながら歩いている。
(1)俳句には「自選自解」という作者による解説があって作者による解説が読者の理解とすっかり違っていることがある。秋櫻子によればこの句はみずから「帰省」という席題を課して詠んだものであるという。作者は展覧会の油彩画で真夏の桑畑の向こうに、白い村落のあるような構図の絵によく出会ったという。作者が思い描いた帰省子は荷を負い汗にまみれている。なつかしさに歩ははずむが夏日の照る葉のいきれは強く、それに耐えながら行くのは相当な苦労だという場面を設定し、それが「照るに堪えゆく」という表現になったという。
(2)秋櫻子は登山家であり山で詠んだ歌も少なくない。これは赤城山登山の水沼口の休み茶屋の床几に腰を降ろして詠んだ純粋の写生句である。コスモスの一叢がさかりで、微風にそよいでおり、下は深い谿になっている。そのコスモスを離れた白い蝶が一つ谿の空へ舞い出ていった。
白馬岳は標高2932mの高山で頂上付近から西側は長い尾根だが東側は切り立った深い谿が続く。そこで私はコスモスの花も深い谿も見たような気がする。そこで花を飛び立つ蝶はいきなり深い谿が眼下にあるのを見て驚きもいっそう大きかったのではないかと想像されたのであった。
(3)スイスアルプスで見るべきものの一つはユングフラウ(標高4,158m)である。私はその山の肩(ユングフラウヨッホ)でそれを眼前にする前にインターラーケンの街からそれを遠望した。前夜に泊まったホテルの寄せ書き帖には日本語のものもあって「ああ、これで4日も待ったのにまだ見えない」などという処女峰のつれなさを嘆く言葉が連なっていた。ところが秋も深まっていたが私は難なくその霊峰を拝することができた。
雲の上に小さく幻のように浮かぶのは雪渓を抱いた山頂である。陽が射しているのか、ほんのりと赤みがさしている。目を凝らして見るうちにそれは風が飛ばせてくる雲に覆われてしまう。それがしばらくするとまた現れる。この景を見て私が脳裏に浮かべたのは「夕陽さす雪谿と見れば霧かかる」でそれは正に眼前の景である。この句は私の記憶にあったもので、秋櫻子の「自選自解」には「なほ高き雪渓が霧のひまに見ゆ」がある。作者が信濃側の旧道を通って乗鞍岳に登った時の句だといい、その付近で雪渓の句を四句詠んだと書いてある。したがって私の記憶にあった句はその4句のうちの一つだと思う。
秋櫻子の雪渓はその夜に泊まる肩の小屋の手前にあり、立山や白馬岳の雪渓に比べたら短いものだったが頂上から霧が吹きおろしてくると短いと侮っていた雪渓もかなり長い。
霧が過ぎても小屋までにまだは距離があり、その間を一層急な雪渓が距てていたという。
このように秋櫻子の雪渓は自らが踏みしめた雪渓であり、私のように遠望した雪渓ではなかった。私は白馬の東側の深い谿に沿って歩いた後、流れ下る水音を耳にしながら長い白馬の雪渓を下ったことも思い出す。
やはり教科書で読んだ山口誓子の句も好きだった。子供にも理解しやすくまた共感を呼ぶスポーツの句が幾つか集められていたと思う。
ピストルがプールの硬き面に響き — 一読して、すぐさま静かなプールの水面が目に写る。読者は自分がスタート台に立った選手のように緊張して、張りつめた水の硬い表面を見つめる。ピストルが鳴るまでの永遠の時。作者は、プールの水面は鉱物性の硬さを持っていると感じた。そして「自選自解」によれば、NHKの番組「三つの扉」で水が鉱物に分類されているのを見て「我が意を得たり」と思ったらしい。
学問のさびしさに堪え炭をつぐ — 誓子の「自選自解」の冒頭に置かれた句である。
今では畳に座って炭火で暖を取る人はいなくなったかもしれない。それによってこの句はインパクトを失ったとすれば俳句の世界はそれだけ貧しくなるように思う。誓子は東京帝大の法科の学生として暗記や論理の味気ない法律の勉強をしていた。この句は「本郷の下宿における私の自画像である」という。「さびしさ」ではなく「きびしさ」ではないかと問われるが「さびしさ」が正しいともいう。この学問とは法律のことだというがそこまでを読み取ることは難しいだろう。
炎天の遠き帆やわがこころの帆 ― これは前に引いた中村草田男の「…今も沖には未来あり」を連想させる。誓子は随筆(「花蜜柑」)の中でこれを昭和20年8月22日の作と書いているから同工異曲ながら前後をいえば草田男の方が先である。一方はハマナスの花々から沖に目を回らせ、他方は沖の白帆に目を凝らせている。誓子は「心に抱き続けていた帆が海上の帆と出会ったその刹那に、無心恍惚の境に入ったのだ」という。「この帆は伊勢湾の水平線上に立っていた。この句は私の句の中にいまもなお立ち続けている」という。
海に出て木枯帰るところなし — 誓子の句としてもっともよく知られている一句である。深遠な人生観や虚無感を感じさせるもので旅立ったら帰還できない特攻隊などの運命0を感じさせるという解釈がある。昭和19年の作であるが、「自選自解」にはそのようなことは書いてない。
木枯が陸地を通って出る「(誓子のいる場所から)直ぐの海は伊勢湾だが、渥美半島を越えると太平洋に出る。太平洋に出た木枯は、さえぎるものがないから、どこまでも、どこまでも行く。日本へは帰って来ない。行ったきりである。『帰るところなし』は、出たが最後、日本には、帰るところはないというのだ。」
昭和17年に「虎落笛(もがりぶえ)叫びて海に出で去れり」を作っていた。虎落笛は冬になって、笛を吹く強い風である。その強笛が海に去って行ったのである。この句があって、これを下敷きにして「帰るところなし」の句ができたのだという。
この自解を疑う理由は全くないが江戸時代に3年旅をして一句だけを得たという次のような句がある。
凩の涯はありけり海の音 源斎
マッチ擦るつかのま海に霧深し命捨つるほどの祖国はありや 寺島修司
この漆黒の海辺に小さく灯って海中に捨てられるマッチと失われようとする一つの生命が対比される、あまりにも有名な歌は山形健次郎の「マッチ擦る夜明けの空に奇跡あれ(同人誌「牧羊神」)が元歌とされる。「元歌取り」は歴史と共にあり、詩歌の世界に豊かな伝統を築き上げてきた。
スポーツの句に戻ると、ラグビーの句もあるがここは私にこだわりのあるスキーの句をご紹介したい。
硬雪(かたゆき)に焚く炭俵スキー会 ― 誓子が育った北海道の中学ではスキーが正課だった。運動会はスキー会で、天幕の下に座らされた来賓のために硬雪の上に炭俵を据え、それに火をつけて炭俵を丸ごと焚いた。炭俵は真紅の火のかたまりとなって、来賓を暖めた。スキーではもう一句「雪挿し(ゆきざし)に長路(ながじ)のスキー休めあり」がある。今では大きなスキー場でリフトやゴンドラを乗り継いで長距離を滑走するのは普通の光景になった。
私が家を離れて生活したのは、疎開時代の一年、学生時代は上京して四年間寮生活をしたから、珍しいことではなかったがロンドンの学生生活は国を離れており、いつでも家に帰れるわけではないという大きな違いがあった。張り切っていたからノスタルジアなどと言うものとは無縁であったがそれでも萩原朔太郎の「帰郷」をノートに書き留めていた。
「わが故郷に帰れる日 汽車は烈風の中を突き行けり。 ひとり車窓に目覚むれば 汽笛は闇に吠え叫び 火焔(ほのお)は平野を明るくせり。 まだ上州の山は見えずや
。……」その時は知らなかったがこの詩には「昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へて故郷に帰る」という但し書きがついている。
村上菊一郎の本には朔太郎の『純情小曲集』の冒頭の「夜汽車」があるが後年の上述「帰郷」と通底するものがある。また同じ詩集にある「ふらんすへ行きたし思へども ふらんすはあまりに遠し せめては新しき背広をきて きままなる旅にいでてみん」という「旅情」も紹介されている。フランスへの旅と新しい背広の結びつきには完成した俳句のような面白味が感じられる。
私の郷里の家には寝静まった夜などに時おり遠くの夜汽車の警笛が聞こえてきた。高校時代は30分ほどの汽車通学だったし大学時代は60円の準急券を節約して5時間、500円ほどの鈍行列車で休暇ごとに帰省していた。上州の山々に対比されるものは、村はずれの大き
な溜池や村の火の見櫓だったが朔太郎の夜汽車の旅は身近なものの感覚を呼び覚ましてくれた。今はわざわざ乗りに行くらしい蒸気機関車という贅沢であったことは思い出として自慢したくなる。
「帰郷」で朔太郎に抱えて連れ帰られた二児の一人、萩原葉子は昭和51年(1976)7月号の雑誌『新潮』に載せた原稿用紙300枚の『蕁麻(いらくさ)の家』で評判を呼んだ。
私の記憶には名士の娘である彼女の不幸きわまりない結婚生活として残っていたが、今手に取ると勝気な祖母を中心とした萩原家の葛藤のようである。『閉ざされた庭』、『輪廻の暦』と続いて三部作が完成するというがそれは朔太郎が他界して後のことになる。
水原秋櫻子も山口誓子も、そして萩原朔太郎も故人であり私にとって父の世代である。
今の世は私よりはるかに年下の人たちが活躍を終えて後進に道を譲り始めている。そこでもう少し年少の俳人を手許の蔵書の中に探してみた。そこで見つけたのが長谷川櫂(1954年生)の『俳句と人間』(岩波新書2022年)である。
これは句集ではなく、題名の示す通り俳人の手になる人間についての随筆である。詩歌に「添え書き」を付けることはままあるが、これは逆に「添え書き」を主とした詩歌集といってよいかもしれない。人生と詩歌は一心同体であることを思わせる。腰帯には「俳句は俳句だけでは終わらない」と書いてある。
人間は「ある時」自分の命もやがて終ることに気づく。人は死すべきものである。俳句結社を主宰する著者は、2018年に皮膚癌が見つかった時にその「ある時」に気づいた。その翌年冬には人類を襲ったコロナウイルスはこの「ある時」を(注:少なくとも数年の間は、というべきだろう)万人のものにした。著者は「どのように死にたいと思うかによってどう生きるかが決まる」という。「そのためにはあらゆる偏見と恐怖をすてて、自分が生きている世界のありのままの姿を見ておかなくてはならないだろう。」
しんかんとわが身に一つ蟻地獄 櫂
このようなスタートラインに立った著者は自らの症状の推移よりは世の中の動きから目を離すことなく、短いが多くの洞察に満ちた見解を本書に集積している。死と向かい合う俳人正岡子規を避けて通るわけにはいかない。子規からバトンは同じ慶応3年(1867年)生れの子規の親友、夏目漱石にわたる。(明治の年号は漱石の満年齢に等しい。)
長谷川櫂の無駄なく簡潔な漱石像には目を開かれた。漱石も子規と同様、明治の国家主義の人間であった。しかしロンドン留学で挫折し、明治の新国家の求める「有為の人」になれないと悟る。それは明治の国家主義からの脱落を意味した。明治36年(1903年)、帰国した漱石は鬱々として日を過ごした。子規は前年秋すでに世を去っていた。時代は日露戦争へと動いていた。漱石の最初の小説『吾輩は猫である』は日露戦争の最中、高浜虚子が漱石の気を晴らそうとして自らの主宰する朗読会の文章を勧めて生まれたものである。
「『猫』は世の中を皮肉に眺める苦沙弥先生と仲間たちの物語である。明治の国家主義からの脱落が漱石を小説家にし、世間に距離をおいて斜めに構える苦沙弥先生の位置に立たせた。漱石は小説家として一歩を踏み出したときから、明治という時代を引き受けていたのである。時代を引き受けるとは同時代の日本人の運命を自分の問題としたということである。だからこそ偉大な作家なのだ。その後、漱石は時代を炙り出す、この皮肉家の苦沙弥先生をさまざまに変奏させて名作を書きつづける。」
私は『猫』は退屈で3分の1ほど読んで投げ出していた。しかし、漱石の数ある名作が『猫』の変奏曲であるならば『猫』は漱石愛好家の必読書でなければならない。明治40年、漱石は東京帝大の教職を辞して朝日新聞社に入る。これも当時としては反国家的で非常識な選択だった。
翌明治41年に刊行された『三四郎』の有名な反国家的な一節には明治日本の脱落者の烙印があざやかに押し当てられている。主人公の小川三四郎が上京する列車の中で乗り合わせた四十ぐらいの髭の男が、いくら日本が日露戦争に勝って一等国になっても駄目だ、富士山より他に自慢するものは何もないという話をする。三四郎は「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、『亡(ほろ)びるね』と云った。
この髭の男は後に大学の広田先生であることが分かるが、この言葉が漱石自身のことばであることは疑いない。主要都市すべてが焼け跡となって迎える敗戦、「そして現代の末期的大衆社会の滑稽な惨状まで見通すような不気味な予言である。」漱石がロンドンで直面した壁は西郷信綱が日本で英文学への道を断念して斎藤茂吉に傾倒して行った理由を思い出させる。「古来、日本の知識階級が親しんできた漢詩文と違って西洋文学はとても国家の役には立ちそうにない。つまるところ、男女情痴の話ではないか。それに気づいた漱石は大学に行かず、下宿にこもって、『文学とは何か』という大問題に取り組む。漱石の句の引用は次の二つである。
菫(すみれ)程な小さき人に生まれたし
冷やかな脉(みゃく)を護りぬ夜明方
漱石についてはこのほかにも作品『心』の分析、高等遊民、「修善寺の大患」などへ言及があるがすでにスペースを取りすぎた。
末尾近くには芭蕉の『奥の細道』の後に来る古典主義(先人の足跡を辿った)から「脱古典」(「かるみ」の追求)への展開がある。理解が届かないまでも記録しておきたかった。ここではその背景のみを要約しておくことにする。
応仁の乱(1467~77)以来、130年も続いた内乱が終った江戸時代初め、戦後の荒野に立った日本人が必要としたのは内乱で破壊された王朝中世の古典文化を江戸という新しい時代に復興することであった。「この古典復興(ルネサンス)の機運こそが江戸時代前半の時代の空気だった。芭蕉はこの古典復興の空気の中で生まれ育った根っからの古典主義者だった。」しかし『奥の細道』の旅で芭蕉は「かるみ」を会得する。「かるみ」の初期段階は「面影」で、明白な引用が影を潜め「人物名を伏せたり物語の筋を変えたりして古典を暗示するにとどめる洗練された手法である。この『面影』によって誕生したのが蕉門最高の俳諧選集『猿蓑』(1691年)である。」
ところが芭蕉はそこにとどまらず、近江から江戸へ戻ると、さらなる「かるみ」、脱古典の追求に乗り出した。そのために芭蕉は古典の世界に縁遠い両替商越後屋の手代たちを連衆に選び、彼らが編集したのが『炭俵』(1694年)である。この脱古典は古典主義者芭蕉にとって自殺行為にほかならなかった。そこには古典は面影さえなく、あるのは金勘定と町衆の暮らしであった。
芭蕉は元禄7年(1694年)9月9日、『炭俵』の刊行の前に、弟子に招かれて大坂に到着、弟子二門の仲直りの合同句会八席をこなしたが、10月5日に容体が悪化、12日に死去した。遺言通り膳所の義仲寺に葬られた。芭蕉最後の句に漂う悲壮感の背後には「かるみ」への失望があったのではないかと長谷川はいう。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
辛うじて漱石と芭蕉の2人に触れただけであるが『俳句と人間』には概算90の俳句と30の短歌が引用されている。最後にそこから数編を示しておく。
祈るべき天とおもえど天の病む 石牟礼道子
乳飲み子を抱きしめしまま溺れたる若き母をみつ昼のうつつに 櫂
親にはぐれ泣き叫ぶ子を見ぬふりに逃げてゆきたりわれもその一人木麻黄(モクモー)の枝に首つり揺れゐたり集団自決にはぐれたるひと捕虜になるより死ねとぞ教へたるわれは生きていて児らは死にたり
『沖縄』桃原邑子(1912~1999)